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浅緑  作者: 菜箸
17/20

二、



「私は大学で、ドイツ語の授業をよく受けていました。初めは面白く思いましたが、段々飽きてきて仕舞には、授業のうち多くは茫然として、庭に生えているポプラを眺むるのみになりました。第一私は大学に意義を感じていませんでした。私の家は田舎で土地を幾らか所有していたので、金銭に困ることはありまけんでした。ですから、私は大学に大いなる目標を以て臨んでいる訳ではありませんでした。只、画を描いているのみでは親類に済まないからーー私はあなたと同様に私の画を人に売るつもりはありませんでしたーー適当なある程度の月給を貰える口が見つかれば好いくらいに考えていました。しかし、哲夫君は大いなる目標を持っていました。哲夫君は私との晩酌によく、法の議題を持ち込みました。慥か日本の法制度は腐敗していて、澆季の世が目前に逼っている、などとよく口にしました。ですから、彼は法曹になると心の内に極めていました。私はこれを大いに尊敬して、また応援しました。哲夫君は偶に私に、君はなにかやらんのか、と聞きましたが、私は笑って、私なぞは世に働きかけたってしようがないと答えるのが恒でした。これに哲夫君は殆どは何もいいませんでしたが、酒を呑んだ後となると、君日本に生まれたからには日本に尽くし給え、など私に説きました。私はその度に可笑しくなりました。私が笑うと哲夫君は真面目になりました。しかし双方愉快であったように思われます。ーーある日の大学でのことです。私は授業に飽き飽きしていましたから、今日は一寸怠けてやろうと思って、授業を抜け出して大学近くの池に散歩に出ました。この池はよく哲夫君と午飯を食っている場所でした。私は芝生の上に寝っ転がって桜の木を眺めていました。桜の花びらがひらひら舞ってきて私の額の上に静かに着地しました。この池は東京にしては随分眠たげな場所でした。ああ、愉快だなと思うと同時に筆を持って来なかったことを後悔しました。画家としてはこの愉快を取り零したくありませんでした。しかし、更なる感化はこの後直ぐに起こります。私はふと左を見ました。すると桜の木の下に独りの女が立っていました。私はその刹那、私自身の存在を忘れました。女は暫く動きませんでした。私はこの女は画だと思いました。桜がひらひらと女の紺色の着物に落ちました。ああ哀れだと思いました。また、この上なく美しいと思いました。私はずっと女を見詰めていました。女の方も凝と立っているのみでありました。小一時間ほどそのままで居ました。すると忽然、女がゆっくりと立ち去っていきました。その時初めて眼が逢いました。私はその時、心臓を彼女に支配されたように感じました。彼女が立ち去ってからも恍惚として寝っ転がっていました。大学の方角から授業終了の鐘が聞こえました。それでも私は、私の高い鼓動を薄く大地に浸透させていきました。そこに、おいという声がしました。哲夫君の声でした。哲夫君は、懇意にしている法曹の先生があるから是非君も訪ね給えという旨を私に伝えました。私は、一言、今に行くからと寝っ転がったまま言いました。哲夫君は暫く私を見つめた後、某町の八番目だと言い捨てて去っていきました。私はまだ寝っ転がれることを嬉しく思いました。

しばらくして、哲夫君に言われた通りの番地へ行くと、荘厳な日本家屋が立っていました。垣根を覗くと、縁側に腰掛けている哲夫君と髭を伸ばした男が何やら難しそうな話をしているところが見えました。髭を伸ばした男が所謂哲夫君の先生なのだろうと私は推測しました。少時すると哲夫君が私に気づいて、やあ来たかと言いました。私は勝手から家の庭に入りました。私は丁寧に哲夫君の先生と挨拶を交わしました。哲夫君の先生の名はもう忘れてしまいましたから、ここでは簡単に先生と呼ぶことにします。それから、私と哲夫君と先生とで、世間話を始めました。先生が頻りに髭を擦りながら、韓非子とか商君書とかを話し出すことには閉口しました。しかしながら、哲夫君の法批判の姿勢はこの先生から由来したものであることは分かりえました。暖かな陽気でした。庭の小ぶりな池に潜む鯉も凝と動かずにいました。ところへ、銀杏返しに結って花柄の簪を刺した女が戸を開けて恭しく入ってきました。この女は先生の娘です。また、のぶ代さんという名でした。のぶ代さんは私を見るなり、まあ、哲夫さんの御友達、珍しいわね、と言いました。それに、哲夫君はああ、と簡単に応えました。続いて先生が、おいのぶ代、この紀文君は画家らしい、紀文君、よければのぶ代に画を教えてやってくれませんか、と私に聞きました。のぶ代さんは焦った様子で、駄目ですわ、私画は全くですものと言いました。実をいうと私はのぶ代さんに画を教える了見はありませんでした。しかしそのままにしておく訳にはいきませんから、では一寸画をやってみましょう、筆と紙はありませんかと言いました。すると直ぐにのぶ代さんが立ち上がって、私が言ったものを取りに行きました。そうして筆を手にした私は画を描き始めました。描くのは無論、先刻池で逢った桜の女の像です。それから私は十五分ほど頻りに筆を動かしました。他の三人も凝として私の画を描く様子を黙って見ていました。出来上がると、先生はこれは好いと言って頻りに誉めました。哲夫君はなんだか難しそうに眼をぱちぱちさせていました。のぶ代さんは口に手を当てて驚いている様子でした。このように三人は私の画に注目していましたが、私の意識は依然、彼女の処にありました。私とあなたに通ずる、画の中に意識を巡らせるという姿勢はこの時には既に完成されていたように思われます。その日はそのまま下宿に帰りました。下宿に帰って飯を食って床に臥すと、今度は画的に彼女を想うのではなく、私の情として彼女に逢いたいという想いが出てきました。これが不可なかったのです。私は画の純粋たる美を信じていました。あなたもそうでしょう。しかしここで人間が出てしまったのです。私は平生から、触れずにおけるものは触れずにおこうという思想がありました。大地に足を踏み入れば、崩れはせぬかという心配が生じます。下手に友情を崇めればこそ、裏切りが恐ろしくなります。ですから、私は凡てを画的に眺むることと極めていました。そこに画家という天職が宿ったのです。この女についても、単に画として眺めればよかったのです。飽くまで画であるうちはそこに猜疑の心は浮かびません。只、純粋なる美があるのみです。しかし、私は、私という自我を以てあの女に接したいと思いました。これはあなたが私に興味を持ち、旅に同行したのと一般な動機です。あなたは中々画が描きにくくなったと言いましたね。それは、私という存在にあなたという自我を以て接近したからです。しかし、私は画がかけなくなる程度では済みませんでした。私の興味は私の気づかぬうちに愛の方面まで走っていって、ふと振り返ると、醜き姿をした私が純粋の鏡に映るようになったのです。このように私の情が、私の生涯においてどのような作用をもたらすのかは今に分かります。しかし、当時の私は、穏やかにかつ忙しなく私が醜くなりつつあるのを気づくことは出来ませんでした。」


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