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浅緑  作者: 菜箸
16/20

一、




「私はこれから私の生涯の全てをあなた方の前に打ち明けます。しかし、まずはあなたに謝らなければなりません。これは私の徳義心による呵責だとかそういったものではありません。第一私にそんなものはありませんから。これは寧ろ私の私を護る為の謝辞であると捉えてください。余りに卑怯でしょう。しかし、私は駄目な人間ですからこうするよりないのです。まず、私はあなたを旅の道連れにしたことを謝らなければなりません。本来の私なら、あすこであなたの同行の願を断っていました。ほら、ブラチスラヴァの城での事です。しかし、あなたは私の画を描きたいといいました。私はそれに惑わされてしまったのです。こういういい方をするとまるであなたが悪いようになります。しかし実際、あれは悪い手だったのです。私はあすこできっぱりと断るべきでした。しかし、私は臆病ですから断り損ねたのです。それは世間的に若人の願を無視するのが憚られるからではありません。私はあなたの、私の画を描くという言葉に光を見たのです。私は陰の人間ですから、また今日まで日に当らずに暮らしてきましたから、光を望むことは許されません。しかし、下卑た私の性根が、私は既に手遅れだのに、光を渇望したのです。結果、あなたは私に振り回されてしまった。また、私はあなたの願を受け入れたなり、そのままに放って置けばこの様にはならなかったのかもしれません。しかし、私はあなたの若さを利用して、あなたの前に私の陰の部分をちらつかせました。あなたは私のそこに興味をもったのでしょう。私が、特段の意味も無いのに、あなたをヨーロッパの各地へ連れ回したのも、私が私を打ち明けるのに余り窮したからで、あなたに無理やりにでも私の過去の扉をこじ開けて貰いたかった全く私は大罪人です。今すぐにでも首を掻っ切ってしまうのが得策でしょう。実際私も過去にそれを試しましたが、畢竟卑怯が出てきて死にきれませんでした。しかし、私がこれほどまでに下卑ていても、あなたは私を蔑むことはないのでしょう。私には解るのです。なぜならあなたは私の過去と酷似していますから。それに気づいたのはあなたの画を拝見した時分です。さて、私の過去の話をしましょう。丁度私があなたと同じような歳の時分の話です。私は東京で書生をやっていました。私は田舎の出ですから、下宿で生活をしていました。大学には私と同じように田舎の出の友達が幾らかありました。彼等は、東京を崇めているようでした。彼等の眼には新宿に生えるビルジングの群が希望の輝かしい未来まで高く高く生えているように見えていました。しかし、私は彼等の意見とは全く違っていました。私も東京に出る前は若人らしく胸に少しは期待を抱いていましたが、東京に出ると直ぐにそれは冷めました。私の眼には、夥しい人を乗せて烟を吐く汽車や、静かであるはずの夜を叩き起すイルミネーションが全く醜いものに見えました。しかし、少し後になるとこの考えは訂正されます。実際、美しいものはあることはありましたが、それが塵の山の中に埋もれていたのでこの時分の私は気づけなかったのです。このように話すと書生の私は大分と空かしているように見えるかもしれません。しかし実際はかなり人と交流をもっていました。その中に哲夫という男がありました。この男は私の長い生涯で唯一親友と呼ぶべき男でした。彼とは高等学校からの付き合いで、東京へ肩を並べてやって来ました。大学は同じことは同じだったのですが、私は文科で彼は法科でしたから、授業で見かけることは滅多にありませんでした。しかし私と彼は東京へ来てからも頻繁に互いの下宿に寄りあってよく酒を呑みました。酒を呑むとお互い酔ってきて偉そうに議論を交わしたものです。どのような議論を交わしたかは覚えていませんが、私たちの議論が終ぞ決着がつかなかったことは記憶しています。それ程私たちの性分はかけ離れていたのです。それに私たちは我が強い者同士であったので尚更です。私たちが高等学校に通っていた時分、何らかの弾みで哲夫君が同級生に喧嘩をふっかけられたことがありました。哲夫君は学生にしては随分と大人びていましたから、喧嘩に乗ることはありませんでした。私は喧嘩なぞに関心がない哲夫君を友として誇りに思いました。しかし、いつまでも哲夫君がこのように扱われるとなると気の毒ですから、私は喧嘩を持ちかけた男たちに、つまらん事はよせと注意しました。すると男たちの一人が忽ち私に殴りかかってきました。私は特段丈夫な身体という訳ではありませんでしたから、大いに恐れ入りました。ところへ、私に借りた洋書を返しに来た哲夫君が現れました。すると、哲夫君は男たちに殴られている私を見るなり、男たちに飛びかかりました。哲夫君は丈夫な身体でしたから、男数人を同時に相手してもよく戦いました。しかし私も黙って見ている訳にはいきませんから、哲夫君を止めに入りました。喧嘩の結末はもう忘れてしまいましたが、哲夫君が血を流していたことを覚えています。慥かその日、私たちは肩を組んで田圃に反射する赤い夕暮を眺めたような気がします。とにかく、哲夫君はこれほどまでに義理人情に厚い男なのです。私はあなたと同じように、義理より自然を欲する性質でありましたが、哲夫君の義理には大いに敬服していました。また、哲夫君も私の平生の芸術的思想に、共感まではしないものの、感服していたように思われます。私たちはこのように厚い友情に結ばれながら、大学生活を送っていました。」

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