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浅緑  作者: 菜箸
15/20

十五、



明くる日私は独りで劇場へ向かった。この日は朝から支度して、列車に揺られながら、車窓に写る人々の商いを見た。私が日常を離れて休養をしていても、ヨーロッパの人々は日常の渦中に蠢くのである。春を貫く赫奕たる光線が、劇場の窓に反射して私の目を射抜く。なんだか運命の光線が、荘厳なる劇場を舞台に、遂に私の瞳の前に刺し逼ったように思われた。運命の光線は私のみでなく、劇に集まる吾人の眼光に萌す。運命は吾人の前に逼って、それがまた吾人の瞳を鏡に反射して、四辺が白く包まれたと思うと、目がだんだん白い光に慣れてきて、白がくすんで灰となる。灰となれば後は哀れである。一面は灰世界であっても春の陽気や鳥の囀りはか細いながらも己が両耳に忍び込む。しかし視界ばかりは何時までも灰である。四辺に水平線の向こうまでも広がる哀れを認めて、微かに聞こゆる春の音色を一縷の糸として、渺茫たる哀れの、寛げて画に昇華しえたところへ、茫々たる死の安堵が宿るのである。


劇場は四階建てで、椅子がそれらを幾何的に埋めつくしている。人は斑にいる。私の席は1階の真中くらいである。席は赤色のクッションで、暗い劇場の黒と合わさって高級さを演出している。しかし、このような昼方から劇を見る人のうちに、実業家とか洋紳士とかはないようで、日頃列車で見るのと同じような面を拵えたものが多数である。無論私もその内である。しかし、私の右隣に座っている人は尋常とは異な顔付である。顔付以前に、人種が違うのだから猶異な感じである。その老婆は日本人であった。同じ日本人である私が隣に座ろうと、会釈をするどころか、私に気づかない様であった。先程尋常とは異な顔付と評した老婆の顔は、歳の割に肉が締まっていて、眉も一直線に私に貞淑の二字を投げかける。私はふと紀文さんの細君の顔を思い出した。頭の紀文さんの細君と、この老婆を並べてみて、一寸ばかり検分してみたが、眉の切れる角度や口の結い具合は同等なものの、そこに宿る哀感無量の念に差異を認めた。この老婆は哀れよりも生命としての勢いが前に出てきて、一間離れて泰安を思う人というより、いざ泰安を捕まえんと躍起する人に思われた。だから、紀文さんの細君とは別な方面で画的な人だと思った。斯様に私は凝と老婆を暫くの間、見詰めていたわけであるが、漸く私に勘づいたと見えて、軽く会釈をした。私も会釈したなり黙ってしまった。やはりこの老婆の

ヨーロッパにいる事情で人情を感じるより、このままにしておいて、画的に眺むる方が好く思われたからである。しかし、私も人情を放棄し終せたわけではないから、老婆を見詰めることは謹んでおいた。その代わり、まだ幕が開かない劇場を見て、胸中にこの老婆と紀文さんの細君の関係を、人情を厭いながらも、哀れの為と思って想像していたのである。


暫くして、西洋人が夥しい席を埋めた後に、幕が開いた。まず、西洋式の甲冑を着た如何にも屈強そうな男が出てきて、彼の後方にある、同胞たちになにやら叫んでいた。男の言葉はイタリア語であったが、平凡が殆どを占める観客であっても、その程度の教養はあると見えて皆成程というふうに聞いていた。私も大学で、ある程度まではイタリア語を習っていたので、この男がローマの将軍であることくらいは理解することが出来た。しかし、隣の老婆においては、ふんふんとも言わずにただ男の行く末を見詰めていた。続いて、敵の大将が出てきて、それぞれ腰に嵌めていた剣でかんかん斬り合い始めた。大体の観客はこれを面白そうに見ていたが、私は特段生類の殺生に愉快を見出す性質でも無かったから、この男の道程として淡々と見ていた。一方、隣の老婆は、正に己がこの闘争の勝敗の顛末を一身に蒙るが如き眼光を舞台に突き刺していた。私はここに、老婆の身体的衰退による弱冠のノルタルジックの全てを排斥して、衰退の流れに気付かぬ老人の威勢を認めた。

ついに、ローマの男が敵の大将を討ち取った時、劇場はどっと盛り上がった。私はローマの男のあまりに、劇場から一間離れて物語を眺むる人々にも精気を与える、演技の上等さに感服した。隣の老婆は、ローマの男の戦勝後の行く末を見詰める心組に見えた。ローマの男も演技にしろ、これは未だ幕ではないという剣幕のうちに汗を流している。

そうして、勝利を勝ち取ったローマの男は皇帝より直に褒賞を与えられた。男が褒賞として選んだのは、数年の休養であった。観客はこれが意外であったらしく、心根の好い男だと頻りに誉めていた。私は、この男の威勢に、隣の老婆と一般な泰安への渇望を認めていたのでさほど心外ではなかった。心外なのはこれからである。

ローマ全体が戦勝を喜んでいたところ、突然にしてローマ皇帝が崩御した。このローマ皇帝はなんでも心優しい人で、民に絶大な人望を持っていたらしく、ローマに悲しみに影が射した。その影より生まれしが、ローマ皇帝の息子である。この息子は元来からの悪人で、実の父であるローマ皇帝をも政敵として見倣していた。実はローマ皇帝は死ぬ直前、この息子のみが唯一の心残であると、男に洩らしていたのである。寛大なるローマ皇帝は息子も男もローマも愛していた。然しその愛の大きさ故に、実の息子の心に射す影を知らずに、性根を歪ましていったのである。私はここで紀文さんが浮かんだ。しかし、紀文さんはローマ皇帝のように広い愛というより、局所的に愛を注ぐ性質のように見えたから、似て非なるものとして認識した。隣の老婆は、今までの威勢からうってかわって、哀れの色が幾らか出てきたように思われる。私はこの老婆の眼の裏に映る、哀れな過去の片鱗を紀文さんを材料にして、暫く見つめていた。

ローマ皇帝の崩御から暫く経った後、正式に息子が戴冠した。世間は偉大なる君主の息子としてそれを慶んだ。然し、男のみは違った。男はローマ皇帝の生前から、彼の息子が悪漢であることは承知していた。だから、男は己の君主は先代のローマ皇帝のみであるとして、新皇帝に従おうという気は毫も起こさなかった。観客はこれを、ローマの誉高き純粋なる精神として大いに讃えた。私はこの男を小説の主人公と見た。老婆は、純粋の前に据えられた罪を己が物として固唾を飲んだ。

自身に従わぬローマの男に腹を立てた新皇帝は、腹の中に、男の知らぬところで、男の家族を惨殺しようという気を起こした。男は、勝利を以て造った休養を一家と共に、ローマの行末を憂いながらも、大部分は安堵の内に過ごしていた。然し、新皇帝は、一月も経たぬうちに、男に出陣を命じた。新皇帝がゲルマン民族の住まう地への進行を開始したからである。実を言うと、この侵略は、ローマの国益の為でない。男を戦場へ引き摺りだして、その間に、一家を殺してしまう為である。新皇帝はそれほどまでに、己の名誉を重んじていたのである。尤もそれが、父による名誉の為の教育が新皇帝の我を徳義心に勝らせたものとは誰も知らない。兎角、男は休養の半ばで、戦場へ出なければならないこととなった。これが単に新皇帝に呼ばれたくらいであれば、端から信用を置いていない新皇帝なだけあって、断りようがあったが、この男は損な程に優しいので、己の名誉の為に、ローマが死ぬのを到底受け入れられなかったのである。男は別れ際に、妻と子に接吻した。妻の哀しそうな、怖がるような目付きが男の瞳を貫いた。それでも男は俄然として立っていた。子は、まだ三くらいの歳であったから、恐らくこれを演技と知らないのか、無邪気にきゃっきゃっ言って、男の裾を引っ張った。私にはこれが却って現実味を帯びさせたように思われた。男は馬に乗って戦地に向かった。男はこころの何処かで、この出陣が己の生涯において何らかの大いなる意味を齎すものと感じているような面構えであった。隣の老婆は遂に涙を流していた。

男は勇敢に戦った。部下も忠実に戦った。戦は短い間に勝敗が決した。諸民族が、ローマに敵う筈がなかった。男は今回ばかりは、勝っても勝ったような気がしなかった。一家に逢わなければ勝利の輪郭は結ばれぬという焦慮が男の血液を巡った。男は直ぐに馬を家へと走らした。家までは一週間程の道のりであったが、男にはこれがまるで無限の時のように感ぜられた。男は己に理由もなく沸き立つ不安を疑った。論理的に疑れば疑るほど、直観的に官能がそわそわ顫えた。男の家は小麦の生い茂る畑の中にあった。ローマでも有数の大将軍であるのに、その暮らしは寧ろ庶民的なものであった。そして、その優しい男の神経の尖りきった眼に映ったのは、赤までも朽ちて、灰のみが残った、焼き尽きた畑と男の家であった。男は泣いた。尖った神経は摩耗していつの間にか消え失せた。真黒になった、妻子の姿を見て男は尚泣いた。怒りは湧かなかった。ただ、この男を見る人々に、無量の哀れが投げられるのみであった。観客は皆、声を失った。老婆は運命を憎んだ。ここで一旦幕が閉じた。


ここから幾つか物語が演じられたが、私はその殆どを記憶していない。その中に男の復讐劇があったのも慥であるが、私には男の怒りをここに記すよりも、哀れを記す方が適当であるように思われる。暫くして、幕が閉じられた。物語の印象に耽ける観客を追うて、老婆も席を立った。例の私なら、非人情の観点から、老婆と存在の事実以上の接近は決してしないが、やはり老婆の様子から紀文さんがちらちらするので、ここで逃すのは惜しいように思えて、ついに老婆に話しかけた。

「どうでした。」

「御話自体は、私のような者にはよく解りゃしません。然し、哀れと云うんでしょうか。」

「ええ、哀れでした。」

私は老婆から哀れという句が出てくるのが意外であった。哀れとなるとやはり紀文さんが思われる。

「詰らない話ですが、少しお話しても宜御座んすか。」

「ええ。」

「私には、画家の知合があります。その画家が、まあ貴方と同じくらいな歳なんですが、なんだか、この劇の男と同じような生涯を歩んできたように思われるんです。然し、その画家には、男のような復讐だとか、忠君だとかの気概はなくって、何時も人間を駄目と極め込んでしまっているんです。こう言うと変ですがーー貴方この画家をどう思いますか。」

「私も実をいうと、そのような男を知っています。私はその男の哀れなところを間近で目撃しました。然し私なんぞには到底も哀れを掃討することは出来ませんでした。詰り私にも罪があるんです。恐らくその画家の方も運命の悪戯でそうなってしまったんでしょう。」

慥かに、この時老婆の瞳には、老婆が生きた、見た、物語が流れていた。そして私はこの老婆も哀れの因子なんだと思った。すると、老婆が急に尋ねてきた。

「その画家の方の名はなんというんですか。」

「紀文という名です。なんなら今、ウィーンの郊外で一所に泊まっていますよ。」

この時、老婆は電流の走った人のように、細かな振動の裏に固まった。然しそれは並の電流ではなくって、熱を伝える電流であるように思われて、実際その老婆は忽ち立ち上がって、是非私を紀文さんに会わせて下さいと申し込んだ。私は少々戸惑ったが、老婆の様相を顧みて、はっと気づいた。

「行きましょう。」


私たちが宿へ駆ける画の背景は灰色であった。劇が終わったのは夕暮れであるが、雨が降っていて太陽が見えない。列車が走っている。人々は信号の色の変わるのを俯きながら待っている。今は私と老婆のみの世界であるが、却って背景の人々の社会が鮮明に描かれる。ウィーンの少女の路上で歌う高い声が、我々の耳を掠める。運命の糸が斜に我々を打付ける。私たちは息を切らしながら紀文さんの部屋の前に立った。


老婆がついにノブを握った。眠たい春のうちに独り、汗を流して、鼓動を早めていると見える。私は二つの運命が長い時を経て、私を鏡についに巡り逢う様をありありと霊台方寸に刻んだ。己の運命の終着を確認した紀文さんは、椅子に腰かけて、細君の画を手にしていた。紀文さんは、老婆を前に目を見開いた後、微笑を老いた顔に浮かべた。老婆の方は真剣に紀文さんを見詰めていた。運命の激しい衝突に各々の方法で抑えられた両者は漸く口を開いた。

「哲夫君はどうしていますか。」

「夫は先日死にました。」

「そうですか。」

紀文さんはついぞ微笑んでいた。その中には安堵の色が見えた。もう哀れは隠れた。紀文さんは私たちを手招いて席に座らせた。

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