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浅緑  作者: 菜箸
14/20

十四、



ウィーンに着いたのは夕暮の時分であった。ウィーンの街は、東京に中世の風を吹きかけて、橙色な空を背景に、その一幅をシェイクスピアの悲劇にせしめた様である。しかしここではロミオは紀文さんである。ジュリエットはもう死んでいる。私は一介の観客である。私はただの休養と思ってヨーロッパに来たものの、知らぬ間に紀文さんに捕まって、ヨーロッパをこうのらりくらりしている。ウィーンにまで来て未だ哀れの底は見えぬ。しかし焦っては不可ない。私と、紀文さんとを結びつけた運命は慥かに存する。運命が存すればこそ、この等しく廻る地球に運命の彗星がぶつかって、私の眼前に私の望む哀れが逼るのである。だから、私は黙って、紀文さんの本意が見えずとも、着いてきた。しかし、一向に運命の閃きは見えぬ。私は、運命が未来の一刹那に強く輝くのではなくって、私のためというより紀文さんのために、旧来より拵えられた運命が薄く紀文さんを照らし続けているのではないかと考え出した。

私たちは駅から、都会とは逆の方向に折れて、雑貨店が建ち並ぶところを越えて、宿屋についた。チェコのものとは違って随分質素な構えである。息をしない岩を直方体の形に切り取って、多少の窓を拵えるとこの宿屋のようになる。ホテルマンも無愛想である。肥った身体を椅子に預けつつ、煙草をぷかぷか吹かしている。私はそのホテルマンの紀文さんを同じ画面に見て、全く対照的のように感じて、同じふうにも思えた。紀文さんの考えを用いるなら、彼等二人は全く別な方面で駄目な人間である。また、この二人の丁度真中に位置する私も駄目なのだろうかと勘ぐり始めた。すると、私もなんだか駄目なふうに思われてきた。しかし、それは紀文さんのように、人間の情の髄まで貫く駄目ではなかった。思えば、私はこの一月くらいで、私の平生からの思想に大いなる変革があったように思われる。その変革は私の日本を発った理由さえも否定するものであったが、特段不愉快に思うわけでもなかった。ただ、紀文さんという、私より先に生きた人を見て、紀文さんの美しさの裏に潜む醜さを鑑みて、私の意識するまでもなく、変革がもたらされたのである。そして、紀文さんの過去を以てこの変革は終わりを告げ、紀文さんの画もまた成就するだろうと思った。


部屋に荷物を置いて直ぐに私たちは夕飯を食べ始めた。私は、一見豪勢そうな数々の皿の色の悪さを見て、パンだけ沢山貰って席に着いた。紀文さんはサラダと珈琲のみを卓に置いて、満足そうである。

「こう、洋食ばかり食べていると食欲が失せてきていけませんね、貴方は永らくヨーロッパにいるようですが、これには慣れましたか。」

「ええ、しかし不味くても食べているうちはまだ仕合せなものです。」

硝子の外の黒い梢を避けて、斜陽が我々の食卓に射し込む。春の夜も漸く暖かくなってきてそろそろ安泰かと思えば直に夏がやってくると見える。夏になれば虫があちこち鳴く。蚊帳が無ければ安眠は罷り通らぬ。夏の陽炎を透かせば、黄色に浮く丸い月が振袖草を見下ろす。私は一体いつ日本に帰るのだろう。私が日本に帰った時分には東京のビルジングがあべこべになっているかもしれぬ。電灯で明るい夜空に幾億の星が煌めくかもしれぬ。とにかく、変わるなら美しい方へと変わるような気がする。紀文さんの過去が紀文さんにとっていくら醜くとも、残酷ながらに、私の目には万代に一つの哀れの具として、紀文さんの肖像が描かれるのみである。


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