十三、
チェコに来て一週間ばかり経って、妙な心持も自然と和らいでいったから、また紀文さんの哀れを観察する方向でいた。しかし、あれから紀文さんとは主に別行動をとっていた。第一紀文さんは無口な人であるからその方が自然体で良いように思われた。また、なんだかウィーンに移ったほうが紀文さんの哀れを引き出させそうに思われたから、紀文さんにその旨を伝えると、ええ行きましょうと言われた。そうして、明日早くに出発することとなった。
吾人には吾人の世界がある。
これまた私がウィーン行きの列車に乗り込んだくらいの時分である。実は泰造さんから例の手紙の返信が、チェコの宿屋に届いていた。尤も当時の私はこの事実を知らない。凪のように思われる閑静たる水面の下にも、魚たちの食物連鎖が存する如くに、私が知りえぬところで各人の各世界が眩いほど反射しあい、交錯していたのである。紀文さんがチェコの汽車で、ずっと続いてるから困る、変わっても気づかないと言ったのはこれが為のような気がする。しかし、今の私は水面と水中の狭間若しくは地平線の途切れるように見えて未だ続くところにあるから、手紙の内容を叙述することが出来る。その手紙の内容はこんなものである。
何か君のいう詩的な感じで冒頭を書いてやろうと思ったが、ちっとも思いつかない。五分くらい経っておれも苛ついてきたからよしておく。約束の件だが、おれは一向気にしちゃいない。なに君が来ずとも客は来るもんだ。ただチェコに居るんなら、チーズを買ってきて来れろ。それで作った日本食を君が紀文さんを連れて来る時分にでも食わせてやるから。紀文さんで思い出したことがある。実を言うと昨夜面白い客が来たんだ。のぶ代とかいう名の婆さんでね。おれは久しく日本に帰っていないが、この婆さんはまさに日本武士の奥さんという感じの人で、頗る気に入ったから色々話しているうちに、紀文さんという男を知っていますか、と来た。これには驚いた。あの人は人とあまり関係を持ちたがらない風だったから心外だ。ええ知っていますよ、と言ったら向こうも向こうで口をぽかんと開けて驚いていた。武士の唯一見せた隙のように思われる。すると忽ち、昂奮したのかどこに居ます、と聞いてきたからチェコだと答えておいた。君らが泊まっている宿屋の住所を教えておいたから今度来るはずだ。婆さんとこの手紙のどちらが先に君らに届くか分からんが、まあ紀文さんに伝えておいてくれ。
これは泰造さんの世界である。泰造さんがあれば、のぶ代さんもある。
のぶ代さんは始終昂っていた。自らの背に張り付いて離れない黒い影と初めて相対しようというのである。しかしその昂奮は、のぶ代さんの勇気からのものではなかった。その実寧ろ落ち着いていた。しかし、鼓動が止むことはない。のぶ代さんもある種、私がチェコで経験した妙な心持にやられていたのである。されど、のぶ代さんの顔には憔悴の色は写らなかった。ただ、真剣な面持ちで足元のみを凝と見詰めて日本からブラチスラヴァまでやってきたのである。ブラチスラヴァでは雨に打たれた。無論のぶ代さんは傘を差さない。雨がのぶ代さんの真黒な髪から、一滴ずつ皺の走る顔へと滴る。のぶ代さんの湿った土を強く踏みしめる足取りは、天下の大将軍の行軍を思わせるほどであった。のぶ代さんは今彼女が相対しているものを彼女の全生涯を意味する大使命であるように感じていた。夫が死んで彼女が生きるのも全くこの為のように思われた。尤も夫の死を悲しむ暇さえもなかった。ところへ、見詰めていた地面の先へ、水溜まりがあった。その水溜まりは日本食と威勢よく書かれた看板を綺麗に反射している。すると、忽ちのぶ代さんの腹が鳴った。ここで漸くのぶ代さんは己が息をしていることを認めた。
日本食屋の戸をくぐると、中からへいらっしゃい、という声が聞こえた。そうして、へいらっしゃいに釣られてのぶ代さんの頬が幾らか弛んだように見えた。それも、へいらっしゃいが余っ程久しぶりだったからである。のぶ代さんは真の日本人である。だから、これまで終ぞ日本を出たことはなかった。慥かに四辺からのぶ代さんに逼るブラチスラヴァの薄汚れた長屋群は彼女にとって異様の光景である。私は以前これを銀世界と評した。しかし、銀世界の中にこの老婆を置くと、世界の色の名が銀から灰へと変るのである。またのぶ代さんは、殊に今は日本を出てヨーロッパに入るばかりではなく、大使命の領分にまで踏み入っている。それらの緊張が作用して、日常を思わせるへいらっしゃいに気が抜けたのである。のぶ代さんは再び頬の筋肉を引き締めた。
「日本の婆さんたあ珍しいね。爺さんなら此方にも一人あるが。」
暗い部屋の洋燈がもじゃもじゃの男の髪を照らす。のぶ代さんは簡単に会釈をして、直ぐ椅子に腰掛けた。ひとつ息をついてみると、壁にかけられた札が見えた。
「鯛を二つ。」
「へい。」
泰造さんは、私の目の前でやったように、のぶ代さんの前でもまた、魚を殺しにかかった。のぶ代さんは、元来箱入り娘であったからこのような景色は見馴れぬものであった。しかし、のぶ代さんは強い女でもあるから、顔が蒼くなることはなかった。ただ、死んだ魚の眼を見詰めていた。
「あなたは全体何処から来たんです。」
泰造さんが手に着いた血を水で流しながら聞く。
「日本から。丁度先刻着いたばかりです。」
「へえ、御一人でですか。」
「ええ。」
「そりゃ珍しい。ヨーロッパには大体若いもんばかり来る。ひとつ聞いてみると皆、大いなる夢の為だとか胸に抱く大志の為だとか言う。ーーしかし、最近面白い若人に会いましてね。若人は性急なものとばかり思っていたが彼奴は、画がなんだとか詩がなんだとかばかり言って大変呑気だ。なに私は詩なぞは解しません。しかし些とおもしろくありませんか。」
この時のぶ代さんの胸の中に描かれていたのは、慥かに紀文さんの像であった。のぶ代さんは紀文さんを以て画家などは呑気に見えて尤も剣呑なのを知っている。
「なにも面白いばかりでは御座いません。」
「はあしかし、あなたのようになると画とかでも解するんでしょう。」
「私には些とも解りゃしません。しかし、尤も解れば面白くなる訳でも御座いません。」
「慥かにおれは、ある画家の爺さんを知っているが、あの人は何時でも面白くない顔をきています。」
ここでもやはり紀文さんの像が出てきた。のぶ代さんはもしやと思って遂に聞いてしまった。
「その画家の人はなんというんです。」
「紀文さんです、知っていますか。」




