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浅緑  作者: 菜箸
12/20

十二、

この日はずっと変な心持であった。朝飯は慥か赤いスープが出たような気がするが、あまりよく覚えていない。食い終わるとすぐに、暗い半地下の店から発って、古城の入口へ向かった。半里くらいぶらぶら歩いたが、私と紀文さんが言葉を交わすことはなかった。外から見るといつも通のように思われるが、私の心持は終ぞ尋常と異なところにあった。階段を登れば息は切れる。鼓動も高まる。しかし、心持だけは妙である。頭は紀文さんの言葉を探っている。こころは昂奮の裏に哀れを秘めている。気の沈みようと脈拍がまるで一致しない。しかし愉快でもある。肉体のみが一幅の画に封じ込まれて、残るこころは春の翳りからその画を見詰めているようだ。紀文さんのいう死人の画というのはこの事なのかもしれない。

そのうち古城の入口に着いた。切符を買ってみると爺さんが出てきて私たちを案内してくれた。古城の中は外の淋しさから打って変わって繚乱の句が似合う様であった。小さな部屋に豪勢なベッドと女の画がある。城主の娘の部屋だったところだそうだ。ことによると、あの画はその娘のものだろうか。二重瞼から大きな瞳を覗かせ、活気に溢れる髪を金の髪飾りで纏めている。この娘の瞳には、いつの日か己の部屋が展示になるという未来は断じて映らないのだろう。案内の爺さんが、画を指さして何やら言っている。しかし、チェコ語だから全体判らない。紀文さんなら判るかもしれないと思って横に目をやると、紀文さんも私と同じ調子で聴いている。また、チェコ語だから好いんだろうとも思った。チェコ語は判らん。判らんからこの爺さんの一言一句には意味が見えん。意味がなければ、あとはリズムである。この爺さんの懸命な喋りは、私たちを音楽の乾坤へと誘った。

次に爺さんが私たちを連れていったのは、教会であった。教会といっても平凡なものではない。先ほど、この古城は壁のようだと評したが、その壁から少し飛び出した空間が教会となっているのである。踏めば落ちそうなくらいの建ち方である。今思えば驚くべきものだが、この時私は、紀文さんの言葉に酔わされていたから特段驚きはしなかった。勿論紀文さんも同じである。すると忽ち爺さんがキリストの像の前で懺悔を始めた。どうやら私たちも懺悔をしなければならんらしい。私は何を懺悔しようか悩んだ。しかし一向に思いつかない。第一私は神を信じていない。神があっては詰まらない。各自の人間の持つ不都合が好い具合に重なって、好い具合に天と地が均衡を保っているのがこの世である。私は人間が好きである。しかし何故日本を発ったのかと言われると、人間が作った社会が厭になったからである。ここで矛盾が生じている。しかし矛盾でも構わない。矛と盾をぶつけずとも可いはずである。私の考えはこんな感じである。しかし紀文さんは、人間が厭で、社会には無関心でいるから矛盾は生じない。矛盾がないことにはないが、私より哀れであるのは確かである。ここで一つ隣でキリストに手を合わせている紀文さんに、あなた神を信じますかとでも聞こうと思ったが、よしておいた。それも妙な心持が原因である。

その後、町を色々散策してみたが特段衝撃をうけるものはなかった。午飯をどこかで食べたような気もするがここも覚えていない。店に観光客が多かったのは確かである。日が暮れたから宿屋に戻ることになった。赤い太陽の下、歩き疲れて少々痛む足を動かしているところへ、紀文さんが口を開いた。

「一寸気が早すぎる気もしますが、チェコに満足したら次はウィーンの方へ行きませんか。」

あんまり急だったのと、頭が変だったので私はしばらく黙っていた。その間も足だけは動いた。

「ええ、構いません。」

「有難う。では出立したくなれば私に言って下さい。ーー別に急かしている訳じゃないですからね。」

私は返事をしなかった。今日は紀文さんも無口に思われたが、彼はいつもと変わっていない様である。私が、紀文さんと過ごす時間が増す度に、紀文さんの無口を推理しているだけのように思われる。今思えば何故紀文さんは私と旅を共にすることを承諾したのか解らん。紀文さんは人は駄目だといった。彼は濁したが、私においても例外では無いはずである。その紀文さんが人と関係を態々持って、同じ屋根の下で行動を共にしたがる訳が無い。

「どうしてあなたは私と旅を共にして下さったんです。」

知らぬ間に口から文句が零れていた。しかし返事は返ってこない。やはり足だけは動く。また、太陽も動いているようであった。

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