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浅緑  作者: 菜箸
11/20

十一、

朝早くに目が覚めてしまったから、独りで湯に浸かっていると、忽然と泰造さんとの、直ぐにでも店に行くという約束を思い出した。私がいくら不人情を求むる画家だとしても、人情を忘れることはない。早急に弁解する必要がありそうだ。私は湯から飛び出して、タオルで身体をごしごしと拭いて足早に自室に向かった。嬉しいことに、部屋には筆と、手紙に使えそうな紙が据えられていたから早速書き始めた。今は紀文さんとチェコに居て、約束を履行できないことを済まなく思う、土産を寄越すから許してくれ、チェコはブラチスラヴァと違って性急な街みたいだから今度是非来給え、次は紀文さんを連れて店に行く、という旨を簡単に認めて宿の受付に泰造さんまで郵便に出させておいた。仕事が済んで一つ安心していると、紀文さんの姿が見えた。

「そろそろ出ますか。」

「ええ、丁度泰造さんに手紙を書いたところです。」

「どういう。」

「また今度店に伺うというようなことです。あなたも来ませんか。」

「是非行きましょう。あすこへは久しく行ってませんでした。」

「しかし、泰造さんとあなたは真逆の性格な気がしますね。」

「ええ、真逆でしょう。なに真逆だから好いんです。私のような暗い人間には、ああいう活発な人が薬です。それに妻を思い出して懐かしく思われる。」

私はここで少々違和感を覚えた。私が画で見た紀文さんの奥さんからは活発な感じがしなかった。しかし、画というのは流動する画面のうちたった一刹那を切り取るものであるから、普段の奥さんは活発は人なのかもしれない。そうとすれば、あの表情はどのようにして出てきたのだろう。私がいろいろ推理していると、紀文さんが、行きましょうと言ったので私はそれに従った。

チェコの古城は城というより、壁という方が相応しく感ぜられた。空が曇っていたものだから、褪せた色相がより淋しく思われる。春の中、芽吹き始めた緑の上に、流るる青碧色の川の傍に、凛として立ち尽くす古城のその姿は幾星霜もの間誰かを待っているような感じである。まるで紀文さんのようだ。紀文さんの待つ人が誰かは知れない。しかし紀文さんが、その髪が白くなった今日まで、流転する世の中で木陰に身を潜めつつも、彼の内に存する哀れが大きく脈を打ってきたのは確かである。ただ、私が直接、脈を打つ赤い心臓を見ることは未だ叶わぬ。その心臓を見た時に私の中で紀文さんの画が成就するのであろう。

古城は一里くらいな町を囲むように円状に建っていて、我々は今その外側にいる。円の欠ける部分には高い古城をどうしを繋ぐ水門のようなものがあってそこから町に出る。昔の城主はきっとここの眺めを好いていたであろう。

町は鮮やかである。数多の暖色の小さな屋根が並んでいる。時折教会も見える。町の方から古城を見ると、打って変わって頼もしい。英雄を英雄たらしめるのは英雄に非ず、市井であるのと一般である。町の中に入ると色々な色が混在している。本来交ざりえぬ色たちが、霞の国より来る春の重い雲の水気にやられて溶け合っている。町にも川が流れていて、私たちは石橋を渡っている。橋の欄干を触ってみるとざらざらしている。昔誰か、ざらざらする石が嫌いだと言った人があった。理由は忘れたが私はなんとなく納得したような気がする。まず、ざらざらの感じは触らずとも意識の上で指先に迸る。次に、しかしもしかするとそのざらざらは意識のみにあって、実際はそうではないのかもしれないと思う。そうして恐る恐る震える人差し指の先を石に置いてみる。そうすると、やはりざらざらしている。ここで我々は零細の悲しみを憶えるのである。そんな事を考えていると、壁のような古城だが漸く入口らしい入口が見えてきた。

「城には入れないのですか。」

「入れます。しかし、先に朝食を済ませましょう。」

紀文さんが振り返って言う。紀文さんは片方の手を欄干の上に置いていた。紀文さんもざらざらを知りつつも、僅かな望にやられて、手を置いてしまう人種なのかもしれない。


五分くらい歩くと、人が二人並んで歩けるか歩けないかくらいの露地に出てきた。すると露地の左の側にぽっかりと穴が空いている部分が見える。穴からは階段が生えているが、暗闇である。どうやらこの階段を下った先に、レストランがあるようだ。階段を屈みながら下った先には天井の低いレストランが確かにあった。しかし暗い。ウエイターに案内されて私たちは壁沿いの席に座した。

「どうも暗いですね。」

「ええ。」

「暗くて、レストランと来ると泰造さんの日本食屋が浮かびます。」

「しかしここは泰造君のとは違ってヨーロッパらしいものが出るようだ。」

紀文さんがメニューを眺めつつ言う。

「時に、チェコはどうです。」

「好いです。殊にあの古城は、今私が描こうとして悩んでいる或る問題を表しているようで好い。」

「或る問題とは。」

私がこの問題が紀文さんに知られる訳にはいかないので大いに弱った。私が紀文さんを描くとなると、紀文さんにあなたを描くからあなたがどういう風なのか教えてくれと頼む訳にはいかない。小説家が主人公と対話せぬのと似たようなものである。私はあくまで画家であるから、干渉せずにおいて自然に紀文さんから発せられる目に見えぬ哀れの霊氛を顕微鏡で解明せねばならない。若しくは解明せずとも良い。つまり哀れを自然に出すことが重要なのである。だから私は話を逸らすことにした。

「ーーー何故あなたは旅先にチェコを選んだんです。」

「というと。」

「話を聞く限りあなたは人が駄目だとおっしゃる。確かにここは随分詩的だが、その分人が多い。」

「そうですね。確かに私は人があるところが好きではありません。しかしそれは現代人と一緒だとこちらまで忙しくなるから厭なんじゃない、近代文化の光るところが眩しくって不可ないんじゃない。私は人々が築いたイズムとか社会とか以前に純粋な人間の影の差すところが大変暗くって恐ろしく思われるのです。」

「ーーそれではどこに行ったって社会とは違って人は付いてくるものですから、あなたは…。」

「ええ、私には居場所というものがありません。ですから、死んでしまったほうが楽なように思われますが、ここでも人の悪いところが出てしまって死にきれんのです。」

「死ですか。死とはなんですか。」

「あなた、失礼ですが周りの人間が死んでしまったことがありますか。」

「五年程前に祖父が死にました。」


「死んでしまったら人は画になるんです。」

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