7.灰色に燃え尽きて
紗綾の勤務するレストランは高級な店ではなくカジュアル路線なので、本来ならあまりクリスマスイブで混雑するようなタイプの店ではない。
しかしイルミネーション会場が近いため、たくさんの人が見終わった後の流れで来店する。
この店のクリスマスの混み方は予約で埋まるのではなく、立地のため人が絶えず訪れるのが原因だ。
イルミネーション期間が始まってから来客数は多くなり始めるが、イブの日はピークを迎える。
クリスマスイブの夜、入口は順番待ちのお客であふれていた。
これだけなら土日のピーク時によく見られる光景だったが、今夜はやはり人数が多かった。
早めの時間から混雑が始まって、すぐに満席になる。
会計が済んだ客が立ち去っても、いそいでテーブルを片付け、次の客を入れなければならない。
「オーダー!!オーダー取りに行って!!」
店長は次第に鬼の形相と化し、話し方も大声で絶叫するようになっていた。
いつもとはほぼ別人格のようにすら見え、それは勤務一年目のスタッフは見たことのない店長の姿である。
ピンポン。ピンポン。
客の注文のチャイムが店内に絶え間なく響く。
フロア担当がなかなか行けないため、「すみませーん」と実際に声を掛ける客も出現し始める。
紗綾は恐怖を感じた。
(……視線が怖い!!ああ、お願い、お客さんたち、こっち見ないで!!)
オーダーを取りに行こうとするが、グラスがないことに気づく。
紗綾は仕方なく、洗浄して乾燥機から出したばかりの熱々のグラスを使うことにした。
冷やすために氷水を入れるが、無事に冷えても濡れているので拭かなければならない。
「料理ーーー!!料理運んで!!」
料理が配膳台にあふれている。
(どのテーブルの料理……!?)
紗綾が戸惑っていると、「あれ、遠藤さんのテーブルです。」
涼太が通りすがりにそっと告げた。
「あ、ありがと……」
紗綾はお礼を言おうとしたが、涼太はすでに洗い場の方に消えていた。
「テーブルーーー!!テーブル片づけて!!」
相変わらずヒステリックな店長の指示が飛ぶ。
急いで片づけ、重ねた皿を洗い場へ運ぼうとするが、従業員が普段より多いため、狭い作業場ではすれ違うのも大変だ。
なんとか持っていくとそこには皿が山積みで、置き場所がなかった。
「下げてきた食器、どうしたらいいですか??」
「うーん、その辺に適当に積んどいて!!」
ジャガイモのような顔に汗を浮かべた洗い場担当バイトの川本が答えた。
普段は昼のシフトに入っているベテランパートの中年女性が、今夜は特別に出勤してくれていて、二人とも必死で作業をしている。
決して彼らのスピードが遅いわけではなかったが、いかんせんいつもの量とは桁違いなのだ。
「あ、洗い機の温度、ぬるくなってる。…あー!やり直しだ…。」
川本はイライラしている。
皿が足りなければ料理が提供できなくなってしまう。
ドミノ倒しのように業務が滞る。
厨房はずっと殺気立っている。
店長の怒号が飛ぶ。
イライラがスタッフ全体に広がる。
これでは悪循環のスパイラルだ。
ピンポン。「すみません、お水くださーい!」
フロアに声が響いた。
ピンポン。「あのー、追加の注文したいんですけどー。」
こちらは初々しい学生らしきカップルだ。
ピンポン。「さっき頼んだやつ、まだですか?もうだいぶ待ってるんだけど。」
イライラした表情の男性。これは至急確認しなければならない。
スタッフは総出で対応しているが、なおも店内からは容赦なく声が上がる。
「すみませーん、会計お願いしまーす。」
「ありがとうございますー!!」
フロア担当が誰も行けそうにないため、店長が飛び出し、急ぎ足でレジへと向かう。
「キャーッ!!」
店内の一角から複数の悲鳴が上がった。女性客が申し訳なさそうに告げる。
「すみませーん、子どもがジュースこぼしちゃって!」
都会の明かりに照らされた夜空には、陽気なクリスマスソングがエンドレスで流れている。
この一年のうちで最も賑やかな冬の一夜は、享楽を謳歌する大多数の人たちと、懸命に勤労し続ける少数の人たちで構成されていた。
◇◇◇◇◇◇
初めてのクリスマスイブの勤務の忙しさをなんとかやり過ごして、紗綾は燃え尽きたような感覚に陥っていた。
クリスマスイブの夜の臨時応援に来ていた、普段昼のシフトに入っているパートの主婦たちは、もう既に帰宅している。
まだ残っているのは社員たちと、普段から夜のシフトに入っている学生バイトだけだった。
「今日はありがとう!いや~~二人とも、本当に助かったよ!」
先ほどまでの鬼の形相とは打って変わって、店長はいつもの嘘っぽい笑顔に戻っている。
それでも今夜を乗り切った安堵感はそれなりに表れていた。
「こんなに忙しいと思ってなかったので正直慌てましたけど、皆さん平然とこなしてて、さすがですよね!」
涼太はそつなく答える。
「いやいやいやいや……まあ~、毎年のことだからね……。まあ、慣れ……って、やつかな??」
店長は露骨にニヤニヤして、腰かけた椅子で誇らしげにふんぞり返った。
この笑顔はまったくもって自然で、嘘っぽさは微塵も感じられない。
「……私、あまり上手く出来なかったかもしれません……。」
紗綾は神妙に答えた。
「いやいや、大丈夫!あれだけやってくれたら十分だよ!!いやー、みんなのおかげでなんとか無事に今年もクリスマスをしのげたよー!それに、売り上げの方も、好調でね!!」
店長は本音を表れているような高いトーンで話し続ける。
「いやー、良かった良かった、これで肩の荷が下りたあ~~。一年のピークが終わった~~」
プレッシャーからの解放感なのか、それとも涼太に褒められたせいなのか。店長の機嫌はかなり良さそうだった。
「二人とも、気を付けて帰ってね…。…あっそうそう、実はこの前、ビルの前に不審者がいたらしいんだわ。」
店長の八の字の眉がグイッと下がった。
「だから、しばらくの間、女性はできれば駅くらいまで、なるべく夜は一人にならないようにしてほしいんだよね…。」
店長は心配そうに瞬きすると、紗綾と涼太の顔を交互に見つめた。
「じゃあ僕、駅まで遠藤さんを送りますよ。」
(……えっ!?)
紗綾は固まった。
「ああそうか、それなら安心だわ。よろしくね~~!!」
目を白黒させている紗綾の様子など、なぜだか二人ともまったく気に留めてはいない。
(……えっ!?それって涼太くんと二人で帰るってこと……!?ちょっと待って……!!)
「それじゃあ支度して帰りましょうか、遠藤さん。」
振り向いて笑う涼太はやはり爽やかだ。
(ちょ……ちょっと待って……!!!!)
「あ、川本さん、お先に失礼します。」
「お疲れ様です。お先に失礼します。」
「おう、おつかれーー。」
紗綾と涼太は洗い場担当バイトの川本とすれ違った。
洗い場はホールスタッフよりどうしても遅くなるため、やっと今になって勤務が終わったようだ。川本の声は力なく、表情にも疲れがにじみ出ていた。
軽い足取りでビルの階段を下りながら、涼太は鼻歌を歌っている。
(涼太くんって、元気だなあ……。疲れてないのかな?)
緊張しながら彼に続いて階段を下りている紗綾の耳にも、かすかにその旋律が聞こえてくる。
(何の曲だろう?聞いたことがあるんだけど……思い出せない。)
表に出ると、さすがに十二月の夜の寒さは凍るようで、肌を刺すような冷たい風も吹いている。
吐く息は真っ白になるが、あっという間に風に飛ばされて行く。
先に出て、あちこちを見渡していた涼太が振り返った。
「大丈夫、不審者らしき人は居ないみたいですよ。」
紗綾はぶるっと震えると、持っていたマフラーをぎこちなく自分の首に巻きながら続けた。
「あ、ありがとう……。こ、怖いよね、変な人が居たら…。えっと、涼太くんに確認してもらえて、良かったです。」
(もしかして、その不審者って、加恋さんに片思いしてる男性だったりして…)
そう思ったものの、そんなことは口には出せない。
二人で並んでゆっくりと、冷たい風に吹かれながら駅の方向へ向かう。
涼太も歩きながらマフラーをまき、手袋をつけた。
彼の髪とマフラーの端が、風にたなびいている。
店の見慣れた制服姿ではない、私服の涼太の姿も、控えめに言ってモテそうだと思った。
(男の人と二人でこんな風に夜の道を歩くの、初めてかもしれない……。)
紗綾の緊張はいやが上にも高まった。
(どうしよう……何か言わなきゃ……。あ、そうだ……。)
紗綾はお礼を言っていなかったことに気づいた。