3.墨色に上書きするシフト
「だから、その日は入れなくなったんです!」
「えっ、この前は入れるって、言ってたよね…?」
夕方の開店準備中の店に入り、少々重い足取りで紗綾が控室へ向かっていると、店長とフロアバイトの加恋さんの大声が聞こえた。
「だから、急に予定が入っちゃって、この夜のシフトは駄目になったんです!」
「えええっ、そんなあ……、困るよ……。クリスマスは一年で一番忙しい日だよ??困るよそんなの。誰か、代わりに入れる人、いる??」
「知りません!」
二人の目線が、ちょうどそこへ入ってきたばかりの紗綾に釘付けになる。
「おはようございます…」
この店では夕方のシフトであっても、挨拶は『おはようございます』で統一されている。
店長は紗綾を見つめ、パチパチと瞬きしたかと思うと、八の字になっていた眉をさらに下げ媚びるような笑みを浮かべた。
「遠藤さん、あのね、悪いんだけどさあ……」
店長は、手もみしながらヒョコヒョコと近寄ってくる。
「クリスマスイブは、勤務可能かな?」
挨拶するなりすり寄ってきた店長と『クリスマスイブ』の単語に気圧されて、紗綾は咄嗟に答えることが出来なかった。
一瞬気まずい無言の間が空いてしまう。しかし、紗綾は気を取り直して笑顔になった。
「は、はい、大丈夫です。」
(どっちみち、この日はクリスマスケーキ食べ比べ会も無くなったしね…。どうせならもう、バイト入れちゃえ。)
店長の卑屈な笑顔は満開になり、なぜかその笑顔の周りに花がチラホラと咲くように見えた。
紗綾は自分の眼がおかしくなったのかと不安になった。
「そーかそーか、良かったよーー。いやー、助かるなーー。当日、忙しいけど、頼むね、ヒッヒッヒッヒッ…」
加恋さんもニッコリする。こちらは普通に愛らしく華やかで、正真正銘、大輪の花が咲いたようだ。
何と言っても加恋さんは美人なのだ。後ろで一つに束ねた栗色の長い髪を揺らしながら、彼女は声を弾ませた。
「良かったーー!!紗綾ちゃんがシフト代わってくれて!これで心置きなく休めるもの!すっっっごく助かっちゃう、ありがとー!!」
揺れるウエーブがかった長い髪の香りなのだろうか、彼女からフローラルな甘い芳香が漂ってくる。
店長はともかく、美人の加恋さんにこんなに喜ばれては、正直悪い気はしない。
しかし、だがしかし…
「アハハハ……、忙しいですもんね。私は当日入れますので……」
(わ、私も、クリスマスイブにデートとかしてみたいんですけどー!!)
心の叫びを無理やり抑え込みながら、紗綾は引きつり笑いをするしかなかった。
複雑な気分を解消できないまま、紗綾は女子更衣室に向かう。
その時、洗い場の学生バイトの川本が、狭い通路をこちらに近づいてくるのに気づいた。
「あっ、おはようございます!」
彼は二年目なので、紗綾より一年先輩にあたる。
すれ違おうと道を開けたが、川本は周りをキョロキョロ見渡して、おそるおそる紗綾に尋ねた。
「お、おはよう……。あ、あのさ、加恋さん、クリスマスイブ、出勤できないの……??」
川本はそう大柄ではないが、みっしりした体格の身体を小さく縮めるようにしている。
「……そうみたいですね。」
川本の顔立ちはゴツゴツしたジャガイモのようだが、その顔色が一気に悪くなった。
「……やっぱり予定が入ったのかな?……ひょっとして、か、か、彼氏、とか……?」
「さあ、そこまでは聞いてないですけど。もし気になるようなら、ご本人に聞いてみたらどうですか?」
紗綾はニッコリと川本に微笑んで答えた。
「……え、あ、いや……、ああ、うん、そう……。」
みっしりした身体をヨロヨロさせながら、川本は洗い場の方へ消えていく。
(何なんだろう…。みんな、こんな調子で大丈夫なのかな?クリスマス、忙しいみたいなのに……。)
紗綾は先行きが少し不安になった。
(私もクリスマスの勤務初めてだし、ちゃんと対応できるかなあ……?)
◇◇◇◇◇◇
(11月ともなると、やっぱり夜は冷えるねえ…。)
秋の空気は乾燥して、月も星も綺麗に見えるが、冷気が空から一直線に降ってくるようだ。
寒空の下を帰宅すると、紗綾の母が明るい居間で、今日買ってきたばかりと思われる着物を広げていた。
「おかえり~。夕食、テーブルに置いてるよ。あっためてあげようか?」
「ううん、自分でやるからいい。」
紗綾の妹で、高校生の紬があきれた様子で言った。
「お姉ちゃん、どう思う?…お母さん、またこういうの買ってきたんだよ。」
紬はショートカットの髪型に、モコモコの部屋着姿で炬燵に寝転がっている。
彼女のすぐ目の前で、母は着物を広げていた。
「え~~??そんなに高くないんだから、別に大丈夫よ??そりゃ、お店で着物を新しく仕立てるとなるとすっごく高額だけど~~。」
母は着物が趣味で、アンティークだかリサイクルだかで、時々着物や帯を衝動買いしてしまう。
こうやって買ってきたものをじっくり眺める母の姿は、いつもの見慣れた光景だ。
「ふーーん。あんまりよく分かんないけど、そんなに高くないんなら別にいいんじゃない?」
紗綾自身は着物にさほど関心はない。
なんだか動きにくそうな印象しかないし、下着だっていろいろルールや決まりがありそうだ。とにかく面倒くさそう、と思っている。
「………はあ。もうあんまり収納する場所もないんなら、これ以上増やすのはやめた方がいいんじゃない?」
そう言うと、紬はスマホを掴んで立ち上がり、自室へと引き上げていった。
テーブルの上に用意してあった、深皿に入った一人分のシチューをレンジで温める。
寒い夜に帰宅したせいだろうか。温まって湯気を立てているシチューを口に含むと、おいしさと栄養が体にしみ渡るようだ。
思わず紗綾は笑顔になった。空腹だしお米は新米だし、秋は何を食べても美味しいのかもしれない。
(これからだと寒くなるから、チョコレートも食べたくなるなあ。それに、季節限定スイーツも出てくるよね…。)
他愛ないことを考えながら、なんとなく母が広げた着物を眺める。
その着物は、一見すると唐草模様に見えるツルと葉の柄、それに小さな花が全体に配置されている。
しかしよく見ると、膨らんだ莢があちこちについているようだ。どうやら豆のなる植物の絵らしい。
着物を眺めている紗綾に、母が気づいた。
「見て、この着物の柄。珍しいでしょ、豆の絵なの。ウチが遠藤だから、ウチのコたちが豆の柄の着物を着たら、『エンドウ豆』になるじゃない?面白いと思って買っちゃったの~!!ウフフフフフ」
(なにが面白いのか、よく分からないんだけど……)
爆笑する母にたじろぎながら、紗綾は引っかかったことを尋ねた。
「ウチのコたちって、どういうこと…?」
母はぽっちゃりした自らのお腹をなでながら言った。
「ほら、お母さんはわがままボディだからね。私には小さすぎるサイズなのよ。だから、細身の紗綾や紬が着られたらいいかな?って。それに、柄も若い子向きだし。」
「……それなら買わなきゃ良かったのに!」
「だって、あまりにも可愛いからお店で見た時、つい買っちゃったのよ。ねえねえ紗綾、ちょっとだけでいいから、これ羽織ってみてよ。」
「え、やだ…面倒くさいよ。紬に着せてよ。」
「だって、紬はあんまり乗り気じゃないんだもの。ねえ?ちょっとだけでいいから。」
夕食を食べ終わった紗綾は、母に引っ張られてリビングで無理やり立たせられた。
(ああもう、面倒くさいなあ…)
洋服の上からふわりと着物を掛けられたとき、一瞬、その裏地の鮮やかな赤色が見えた。
少し重みのある、滑らかな絹の感触が服の上からでも感じられる。
なんとなく外気から守られているような、不思議な感覚がした。
「別にいいけどさあ、お風呂入りたいから早く済ませてよね…。」
「任せて~!」
ぽっちゃりしている母だが、紗綾に着物を着せる手つきは意外にテキパキしていた。
腰骨のあたりでササっと紐を締め、伊達締めでウエストを軽く押さえる。
すると、母は高揚した声ではしゃぎだした。
「あら、誂えたようにサイズがピッタリじゃない!良かった~~!それに……」
三歩ほど下がって目を見開くと、着物の上から下まで、視線をたっぷり三往復させる。
そして感嘆の声を上げた。
「可愛い~~!!すんごく可愛いわ~~!!紗綾~!!ほら、ほら、鏡で見てみて!」
紗綾は無理やり姿見の前まで引きずられた。
「もう、そんなのいいからさあ…早くお風呂に…」
(あれ……?)
初めて「それ」を見た瞬間、紗綾は目を疑った。鏡に映る自分は、なんとなく別人のように見えたからだ。
大胆な豆の蔓のデザインが、着物全体を覆うように施されている。
図案化された実のついた莢や花が、ところどころに配置され、変化を生んでいた。
植物柄の背景には、幾何学模様のグラデーションが入っている。
色使いは大胆だが、絶妙なバランスで調和しているように感じた。
(あれ……?こんなに派手なのに、思ったよりしっくり馴染んでいるような…?)
着物全体の色の七割くらいは、サーモンピンクを淡くしたような色合いだ。
そのごく淡い桃色が顔に映るせいか、紗綾の肌は普段より少し色白に見える。
それでいて、頬は普段より赤みが増しているように感じた。
「いいわね~~!!すごいわ~~!!似合ってる!!」
母の言う通り、似合っているのかもしれない。
意外だった。
地味な自分は着飾ったところで、似合わないだろう。いつも、なんとなくそう思っていた。
普段、紗綾が着ている洋服は無地が多い。
もしも模様が入っていたとしても、こまかい模様だったり、地味な雰囲気であることがほとんどだ。
今まで着てきた衣類の中で、このような大きな図柄をデザインしてあったものは、一着もなかった。
「このピンク色、朱鷺色っていうのよ~」
「へえ…。」
紗綾はピンク色の洋服もほとんど持っていない。
「帯も箪笥から出してこようかしら?これに合う帯、あったかな~~?」
母のテンションは止まらない。紗綾はため息をついた。
「ううん、もういいよ。夜も遅いし、お風呂も入らなきゃだし……。」
「そうお??じゃあ、着たくなったら、いつでも言ってよね~~!合いそうな帯も探しとくから~~。」
名残惜しそうに言いながら、母はちょこちょこと移動する。そして様々な角度からスマホで紗綾を撮影しまくっていた。
「あ、ちょっとこっち向いてちょうだい……そうそうその角度。いいわいいわ~」
パシャパシャパシャ。
「うーん、今度はこっちね。目線はあっちにしようかしら。」
「もう、勘弁してよ…。」
スマホの撮影音が夜更けに響き続ける。
昭和、平成、令和。三つの時代を経た一枚の古い着物は、はしゃぐ母娘に何を思っていることだろう。