22.早春は鶯色
しゃがんだ小学生くらいの女の子が、生垣の中に潜んだ一匹の猫と向き合っている。
よっぽどその猫と仲が良いのか、ほとんど鼻がつきそうなくらいに顔を近づけているように見えた。
「……猫がいるならもっと早く言ってくれよ……。」
ほとんど瞬間移動するように生垣から遠ざかった涼太は、力無くつぶやいた。
無事にバッグを取り返した紗綾は、得意満面で歩いていく。
猫から一定の距離を離れると、涼太は再び強気になり、後ろから軽い足取りで近づくと、今度は紗綾を抱き寄せ、耳元で軽く言った。
「チョコは俺のなんでしょ?」
突然背後から抱き寄せられて、紗綾は驚愕した。
二人の顔の距離は近いし、耳元で話しかけるなんて……そんな、そんなことをされたら……。
真っ赤になりながらも、紗綾は抵抗する気力を、どうにか奮い起こした。
「……ち、ち、違うったら!」
互いにバッグを奪い合い、よろけながら歩く二人の後ろで、可愛らしい幼児の声がした。
「おねえちゃん、また猫ちゃんとお話してるううう」
幼児と手をつないでいる母親らしき女性が振り向き、猫の前でしゃがんでいた少女に声を掛ける。
「野良猫に触っちゃだめよ、タマコ!お母さん、もう、行くわよー」
猫に顔を近づけていた少女はガラス玉のような大きな瞳でキョロキョロと周囲を見回すと立ち上がり、母親の方へと駆け出した。
◇◇◇◇◇◇
美しくラッピングされたチョコレートの入った箱を両手で持った涼太は、まるで貴重品を鑑定するかのように、いろんな角度から熱心にそれを眺めている。
「それ、二人で食べようと思って持ってきたから……。二人で食べない?」
紗綾が取り返すのを諦めて、力無く言ったときだった。
どこからか甘い香りが漂ってくるのに、気が付いた。
「うん、一緒に食べよう。」
涼太が落ち着いた笑顔で答える。
辺りをキョロキョロと見渡した紗綾は、民家の塀の向こうに梅の花が開き始めているのに気づき、立ち止まった。
「あ、見て。梅の花が咲いてる。」
「本当だ。」
白くみずみずしい花弁があちこちで開き、すがすがしい香りを放っていた。
全体的には三分咲きといったところで、今にも開花しそうな、ふっくらした蕾もたくさんついている。
梅が咲いて、そのあとしばらくしたら桜が咲いて、春になる………
そうなる頃には様々な草花も芽吹き、あのカラスノエンドウも伸びて実を付けるだろう。
「あのさ、全然関係ないこと聞いていい?」
「うん。」
紗綾は改まった表情で涼太を見上げた。
「涼太くんは、草笛とか作ったことある?」
涼太は少し戸惑った様子で、両手でチョコの箱を持ったまま、数回瞬きをした。
「ん?ずいぶん突然だね?……草笛って、あの、草で音を鳴らしたりするやつ?」
「うん。」
紗綾は少し後悔した。
(ああ、本当に変なことを聞いてしまった……。タイミングも変だし……。)
涼太は上の方を見上げて何か思い出すような仕草をしている。
「うーん、無い、かな。」
きっとそうだと思っていたものの、紗綾は少し落胆した。
「………。そうだよね……。」
草笛を鳴らしたことがある人なんて、今まで現実世界で遭遇したことは一度もなかったのだ。
一般的にそれはごくごく普通のことだと言えるだろう。
「……え?草笛がどうかした?」
怪訝な表情の涼太が尋ねた。
「ううん、どうもしない。春になったら、草笛を鳴らしてみたいなって思って。私もやったことないんだけど、試しにやってみようかな、って。」
紗綾もそんなことは現実で一度もやったことはなかったが、妙な夢に振り回されないためにも、一度くらいは実際に体験した方が良い気がしていた。
「へえ、そっか。じゃあ、今度一緒にやってみようか?」
いったん意外そうな表情をした涼太だったが、面白そうだと感じてくれたようだ。
「うん!」
紗綾は嬉しくなった。
意外なことに、紗綾が突然妙なことを言いだしても、涼太は誠実に向き合ってくれている。
もしかしたら、肝心な時には茶化したり揶揄ったりしないのかもしれない。
この人は夢で見た男性と同じ男性ではない。
それは最初から分かっていたことだし、そもそもただの妄想だったと思う。
それでも、もしも現実でこの人と一緒に居られるなら……
もしも本当にそんなことが可能なら、だけど……
きっとこの先も前向きに生きていける、そんな気がした。
(草笛、ちゃんと音が鳴るといいな。涼太くんも、やったことがなくても、案外上手かもしれないし。)
春になったら楽しみなことが、また一つ増えた。
「涼太君がそう言ってくれて良かった!楽しみにしてようっと!……そういえば、春って何が美味しくなったっけ?うーん、やっぱり、イチゴ……かな?」
「……それもいいけど。……とりあえず今は、チョコ食べたい。」
数羽のメジロが、せわしなく梅の花一輪一輪に嘴を差し入れている。
蜜を吸いながら、メジロがお互いに鳴き交わす声は、かぼそく愛らしい。
曇り空の冷たい空気に含まれたわずかな芳香のように、いつの間にか冬の成分と春の成分の割合は少しずつ変化している。
季節はゆっくりと、だが着実にその歩みを進めていた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




