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20.生成色の回復

「……サヤコ!」


 涼太は叫んだ。


 先ほどから紗綾が支えていた、力のまったく入っていなかったその右手に、突然ほとばしるような生気がみなぎり、紗綾の手を勢いよく握った。


「………わっ!!……りょ、涼太くん?」


 祈るような気持ちで彼の手を両手でそっと支えていた紗綾だったが、その突然の強い力に驚き、飛び上がりそうになった。


 ゆっくりと涼太が瞼を上げた。まだその手は強く握りしめたままだ。


「……よかった……。気が付いたんだね……。」


 紗綾は緊張していた身体から力が抜け、椅子からくずおれそうな気持ちがした。

 だが、そんな資格はやはり自分には無いように思い、背筋を伸ばすと改めてきちんと座り直した。


「………」

 涼太は混乱していた。


 つい今しがたまで、灰色の人ごみに押し流される「莢子」という女性の手を掴もうとしていた。

 だが、実際には「紗綾」の手を握っているらしい……ことを、ゆっくりと理解した。





 どうやらここは病院らしい。

 自分はベッドに寝かされていて、複数の医療機器らしきものが周りに設置されてあり、ケーブルや管が自分の身体とつながっている。


「……良かった……。ごめんなさい、私のせいでこんなことになっちゃって……。さっき、もしかしたら頭を打ったのかもしれない、ってお医者さんが言ってたの。」


 紗綾の表情は心配げだったが、その視線はしっかりと涼太を見つめていた。


(……そうか……。そういえば、突然刃物を出してきた男と格闘になったような……)


 涼太は徐々に思い出した。

(……自分は夢を見ていたのだろうか……。)


「涼太くんが気を失ってしまったから、救急車で病院に運んでもらったんだよ……」


「……そうか……」


 涼太は少し話しづらいように感じ、自分の声は少し涸れていたが、なんとか答えることができた。

 ほっとしたように、紗綾は少し笑顔になった。


「どこか、痛かったり、つらいところとか、無い??……あ、そうだ、看護師さんに言ってこないと。涼太くんが気が付いたって……」


 そう言いながら、紗綾はいまだにしっかりと握られた手に視線を移し、ばつの悪そうな表情になった。


「……あの、なんだかごめんなさい……。涼太くんが、気を失ってて怖かったから……」


 みるみる顔が赤くなり、声がだんだん小さくなる。


「すごく勝手で申し訳ないんだけど、……もしも手を握ったりしたら、涼太くんが気が付きやすくなるかなって、思ったものだから……勝手にこんなことしてて、本当にごめんなさい……。」


 紗綾は生まれて初めて男性に力強く手を握られ、その本気になった時の握力に驚いていた。


 振りほどくことも出来ず、動かすことも出来ない。

 そんな強さで握られているにも関わらず、決してそれは痛くなかった。

 極力、そっと触れられているようなのにこちらからは動かせない、絶妙な強さで握られている。


 そしてそれが、他の誰でもない涼太であること……ずっと丁重にされていて、まるで大切な宝物を手放さないように慎重に扱われている……

 ように感じて、なぜだか頭に血が上り、耳まで赤く染まりつつあることが自分でも分かる。



(なぜだか大切にされてるように感じるのは、きっと気のせい、気のせい……。涼太くんは目覚めたばかりで混乱してるだけ……)



 必死で自分に言い聞かせるが、自分の顔は意志に反して容赦なく赤くなっていく。

 もしかしたらその醜態は涼太に気づかれているかもしれない……

 そう意識すると恥ずかしさの悪循環はますます収拾がつかなくなり、一刻も早く彼の目の前から消滅してしまいたくなった。



 涼太はいまだに意識が朦朧としていて、紗綾が何のことを言っているのか、すぐには理解できなかった。

 少し間を空けて、ようやく何を言われたか理解すると、ゆっくりと握力を弱め手を下ろした。


「………」

 紗綾はすぐにそそくさと椅子から立ち上がったが、動揺していたため少しよろけた。

 そのまま病室のカーテンを開けて逃げるように出て行く。



 涼太にはさっきの「莢子」という女性も、目の前に居た紗綾も、同じような恰好をしているように思えた。

 二人とも着物姿だし、その着物もずいぶん似たような色柄だったように思った。


 女性の衣類、ましてや着物についてあまり関心のない涼太には、すべて同じようなものに見えたとしても不思議はなかった。


 ……ただただ身体がだるかった。瞼がまた重くなる。




 もしかしたら、頭を打ったせいでそんな夢のような幻覚のようなものを、自分の脳が作り出してしまっただけなのかもしれなかった。


「サヤコ」と「サヤ」で似たような名前ではある。

 いろいろな要素が一時的な衝撃で混ざり合って、微妙に現実とは違う名前を生成し、奇妙な夢として気絶中に展開された可能性が高いように感じた。


 それにしても妙にリアルな体験の夢で、正直不気味だと思った。ただの夢に、煙の匂いなんて存在するものなのだろうか??


 ぼんやりとした頭で、飛行服やムートンの手袋を着用していた自分を思い出す。




 あの夢は、いやにリアルで感情的で……

 それまでほとんど何とも思っていなかったであろう「莢子」という女性に対し、なぜか一瞬のうちに激しい執着を覚えていた……

 なぜそんなことになってしまうのか……とりあえず、意味が分からなかった。



(まあ、あれほど過酷な生死の狭間とも言える夢だったのだから、感情的になるのも仕方がないのかもしれない……。)



 頭もまだぼうっととしているし、身体もかつて経験がないほどに疲れている。

 涼太は再びゆっくりと目を閉じると、今回は気絶ではなく、単純にうつらうつらと眠り始めた。




 涼太にとって紗綾とは、バイト先が同じで、ただ成り行きで誘っただけの、目立たない地味な女性に過ぎない。


 しかし彼女に対する不可思議な執着は、彼自身も気づかないうちにひっそりと心に種として留まっていた。


 それは程なくして芽吹き、腕を広げ、自らを雁字搦めに縛った鎖を、断ち切ろうとするのかもしれない……。






 誰かを愛したい、愛されたい。

 息つく暇のない、慌ただしく危険な日々を送っていても、そんな感情はふとした拍子に浮かび上がった。



 そんな気持ちの予兆に気づくたび、自らを強く戒める。

 雁字搦めに鎖で縛り付け、意識の奥底に封印した。

 明日の命すら定かでない自分には、そんな資格はない。



 最愛の女性を不幸にしてしまうこと。

 彼女から、笑顔を奪うこと。

 そんなことは、「良太」には到底出来なかったのだ。



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