19.煤竹色の幽
「……さん、……さん……、……たさん……」
誰かを呼んでいる若い女性の声だ。
今夜の大規模な焼夷弾空襲、そして地獄のような大火のせいで、家族バラバラに命からがら逃げ出した人々はきっと多いはずだった。
どれだけの家族が散り散りになり、お互いの行方が分からず探し回っていることだろう……。
(それでも、生きていれば、まだマシな方だ、あんな大火に巻き込まれて生きて脱出するのは、ほとんど奇跡だ……)
上空からつぶさに状況を確認し、その光景を脳裏に焼き付けてしまったことは、もはや自分にとっての幸か不幸か判断できなかった。
「……うたさん……りょうたさん……」
(…りょうた、と言っているのか…?)
「……りょうたさん……良太さん……」
(もしかして、自分を呼んでいるのか……??……いや、そんな筈はない……同じ名前の、誰か別人を呼んでいるのだろう………)
良太の名前を呼ぶ声は少しずつ大きくなっていた。
同名の別人だろうと思ったが、なぜか気になった。
「……良太さん…」
(どうして自分の名前を知っている?……なぜ自分が「ここ」に居ることを知っている……?)
もし仮に、良太という名前を知る者が自分を探しているのだとしても、もはやこの身体はピクリとも動かせない。
どうせもうすぐ死ぬ身であり、何もかもがどうでも良くなっていた。
ただ、このまま静かに逝かせてほしかった。
「……どこですか?……りょうたさん、……良太さん……」
その声には隠しようもなく懇願するような調子が含まれていた。
なんとなく聞き覚えがあるような声だと気が付き、自分には若い女性の知り合いなどほとんど居ないのに、と疑問に感じた。
朦朧とした意識の中で、渾身の力で瞼をなんとか持ち上げる。
ほとんど見えなかったはずの視界は、なぜか鮮明だった。
無数の人々がうごめいている。
混乱した様子で、皆がバラバラな方向へ向かおうとしてお互いにぶつかり合い、思うように前へ進めていない。
誰もが同じような困惑した面持ちで、誰かを探しているような、どこへ向かえば良いのか分からないような、曖昧な様子だ。
(逃げまどっているのか……??)
全体がほとんど暗い灰色に見えているその人混みから見え隠れしている、”良太さん”と呼んでいた若い女性だけは、とりわけ鮮やかにくっきりと際立っていた。
色鮮やかで豪華な和服姿は、控えめに見積もっても、晴れがましい礼装だった。
それなのに、彼女は長い髪をおさげ髪にしている。
それはきわめて日常的な髪型だ。
服装と髪型は、どう考えてもちぐはぐで違和感がある。
こんな非常時に、晴れ着で人混みの中にいる……あまりにも場違いで奇妙だった。
ここ数年というもの、婦女子にはモンペが推奨され、着物を着用する機会はあまり無いはずだ。
ましてやこんな時に人前で堂々と晴れ着を身にまとっているとは、一体どういう事情なのだろう……。
「良太さん……、どこ……??」
その派手な女性は左右を見渡して誰かを探している。その横顔、正面を向いた輪郭、不安げな表情、それらには明らかに見覚えがあった。
確かに幼い頃から見慣れた顔ではあったが、最近では外地から本土に戻った際に、一度挨拶に訪れただけだ。
ここ一年ほどは見ていない。
ただ、すっかり大人の年齢となった彼女だったが、昔からの顔立ちはあまり変わらない方だと、その時思ったものだ。
「もしかして、……莢子……なのか……??」
かすかに呟いた良太の声を、人混みの向こうから遠くから聞き取ったように、莢子はこちらへと目を向けた。
「……良太さん、居るのね?どこ?今、そちらへ向かいます……」
「どうして君が、ここへ……避難してきたのか?」
人の流れをかき分けるように、莢子はこちらへ向かおうともがいているが、なかなかこちらへ来られない。
「良太さん…!」
「早く逃げるんだ…。…火の手の無い場所へ向かって、逃げなさい!」
莢子はやっと人混みから抜け出せたが、人影の群れはまたもや錯乱して無理やり別の方向へ行こうとしていて、その流れに阻まれている。
「良太さん、私……」
良太はいつの間にか動かせるようになった身体で立ち上がり、莢子に近づいていった。
「良太さんに会いたくて……」
莢子の哀願するような瞳はこちらを見ているようで居ながら、良太の右横一メートルあたりを見つめている。
(誰を見ている……??こちらが見えていないのか……??)
「もしも、もう一度、会えたなら……」
二人の距離が近づくにつれ、良太は濃厚な煙の匂いが立ち込めていることに気づいた。
(どういうことだ?煙の匂い?火の手が近いのか?)
辺りを確認するが、炎は見えない。
「聞いてくれ、煙の匂いがしてきた、莢子、逃げるんだ!」
莢子の視線はなおも微妙にずれていて、二人の視線は合っていない。
それでも助けを求めるように必死に手を伸ばす莢子を見て…。
良太は生来の気質である、他人を手助けしたくなってしまう癖が、ついつい自動的に発動した。
自らもふと、何も考えずに右腕を伸ばす。
「もしも、もう一度、良太さんに会えたら……!」
莢子の細く白い指と、血まみれの手袋に包まれた自分の指が、触れ合いそうになる。
煙の臭いはますます濃厚になり、まるで目には見えない炎に包まれているようだった。
「きっと、一緒に……!」
ムートンの飛行手袋に覆われた指は、確かにそこに存在しているはずの莢子の指には触れず、音も立てずに通り抜けた。
何かに触れた感覚は皆無だった。
愕然として、何度も彼女の手を掴もうとするが、その動きは虚しく宙を切った。
「……ど、どうしたんだ、これは、一体どうなってる……??」
いつの間にか増えた人々が、莢子を元の場所に押し流そうとしていた。
莢子を押し込めた人混みがまるごと遠ざかると、煙の臭いも薄くなるようだった。
「また、良太さんに会いたいから……!もう一度……!」
良太は再び莢子の手を掴もうと、右往左往する人々の群れの中へと踏み出して行った。
「……どうして……一体何が……莢子??どうしたんだ??」
莢子の指先は、良太のいる場所から少しずれた方角へ、今なお、すがるように伸ばされている。
「……待ってくれ、莢子!!」
その人々の群れの中に入ると、猛烈に煙の匂いがしている。良太は血だらけの手袋を脱ぎ飛行服のポケットに押し込んだ。
「通してくれ!!」
良太は人の群れをかき分けた。目の前の人々には感触があり、重さを感じるが、何か引っかかるものがあった。
幼い子どもを抱いた若い母親、学生らしき青年、防空頭巾の女学生、鉄兜に国民服の中年男性…。
誰もが互いをまともに認知できずにぶつかり合い、戸惑い、混乱した様子で不規則に歩き回っている。
これだけの人数が居るというのに、さっきからまるで音がしない。
思えばずっと、莢子の声の他には何一つ聞こえていなかった。これではまるで、まるで……
(……死者の群れのようだ……)
「良太さん…!!」
関節が目立つ良太の指と莢子の細い指がやっと重なり合う。今度は確かに触れた感触がある。
周囲の灰色の世界から急激にすべての色が抜けていき、白っぽくなっていく。
良太は手繰り寄せるように、その細くしなやかな指を、しっかりと握りしめた。そこには初めて感じる温かみがあった。
すべてが容赦なく、真っ白に変わっていく。莢子の指も、自分自身も、すべてが真っ白になり、見えなくなっていく。
「莢子!!」




