11.柿渋色の時代
町内を行き交う人々の中に、若い男性の姿は稀だ。
莢子の家のある下町は都会のど真ん中にあるわけではないが、数年前までそれなりに賑わっていた。
それが今では幻だったかのように、ひっそりしている。
子どもや老人は疎開しているし、若い男性はほとんど徴用された。
帰る田舎がある人たちは、みな帰ってしまっている。
莢子の家も、兄が居なくなったせいか家の中は以前よりガランとしている。
延焼を防ぐために建物もところどころ強制撤去され、物資は何もかもが不足している。
「お母さん、それ、何してるの?」
家にある数少ない高価な着物を、母が丁寧に折りたたみ、まとめている。その中には、莢子が十三参りに着ていた豆のツル柄の着物も含まれていた。
「これは伯父さんのところで預かってもらおうと思って。万が一、ここに空襲があったら困るからね。」
伯父さんの家は田舎にあって、空襲の恐れは少ない。
「あんたがこれを十三参りで初めて着たの、もう七年も前なんだねえ。時が経つのは早いもんだ。」
「そうね。もうそんなになるのね。」
七年前のことを思うと、遠い昔のような気がする。
あの頃はまだ、良太が唐津家で生活していて、身近に感じられていた。
そして、まさか戦局がここまで逼迫するとは、誰も予想していなかったように思う。
そして、莢子がひそかに良太の身を案じる日々が、訪れるようになることも…。
いずれにせよ、今は派手な衣服を着て出歩くことが許される空気ではない。モンペ以外のものを着る機会はほとんどなかった。
その夜、莢子が布団に入ってしばらくした頃、その不快な音は鳴り響いた。
空襲警報は六秒鳴って、三秒停止。これが十回も繰り返される。
「ああ、もう…。」
莢子は寝入ったところを不気味な大音量で起こされた。
この音は、いつまでたっても聞き慣れない。
「起きてよ…。ほら、葉子も、苗子も…。」
莢子は妹たちに声を掛けた。
葉子が無言でゆっくり起き上がる。おそらく彼女の機嫌は最悪だ。
「うーん…むにゃむにゃ…」
莢子は末の妹の苗子を揺さぶる。
「苗子、起きなさいってば…。」
「おうい、みんな、さっさと避難するぞう。」
父は非常食や通帳、印鑑などが入った大きな非常袋を背中に背負っている。
莢子たちは雑嚢や救急かばんを肩から斜めに掛けることになっていた。
いそいでラジオをつけると、敵機のおよその数、向かっている方向などが発表されている。
「こっちの方角へ進んでいる、って言っても、ここが目標とは限らないのにねえ……。はあ、面倒だねえ。」
不平そうな母に莢子は答えた。
「いくら空振りが多いからって、危ないことに変わりはないんだから…。避難しないといけないでしょう…。」
つい先日も、よその町では多数のB29による夜間空襲があったようだ。
新聞はその「米軍の盲爆ぶり」を伝えていたが、『焼夷弾の火災を消火せよ』『手袋があれば 焼夷弾は熱くない』などの文字も躍っている。
盲爆だからどこに落ちるかは分からないが、とりあえず『全戸、落下を覚悟せよ』らしい。
何はともあれ消火を頑張らないといけないようだ。
「もしも延焼でもしたら、なんとか消さんといかんだろうな。」
父がつぶやく。
「消さないと、隣組の人たちになんて責められるか分かったもんじゃないからねえ…。」
母もまたため息をつく。
莢子が防空頭巾をかぶり、雪駄で外へ出ると、霞がかかった月がぼんやりと辺りを照らしていた。
三月の夜は、うっすらと花の香りが漂っているけれど、まだまだ肌寒い。莢子はぶるっと身震いした。
「…もう、変な時間に起きたから、おなかすいてきちゃった……。あーあ、甘いもの食べたあい。」
そうこぼしたのは、末の妹の苗子だ。
甘いものは、ずいぶん長い間手に入っていなかった。もうずっと、みんなが甘いものに飢えている。
砂糖ももちろん配給制だが、かなりの貴重品だ。
「そういうこと言うのやめてよね。……私までおなか空いてくるじゃない!」
莢子のすぐ下の妹の葉子はイライラしている。
普段の食事もすべて配給に頼っているが、その量は十分ではなく、常にみんなおなかが減っている。
「お母さあん、何か食べる物ある?」
「……今すぐに食べられるようなものは、無いねえ……。」
「あの干し柿も食べちゃったしねえ。もっと節約しながら食べたら良かったあ…。」
苗子が嘆くのも無理はない。
莢子の家の庭には渋柿の木があり、毎年秋になると、干し柿を作ることが出来た。
柿の木が優秀なのか、はたまた母の作り方が上手いのかは不明だが、出来上がった干し柿は色も綺麗でなかなかに美味しい。
だが美味しいからこそ、ついつい食べてしまい、すぐに無くなった。
その渋柿の木から少し離れた場所に、防空壕は掘ってある。
両親、莢子、妹の葉子と苗子は、冷え冷えとした夜の庭で、その穴に潜り込んだ。
この防空壕を掘る直前、父は莢子に小冊子を手渡した。
「莢子、ちょっとこれを読んでみなさい。」
それは隣組で回覧されているもののようで、紙質は粗末だった。
図解入りで何か印刷してある。どうやらそれは防空待避所の作り方を説明してあるようだ。
「うーん、私にはよく分からない。お父さんが読んでちょうだい。」
「ふむ。そこに『防空壕を家の床下に掘っていれば、万が一家が燃えた時にも気づいて消火しやすい』とあるだろう?」
莢子は面倒に感じながら仕方なくパラパラと中身をめくった。
「……うーん、書いてはあるみたいだけど。」
「そもそも床下の穴に居て上の建物が燃えたら、外に出られないような気がしないか?」
「……言われてみればそうかも。」
「そうだろう?」
床下を嫌がった父の決定で、莢子の家では庭に防空壕を掘ることになったた。
「どうだ、お父さんの作った防空壕は、出来が良いだろう。この辺りの造作なんか、我ながら大したものだ。」
完成した壕のあちこちを指さし、重労働を終えた父は満足気に自慢した。
それだけでは足りずに、わざわざご近所の人たちを招き、長々と説明を始めるまでに至ったのだった。
◇◇◇◇◇◇
「良太さんって、今も本土にいるんでしょ?」
その防空壕の中で、葉子がこっそりと莢子の耳元で囁いた。
両親は少し離れたところに座ってラジオを調整している。
葉子は莢子の二つ年下の妹で、莢子より背が高く、細身だ。
彼女は幼い頃はおっとりしていた。
だが成長するにつれ、だんだんと歯に衣着せぬ物言いをするようになっている。
今では母や莢子を痛烈に批判することもしばしばだ。
「え……。……きっと、そうだと思うけど……」
葉子の向こうには、興味津々の表情で末っ子の苗子が顔を出している。
苗子は末っ子だけあって、甘え上手でちゃっかり屋だ。その苗子が口を開いた。
「もしかして、戦闘機でB29を追い払ってくれるの?」
「…それは、分からない…。冬ちゃんに聞かないと…。でも冬ちゃんも知らないかもしれないし…。」
それは本当のことだ。だから、そんなことを聞かれても困るしかない。
良太は飛行学校で訓練を受けた後、陸軍の戦闘機を操縦していた。南方での任務ののちに転属し、昨年本土に戻ってきたと聞いている。
しかし、莢子には良太の所属する隊の詳細は、よく分からない。
つい数か月前の新聞には、こんな記事が派手に掲載されていた。
『B29何するものぞ、体当たり撃墜19機』
『荒鷲、鬼神の体当たり、片翼の生還』
(……こんなの、ほとんど特攻と一緒じゃない!!)
莢子はその見出しが目に入った瞬間、気絶しそうな気がした。
新聞には生還したという陸軍伍長の写真が大きく紹介されている。
その下に生還者、そして「自爆未帰還者」の氏名がそれぞれ数名ずつ掲載されていたが、そこに良太の名前は無かった。
……そもそも冷静になってみれば、良太がその戦闘機隊の一員なのかどうかも、よく分からないのだ。
一人でやきもきしたところで、どうしようもなかった。
とにかく軍人というものは異動なのか出張なのかは分からないが、ずっと同じ場所には居ないようだ。
時々手紙を受け取っている、良太の妹であり莢子の親友でもある冬子ですら、
「今はどこそこに居るらしい」
「異動したみたい」
と良太の慌ただしさを感じている。
「こないだなんか、せっかく家族で面会に行ったのに留守だったのよ。」
そう、こぼしたこともある。
いったいどこに居て何の任務をしているかなど、家族でもない莢子には詳しいことを知る由も無かった。
「でも良太さん、去年、うちに来てくれたじゃない。」
葉子が不満げに言った。苗子も眉をしかめている。
「そんなの、来てくれたって言っても、あっという間に帰ってしまったし、ほとんど話してないのに……」
なぜ自分がこのような言い訳じみたことを言わなければならないのか。
莢子は納得できなかった。




