第9話 新たなる決意 P.56
日曜日の早朝だった。健斗は支度を済ませて、ゆっくりと息を吐いた。外はまだ明けてすらないが、この時間に出ないと始発の電車には間に合わない。
健斗は鞄を持ち、ゆっくりとドアを開けた。家の中はシーンとしている。それも当然だ。今はまだ五時半なのだ。日もまだ明けていない時間。誰も起きていないことは分かっている。
が、健斗は下に行く前になんとなく麗奈のことが気になった。きっと麗奈は寝てるだろう。でもなんとなく出発する前に一目見て起きたかった。
健斗は麗奈の部屋の前まで行き、静かにドアを開けた。ほとんど音を立てず、ゆっくりと麗奈の部屋の中に入った。
部屋の中は暗く、微かに甘い香りがした。
麗奈は静かに寝息を立てて、窓の方向に体を向けて眠っていた。健斗はベッドの方に歩き、麗奈の寝顔を確認した。
よく寝てる……
そう心の中で呟き、健斗は表情を緩めた。本当に……可愛い面してるよなぁ……と健斗はぼんやりと思った。
ここまで頑張れたのも、全ては麗奈のおかげだ。後もう少しで健斗の新しい生活が始まる。それを色んな方向から支えてくれてた麗奈に健斗は感謝以上のものを感じていた。
何だか不思議な気持ちだ。健斗はいつの間にか麗奈のことを本当に好きになっていた。でも早川のときのようにドキドキとはしない。ただ、安心するような……居心地の良い感覚。一緒にいて自然と暖かくなる気持ちだった。
「……変だよな……本当に……」
健斗は笑ってそう呟いた。するとだった。
「……ん……」
麗奈は寝返りを打つように体をこちらに向けた。このままでは起こしかねない。そろそろ行こう。健斗はそう思い、眠っている麗奈に囁くように言った。
「……ありがとうな……行ってきます……」
健斗はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がり麗奈に背を向けて部屋を出て行った。そして音を立てないように静かにドアを閉めた。
外は凍えそうな寒さだった。佐奈の見送りに行ったときと同じくらい寒い。やはりこの時期になると、早朝はすっかり寒くなるんだな。健斗は白い息を吐きながら、庭の方へと向かった。
庭から自転車を運ぼうとすると、ゴンタが健斗の存在に気づいたらしく小屋から出てきた。ゴンタは健斗の傍に近寄って、甘えるような声で鳴きながら健斗を見上げてきた。
――どこ行くの?
そう言っているように見えた。健斗は軽く微笑んで見せた。
「……最後にやり残してることをやりに行くんだ。」
ゴンタは首を傾げながら鳴いた。ゴンタには何を言っているのか分からないらしい。いや、分からなくていいのだ。
ゴンタにもいっぱい支えてもらっている。松本事件の日、健斗が前に進むための一歩を踏み出すのを後押ししてくれたのは、間違いなくゴンタだった。
「ありがとうな、ゴンタ。行ってくるよ。」
健斗はゴンタの頭を撫でながら自転車を運んで行った。
自転車を運び出し、それに跨ろうとした。そのときだった。
「うい~すっ」
近くから声がした。健斗はその声のした方向を見ると、そこにはヒロが自転車を押しながら健斗に近づいてくるのが見えた。
ヒロは健斗の傍まで来ると、小さく笑った。
「……とうとう来たな……今日が。」
「……あぁ。」
健斗は小さく頷くと、自転車に跨った。それを見るとヒロも自転車に跨った。そして二人はゆっくりと駅に続く道へと漕ぎ始めた。
「試合さ、確か一時からだったよな?」
「あぁ。」
「……間に合うかな。」
健斗が心配そうにそう呟いた。ノブやリュウタがいるところは県外だ。電車を乗り継いでも三時間近くかかる。
往復を考えると六時間近く。会える時間も限られてるし……試合には間に合うように絶対に帰って来なければならない。
「ちょっと分かんないなぁ……大体、どういう風に会おうかとか決めてんの?」
ヒロがそう聞いてきた。健斗は困ったように頷いてみせた。
「うん。佐奈さんが……そこのところの段取りをしてくれるって言ってたんだけど……」
健斗はそう言いながら、ふと昨日のことを思い出していた。それは昨日帰った直後に佐奈と連絡を取ったときのことだった。
「もしもし?」
電話の奥から聞こえたのは間違いなく佐奈の声だった。健斗はその声を聞いてほっと安心するようなため息を吐いた。
よかった。通じた……
「もしもし?こんばんわ。山中です。」
「山中くんっ?」
佐奈は嬉しさを交えた驚きの声を上げた。健斗はふっと表情を緩めながら続けて言った。
「連絡遅くなってすみません。今、いいですか?」
「えぇ、大丈夫よ。良かった……ずっと待ってたの。あなたからの電話。」
「はい……思ったよりもずっと時間がかかっちゃって……それで――」
健斗はそう言いながら、佐奈にこれまでのことを全て説明した。佐奈は相槌を打ちながら、熱心に話を聞いてくれた。だから健斗も言葉を濁らせることなく、滑らかに話すことが出来た。
あれから起きた変化……神乃高サッカー部の廃部の件や佐久や琢磨のこと、そして……翔の両親とのことなど。
全てを隈無く話したところ、佐奈は自分の知らないところで大きな変化が起こっていたことに少し驚いたようだった。特に、神乃高サッカー部の廃部の件については電話の奥で息を呑む声が聞こえた。
「そう……色んなことがあったのね。」
「はい……それで、急で申し訳ないんですが、明日にでもノブたちに何とか会えないかなって……」
「明日かぁ……ちょっと待ってて。」
健斗はそういう佐奈の言う通り、少しの間待っていた。小さくため息をつきながら、ベッドにゆっくりと腰掛ける。それからしばらく経つと電話の奥に佐奈の声が戻ってきた。
「もしもし?ごめんね。今ノブのスケジュール表をこっそり見てきたんだけど、どうやら大丈夫みたいよ。」
「本当ですか?」
健斗は感嘆の声を上げた。まさか都合よく時間が合うなんて思ってなかった。何だか怖いくらい物事が上手くいく。
「えぇ、大丈夫よ。ただね……明日はちょっと変な時間に練習があるみたいなの。だからあまり時間は取れないかもしれないけど……それでもいいなら――」
「そうですか。少しでも会えるなら……それで大丈夫です。」
健斗がそう言うと、佐奈は安心するように電話の奥でため息を吐いた。
「じゃあ、そういうことで行きましょう。そうね……時間は――」
神乃崎の駅の辺りに健斗とヒロは自転車を止めた。時計を見ると、時間は六時前を指している。そろそろ電車が来る時間帯だった。
健斗とヒロは券売機で切符を買って、すでに働いている駅員に切符を渡し、そのままホームに立った。しばらくすると遠くから電車が来るのが見えて、電車は健斗たちのほぼ目の前で停車した。
健斗たちは素早くそれに乗り込み、他の乗客と同様に席に座った。するとそれとほぼ同時に電車は再び発進しだした。
「まぁ、とりあえず市内まで出るのに時間かかるし。のんびり行こうぜ。」
ヒロがそんなお気楽な調子で健斗に言ってきたが、健斗も同じような意見だった。小さく笑って頷き
「あぁ、そうだな。」
と言うと、健斗は視線を窓の方に向けた。これから訪れる旅に思いを馳せていたのだ。