第9話 新たなる決意 P.53
どれくらい長い時間、仏壇の前で手を合わせていたのだろう。健斗は目を閉じて、手を合わせ、目の前にいる翔に自分の今の思いを告げていた。ヒロも健斗と同じように、ひたすら目を閉じて手を合わせていた。
その間房江は一言も発さず、二人を見つめていた。健斗たちの気持ちを推し量って、気の済むまでそうさせてくれたのだ
健斗は静かに幼い頃からの記憶を徐々に取り戻していくように、様々なことを思い出していた。不思議だった。今まで全く思い出せなかったことが色々と思い出せる。
堅かった引き出しが開くように健斗の頭の中に様々な思い出が飛び交った。
今まで封印していたのかもしれない。翔が死んだあの日を境に、健斗の古い記憶は閉ざされていたのだ。幼いときからあの日にかけて、閉ざされた記憶が今……健斗はすべてを取り戻したような心地だった。
ふと気がつくと、白い世界に自分は立っていた。何もない真っ白な世界。健斗は一人そこに立っていて、そして遠くにいる誰かと向き合っている。
中学校二年生のままの翔だった。今や健斗よりもずっと背が小さいけれど、確かな存在がそこにあった。
翔は何も言わなかった。その代わり、健斗の好きな、大好きなあの笑顔を見せてくれた。声は聞こえない。温もりも感じない。でもその笑顔は確かに健斗にはっきりと見えた。
笑顔で大きく手を振っている翔に、健斗は小さく呟いた。
――ありがとう……
翔は徐々に消えていた。笑顔を残して、徐々に真っ白な世界に吸い込まれていく。
やがて健斗はすっと目を開いて、再び前を見つめると、そこにはもう翔はいなかった。翔ではなく、仏壇があるだけだった。何となく寂しい気がした。けど……これでいいんだ。
気がつくとヒロも目を開いていた。健斗とほぼ同時だったらしい。健斗とヒロは顔を見合わせてまた可笑しそうに笑った。
「……終わったかしら?」
房江が表情を緩めながら健斗とヒロにそう言った。健斗とヒロはゆっくりと振り返った。健斗は小さく笑って、「はい。」と頷いた。すると房江も安心するように笑った。
「……あの子も幸せだったと思うの。」
房江は静かにそう言った。房江も同じように目を閉じて、翔がいたときの記憶を思い出していた。
「あの子は……翔は、たった十四年間しかこの世で生きることが出来なかった。けど、あなたたちと過ごせた時間は……あの子にとってものすごくかけがえのないものだった。」
そして房江はゆっくりと目を開けてにっこりと微笑んだ。
「だから翔もきっと満足してるわ。天国であなたたちに今でも笑いかけてる。私には……わかるの。」
健斗はその言葉を受けて何も言えず、小さく笑って黙って頷いた。今まさに、そうだったのかもしれない。健斗の中で翔は笑顔を見せてくれた。それだけで充分だった。
ずっと前に進めないでいた。ずっとずっと……自分が生きていることに苦痛を感じながら、たった今まで生きてきた。
でももう違う。
今、やっと整理が出来た。もう迷わない。自分はまた新しい道が拓かなければならない。翔のいないこの世界を、自分が自分自身で切り開いていかなければならない。
そうだ。新しい世界が始まるのだ。
健斗はすっと房江と向き直った。そして真剣な表情で小さく頭を下げた。
「……おばさん……俺……今までずっと……ずっとずっと悩んでたんだ。翔のいない世界がただ辛いだけで、こんな世界生きてるだけ無駄だって……ずっとずっとそう思ってた。」
房江は何も言わずに頷いた。健斗の気持ちをしっかりと受け止めてくれていたのだ。
「でも……もう違うんだ。俺は翔がいないこの世界を、自分自身で新しい世界に変えていく。そう決めたんだ。だから俺……もう一度サッカーを始めるよ。」
健斗は大きく息を吸い込んだ。目の前に新たな世界が広がっていた。
「翔はもういないけど……もう一度やりたいって、“俺”がそう思ったんだ。だから俺……」
「わかってる。もう大丈夫よ。」
房江は健斗の手を握った。薄らと目に涙を浮かべているのが分かった。健斗の新たな決意に感激しているようだった。
「私はいつでもあなたたちのことを応援してる。だから……思いっ切りやりなさい?あなたたちだって私からしたら、翔と同じくらい大切な息子と同然なんだから。」
「おばさん……」
「翔の分まで、あなたたちはしっかり生きるのよっ?それが、私からの約束。いい?」
健斗はそう言われて目を伏せて小さく頷いた。ヒロも小さく頷いていた。ヒロの肩が震えている。滅多に泣かないヒロが、涙を流しているのが分かった。健斗も泣きそうになったが、必死でこらえた。今は笑っていたい。そう思ったのだ。
房江の手は暖かかった。その温もりは、どこか翔と似ていて……やっぱりこの人はずっとこの先も……翔の母親なんだなっと思った。
「……あ、そうだ。」
健斗は思い出すようにして、身を翻して手を伸ばし自分の持ってきた荷物を掴んだ。
「実は今日、これを返そうと思って……」
健斗はそう言いながら鞄の中から少し大きい箱を取り出した。房江はそれを見ただけでそれが何だか分かったみたいだった。健斗は箱を房江の前に置いて、ゆっくりと開けた。
それは翔が生前に使っていたスパイクだった。そのスパイクは松本事件のときにも使った大切なものだった。まだ新しいもので、翔が死んでからずっと健斗が持っていたものだった。
房江はそれを見ると、懐かしそうに笑った。
「これ……翔に買ってあげた最後のスパイクね。」
「……はい。」
「中二の夏の大会……すごく張り切ってた翔に、高いスパイクを買ってあげたんだったわ。あの子、スッゴい喜んで……」
房江は言葉を詰まらせ、目を逸らした。目から涙が零れていた。それはそのときの翔の姿をはっきりと思い出していたからだった。房江にとっても、このスパイクは大切な思い出の品だった。
それを健斗は知っていた。何故なら、中二の夏の大会……健斗とヒロ、そして翔が出ることのなかった大会に向けて新調したスパイクだということを知っていたからだ。
翔は初めて高い良いスパイクを買ってもらったと言って、部活中ずっとはしゃいでいた。その時喜んでいた表情を健斗は今、鮮明に思い出すことが出来た。
そのわずか三週間後に、翔は亡くなった。残ったのは、恐らく毎晩、毎晩磨いて大切にしていた綺麗なスパイクだった。
だから健斗は今日、そんな大切なスパイクを房江に返そうと考えていたのだ。
房江は目を拭いながら、小さく笑って健斗たちの方を見た。
「……ごめんね?つい年を取ると……涙腺が緩んでるのね。」
フフッと笑って房江はそのスパイクを見つめた。健斗とヒロはまた顔を見合わせて表情を緩めた。
「じゃあこれ……」
健斗が房江の方に寄せようとすると、房江はそれを制するように健斗の手を止めた。
「いいえ。これはあなたにあげる。」
「えっ?でも……」
健斗が戸惑うように言うと、房江はゆっくりと微笑んだ。
「いいのよ。このスパイクだって、ただ飾っておくなんてもったいないわ。それに……翔だってきっとそれを望んでる。」
「……………」
「だから……ねっ?」
「……はい。ありがとうございます。」
健斗は小さく笑って、それを受け取ることにした。翔との思い出が詰まった大切なスパイクだった。しっかりと大切に使わせてもらおう。
するとだった。
さっきまでリビングで談笑しているはずだった、凛花が和室の方にとことこと歩いてきた。そして母親である房江の前に座って、房江を見上げた。
凛花は不思議そうな顔をして房江の服を引っ張って自分に注意を引かせた。すると、またたどたどしい手話で何かを伝えていた。それは健斗が見ていても読み取れるものだった。
――ママ、どうしたの?
凛花は表情を読み取るのに優れていると房江が言っていた。きっと泣いている房江を心配してそう言ったのだろう。房江は微笑んで、「何でもないのよ。」と言って凛花の頭を撫でた。
健斗はその様子を微笑ましく見ていた。もしかしたら櫻井夫妻が自分の息子の死から立ち直ることが出来たのは、この凛花のおかげかもしれない。
健斗は凛花の肩をとんとんと叩いた。凛花はびっくりして健斗の方を見た。健斗は凛花ににっこりと微笑んで言った。
「……ありがとう、凛花ちゃん。」
きっと凛花にはその意味が伝わらないだろうし、何を言ったのか聞こえてもないだろう。それでも良かった。
凛花は案の定、不思議そうに首を傾げた。しかしすぐにその後、嬉しそうににっこりと微笑み返してくれた。
やはり、どことなく翔の笑顔と似ていた。