第9話 新たなる決意 P.52
そして土曜日となった。健斗は後部座席に乗り、窓の外を眺めていた。いつの間にか、もう健斗の全く知らない町を走っていた。健斗の隣にはヒロが座っていて、助手席には母さん、そして運転席には父さんがいた。
健斗は荷物を手に持ったまま、黙り込んでいた。流れゆく景色に心を奪われながら呆然と物思いにふけっていた。
ヒロも車に座っている最中、健斗に話しかけようとしなかった。同じように、ヒロもヒロで思うことがあるのだろう。
そしてその二人の気持ちを察しているのか、父さんと母さんは二人に話しかけようとはしなかった。二人の間だけで話はしていたが、健斗たちの方を向こうとはしない。
健斗の家を出発して一時間が過ぎた。コンビニやガソリンスタンド、そしてチェーン店のスーパーマーケットが多くなってきた。どうやら、この辺はすっかり都会らしい。翔の両親はこの辺に住んでいるという。
やがて、車は角を曲がったところに聳え立つ、小さな団地にたどり着いた。古びた建物で年季が入っているようだ。車はその団地の中に入り、やがてスピードを緩めて停止した。
「着いたぞ。」
父さんがそういうと、健斗はゆっくりその団地を見上げた。この場所に……翔の両親が……
そんなことを考えながら、健斗はゆっくりと車を降りた。今日は少し風が強かった。厳しい風に吹かれながら、健斗は目を細めてその建物を見上げながらじっと見つめる。
神乃崎から随分と遠くに来たらしい。本当に見たこともないし、来たこともない町だった。
「何してるんだ?行くぞ。」
父さんを先頭に母さんとヒロがその団地の中に入っていこうとしているのが見えた。健斗は前を見つめて何も言わず、静かに足を踏み出した。
足音を響かせながらゆっくりと階段を上っていく。そして五階まで登ると、そこから各部屋に続く道を歩く。枝分かれになっていて、ややこしいが、どうやら父さんや母さんが正確な場所を知っているらしい。
「……緊張してる?」
ヒロが健斗に囁くように言ってきた。健斗はその言葉を聞いて、しばらく無表情でいたが、やがて小さく笑った。
「……ちょっとね。お前は?」
「もう、全然。」
それは嘘だ。ヒロは真逆なことを言う際に必ずそれを言う。ヒロも少なからず健斗と同様緊張しているらしい。健斗はそれを考えて可笑しさを感じながら、やがて足を止めた。
足を止めたその前の部屋がそれらしい。何の飾り気のない白濁色のドアがそうなのだ。標識には「櫻井」という名前がついている。
「……準備はいいか?」
父さんが振り返って二人に尋ねてきた。健斗は高鳴る胸を抑えようとしながらゆっくりと頷いた。ヒロも同様に頷いた。
父さんは表情を緩めるとくるっと前を向く。そしてインターフォンに手をかけて、ゆっくり押した。チャイム音がこちらにもはっきり聞こえた。
しばらく時間が流れた。すると、部屋の奥から足音が聞こえた。少し間が置かれてから、目の前のドアがゆっくりと開かれた。そこから母さんと同じくらいの年齢に見える女性が出てきた。
健斗にとっては懐かしい顔だった。二年半振りだった。
「いらっしゃい。」
その女性はにっこりと微笑んで健斗たちを見た。すると真っ先に言葉を発したのは母さんだった。
「櫻井さん、お久しぶりですぅ。お元気でした?」
母さんは感激するようにそう言った。母さんにとっても、あの事故以来久しぶりの再会だった。母さんの声が微かに震えているのが分かった。
「お陰様で。元気にやってるわ。山中さんもお元気そうで何よりだわ。」
翔の母――櫻井房江さんは母さんとがっしり握手をした。以前と変わらない明るい表情。ほっそりとした体型に短い髪。そしてちょっと攻めの入った口調。何も変わらない。健斗の知っている人のまんまだった。
すると母さんが目を擦りながらさっと彼女が見えやすいように体をよけて、健斗たちを見た。
「ほら、あんたたちも挨拶なさい。」
母さんにそう言われて健斗はちょっと照れくさそうにして一歩前に出た。顔を上げると、房江と目が合った。健斗はゆっくりと微笑んだ。
「えっと……お久しぶりです。」
「お久しぶりっす……」
健斗とヒロが軽く頭を下げて不器用な挨拶をした。するとそれに満足そうに房江は大きく頷いてにっこりと微笑んだ。
「変わってないわね~?健斗とヒロッ!でも随分と背伸びたんじゃない?」
「えぇ……まぁ……」
「あのガキンチョだった健斗がね~?すっかり男になっちゃって。」
と言って自ら前に出て、健斗の頭をシャカシャカと撫でてくる。それをされた瞬間、健斗は言い知れぬ感情が胸の中に巻き起こった。房江がよく健斗にやる行為だった。頭を撫でられることを嫌う健斗を知ってか、あえてやってくるのが南ちゃん、そしてもう一人が……房江だった。
懐かしさに胸が震えた。軽く泣きそうな思いだった。
「ヒロも大きくなったね?でも……ヒロは元々大きい方だったか?」
と言ってヒロの肩に房江は手を置いた。ヒロは照れくさそうに小さくはにかんで笑った。
「さっ!入って入って。何にもないところだけど……ゆっくりくつろいで行ってね。」
「お邪魔します。」
父さんが微笑みながらゆっくりと頭を下げた。健斗とヒロは顔を見合わせて可笑しそうに笑った。本当に相変わらずの元気よさに安心したのだ。
玄関に入り、そこで靴を脱いだ。狭い廊下を歩いていくと、やがて広いリビングに入った。
「あなたっ!山中さんたちが来たわよ。」
房江がそう言うと、リビングの奥にある和室から今度は父さんと同い年くらいの男性が健斗たちの前に現れた。黒縁の眼鏡に整った髭は変わらない靨が特徴的だった。
「おぉ~。来たかぁ来たかぁ。いやぁ~!アッハハハハハ。お久しぶりですなぁ~山中さぁん。」
男性は父さんや母さんの方に歩み寄ってきて固い握手を交わした。間延びした口調に少し掠れた声も変わらない。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
父さんが穏やかな表情で握手を交わしながら男性に言った。男性は大きく頷いて笑った。
「いや~、ハッハッハッ。お陰様で何とかやってますよぉ。」
「この間健康診断に引っかかっちゃってね?大変だったのよ。」
房江が呆れるようにそういうと、男性はまた高らかに笑った。
「何の何の。ちょっとばかし尿酸値が高くてね?酒の飲み過ぎが原因のようでしてぇ。いやぁ、しかし山中さんは昔と変わらず若々しいですなぁ?」
「いえいえ、私もすっかり時代遅れの爺ですよ。」
「そうですかぁ?おや……」
男性は奥にいた健斗たちを見つめて、より明るい笑顔になって健斗たちに歩み寄ってきた。
「健斗くんとヒロくんかぁ?うわぁ~!久しぶりだなぁ?元気してたかぁ?」
「おじさん、久しぶりっす。」
「お久しぶりです。」
健斗とヒロはそろって軽く頭を下げた。
翔の父親――櫻井勝則はニコニコと微笑んで健斗の肩を叩いてきた。
「いやぁ~?大きくなったなぁ?ついこの前までこんなに小さかったのになぁ?」
と言いながら、勝則は自分の腰くらいの当たりまで手を持っていった。健斗はそれを見て可笑しそうにぷっと吹き出した。
「おじさん、やり過ぎ。それいつの話だよ。」
「そぉか?おじさんにとっちゃ、こんくらいの気がしたんだけどなぁ。」
健斗はそれを見ながら、ふっと表情を緩めた。相変わらず何も変わっていない、櫻井夫婦に健斗は大きな安心感を感じていた。
気が少し強いが明るい口調でしっかりした翔の母親である房江。
楽観的でおちゃらけた雰囲気があり、どこか和ませる雰囲気のある翔の父親である勝則。
健斗もヒロもずっと幼い頃から深い親睦のある二人だった。これが櫻井家だった。懐かしい……本当に懐かしかった。
が……まさか健斗の予想を反したことがまさにこの瞬間起きた。
「……ほら、凛花。こっちにおいで?」
「……へ?」
「……は?」
房江が手招きしながら和室の奥から誰かの名前を呼んだ。するとだった。小さな女の子がひょこっと顔を覗かせた。くりくりとした大きな目をして、恥ずかしそうにもじもじしている。
健斗は唖然として声が出なかった。ヒロも同じで二人同時にその場に固まっていた。
見たことのない女の子だった。
その女の子は房江に連れられてたどたどしく健斗とヒロの前に歩み寄った。
小さくて、房江と似ている髪型、手にはキティちゃんのぬいぐるみを持っている。可愛らしい女の子だ。
健斗たちが圧倒されていると、房江はゆっくりと微笑んで健斗たちに言った。
「こちらは凛花よ。一年前からうちの養子になった子なの。」
「よ、よよよ養子っ?」
ヒロが大きく声を上げて驚いた。健斗は何とか声を抑えたが、同じ気持ちだった。櫻井家に養子がいるなんて……全く考えなかった。すると房江はきょとんとするような様子で健斗たちを見つめた。
「そうよ。聞いてなかった?」
聞いてない。健斗はジロッと母さんを見つめた。母さんは健斗と目が合うと、決まり悪そうに、誤魔化すように口笛を吹きながら目を逸らした。
――アノヤロー……
すると圧倒されている健斗たちをよそに、房江が身を屈んで凛花の前で手で何かをし始めた。
手話だった。
「このお兄ちゃんたちは、ママと、パパの、昔からのお知り合い。ちゃんと挨拶なさい。」
慣れた手つきで手話を済ますと、凛花は小さく頷いて健斗たちの方を見た。
すると女の子も左手の上に右手を乗せて、ゆっくりと体といっしょに下げた。
「“こんにちわ”だって。」
房江が微笑みながらそう言った。健斗は戸惑いながら笑顔を作ろうと勉めて「こんにちは。」と言った。
健斗は凛花と同じ目線で、凛花のくりくりした目を見つめた。目がなんとなく……
「……翔に似てる……」
「でしょっ?」
健斗がそう口にすると、房江が嬉しそうにそう言った。健斗はそれを聞いてゆっくりと顔を上げた。
「目が似てるのよね……あの子に、なんとなく。不思議な縁よねー?」
「……この子……耳が?」
「あ、そうなの。生まれつきみたいなのよね。」
「そっか……」
すると凛花は房江の服を引っ張った。房江はそれに気がつくと、ゆっくり凛花に視線を向ける。
すると凛花はたどたどしい手話で大きく手を開いたり、顔に指をさしたりして見せた。健斗たちには何を意味しているのかは理解できなかったが、房江は小さく何度も頷いた。
すると房江は健斗たちの方を見て困ったように笑った。
「あなたたちが笑ってないから、少し怖がってるみたい。」
「えっ?」
「この子、耳が聞こえないからか分からないんだけど……人の表情を読み取るのよ。その上警戒心も強くてね。」
といいながら房江はゆっくりと凛花の頭を撫でた。凛花は気持ち良さそうに房江に甘えると、突然振り返って小さな足取りで走っていった。
彼女が走っていった先はソファーに座っている勝則の元だった。勝則は凛花を抱え、その目の前に座っている父さんと母さんに紹介させた。
健斗はゆっくりと立ち上がってその子を見つめた。
「手話が出来るなんてすごいですね。今いくつなんです?」
健斗と同じように並んで凛花を見つめていたヒロがそう言った。確かにあの年で手話を覚え、それを使いこなすなんてすごい。すると房江は大きく頷いた。
「でしょ?賢いわよね。今年で五歳なんだけど……三歳には手話が使えてたらしいの。」
ヒロは感嘆の声を上げた。三歳で手話を使えてたなんて驚きだ。ものすごく賢い子なんだろう……
もしかしたら手話をパズルか何かのように思ったのかもしれない。あの子にとって、手話は遊びと同じなのだ。
「……生まれて間もない頃に捨てられたの。」
「え……」
房江が腕を組みながら、凛花を見つめながら言った。凛花は母さんに抱かれて嬉しそうにしている。
「公園のベンチに捨てられていたの。五年前、暗い公園のベンチの上に捨てられているのを通りかかった人が発見してくれてね。」
「……どうして……」
「分からない……もしかしたら障害を持って生まれてきたことに、大きな理由があるのかもしれないけど……」
それから孤児院で四年間過ごして育ったのだという。そして櫻井夫妻は、彼女を一年前に養子に迎えいれたのだ。
健斗はもっと色々と話を聞きたかったが、それより先にやることがある。
「さっ!そんな話よりも、あの子とも会ってもらえるかしら?きっとあの子も今日っていう日を楽しみにしてたはずよ。」
房江にそう言われて健斗とヒロは見合ってゆっくりと頷いた。房江に連れられて、健斗とヒロは和室の方に向かった。
「突然ですみません……」
健斗は和室に入りながら房江にそう言った。櫻井夫妻を訪問することが決まったのはついこの間のことだったのだ。
なのに、房江や勝則は快く迎え入れてくれた。
「何言ってんのよ。あんたたちが来るっていうならいつだって歓迎するわ。小さい時からの付き合いなんだから。」
房江は座布団を二枚用意しながらそう言った。健斗はヒロと顔を見合わせて小さく笑った。
「さっ、どうぞ。中に入って?」
健斗たちは言われるまま、ゆっくりと和室の中に入った。中は結構広く、六畳半はあった。そして房江の座る目の前に、綺麗な仏壇があった。線香がすでに二本立っている。おそらく母さんたちによるものだった。房江も線香を立てると、鐘を叩いて静かに目を閉じる。健斗たちはそれを黙って見つめていた。
しばらくすると房江は顔を上げて、ゆっくりと健斗たちの方を振り向いた。
「さっ、どうぞ。」
健斗とヒロは言われるまま一歩前に進んで、ゆっくりとそこに座った。
健斗は顔を上げて綺麗な仏壇を見た。仏壇には色々備えられていた。翔が幼いころに遊びに使っていた玩具やゲーム機、小学校のときに使っていた練習着や臑当てにランニングシューズ……そして……
健斗たちの記憶にある姿の、最後の笑顔で写っている翔の写真が飾られていた。