第9話 新たなる決意 P.50
風が吹き、道端のススキたちが擦り合うような音を奏でていた。家へと続く一本道を健斗は自転車を押しながら、早川と並んで歩いていた。
早川は視線を下に落としたまま一言も話さなかった。健斗もその普段と違う雰囲気に呑まれながら、内心そわそわしつつ、平然をどうにか保とうとしていた。
こんな風に早川と並んで歩くのは、夏休みのとき、早川と二人でデートをしに行った以来である。とても楽しかった思い出だが、健斗が気になるのはやはり最後の場面であった。
早川が健斗にお礼を言った後の一言に健斗は心を奪われてしまった。
『……私も……健斗くんみたいな人を……好きになれたらいいいのになぁ……』
嬉しさと恥ずかしさを入り混じえた感情が健斗を大胆な行動へと走らせた。健斗はそのとき思わず早川を引き寄せ、あろうことか抱き留めてしまったのである。
そしてその後、健斗は意を決して早川に自分の思いを告げようとしたのだが……それは無惨にも電話のコールによって阻止された。
だけど結果的には良かった。もしあのまま告白をしていたらどうなっていたのだろう。健斗は想像すると可笑しくなりそうだった。
やっぱり自分は最低の人間なのかもしれない。あんなに早川のことが好きだったのに……いつの間にか今は麗奈に対する思いの方が強い。
だから健斗はこうして二人で歩くことを予想だにしていなかったし、ましてこういう状況の最中ではもうそのことしか考えられなかった。
あれからそのことについてお互い触れてはいない……が、いつかはちゃんと話さなければならないような気がする。しかし今は上手い言葉が見つからなかった。
――それにしても気まずい。
どうしてこんなに沈黙が続いてるのだろうか?ついこの間まで普通に話していたではないか。二人きりで帰宅という、妙に甘酸っぱい状況が健斗を戸惑わせているに違いない。
しっかりしろ山中健斗っ!お前は本当に節操なしなのか?お前の今の気持ちは、麗奈にあるんだから……早川と帰っていることを意識してどうする。
よし……と心の中で呟いた。ここまで自分に言い聞かせればもう大丈夫だ。何か話題がないのなら、自分から振ればいい。そう。今日でテスト週間が終わったのだから、その話をすればいいじゃないか。
よし、こうだ。早川。テストどうだった?うんっ!これで行こうっ!
「……健斗くん、あの……」
「テストさぁ、どうだったっ!?」
健斗はやけに張り上げた声でそう言ってしまい、早川はぎょっとした目で健斗を見た。健斗はその言葉を聞いた瞬時、「ヤバいっ」と感じた。今早川が何か言いかけていた。
「あ……え……テ、テスト?」
早川が戸惑うように聞き返してきたので健斗は慌てて首を横に振った。
「あ、いや、ううん。何でもない。えっと……何か言いかけてた?」
健斗が改めてそう聞くと、早川はまた寂しそうな表情を浮かべて小さく頷いた。
「うん……あのね……」
「う、うん?」
「……松本さんが……健斗くんたちのとこに訪ねて来なかった?」
「えっ?」
健斗は神妙な顔向きになって早川を見つめた。心臓が早く高鳴るのが分かった。まさか早川からその名前が出るとは思わなかったし、何故早川がそのことを知っているのだろう。
「あ、あぁ……来たよ。少し話したけど……え、何で早川知ってるの?」
「……松本さんも私のとこに来たの。」
健斗はそれを聞いて瞬時に頭を回転させた。ある一つの仮定が頭の中に浮かんだ。
「松本さんが私のとこに来て……まず、あのときのことを謝ってきたの。」
早川によれば松本は以前とは全く違う、穏やかな雰囲気で早川に謝ってきたらしい。自分は早川の気持ちを踏みにじるようなことをしてしまった。本当にすまなかったと……
松本は本当に以前と変わったのだな、と健斗はその話を聞きながら改めて思った。何がそんなに彼を変えたのだろうか?
「それでねその後……健斗くんの場所を知ってるか?って聞いてきたから……多分屋上に行ったんじゃないかって教えたの。」
やっぱり。健斗が立てた仮定は正しかった。あの時やはり偶然ではなく、松本は健斗たちのいる場所を知っていたのだ。
「そっか。早川が松本さんに場所を教えたんだな……よく俺らが屋上にいるって分かったな?」
「うん。ヒロくんと話しているの聞こえてたから。屋上で話をしようって。」
「あぁ……なるほどね。」
健斗は照れくさそうに鼻の頭をポリポリと掻いた。早川に話を聞かれていたとは思ってなかった。
「それで……私、帰ろうと思ったんだけど……その……松本さんとのことが気になって……」
「あぁ……うん。」
「もしかして……健斗くんがまたサッカーを始めることと、何か関係あるのかなって……それで……」
そうか。だから早川はあの場所で健斗のことを待っていたのか。理由があったことに健斗は心なしかどこか安心をしていた。突然「いっしょに帰りたい」なんて言われると、誰だって違う想像をしてしまう。健斗が考えていたような感じではどうやらないらしい。
こうやって早川と二人きりで歩いて帰っていることに健斗はどこか罪悪感のようなものを感じていたのだ。その罪悪感に向けていたのは……あいつになんだけど。
「どうかした?」
早川が健斗を心配そうな表情でそう言ってきたので、健斗は慌てて首を横に振った。
「あ、いや。大丈夫。えっと……そうだなぁ……どこから話せばいいんだろう……」
健斗は少しの間思案した。早川にはすでに健斗がサッカーをやろうとしていることは話しているし、それにはどんなことが付いて廻るのかも分かっているはず。
でもちょうど良い機会だと健斗は思った。近い内に早川にはちゃんと話そうと思っていた。翔のこともあるし……
「あの日さ、のんちゃんから聞いたんだ。」
「……野村くんが健斗くんたちのとこに来た日だよね?」
「うん。あの日に知ったんだけど……うちのサッカー部が廃部になるかもしれないって。」
「えっ!」
早川はそれを聞いてかなり驚いたような表情を見せた。やはり早川も知らなかったらしい。そういえば昨日話した佐藤もそのことを知らなかったし、それより前に麗奈も知らないと言っていた。
健斗はそれから時間をかけて今までのことを早川に全てを説明した。
早川は健斗からの話を聞くと、驚いたり悲しそうにしたり、とにかく知らないことだらけと言ったようだった。そして全ての話を聞くと、早川はしばらく黙り込んでいた。健斗も黙っていた。
次に早川が何を言うのか、しばらく待っていたのだ。すると早川は顔を上げて重い口を開いた。
「……そう。じゃあ健斗くんとヒロくんは、今度は高野くんと橋本くんに会うつもりなんだね。」
早川にそう言われて健斗は小さく苦笑いを浮かべながら頷いた。
「うん……まぁ一応そのつもり。まだ会うっていう約束はしてないんだけど、俺らはそうしようって思ってる。」
「そっか……」
「うん。でもその前に……会おうって思ってる人たちがいるんだ。」
健斗がそれを言うと早川は不思議そうに顔を上げ、健斗のことを見上げた。
「誰?」
「えっと……その……」
健斗は言いにくいことを言おうとしていた。口をモゴモゴさせ、何度もチラッと早川を見た。早川はどんな反応をするだろうか。おそらく悲しそうな表情を浮かべるに違いないが、言わないわけにはいかなかった。
「……翔の……両親に会いに行くんだ。」
その名前を聞いた瞬時、早川の顔から血の気が引いていった。早川は目を開いて、健斗から顔を逸らした。やはり健斗の予想通りでそんな早川を痛々しそうに健斗は見つめた。
長い間その話はしていなかった。今ここで、この道でその名前を出し、早川をこのように悲しませている。何だかとても……切ない気持ちがした。やはり早川は未だに翔のことを引きずっているのだ。
「……大丈夫?」
健斗が恐る恐る聞いてみると、早川はゆっくりと顔を戻した。気がつくとその瞳は潤んでいた。
「うん……ごめんね。そっか……翔くんの……」
しばらく沈黙が続いた。お互い口が重く、何を話せばいいのか分からなかった。早川の前でこの話をするべきではなかったのかもしれないな……と健斗は次第に後悔していた。
「……ダメだね……私……」
「え?」
早川が呟くようにそう言った。早川は自分自身を情けなく思うように苦笑いを浮かべていた。
「もう、あれから二年半も経ってるのに……翔くんの名前を聞くと……まだ胸が苦しくなるんだよね……」
「……………」
「もう忘れようって決めたのに……ダメだなぁ……私……」
早川は自分を戒めるようにそう言った。健斗はそんな早川を悲しい目で見つめる。自分の無力さに腹が立った。
きっと早川を心の底から笑わせることが出来るのは……自分ではない。自分にはどう頑張ってもそんなことはできないし、それどころか自分にはそのような資格すらない。
健斗はゆっくりと空を見上げた。オレンジ色に焼けた綺麗な空だった。
「……早川は……翔のどんなとこが好きになったの?」
「え?」
早川はちょっと驚くようにして健斗を見た。健斗は口元に小さな笑みを作って早川を見つめ返す。
「あいつのどんなとこを好きになったのかなって……」
「私は……」
早川はまた下を俯いた。しかしその視線はどこか遠くを見つめている。その感じは以前健斗が早川に同じような質問をしたときと同じだった。
早川は恥ずかしそうにはにかんで笑った。
「……恥ずかしいな……でも、聞いてくれる?」
「うん。」
「……私ね、翔くんのことを初めて知ったのって……小学校四年生のときだったの。」
「えっ?」
健斗は意外な事実に大きく驚いた。早川は小学校が第二だから……第一だった健斗や翔とは違う学校だった。なのに、早川はすでに小学校の時点で翔のことを知っていたのだという。
「ほら、四年生のとき……第一と第二で合同運動会があったの覚えてない?」
「え……あっ!あ、あった。」
早川の言うとおり。確かにそんなことがあった。
神乃崎にはお互い少し離れた距離に神乃崎第一小学校と第二小学校があるのだが、四年に一度の頻度で、それにあたった年の運動会が第一と第二を合わせた合同運動会という形で行われる行事があった。
健斗もよく覚えている。普段の運動会の倍の規模で、いつもと違う大人数で、広いグラウンドで行われていた。まるで小さなオリンピックのように健斗は感じていた。
「私……小さいとき運動会がすっごく憂鬱だったんだ。」
「そうなんだ……え、何で?」
「う~ん……私、あまり陸上競技が得意じゃなかったの。足とかすっごく遅くって……いつも駆けっことかビリでね。」
意外な事実だった。早川は球技とかを扱う体育ではいつも目に留まるくらいの活躍をしていた。スポーツ万能というイメージが少なくとも健斗の中ではあった。
「だからその日もスッゴく嫌だったんだ。ただでさえスッゴい嫌いだったのに、何でこんなに大勢の人がいるんだ~って。」
「なるほどな。」
健斗は小さく笑うと、早川も照れくさそうに小さく笑った。
「かけっこが一番嫌いだったなぁ。ほらあれ、順位とかあるじゃない?一等は金のメダルもらえて、二等は銀のメダルで……私はいつもビリっけつで、紫色のメダルだったの……」
「アハハッ!そうか、そりゃ嫌だよな。」
早川には悪いが健斗はかけっこはかなり得意だった。というのも、足が健斗はとてつもなく速かったのだ。だからいつもかけっこでは一等で金メダルをもらっていた。
でもああいうのって早川みたいな人にとってはたまらなく憂鬱なものだったのかもしれないな……と健斗は今更ながらそう思った。
「それであのときもかけっこ、あったでしょ?私すごく緊張したの。あんなに大勢の人の前で恥をかきたくなかったから、せめてビリは避けようって思ってて。だから頑張ろうって思ったのよ?でも、気張り過ぎちゃったのか分からないんだけど……私、カーブのとこで転けちゃったの。」
「えっ?そうなの?」
健斗は可笑しさを感じながらも意外なことに驚きも感じていた。転ける人というのはそういないはずだから、記憶に残っていてもいいのだが健斗は思い出せなかった。
だけどそのときの早川の気持ちを考えたら少し可哀想だった。恥を避けようとした行動の最悪の結果だった。しかし早川は恥ずかしそうに笑って昔のことを懐かしむように続けて言った。
「他の人にはどんどん先を行かれちゃったし、たくさんの人たちの前では転ぶし……私、恥ずかしくって悔しくって、その場で泣いちゃったんだよね。」
「へぇ……」
「もうこんな苦しいの嫌だ。かけっこなんて速い人だけでやればいいじゃないってそう思った。でも……そんなときにね……」
『立てる?』
「声をかけてくれたの。知らない男の子……多分体育委員だったのかなぁ?泣いている私の所に駆け寄ってきて、手を差し伸べてくれて……」
「……もしかして、それが……翔?」
健斗は奥に眠っていた記憶を徐々に取り戻しながらそう言った。泣いている女の子……確かにいた。健斗はそれをヒロや他の友達と笑って見ていた記憶が確かにあった。
早川は恥ずかしそうに笑って頷いた。
「そう。そのときはまだ名前は知らなかったけど、翔くんが私に笑って手を差し伸べてくれたの。それで……」
『まだ走れるだろ?最後まで頑張ろうぜ?』
『……イヤ……もうイヤ……走りたくない……』
『諦めるなよ。今ここで途中で投げ出す方が、一番かっこ悪いって思わない?』
『……………』
『俺もいっしょに走るから。なっ?立ち上がって、最後まで走ろうぜ。』
結衣は少し黙ってから小さく頷いた。そしてその知らない男の子の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。転んだときに擦りむいた膝や手のひらが痛かった。でも結衣はしっかりと前を向いて、ゴールまであと三十メートルの距離を、隣でいっしょに走ってくれている男の子と頑張って走った。
「それで、最後まで走ったの。そしたら周りの人がみんな、拍手をくれたの。さっきまで私のことを笑ってた人も……私に拍手をして、称えてくれて……恥ずかしさや悔しさよりも、嬉しいって思ったの。初めてのことだったの。かけっこが、こんなに気持ちいいものなんだって……」
『よく頑張ったなぁ。お前、今すげーかっこ良いよ!』
その男の子は結衣に笑いかけてそう言った。その言葉が本当に嬉しくって……結衣は涙を拭いながらにっこりと微笑んだ。
『うんっ!』
健斗は今それをはっきりと思い出した。確かにそんなことがあった。合同運動会の係りを勤めていた翔が転んで泣いてる女の子に素早く駆け寄り、一言二言会話を交わすと、その女の子といっしょにゴールへ向かって走っていた。
あの女の子……長い髪を二つに束ねた子……あれが、早川だったなんて健斗は全く気がつかなかった。その後ヒロたちと共に翔を茶化したのもよく覚えていた。
「そしたら、一応順位はビリだから……翔くんが他の係りの子からメダルをもらってきて、私にくれたの。」
「はいっ!これ。」
「……………」
結衣はそのメダルを気に食わない様子でその男の子から受け取った。いつもと同じ……紫色のメダル。一番遅く、かっこ悪い者へと贈られるメダルだった。
「……これ、いらない。」
「え、何で?」
「お前はビリだって言われてるみたいなんだもん。カッコ悪いし……嫌い……」
「……………」
「私だって一度くらい……一番綺麗な金メダル欲しいもん……だからこれ、いらない。」
結衣がそう言うと、その男の子は「う~ん」っと唸るようにして言った。係りの子なんだろうから……きっと渡さないわけにはいかないと困っているのだろう。それでも結衣はこの紫色のメダルが嫌だった。
「……よしっ!分かったっ!お前、ちょっと待ってろ。」
「え?」
その男の子は結衣にそう言うと、忙しそうに結衣の元から遠く離れて行った。彼が向かった先は、これから走る人が並ぶ列だった。
「翔くんはその列の方に行って、並び始めたの。多分、もうすぐ自分の番だったんだと思う。私はずっと彼を見てた。そして……彼の番になったの。」
健斗はその話を聞いてさらに昔の記憶が蘇った。そうだ……それって健斗も共有する記憶だった。
「おっ!来たなっ!」
健斗は健斗の横に並ぶ翔を見ながら笑ってそう言った。翔は健斗を見て、にかっと笑う。
「お前、何めちゃくちゃかっけーことしてんだよー。このやろー。」
「さすがは翔くんですねぇ~?ヒューヒューヒュー!」
その前に並んでいたヒロも翔を茶化すようにそう言った。するとそれがきっかけとなって周りの人が翔のことを茶化し始めた。
「やめろよっ。俺別にそんなんじゃないしっ!」
「え~?あの子結構可愛いし、もしかして両想いになるんじゃなぁい?」
健斗はヒロの茶化し具合が何とも面白くって腹を抱えて笑った。翔は顔を赤くして茶化し続けるヒロの頭を叩いた。
「うるさいっ!俺は、係りとしてあの子を助けただけだっつーのっ!」
「係りとしてっ!いよっ!さすがは翔さんっ!おっとこまぇっ!」
健斗がそう言うと今度は健斗が翔に頭を叩かれた。
「どこの親父だお前はっ!まったくっ!」
そんな風にじゃれあってると、ピストルの音の回数につれどんどん列は進み、いよいよヒロの前の番になった。ヒロは余裕そうな表情で周りを見渡していた。
「お前、一等じゃなかったら罰ゲームだかんな。」
翔が笑いながらヒロにそう言った。翔なりにプレッシャーをかけたつもりだったんだろうが、生憎ヒロには効かなかった。
「あったりまえじゃん。それより、俺はお前ら二人の勝負が気になるンだけど。」
ヒロがそう言うと、健斗と翔は互いに見合って笑い合った。そう……その日の運動会におけるかけっこは、足が速い、遅いを考慮しながらのくじびきで決めていた。
すると何と奇跡的に健斗と翔が同じ列で走ることに決まったのだ。健斗と翔がこんな風に競うというのはめったになかった。
だが、健斗は同時に喜びを感じていた。ワクワク感が止まらない。一体どっちの方が速いんだろう。一般的なタイムはほんの少しだけ翔の方が速かったが、その差はほとんど変わらなかった。たった零点零コンマ数の差である。
朝から体がうずうずした。早く走りたい。走りたい。体がそう求めていた。絶対自分が勝つっと士気を高めていた。
そしてついにヒロの番になって、ピストルの音が鳴る寸前にこちらを振り返った。
「じゃ、お先行って待ってますわ。」
そういうとピストルの音が鳴り、みんな一斉に走り出す。ヒロは軽快な走りを見せた。周りの人など意に介さない。あっという間にゴールにつき、他の人とかなりの大差をつけて一等を取った。
「やっぱ速ぇーなぁ~……あいつ。」
翔はつまんなそうにそう言った。罰ゲームが出来ないのを残念がっているようだった。
「今度は俺らの番だぞ。」
健斗は満面の笑みで翔に言った。興奮が抑えられなかった。心臓が高鳴るのを感じた。武者震いのせいか体温が上がり、額から汗がしたたる。翔はそんな健斗の様子を見ながら呆れるようにため息をついた。
「あいっかわらずの勝負好きだよなぁ、お前。」
「まぁな。特にお前には絶対負けない。」
「ふ~ん……」
翔はそう言いながらゆっくりと立ち上がった。そして体を曲げて体操を始める。
「……でも悪いけど……健斗。」
「うん?」
「今日は負けられないんだわ。負けられない理由が出来た。」
そう言う翔の目は光っていた。明らかに本気の翔だった。健斗はさらに気持ちが高揚するのを感じた。
――ヤバい……ゾクゾクする。
準備が整って、審判の先生が位置に着くようにみんなを促す。健斗は走る構えを取った。ただ前しか見つめない。八十メートル先にあるゴールが、とてつもなく長い距離のように見えた。何キロも先にあるようだ。
「いちについて~!」
審判の先生がピストルを掲げる。自然と体に力が入った。ざわざわしている観衆の声も聞こえなくなった。自分の呼吸音だけが聞こえた。
「……ヨーイ…ドンッ!!」
そのタイミングで健斗は地面を蹴った。最高のスタートダッシュだと健斗は感じていた。見なくてもわかる。他の人とはすでに大きな差がつき始めている。そして健斗はさらにどんどん、どんどん、自分の全身の力を使い加速をしていく。周りの景色が流れて、細い線状のように見えた。
だが、それについてくるものがいる。やはり翔だった。翔はほとんど健斗と変わらない速度で健斗の横を走っていた。
――コイツ!
健斗はさらに力を込めた。加速を加えたのだ。白色の線で描かれたレーンを沿うように走る。カーブを曲がると、あとは三十メートルくらいの一直線だった。
未だに翔との差は変わらない。ぴったりとお互い張り合い続けた。呼吸をしない。いや、出来なかった。一呼吸でもすれば負ける。健斗はそう感じていた。
細く白い紐が徐々に近づいてくる。あとほんの数メートルだった。
――絶対に勝つっ!
健斗は最後の力を込めたそのときだった。
「うぇぁっ!!!」
声にならない声が隣で聞こえたと思ったら、翔の体が微かに前に出るのが見えた。
そして――――
ピストルの数発の音が聞こえた。それと同時に、周りから大きな歓声が聞こえた。健斗は気づいたらその場に倒れていた。呼吸が激しく、全身から大量の汗が吹き出た。
結果は?結果はどうなったのだ?
するとだった。健斗と同じように激しい呼吸をしながら、ゆっくりと健斗に歩み寄ってきた者がいた。汗だくの翔が笑いながら健斗を見下していた。手には日光で反射して光る金色のメダルを持っていて、健斗にわざと見せびらかすようにヒラヒラと動かした。
「俺の勝ちっ!」
翔は笑ってそう言うと健斗の元から遠ざかっていった。健斗はそれを聞いて全てを悟った。この歓声も、疲れもレースが終わったからなのだ。健斗はゆっくりと上半身だけを上げてゆっくりと呼吸を落ち着かせようとした。
「スゲーよお前らっ!」
ヒロが健斗の元に駆け寄ってきた。どうやら相当興奮しているようだった。
「いや~?まさに名勝負だったぜ?みんな超興奮してる。劇的だったなぁ~!あ、はい、これ。」
と言って渡してきたのは銀色に光るメダルだった。健斗はそれを受け取って、手作り感溢れる感触を感じながら大きくため息を吐いた。
負けた……ものすごく悔しかったが……それよりも大きな充実感を感じていた。
「え~!それでは勝利者のインタビューをしたいと思います。今回のレースで見事一等を飾った櫻井翔さん?翔さん?あれ?翔さん?」
ヒロは茶番を始めたが、どうやら翔の姿が見えないらしくキョロキョロと探し始めた。健斗もそれに気づいて翔を探す。しかし翔の姿はどこにも見えなかった。
「すごかったなぁ~!あのとき。私、初めてかけっこってこんなにすごいんだって思ったの。本当よ?二人ともものすっごく速くって……翔くんもすごかったけど、その翔くんの相手の人もすごかった。顔はよく見えなかったんだけど……健斗くん、誰だか知ってる?」
早川がそのときのことを思い出しながら興奮して言ってきた。そのときのことを話す早川は本当に生き生きとしていた。
健斗はそのときの記憶を鮮明に思い出していた。そうか……翔があのとき言っていたことってこのことだったんだな……と思い、小さく笑った。
「いや、俺は知らないな。」
健斗はなんとなく今更それは自分だと言えなくってごまかすことにした。すると早川は意外そうな表情で健斗を見た。
「本当に?もう、本当にすごかったんだから。」
「うん……で、そのあと翔はどうしたの?」
健斗がそう聞くと、早川は「あっ!」と口を抑えて悪戯気に笑った。
「あ、うん。ごめんなさい。えっと……そのあとね、そのレースを見て圧倒していた私のとこに、彼が戻ってきたの。」
ものすごい勝負を見せつけられて、結衣は圧倒されていた。あんなに速い二人が自分の近くの学校にいるなんて……結衣が知る限り、第二でも彼らに勝てる者はいないように思えた。
そんなことを思うと自分がとてつもなく惨めな人間に思えた。自分もあの二人のようにあんな風に速ければどれだけいいんだろう。すると手に持っていた、自分の紫色のメダルがとても忌々しいものに見えた。そのときだった。
「おーいっ!」
あの男の子の声がした。結衣はすぐに顔を上げると、汗だくの彼が結衣の元に向かって駆け寄ってきた。大きく息を切らして、男の子は結衣の目の前に来ると身をかがめて大きく呼吸をした。
「おめでとうっ!すごかったねっ!」
「おうっ!」
男の子はにっこりと人懐っこい笑顔でピースサインをしたが、まだ呼吸が落ち着かないのが大きく深呼吸をしていた。結衣は男の子を見つめながら、ゆっくりと微笑んだ。
「……羨ましいな。」
「あん?」
「私もあなたのように足が速かったら、この運動会も楽しめるのに……羨ましい。」
「……それよりも……これ。」
「え?」
男の子は大きく顔を上げて結衣に彼の手に持っているものを差し出してきた。それは彼が苦労のすえに勝ち取った金色のメダルだった。
「ほら。これが欲しかったんだろ?やるよ。」
意外なことに結衣は驚きを隠せなかったが、やがて小さく笑った。
「……もらえないよ。」
「何で?」
「だってこれはあなたが頑張って勝ち取ったものだもん。こんな大事なもの……私には……」
結衣がそう言うと男の子はきょとんとした様子で結衣を見つめていた。
「……お前、何か勘違いしてない?」
「え?」
男の子がそう言ったので結衣は何のことか分からず不思議そうな顔を浮かべた。
「このメダル、金色だから一番綺麗な色っていうわけじゃないよ。」
「え……」
「そうじゃないよ。このメダルがこんなに綺麗に見えるのは、俺が足が速いからとか金色だからとか、そんなんじゃないんだよ。」
「どういう……こと?」
結衣がそう聞くと、男の子はにっこりと笑ってさらに続けて言った。
「このメダルが綺麗に見えるのって、一生懸命頑張ったからそう見えるんだよ。」
「え……」
「もし俺が手を抜いても当然のように一等になって、同じようにこのメダルをもらってさ。そしたらお前同じようなことがこのメダルに言える?」
「あ……」
結衣はこの男の子の言いたいことがなんとなくわかってきたような気がした。それを察したのか、男の子はまた笑顔になった。
「さっき俺と走ったやつ、俺のダチなんだけどさ。あいつもめちゃくちゃ速いんだ。しかもすっげー負けず嫌いでさ。だから俺も、あいつのおかげで一生懸命走ったし、そんであいつに勝ってこのメダルが貰えて、今すっげー嬉しいしさ。」
そう言ってから、男の子はふっと表情を緩めた。
「だから……お前のそのメダルも同じなんじゃないの?」
「え……」
結衣はゆっくりと自分のメダルを見つめた。紫色で全然綺麗とは思えなかったメダルだ。
「お前今日転けちゃってさ、結局結果はビリだったよ?でも……お前最後まで頑張ったじゃん。ちゃんとゴールしたじゃん。ゴールしたとき、気持ちよくなかった?」
その通りだ。結衣は初めてかけっこというものがこんなにも気持ちいいものだということを知った。
周りの人から拍手を贈られながら、結衣は最後まで一生懸命走った。ゴールをしたとき、いつもは何も感じなかったのがすごく嬉しいと感じるようになった。
結果はビリだった。でもただのビリじゃない。自分は一生懸命最後まで走ったビリだった。いつもは負けて当然だ。恥をかかないように走ろうと思って走っていたのに、今日だけ違った。
「分かったか?一番綺麗な色は金でも銀でもない。自分が本当に一生懸命頑張ってもらった色だって、俺はそう思ってる。」
そう言って男の子は結衣の持っている紫色のメダルを指差しながら笑っていった。
「だから俺から見ればこの紫色のメダル、すっげー綺麗な色に見えるし、これを取ったお前はすっげーかっこ良いって思う。」
結衣は言葉が出なかった。嬉しさと感激が結衣の胸を包んだ。今までそんな風に言ってくれる人はいなかった。金色のメダルを取った人はみんな自慢気にみんなに見せびらかせて、結衣は遠くからそれを眺めていた。
でもこの人は違う。この人は一等を取ることなんかに何の価値も置いていない。自分の力を振り絞って頑張ることに価値を置いているのだ。だからこの人が勝ち取ったメダルはこんなにも綺麗に輝いていて、このメダルを取った彼はとてもかっこ良いのだ。
結衣は涙で目の前が滲んだ。嬉しくって、涙が溢れそうになった。
「あ、あれ?お、俺何か変なこと言った?」
男の子は突然泣き出した結衣を見て、慌て出した。結衣は大きく首を横に振りながら目をゴシゴシと拭って涙を止めた。
「ううん……私、嬉しくって。」
「……そっか。良かった。」
「うん……だから……ありがとう。」
結衣は笑ってその男の子に言った。男の子はお礼を言われて気恥ずかしそうに鼻の頭をポリポリと掻いた。
「別にー。あ、でさ、これやっぱやるよ。お前のために取って来たんだから。」
と言って男の子は結衣に手に持ってた金メダルを渡してきた。結衣はそれを受け取ると、おそるおそる聞いてみた。
「……いいの?」
「いいって。俺、いらないしさ。」
男の子はそう言うと、結衣はそのメダルをギュッと胸に抱きしめた。どこか暖かい気持ちが胸を包んだ。
「ありがとうっ。」
結衣は目を細めて男の子に笑いかけた。嬉しかった。こんなにも素敵なメダルを貰えるなんて……
男の子はまた照れくさそうに笑うと、突然「あっ!」と何かを思い出すように声を上げた。
「やべっ。俺、行かなきゃ。ダチ待たせてんだ。お前、もう運動会はつまんないなんて言うなよ?」
結衣はそう言われて可笑しさを感じ、クスクスと笑った。
「うん。分かってる。」
「よしっ!じゃあ、またなっ!」
「あ、ねぇっ!」
結衣は去っていく男の子に向けて声をかけた。すると男の子はくるっと後ろを振り向いて結衣を見た。結衣は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、小さな声で言った。
「あの……名前……教えてもらってもいいかな?」
「あ、名前?俺、櫻井翔。翔って呼んでくれればいいよ。」
「翔くん……」
「お前は?」
翔が逆に聞いてきたので、結衣はたどたどしく答えた。
「私は……結衣。早川結衣だよ。」
「早川……ね。よしっ!覚えた。またどっかで会おうな。」
「うんっ!」
翔はにっこりと笑ってそのまままるで風のように駆けていった。結衣はその後ろ姿を見つめながら、呆然としていた。
「……翔くん……かぁ……」
結衣は胸の奥に何かくすぐったい気持ちを感じていた。初めて抱いた変な気持ち。くすぐったくって、どこか切ない。
――また会いたい……
結衣はそう思いながら、彼からもらった金色のメダルを見た。日光を跳ね返して本当に綺麗な色をしている。
太陽にかざして結衣は二つの色を見比べた。さっきまで雲泥の差に思えたのに、不思議と今はどちらも同じくらい綺麗な色に見えた。
一気に二話分書いたのでページ数がめちゃくちゃ長くなりました汗
今回のエピソードは実は第5話を書いている際に思いついたものです。だから本当は第5話の終盤に入れようと思ったのですが、ここでいれるのは何か違うと思い、今回まで引っ張らせていただきましたが……いかがだったでしょうか?
もしかしたら時間列が複雑で読みにくかったかもしれません。ごめんなさい。
一番綺麗な色って何だろう?
一番光ってるものって何だろう?
多分読んでいて気づいた方もいると思いますが、今回のエピソードはあの曲を踏まえつつ考えたものです。
今回は合同運動会という場面でしたが、オリンピックなんてまさにそうですよね?
みんなが金メダルや銀メダルを狙って競技を行い、見事それを勝ち取った方は本当にすごいですしかっこ良いです。
でもそれに届かず、悔し涙を流す方にも作者は何か輝いた物を感じずにはいられません。
今回はきっと色んな人が経験したことのある“かけっこ”を中心にした話にしました。これは僕はまさに“小さなオリンピック”だと認識しています。
今回のお話を通じて作者からの、そして何よりもこの話の背景にある、あの曲を作ったミュージシャンからのメッセージを感じ取ってもらえると嬉しいです。
何か……今回のお話で結衣の人気が上昇しそうな予感がします。実際作者も書きながら結衣がかなり好きになりました(笑)
さて、この話を聞いた健斗の気持ち、そして今現在に揺れる結衣の気持ちは一体どうなるのか。
そこに注目してもらえると嬉しいです。
あ、感想や評価をいつでも受付しています。みなさんの気持ちがこの小説に反映しますので、ぜひどんどん書き込んでください。お待ちしています。