第9話 新たなる決意 P.48
「松本さん……?」
健斗は小さな消える声で松本にそう言った。松本は名前を呼ばれて小さく笑みを浮かべた。その表情を以前のような冷徹な微笑みではなく、穏やかで人間味のあるものだった。
以前会ったときよりも髪が伸びていて、なんとなく全体の雰囲気が変わっている。雰囲気が変わったのは髪のせいだけじゃない。上手くは言えないが、全体的に纏っている雰囲気が変わったのだ。
「久しぶりだな……山中。」
「……どうも。」
健斗は小さく会釈をした。雰囲気が変わったとはいえ、警戒心を緩めることは出来なかった。
健斗の腹に違和感を感じた。ゆっくりとさすって見せる。あの日、松本とその仲間に暴行を受けたことが今でも忘れられない。それにサッカー勝負のときの瞬間も健斗は鮮明に思い出していた。
何故松本がここにやって来たのだろうか?偶然じゃない。明らかに、はっきりとした意図を持ってこの場所にやってきたのだ。
松本はゆっくりと健斗との距離を縮めた。
「少し話したいことがあるんだ……色々と。ちょっといいか?」
穏やかな口調で健斗にそう言ってきた。話したいこと……?健斗は何となくその内容が予測できたため小さく頷いて見せた。
すると松本は健斗の横に来て、健斗と同じように柵に寄りかかった。ドキッとして健斗は松本を見上げる。思ったよりも近い距離で話すんだなと健斗は警戒心を持ちつつ松本を見ていた。
「……まず、最初に言っておきたいことがある。」
「……何ですか?」
「あのときは……すまなかった。」
健斗は驚きのあまりに声を出せず、思わずヒロの方を見た。ヒロも同じように驚いた顔をしていた。まさかあの松本が健斗たちに対して謝ってくるなんて思わなかったのである。
松本は景色に視線を向けたまま、さらに続けて言った。
「お前には色々と酷いことをした。酷いことを言った。今なら分かる……自分がどれだけ周りの人を苦しめてきたかを……本当に悪かった。」
そう言って、松本は健斗たちに体を向けて深々と頭を下げてきた。突然のことに健斗はどうしていいか分からず、松本の後ろ頭を見つめていた。するとヒロが健斗の背中をつついてきた。ちゃんと対処しろ、と健斗に促しているようだった。
「あ……あの、いえ。元はと言えば、俺が松本さんに生意気なこと言ったからで……だから……その、顔上げてください。」
すると松本はゆっくりと頭を上げて健斗を見つめた。何か裏で考えていることがあるのだろうか?以前の松本とは驚くほどに違っていた。
以前の傲慢さは消え、穏やかで誠実な態度を取っている。健斗はそんな変化にどうしていいか分からず、言葉が出なかった。すると松本は健斗からその後ろのヒロへと視線を向けた。
「お前も悪かったな。殴ったりして……えっと……名前は……」
「あ、真中です。」
ヒロはゆっくりと頭を下げながら、 自分の名前を言った。すると松本はふっと表情を緩めた。
「そっか。真中……悪かったな……」
「あ、いえ……もう全然。」
ヒロはおどけた態度で小さく笑みを浮かべながら軽く頭を下げた。本当のところ、ヒロ自身もこの変化にどう対応すればいいのか分からないのだろう。
「あの……話したいことって、それのことですか?」
健斗は松本にゆっくりとした口調で尋ねてみた。もしそれが本題なら、一体何故このタイミングで、何故今頃、という疑問が拭えなかったが、どうやら違ったらしい。
「いや、本題はもっと別のことなんだ。」
松本はそう言うと健斗たちから視線を逸らして再び景色を眺め始めた。
その視線の先にはサッカー部が写っている。やっぱりその話か、と健斗は思った。
「……野村から聞いただろ。サッカー部廃部の話。」
健斗は松本にそう言われてゆっくりと頷いて見せた。すると松本はさらに続けて言った。
「その原因も……」
「一応……本人の口からじゃなくって、自分でそうかなって思ってて……」
松本はゆっくりと健斗に視線を向けて悲しそうな表情を浮かべた。
「そうだ。サッカー部の廃部の話が持ち上がったのは、俺の責任なんだ。」
そんな風に言う松本の口調はやけに寂しげに、そして悲しそうだった。後悔と罪悪感に苛まれている。この間の健斗と同じだった。
「俺が部長として身勝手なことをしたばかりに……あいつらにも迷惑をかけてしまっている。俺のせいで……」
「……………」
「俺はその話を聞いて、すぐに校長室に行った。サッカー部の廃部の件を考え直して欲しいと……たが……」
結果は軽くあしらわれたらしい。校長は松本の話を全く聞かず、決定事項だからと念を押されたらしい。健斗はそのことに対して風の噂で聞いたことなのだが、どうやら理事会の息がかかっているというのだ。つまりもう決定事項。
サッカー部は次の練習試合に勝たなければ廃部。その条件は絶対的だった。
そればかりか、松本は校長に余計な真似をするなと脅されたという。来年受験を控えている身の上、松本は大学の推薦も関わっている。下手な真似をするなと言われた、と言った。
健斗はそのことにある種の腹立たしさを感じていた。穢れているとそう思った。
「もう俺にはどうすることも出来ない。俺にはもう……力がないんだ。」
酷く弱り切った消えるような口調でそう呟いた。健斗はそんな松本をただ黙って見つめることしか出来なかった。
歯がゆさを感じている。そして同様に己の無力を噛み締めていた。自分の責任でサッカー部を廃部の危機にさらし、その上自分はどうすることも出来ないと嘆いていた。
「……そんなとき、野村と色々話をした。そしたら、野村はお前たちの名前を上げてきたんだ。」
「のんちゃんが……」
「あぁ。お前たちなら何とかしてくれるかもしれない。自分が頼んでみる。あいつはそう言ってた。」
そうしてのんちゃんは言った通り、健斗たちの元を訪れた。だがそのときの健斗はまだ迷いがあったため、その頼みを受け入れることが出来なかった。そして今に至るわけだ。
「野村はお前たちに断られて……もう仕方ないってそう言ってたよ。」
松本は再び視線をグラウンドの方に向けた。サッカー部はいつもの通り、基礎練習に入っていた。そして悔しそうに下唇を噛み締めながら言ってきた。
「あいつらはもう、日に日に迫る最後の日を覚悟しながら練習している。あんなに活気に満ち溢れていたのに……今ではもう見る影もない。それが悔しくってたまらないんだ。」
確かに今のサッカー部は覇気がなかった。練習風景を見ていても声を出している者が一人もいない。野球部の声しか聞こえない。その風景はどこか神乃中サッカー部と同じだった。
あぁ……そうか。この人は俺と同じなんだな。
健斗はそう心の中で呟いた。
「俺にはもうどうすることも出来ない。だから、お前たちに頼みたいんだ。」
松本は真剣な表情で健斗たちを見た。健斗は何も言わずにその視線を真っ直ぐ受け止めた。松本の目に光る物が見えた。
「……お前たちに……後を任せたい。」
その言葉が健斗の胸の中に響いた。色々な思いが健斗の胸の中に巻き起こっていた。決意がさらに固まっていくような感覚だった。
健斗は真っ直ぐ見つめてくる松本を見つめ返して、それからふっと表情を緩めた。
「……分かってます。俺らに任せてください。」
「山中……」
健斗は自信に満ちた表情、そして自信に満ちた口調ではっきりと言った。健斗は松本の真っ直ぐな気持ちを素直に受け止めることが出来たのだ。
「俺たちが何とかします。ここのサッカー部は廃部にさせない。もう二度と……同じことを繰り返したくないんです。だから……」
健斗はそう言い切って口を閉ざした。松本は健斗を見つめたまま動かない。しばらくすると下を俯いた。そして顔を逸らして大きく空を見上げる。肩が震えているのが分かったが、健斗もヒロも何も言わなかった。
新たな決意が、ようやく確実なものへと固まろうとしていた。