第9話 新たなる決意 P.45
今夜の夕飯は最近の季節に見合った寄せ鍋だった。卓袱台の真ん中にガスコンロが置かれ、その上に土鍋が置かれた。
九月の下旬に入って残暑も過ぎ、例年通り寒い季節が始まってくる。昼間はそこそこまだ暖かく過ごしやすい気温だが、特に早朝と深夜になると身に沁みるほど寒くなっていた。
今日の夜も少しひんやりしていた。健斗は豆腐を摘まんで口に運ぶ。柔らかい食感といっしょに暖かい温もりが体中にじんわり広がっていく。
「そういえば今テスト期間なんだって?」
父さんが食べながら健斗と麗奈にそう言ってきた。健斗はその単語を聞くと思わずギクッとしたが、麗奈は至って普通の反応を示した。
「はい。明日で終わりですけど。」
「どうだ?出来は。」
「ん~……まぁ、いつも通りかなぁ?」
――いつも通りってどんな感じだよ。
健斗は心の中でそう突っ込んでみる。
すると母さんがまるで誇らしいことかのように言ってきた。
「麗奈ちゃんって勉強出来るのよ。この間全国模試あったでしょ?成績すごい良かったわよね?」
「まぁ、そこそこですよ。そんなに自慢出来るほどよくはないです。」
「もう謙遜しちゃって。全国で十位よ?十位。充分すごいわよ。鼻が高いわぁ~。」
と我が子のように母さんは喜ばしくそう言った。麗奈は嬉しそうに、けれどどこか照れくさそうに笑った。
全国十位……この成績には誰もが驚いた。
この全国模試というのは名前の通り、全国の学力水準を測るために行われたもので、実は夏休みに入る前に一度行われていた。
その結果が返ってきたときのはつい最近の出来事で、健斗の順位は……確か万の位だったような気がする。とても誇れるような順位ではなかった。
数学が特に全然ダメで、下から数えた方が早いように思われる順位だった。逆に、英語はそうとう良かった。順位でいうと十五位。何と英語だけは麗奈に勝っていたのである。
自分でもびっくりしたが、これは自分の中の秘密にしている。総合すると決して良い結果ではないからだ。
ちなみにそれから麗奈は頭良いキャラが定着するようになった。学校側も、全国十位のやつがいると誇らしいものだろう。
だから麗奈が医学部受験というのは大いに納得出来る。麗奈の学力なら全然行けるだろう。
でも麗奈はどこか謙遜するところがあるから、自分に自信がないため、そんなことを人に言うのが恥ずかしいのだろう。
――こんなこと言うの、健斗くんだけなんだからね……
ドキッと胸が高鳴った。麗奈にああいう風に言われると、やはり気恥ずかしいというか、何だかドキドキする……健斗はチラッと麗奈を見ると、麗奈はそんな健斗の視線に気づかず、母さんや父さんと談笑している。
健斗は小さくため息をついた。
「麗奈ちゃんが頭が良いのは、達也と夏奈さんの血筋だな。」
「あら、そんなことないわよ。麗奈ちゃん自身の能力よねぇ?」
「う~ん?どうなんでしょうね?」
健斗はそんな三人を余所に、一人黙々と箸を進めていた。
「で、あんたはどうなの?」
「ほぇっ?」
豆腐を口にしながら健斗は変な声を上げてしまった。母さんが呆れるように健斗を見る。
「ちゃんと勉強してんの?」
「し、してるよ。別に、今回はそんな全体的には悪くねーし。」
数学はヤバいかもしれないけど……
「でも健斗くん、剃髪するんでしょ?」
「剃髪っ!?」
母さんが金切り声で驚いたようにそう叫んだ。健斗はうるさいものを聞くように、わざとらしく耳を両手で塞ぐ。
「お前、余計なこと言うなよ。」
「何?あんた出家でもするのっ?」
「アホか。ちげーよ。ヒロと英語のテストで勝負してんだけど……勝てそうにないから。」
健斗が呟くようにそう言うと、母さんは呆れ返るようにして深くため息を吐いた。どうやら言葉も出ないらしい。しかし父さんはどうやら面白そうに笑っていた。
「いいじゃないか。父さん、ずっとお前の髪長いなぁって思ってたんだぞ?」
「まだ決まったわけじゃないけど……でもマジやだなぁ……」
「情けないわねー。もっとちゃんと勉強してればこんなことにはならなかったでしょ?」
健斗はそれを言われて言葉が返せなかった。確かに、英語だけではないが今回のテストは比較的勉強量が足りないかもしれない。
「仕方ないじゃん。俺にだって色々あるんだよ。」
健斗は不機嫌そうに白菜を口に運ぶ。すると母さんが顔をしかめて呆れるように言ってきた。
「何よ色々って。どうせ大したことないんでしょ?」
健斗はそれを言われて黙っていた。大したことない……か……確かにそうかもしれないな、と健斗は少し考えた。
健斗が妙な事を考えなければ、今頃こんなに大変なことにはなってないだろう。リュウタやノブだってもう昔のことなんか何とも思ってないかもしれないのだ。
健斗はふと麗奈がチラチラと見てくるのに気がついた。その目は何かを促しているみたいだった。
――そうか。今ならちょうど良い機会かもしれない。
「……ねぇ母さん。」
「はい?」
母さんが鍋にある白菜や豆腐を取りながら返事をした。健斗のことを全く見ていない。まぁいい。
「……翔のお母さんやお父さんの連絡先って分かる?」
「……えっ?」
健斗の言葉に母さんは驚きの声を上げた。目を見張って健斗の方を見る。父さんも同じように驚いたのか、口にしていたものが喉につっかえてむせていた。正直予想通りの反応だった。
「翔って……あの翔くんよね?」
「それ以外に誰がいんだよ。」
「どうして急に?」
確かに健斗は今まで翔の名前をこの二人の前に出さなかった。それはもう、暗黙の了解というか、タブーの分類に入っていた。忌々しい過去を掘り下げないためにも……その名前を出すのはよそう。それがいつの日か暗黙の了解になっていた。
だがその名前を健斗から口にしてきた。二人にとっては予想だにしなかった意外な出来事だったのだ。
健斗は決まりが悪そうに顔をしかめた。何故を聞かれたら、どうすればいいか……やっぱり全てを話す必要があるらしい。
「俺さ、その……もう一度やろうって思ってるんだよね。」
「もう一度やるって、何?もしかして、サッカー?」
母さんが驚いた様子でそう尋ねてくる。健斗は顔をしかめたまま、小さく頷いて見せた。
「えーっ!何よ急に?どういう心境の変化?あんた、散々サッカーはもうやらないって言ってたじゃない?」
「俺もつい最近までそう思ってたんだけど……」
寛太に言われたときと同じような科白を返した。やっぱり周りの人から見ると、健斗がサッカーをやるということは相当驚きのことなのだろうか。
「お前、本気なのか?」
父さんも真剣な表情で健斗にそう言ってきた。低い声で諭すように言ってくる。その感じは以前……健斗がサッカーを辞めると言ったときと同じ雰囲気だった。
健斗はまた小さく頷いた。健斗の決意はもう揺るがないものとなっている。
「……え、で何?それが翔くんのお母さんたちとどう関係があるの。」
母さんが不思議そうにそう言ってきた。そんなことを言われると、返答に困った。どう関係あるとかそういう問題じゃない。ただ、健斗がこれから前に進むためにはそうしなければならないとどこかで感じていた。
翔の両親は翔が死んだその数週間後に、この神乃崎の町を離れていった。理由はこの町にいることがどうしようもなく耐えきれないからだった。
悲惨な事故で我が子を失った、その両親の悲しみは健斗よりも深いのかもしれない。いや、どっちにしろ健斗の身代わりとなって命を落とした翔。言い換えれば、健斗が翔の家族の崩壊の一因でもある。
それを考えると胸が痛む。翔を亡くしたことでサッカーを辞めてしまったなら、またサッカーを始めるためにはちゃんとそのことを翔の母親と父親に告げたいと思ったのだ。
だが、そんなことを母さんや父さんに話しても理解をしてくれないと思う。自分だって、もしかしたら妙な使命感に酔っているだけかもしれないからだ。
「何でもなにもないよ。会いたいって思ったから会いに行くだけ。連絡先とか知ってるでしょ?」
母さんはきょとんとして、少し困ったように言った。
「そりゃ知ってるは知ってるけど。何、会いに行くわけ?」
「うん。」
「いつ?」
「……出来れば今週の土曜日。」
健斗は少し苛立ちを感じながらぶっきらぼうにそう言った。それを聞いた母さんは唸るように考え始めた。
「……本当に急よね。相当遠いわよ?」
「電車で行けるかな?」
「行けるは行けるけど。相当時間かかるわね。」
時間がかかるなんてどうでも良い。とにかく行くとしたら土曜日だった。土曜日なら、ある程度の社会人も休みである確率は高い。翔の母親は確か専業主婦で、父親は父さんと同じ会社員だった。
今はどうかは知らないけど……でも少しでもいいから会ってくれないだろうか?
「まぁ、いいじゃないか。」
そんなことを考えていると、父さんがいつもの調子に戻ってそう言ってきた。一斉に父さんの方を見ると、父さんはほんのり顔が赤かったが、はきはきした口調で言った。
「健斗がサッカーをやるって言ってるんだ。そして櫻井さんに会って、自分の思いを告げようとしてる。立派なことじゃないか。」
「なっ?」と言いながら父さんは健斗を見て微笑みかけてくる。健斗は少し驚いた気持ちで父さんを見つめ返した。どうやら父さんは健斗の気持ちを理解しているみたいだ。健斗が何故、翔の両親に会おうとしているのかその根底にある気持ちをなんとなく分かってくれているようだった。
健斗はゆっくりと顔を上げて父さんを見た。
「ようやく前に進む決意が出来たんだな?」
健斗の目を真っ直ぐ見つめたまま、父さんは健斗に真剣な目つきでそう言った。健斗はしばらく間を置いてからゆっくりと力強く頷いて見せた。すると父さんはふっと表情を緩めた。
「そうか。それじゃあ思いっ切りやれ。今度は迷わず、お前の全部をかけてサッカーをやれ。そしたら父さんも母さんも、全力でお前を支えるから。」
健斗は言葉が出なかった。父さんの気持ちが嬉しくて感激していたのだ。ふと、この刹那に健斗は幼い頃の記憶を思い出していた。
サッカーを初めてやるきっかけを作ってくれたのは、父さんだった。サッカーに興味が惹かれ始めている幼い健斗に、初心者のためのサッカーマニュアル本を買ってきてくれた。
サッカーを何も知らない父さんもそれを読んで勉強して、健斗の練習に遅くまで付き合ってくれた。
サッカーを辞めると言ったとき、実は一番悲しそうにしたのは父さんだということを健斗は知っていた。止めはしなかった。しかし健斗が自分の部屋に戻るとき、父さんは健斗の背中に向けて一言だけ言ったことを覚えてる。
『本当に……それでいいんだな。』
やけに弱々しい口調で健斗に言ってきた。そしてその表情を見ると心の底から残念がっていることも分かっていた。
そしてその父さんが今、改めて再スタートを切ろうとしている健斗を全力で応援すると言ってくれている。その心強さに健斗は大きな安心感を抱いた。自分は迷っている暇はない。自分のやろうとしていることに自信を持たなければならないのだ。
「……サンキュ、父さん……」
健斗は照れくさうに笑ってそう呟いた。するとその様子を見ていた母さんがため息をついて、そして表情を緩めた。
「まっ、確かにそうね。健康的になるだけマシね。」
母さんもそう言って認めてくれた。やっぱり話しておいて良かった、と健斗は感じていた。
「そうだ。どうせなら車で連れて行ってやろうか?俺たちもたまには櫻井さんに顔を見せんとな。」
父さんと母さんも長い間翔の両親に会っていないらしい。健斗が幼い頃から付き合いのある同士だ。その絆は翔が死んでいたって切れることはない。
そういうことで話はまとまった。母さんは明日にでも翔の両親に電話を入れるらしい。後は母さんたちに任せる方が得策だった。
夕飯を済ませて、健斗は自分の部屋に戻ろうとして居間を後にして階段を上っていった。するとだった。後ろから麗奈がついてくるのが分かった。
「良かったね?お父さんたち分かってくれて。」
「うん。話しておいて正解だった。翔の両親にも会えるしな。」
階段を上りきって、健斗は自分の部屋に入ろうとしたところでゆっくり振り返った。
「……お前も来る?土曜日。」
「え?」
健斗がそう聞くと麗奈は立ち止まって健斗を見つめた。何となく麗奈も連れて行った方がいいとそう感じて、提案してみた。だが麗奈は苦笑を浮かべただけだった。
「行きたいけど……ごめんね?私その日お昼から部活あるから。」
「あ、そっか。なら、いいや。」
別に強制してるわけではない。何となく麗奈も連れて行って翔の両親に紹介しとこうか考えただけだった。それに麗奈には……全てを知っておいて欲しいという気持ちもあった。
――あとで泣かれたら困るからな……
でも部活なら仕方ない。健斗はもう用はないというように部屋の中に入ろうとする。
「……ねぇ。」
後ろからまた声をかけられて健斗はゆっくりと振り返った。
「ん?」
「……私に、何か手伝えることない?」
「え……」
麗奈はちょっと健斗の部屋に入ってきて真剣な表情でそう言った。
「何でもいいの。少しでも健斗くんの役に立ちたくって……何か私に出来ることないかな?」
健斗は真剣な眼差しで見てくる麗奈を見つめてふっと表情を緩めた。その気持ちで十分だった。自分のために必死になろうとしていることに健斗は嬉しさを感じた。
「大丈夫だよ。何も心配すんな。ちゃんと何をやるつもりなのかは教えるからさ……」
「……でも……」
そのときだった。健斗はそう言ってからあることを思い出した。そうだ。麗奈に手伝ってもらうことが一つあった。
健斗はしばらく考えた。時間的なことを考えると、麗奈に任せた方が効率がいいかもしれない。
「じゃあさ、一つだけお願いしてもいいか?」
健斗がそう訊くと、麗奈は目に力を込めて大きく頷いた。健斗はそんな麗奈を見て、可笑しそうに小さく笑って見せた。