第9話 新たなる決意 P.43
定時刻に時計の鐘が鳴る。重く低い音が響く頃に、健斗は全てのことを竜平と佐藤に話し終えていた。
もう一度サッカーがやりたいという気持ちが芽生えたこと、そしてのんちゃんに助けを求められたこと、それをするために今健斗がしようとしていること。
竜平はそれを黙って頷いて聞いてくれた。だから健斗も思いの他聞きやすくって、すらすらと自分の胸の中にある気持ちを言うことが出来た。
「そうか。また、サッカーを始めるか。」
竜平は呟くようにそう言った。健斗は照れくさそうに小さく頷いて見せた。
「はい。ようやく……決心することが出来ました。」
「そうか。それじゃあもう……安心だな。」
竜平はそう言うと静かに目を閉じて、何かを考えるような仕草を見せた。一体何を考えているのだろうか。健斗には推し量ることが出来ない。ただ、きっと竜平の中にも色々な思いが巡っているのだろう。
健斗がサッカーを辞めた日から今にかけて、ずっと健斗を支えてきてくれたもう一人の父親のような存在。今日に至るまでの様々な思い出を思い返しているのだろうか。
健斗はそんな竜平を見ながら、肩をすくめて見せた。
「……それで、申し訳ないんですけど……もし俺がサッカーを始めるなら、もう今までのようにここで働くことは……出来なくなるんです。だからそれを、謝ろうっていうか……その……」
「あぁ。それは分かっている。その点については何も心配するな。思い悩む必要はない……それに……」
竜平はそう言いかけてから、少し遠くを見つめた。
「……お前に言ってなかったが……ここは閉めることにした。」
「えっ?」
健斗は竜平の突然の言い草に自分の耳を疑って思わず聞き返した。隣に座っている佐藤も心底驚いた顔をしている。
だがその中でも健斗の動揺が一番激しかった。
この店がなくなる……?
「ど、どうしてですかっ?何で……」
あまりの動悸に健斗は言葉を詰まらせた。心臓が激しく脈を打つのを感じる。幼いときから健斗のどこか心の寄り所になっていたこの店がなくなるなんて信じたくなかった。
すると竜平は口元で笑みを浮かべながら、小さく頷いた。
「うん……まぁ、正確に言えば移転かな。ここを閉めて市内の方で店を開いて営業しようと思ってるんだ。」
「市内で?」
「あぁ。ずっと考えてたことなんだけどな……」
と言って竜平はすっと目を閉じた。その穏やかで冷静な雰囲気に健斗は次第に呑まれていく。
「……以前話したことあるだろ。この店を開く前、私は市内の証券会社で働いてたこと。」
健斗はそのことを思い出しながら小さく頷いた。佐藤は意外そうな顔をしている。確かに今の竜平から見ると、昔会社員だったなんてあまり信じがたい話でもある。
「ここで店を開いた当初から、ずっとそのことを考えていた。いつかもう一度市内で、今度は自分の力で、挑戦しようってな。」
佐藤はいまいち何のことを言っているのか分からないような表情をしていたが、健斗はその意味がちゃんと分かっていた。
バブル崩壊後、その反動で失業者の割合が急増していったその時代。竜平もその時代の波に巻き込まれた犠牲者だった。
おそらく相当悔しい思いをしたのだろう。そしてその失意の最中、たどり着いたのがこの町だった。
「本当はもっと早く移るつもりだったんだ。ただ、一つここで気がかりなことがあった。」
「気がかりなこと?」
「あぁ。」
竜平は目を開いて健斗を見つめた。その目は慈愛に満ちていて、まるで自分の息子を見つめるようだった。
「……お前のことだ。」
「俺……?」
「あぁ。この場所で唯一気がかりだったのが、お前だった。二年半前、あのときのお前をあのまま見放しておくわけにはいかなかった。」
健斗は言葉が出ず、胸の中に何か熱い物が沸き起こるのを感じた。そう。だからこそあのとき竜平は健斗をこの場所へ誘ったのだ。自分の傍に置き、健斗がいつの日か心を取り戻すまで見守ろうと決意した。
「お前が本当の意味で前に進める日が来るとき、私自身も同じように前に進もうと。だけど……もう大丈夫だな。」
「店長……」
「お前はまたサッカーを始める決意が出来た。それは……過去を乗り越えることの出来た何よりの証だ。もう私の役割は終わった……それに……」
健斗は自分の瞳から涙が流れるのに気づいた。一粒一粒、健斗の目元から涙が流れる。だがそんなこと気にもせず、健斗は黙って竜平の言葉に耳を傾け穏やかな表情で語る竜平の顔を見つめた。
「それに、またお前が挫けそうなときになったら、頼れる人が周りにたくさんいる。麗奈ちゃんやここにいるマナちゃんもうそう。このまえ来た友達も……お前はもう独りじゃない。」
「店長……」
健斗は流れる涙を抑えきれなくなり、思わず下を俯いた。自分のことをここまで考えてくれているとは知らなかった。何も知らずに健斗はここで働くようになっていた。自分は気づかない内にたくさんの人に支えられていた。
隣で話を聞いている佐藤も薄ら涙を目に浮かべながら健斗を微笑みながら見つめていた。健斗はもうそれ以上言葉が出ず、ただ泣き続けた。
甘くてほろ苦いカフェラテの香りがした。健斗の大好きなカフェラテの香りだった。