第9話 新たなる決意 P.41
電車に揺られること、三十分。電車の窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。
こんな風に電車に乗るのは久しぶりのような気がする。いや、佐藤と健斗と共に買い物に出かけたときに乗ったが……そのときは気持ち的に何かが違った。
胸がざわつく。もしかすると、自分は緊張しているのかもしれないな。とヒロは窓の外を眺めながら小さく笑った。
あと数分もしたら隣町の駅に着く。そしたら、あいつらに会って話をしなければならない。
するとヒロはのんちゃんと話をしたときのことを静かに思い出していた。
「試合に出て欲しいんだ。」
のんちゃんからそう言われたとき、ヒロの中に芽生えたのはどうしようもない複雑な気持ちだった。
正直、のんちゃんがそう言ってくるのは分かっていた。だが、やはりいざとなるとこういう気持ちになってしまう。
ヒロは激しく動揺しているであろう健斗をチラリと見た。思った通り健斗の表情は酷く困惑していた。
三人とも口を開こうとはせず、お互いに見つめ合っていた。健斗は罪悪感に苛まれるように下を俯いた。
「……のんちゃんは、俺たちのこと憎んでないの?」
「えっ?」
健斗が静かにそう言うのを、のんちゃんはきょとんとして聞き返した。健斗は唇を噛みしめてもう一度のんちゃんに言った。
「俺は、俺たちは……神乃中サッカー部を崩壊させた張本人だ。そんな俺たちを……憎んでないのか?」
健斗の視線をのんちゃんはしっかりと受け止める。しばらく健斗とのんちゃんの視線が交錯して、ヒロはそれを黙って見ていた。
するとのんちゃんはふっと表情を緩めて、健斗から視線を逸らし別の方へと視線を向けた。
「分からない……憎んでるというか……でも怒ってないって言ったら嘘になると思う。」
「…………」
「…………」
「健斗たちは勝手だよ。自分だけ辛い目をしてるって思い込んでさ、僕たちのことなんてどうでもよかった。僕たちがその後、どうなったって関係ない。健斗たちはそう思ってるって考えてた。」
そのとおりだ。
まさにそれが健斗とヒロが背負った責任の核心部分だった。自分だけ辛い思いから抜け出そうとしている。残された者のことなんて考えずに、自分の都合だけ考えて辞めて行った。
そう思われるのも当然だと思ってたし、やっぱりそうやって思われていたということを知ると、やっぱり胸が痛んだ。
「……でもね、やっぱりダメなんだ。」
「ダメ?」
「うん。少なくとも僕はだけど……健斗たちを嫌いになることなんて出来なかったよ……」
のんちゃんは照れくさそうにそう呟いた。健斗とヒロはお互い黙って、のんちゃんの言葉を聞き入っていた。
「そう……僕の中で、健斗たちを嫌おうとするよりも……もう一度健斗たちとどんな形でもいいから、サッカーをやりたい。ううん、やって欲しいっていう気持ちが強かった。だから本当は高校に入ってすぐに二人を誘おうとしたんだ。でも……出来なかった。」
ヒロはハンド部に入り、健斗はバイトを始めていると聞いたときに気持ちが踏み出せなかったとのんちゃんは言った。もう二人は自分の知らないところで違う道を歩もうとしている。それを自分が引き戻そうとするなんて出来ない。
のんちゃんはそう呟くように言った。
「でもヒロがハンド部を辞めたって聞いて、いけないことかもしれないけど……僕は嬉しかった。もしかしたらヒロだけでも、サッカー部に戻ってきてくれるかもしれないって。」
「のんちゃん……」
「だから……今お願いしているのは、神乃高サッカー部のこともあるんだけど……でもそれ以上に、もう一度健斗たちとサッカーをやりたい。やって欲しいんだ。それが僕の、本当のお願いごとで――」
のんちゃんはそう言ってはっと我に返るように苦虫を噛み潰した表情になった。
「――ってごめん。こんなこと言っても、都合の良いようにしか聞こえいよね。今更、何言ってるんだろう……ごめんね。」
のんちゃんはそう呟くように言った。謝ってもらう必要なんてなかった。ただ嬉しかった。のんちゃんがそのように思っていてくれたことに、喜びを感じた。罪悪感が消えたわけではなかったけど、心が救われた気持ちになった。
のんちゃんの健斗とヒロに対する気持ちがしっかりと伝わった。
それを踏まえて健斗はどう決断するのだろうか。ヒロはのんちゃんから視線を逸らし再び健斗を見た。健斗はじっとのんちゃんを見つめたまま動かない。
微かに目が揺らいでいるのを、ヒロは見逃さなかった。
「……ごめん。」
健斗が呟くように口を開いた。その言葉にのんちゃんもはっと顔を上げる。健斗は下を俯き、唇を噛み締めていた。
「のんちゃんの気持ちはよく分かった。すげー嬉しいし……力になってあげたい。でも……」
健斗は迷いながらもゆっくりと顔を上げた。
「でも……ごめん。俺、昔のことを有耶無耶にしたままサッカーをまた始めることは出来ない。だから……」
「そっか。」
のんちゃんはふっと表情を緩めて健斗の言いたいことを理解したみたいに小さく頷いた。
「そうだよね。健斗はそういう奴だもん。それぐらいの覚悟を持って、サッカーを辞めたんだ。……僕の方こそ、ごめんね。」
健斗は何も言わなかった。ヒロは健斗から視線を外し、今度はのんちゃんの方を見る。のんちゃんは小さく笑っていたが、その目は最後の希望が途絶えてしまったかのように光を失っていた。
「健斗たちに頼らないで、何とかしてみるよ。本当にごめん……変なこと頼もうとしちゃって。」
「……のんちゃん。」
「ごめん……僕、もう行くね。それじゃ――」
のんちゃんは踵を返して健斗とヒロに背を向けると、素早い速度で健斗たちの元から離れて教室を後にした。
健斗とヒロはしばらくその後ろ姿が見えなくなるまで、じっと見つめていた。そしてヒロは健斗を見ると、健斗は寂しそうな表情を浮かべていた。
それは健斗が神乃中サッカー部を辞める際に見せていた表情とまったく同じものだった。
「……帰ろう。」
健斗は鞄を持ってヒロにそう呟くようにそう言った。ヒロの先を歩いて行く。ヒロは健斗から一歩離れて後ろを歩いて行った。教室を出て、廊下を歩いているところでヒロが健斗に言った。
「……これでよかったのか?」
ヒロが健斗の背中に向けてそう言った。すると健斗は足を止めて、ヒロの方を向くことなく佇んだ。ヒロもそれを見て足を止めて、健斗の後ろ姿を見つめる。
「本当に……黙ってこのまま見捨てるつもりか?」
「誰もそんなこと言ってないだろ。」
「じゃあどうすんだよ。あんな中途半端なこと言って……やらないならやらないって、何ではっきり言わなかったんだよ。」
そう。ヒロには健斗の思惑は通用しなかった。健斗は一度も「やらない」とは言わず、「ごめん。」そして「今は」と口にした。そんな中途半端な言い方、健斗らしくないとヒロは思っていた。
しかしのんちゃんはそれを拒否とみなした。当然と言えば当然だが……健斗の言い方にはどこか迷いがあった。
健斗はヒロの言葉を受けゆっくりと振り返る。その表情はやはり迷いを感じていた。
「……分からない。確かにあのまま受け入れるのもよかったかもしれないけど……でも、まだ何も終わってない。」
「…………」
「それに、のんちゃんも言ってた。のんちゃん以外のみんなはもう諦めてるって。それなのに、俺らがでしゃばって……何か意味あんのかよ。」
健斗はそう言うとまた背中を向けてゆっくりと歩き出した。
「周りとかじゃなくって……お前自身はどうなんだよっ!」
どんどん遠ざかろうとする健斗に向けて、ヒロはつい荒い口調でそう言った。
「周りとか今は関係ない。お前自身、このままサッカー部が潰れていいのかって聞いてんだよっ!」
「いいわけないだろっ!」
健斗は振り返ってヒロにそう叫んだ。そして完全にヒロと向き合い、悔しそうに唇を噛み締めた。
「いいわけないだろ……そんなの……」
「……………」
「なんでまた……こうなるんだ。俺は……俺はまた……のんちゃんの邪魔をしちまってる。もう二度とそうならないようにしてたのに……何で俺……」
健斗は以前と同じように後悔の波に襲われていた。ヒロはその様子をじっと見つめる。その姿は以前と同じようなものだった。
「……そうやって同じこと繰り返すつもりか?」
「え?」
「南ちゃんも言ってたろ。そうやって後悔して、時間を無駄にする。それよりもやれることの方がいっぱいあるだろ?……もしこのまま、何もしないで終わるんだったらそれこそ、お前は同じことを繰り返すことになるんだぞ。」
ヒロが一番恐れていること。それは健斗が今のまま後悔の波に押し潰されて、また同じことを繰り返すことだった。それこそ、一番避けなければならないことだ。
健斗は黙ってヒロの言うことを聞いていた。また健斗の目が微かに揺れるのが分かった。
そしてその晩のことだった。健斗から電車がかかってきた。
どうやら……ようやく決意が固まったらしい。
「麗奈も、お前と同じようなことを言ったよ。」
「……そっか。」
「でさ、俺……やれるとこまでやろうと思うんだ。今までのこと、全部清算するつもりで。どこまでやれるか分からないけどさ。」
「……分かった。じゃあさ俺、明日佐久と琢磨に会ってくる。」
電話の奥で健斗の驚く声が聞こえた。
「テストはどうすんの?」
「んなもんどうだっていいよ。後で何とかなるだろ。言っておくけど、時間ないんだからな。すぐに行動に移せることはやるつもりで行かないと。」
「……そっか。そうだな。分かった。」
そう言って健斗は電話を切った。ヒロは切れた電話を置いてふぅっと息を吐いた。ようやくだ。ようやく前へと進むことが出来る。
そんな気がした。
電車は目的の駅に到着した。ヒロはゆっくりと電車から降りて、ため息をはいた。やっぱり心なしか緊張しているようだ。ふとヒロの横を老人が通り過ぎるのに気がついて、ヒロはゆっくりと改札の方へと歩き出した。