第9話 新たなる決意 P.39
階段を降りて、革靴に履き替えると健斗は小さく息を吐いて昇降口を出た。これから行くところはすでに決まっていた。
それはまず誰よりも先に、そして一番話したい人のところだった。ゆっくりとした足取りを次第に止めて、健斗は空を見上げた。
最近天気が良い日が続いている。太陽が上から健斗を見下ろしていた。健斗は眩しそうに手を翳した。
――何て言うんだろう。
健斗はそれを話したときの反応が気になっていた。失意に落ちていた自分に居場所を与えてくれた人。心から尊敬する人で、健斗にとって第二の父親のような存在。
いつも健斗の力になってくれて、自分の苦労を顧みず、健斗を励ましてくれる人だった。最近テストが続いていたため、全然行ってなかったが……
あの人――竜平さんには何よりもまず伝えたい。健斗の今の気持ちを……
健斗は踵を返して自転車置き場へと足を運んだ。そして自分の自転車を見つけると、それに跨りゆっくりとRyuへと向かった。
商店街を通り、あっという間に目的地に到達した。健斗は自転車から降りて、その誇らしい看板を見上げた。
約二年半……健斗はここで働くようになった。中学のときは感覚的にはお手伝いだった。竜平から指示されたコーヒーとかを運ぶだけ……あとは適当に店の掃除か何か。
最初は戸惑ったのを覚えている。今までサッカーしかやってこなかった自分が、何でこんなことをしてるんだろうと思った。ただこき使われているようにしか思えなくて、ある日馬鹿馬鹿しくなり辞めようと考えたときもあった。
けどいつからだろう……健斗はいつの間にか、本当に気がつかないうちにここでの仕事にやりがいを感じるようになっていた。
この店には色々な人が来た。この町の人、そうではない遠くから来た人……色々な人と出会い、触れ合い、そして自分の世界を広げることが出来る。そんな不思議な場所のように感じた。
この店に色々な悩みを抱えてくる人が来る。
家族のこと、友人のこと、恋人のこと、自分のこと、将来のこと。本当に色々な悩みを抱えた人がこの店にやってきて、健斗はそこで話を聞いたりした。
健斗がその中でも特に鮮烈に覚えているのは、まだ中三でようやく仕事に慣れ始めたころだった。
その日は例年通りに寒く、そろそろ店が閉まる時間帯で健斗は店の窓から外を眺めていた。
「外……寒そうだな。」
「もうすっかり冬だからな。」
カウンターで食器を片付けている竜平が健斗の言葉に便乗してそう言った。健斗は両手で箒を持って小さくため息をついた。
「世間はもうすぐクリスマス……かぁ。」
「何親父臭いことを言ってるんだ。」
竜平が肩で笑って健斗にそう言った。健斗は照れくさそうにつられて笑って見せる。
「いや、なんとなくそう呟いてみたかっただけです。」
「可笑しなやつだな。というか、お前今年はクリスマスとか言ってられないだろ?」
竜平が健斗にそう皮肉めいた感じで言ってくる。しかし健斗はそんな皮肉を小さく笑って返した。
「別にそんなことないですよ。俺、どうせ行くとしたら神乃高だし、あそこなら今のままでも充分合格するんで。」
「ふ~ん。そっか……じゃあクリスマスは彼女と過ごせばいいじゃないか。」
「店長。俺、彼女なんていません。」
「じゃあ好きな女の子といっしょに過ごすなんてのはどうだ?」
竜平にそんなことを言われて、健斗はドキッと胸を高鳴らせた。確かに健斗には彼女はいないが、思いを寄せている子はいる。
健斗は瞬時に早川の顔を思い浮かべた。早川といっしょにクリスマス過ごせたら……どんなに幸せなことなんだろうか。
早川といっしょにクリスマスツリーを見に行ったり、手をつないで街を歩いたり……そういうことをしてみたい。
なんて妄想にふけってみても意味がなかった。第一、早川とほとんど会話をしたことがない今の状況ではそんなこと万が一にもないだろう。
むなしくなるだけだった。
「好きな子もいません。俺は今年も独り寂しくテレビを見て過ごすんです。」
「若いもんが情けないなぁ……暇だったら店手伝いに来てくれよ。」
「それも嫌です。っていうか店長、クリスマスは家族と過ごすんでしょ?」
「まぁな。夜に家族と、食事に行くつもり。」
「へぇ。店長が?めっずらしい。」
「たまには家族サービスをしてあげないと子供が拗ねるんだよ。」
「お子さん今いくつなんでしたっけ?」
「末っ子は今年で四歳だな。一番上はもう高校生だけど。」
「じゃあ一番甘えたい年頃ですね。」
「かもな。最近は忙しさに負けて相手してやれてないからなぁ……パパの仕事もちゃんとやらないとなぁ。お前も気をつけろよ?パパになったら色々と大変だから。」
「俺にはまだ分かんないです。」
健斗は首を傾げて小さく笑った。竜平も髭を揺らして「そりゃそうか。」と言って笑った。そんなことを話して、健斗は再び掃除に取りかかろうとした。
「……クリスマスって誰もが幸せだと思うか?」
「え?」
竜平が食器を片して、次の仕事に取りかかろうとしながら健斗にそう言ってきた。健斗は思わず手を止めて竜平の方を見る。白髪が混じった長い髪を束ねている後ろ頭が見えた。
「世間ではクリスマスの日は幸せだと誰もが思ってる。でもそうじゃない人も中にはいるんだ。」
「はぁ……」
健斗は竜平の言っていることがいまいち理解することが出来なかった。竜平はたまに難しい話をする。倫理的というか道徳的というか、とにかく奥が深い話をたまにする。
でも健斗はそんな話が嫌いじゃなかった。逆に聞いてみたいという気持ちが強かった。
「そんな人のために、自分は何が出来るんだろう?そう考えて、ここを開いたっていうのもある。」
「へぇ……そういえば、俺……店長の昔の話全然知らないです。」
健斗が何気なくそう言ってみた。健斗が幼いときにはもうすでにこの店は存在した。一体いつからあるのかなんて知らない。気がついたら、ここは健斗のお馴染みの場所となっていた。
母さんによく連れて来られ、竜平を交えて色々な話をしたのを覚えている。初めて食べたナポリタンが本当に美味しくって、それから健斗はこの場所に来ると決まってナポリタン、そしてホットミルクを頼むようになっていた。
少し成長するとホットミルクがカフェラテに変わったりと、健斗が頼む飲み物のバリエーションも増えた。
そんなだから健斗は少し竜平の過去が気になっていた。一体どうしてこの店を始めようと思ったのだろうか。
竜平は「うん?」と髭を撫でながら小さく笑った。
「そうだな。健斗が小さいときには、もうこの店はあったか。」
「はい。だからちょっと気になります。何でこの店を始めたんですか?」
健斗がそう聞くと、竜平はふむ……と言って、仕事の手を止めた。
「そうだな。この店を始めたのは……今から、二十年以上前くらいかなぁ?」
「そんなに昔っ?」
健斗は意外な歴史の深さに驚いたような顔をした。健斗は辺りを見渡してみる。二十年の古さなんて見せつけない小綺麗な店だった。
「あぁ、そうさ。私がまだ三十代のときだったな。勤めてた会社でクビを切られてな。」
「えっ?店長……サラリーマンだったんだ……」
健斗が唖然としてそう呟くと、竜平は可笑しそうに声を立てて笑った。
「最初の頃はそうだったさ。市内の証券会社に勤めてた。……ちょうどバブルが崩壊して、社会全体が不景気になった時期でさ、失業者の数もどんどん増えていった。私はそのうちの一人だった。」
竜平は昔を懐かしむようにしてそう言った。健斗はそれを黙って聞くことにした。その頃の時期のことなんて健斗には全然分からなかったけど、社会全体が歪み始めたんだなということだけ分かった。
「お金はない。仕事もない。そのときは毎日がつらかった。途方に暮れて、一体この先何をどうすればいいのか分からず……町をさ迷った。」
今の竜平からは想像もつかない話だ。いつも笑顔で穏やかな竜平が、希望を持てず途方に暮れている姿なんて……健斗は見たことがない。
「そんなある日……行く当てもなく流れついたのが……この町だった。」
「神乃崎に?」
「あぁ。何でこの町に着いたのか何て分からない。ただぼ~っとしてて、本当に気がついたらこの町にいたんだ。巡り合わせって不思議なものだよな。」
竜平は可笑しそうに笑った。健斗もつられて笑って見せた。
「そしてこの商店街に来た。すごかったなぁ……うん。第一印象がそれだった。自分よりもずっと年上の人たちが、活気に溢れている。そう思った。」
その気持ちは健斗にも分からないものではなかった。この商店街は不思議なもので、みんなが活気に満ちている。八百屋のおばちゃんや、肉屋のおっちゃん、魚屋のおっちゃんやおばちゃんもみんな健斗の顔馴染みである。
いつまで経っても元気で一生懸命今を生きている。
健斗もその影響を少なからず受けていた。現に商店街の住人の顔を見ると何だか妙に安心する。
「うん……懐かしいんだよ。この感じの商店街は。」
「懐かしい?」
「あぁ。私が子供の頃は、こういう商店街はよくあったもんだ。ここのようにみんなが活気に満ち溢れていて、地域全体がまとまっている。今では滅法少なくなってしまったが……」
その話は以前も聞いたことがあった。年を追う事に日本列島は都市化が進み、昔のような雰囲気とは大きく異なってしまったという。
列島改造計画を経て、開拓されていなかった地域も開拓され、都市化が進み、結果的にそれが好景気を生み出したのも事実だが……果たしてそれが良いことだったのだろうか?と、竜平が言ったのを健斗は覚えていた。
現にその好景気の反動が今を生み出している。なのに人々を物を消費することに限界を決めず、それどころかその限界をさらに超えるために生産性を高めようと努力する。結果的に今日本は不景気のスパイラルにはまっている。
健斗にはよく分からない話だった。経済の仕組みをよく知らないというのもあるが、それよりもこの町を出たことがないから、竜平が言うような感覚が見えて来ないのだった。
「この町の懐かしさが、私の初心を思い出させてくれたんだ。」
「初心……ですか?」
「あぁ。学生の頃、自分の喫茶店を開くことを夢見ていた。それをふと思い出したんだ。」
竜平の年代の青春時代の頃は今とはかなり違う部分があるらしい。彼らにとって今で言うデートスポットは、ここのような喫茶店だったと竜平は言う。
「そんな夢を忘れて市内の証券会社に勤めていた。……いや、そうせざるを得なかったんだな。しかしその夢を、この町は思い出させてくれたんだ。」
「だから……この町に喫茶店を開いたんですね。この店を……」
健斗がそう言うと、竜平は笑って頷いて見せた。
「ここは良い。色んな人がここを訪れ、多くのことを教えてくれる。自分がちっぽけな存在だっていうことを教えてくれるんだな。」
「……本当ですね。」
健斗は箒を片手にふっと表情を緩めた。
「……ここで働く前俺、翔のこととかですげー落ち込んでました。自分だけどうしてこんな辛い目に合わなきゃいけないんだろう。何か悪いことをしたのかって……でも」
健斗はそう呟いてゆっくりと目を閉じた。その刹那に思い出すのは、翔の事故現場……それとここを訪れた人々の笑顔だった。
「ここには、俺以上に、それ以上に思い悩んだ人が来て、それが分かって……俺、何か悲劇に酔って自分を可哀想な人間に陥れようとしてただけなんだなってそう思えるようになりました。」
「……そうか。」
「はい。まだやっぱり辛いです。あいつが死んだことは俺のせい……俺のせいだって今でも思ってます。でも……それを受け入れて今生きようとしてるのは、ここで働いてるからなんです。こんな俺でも……誰かのために何かしてやれる。逆に俺自身も何かしてもらってるし……それに――」
健斗はそう言って、はっと我に返るように竜平の方を見た。
「あ、すみません。俺、何か調子こいて変なこと言っちゃって……」
「何言ってんだ。素晴らしいことだよ。」
竜平は目を閉じて口元で笑みを浮かべながら、カップの水気を丁寧にタオルで拭き取っていた。
「……良い顔になった。最初のときと比べてな。」
「……そうですか?」
「あぁ。本当に……」
竜平はそれ以上何も言わなかった。健斗もあえてその先を聞こうとしない。何を言いたいのか、健斗も分かっていたからだ。
健斗はまた窓の外を眺めた。そう……ここで健斗は力をもらっている。色々な罪を背負う覚悟をした。
翔のこと、神乃中サッカー部のこと……
本当にこれでいいのだろうか?迷うことも多々あったが、迷っても仕方ないんだって思う。戦わなきゃいけないんだ。過去と、そしてこの先訪れる未来と、今と……
健斗にとってここは心の寄りどころ……疲れた心を苦いカフェラテで癒やしてあげる場所なのだ。
健斗はそんなことを思い出していた。本当にこの場所があったから今まで戦ってこれたし、今胸に抱いている決心をすることが出来たのだ。
この場所に……竜平には感謝しきれないくらいの大恩がある。
健斗はそんなこと考えながらゆっくりと店の扉を開けた。客が入って来たことが分かるように、ドアに取り付けられている小さな鐘が鳴った。
カウンターに見慣れた姿があった。鼻の下に生えている白い髭、柔らかなカフェラテみたいな雰囲気で優しい笑顔……竜平はいつものように健斗が来ると笑顔で迎えてくれた。
「おう。」
「どうも。……あれ?」
健斗はカウンター席に誰かが座っているのに気がついた。しかもその後ろ姿は健斗もよく知っているものだった。
長い髪を後ろに束ねたポニーテールで、小さい体だがその中には揺るがない負けん気が備わっている。
しかし振り返った表情はその負けん気がどこかに消えていた。
佐藤が健斗の方を見ると一瞬だけ驚いた表情を見せたがすぐに表情を変え、カウンターの方に向き直った。
「佐藤?」
健斗は佐藤に呼びかけるが、佐藤は返事をしなかった。どうして佐藤がいるのか理由が分からなかった。
竜平と目が合い、目配せをしてくるのを健斗はじっと見つめた。