第9話 新たなる決意 P.37
時計の針の時間を刻む音が響いていた。麗奈は居間の茶ぶ台の前に座って、暖かいお茶を飲みながら小さくため息を吐いた。
もう待ち続けて何時間が経過したのか分からない。まだ夕方付近だが、ものすごく長い時間のように感じた。
今日一日少し肌寒かった。健斗の言う通り、これからどんどん寒くなるのだろう。あそこの縁側を使えるのも昨日が最後だったのかもしれない。
――早く帰って来ないかなぁ……
麗奈は健斗が帰ってくるのをただ待っていた。一体どんな話をしているのだろう。のんちゃんが健斗たちをわざわざ訪ねるということはそれなりの理由があるはずだった。
三人の間に走った亀裂。それは未だに修繕されてはいない。
少し不安だった。何かとんでもないことが起きそう……そんな予感をさせていた。健斗とヒロは薄々そのことに気づいたのかもしれない。
麗奈はもう一度チラッと時計を見た。時刻は四時を過ぎていた。健斗は依然として帰ってくる気配がない。ここにいれば、扉が開く音ですぐに気づくからだ。
「……早く帰ってこい……バカ……」
そう呟いて、麗奈は体中の力を抜くようにして茶ぶ台の上に伏せた。何だか少し眠い。意識が徐々に薄れていくのを感じた……
「――な……」
頭がぼ~っとしている。重たい瞼をゆっくりと開き、それと同時に襲ってくる眠気に対抗しようとする。
――あれ……いつの間に寝てたのかな……
自分が眠っていたことを自覚し、麗奈は少し顔を上げた。
「麗奈。」
はっきりと声が聞こえた。そばで自分を揺すっている。麗奈はゆっくりと顔を上げると、すぐ傍に制服姿のままの健斗がいた。呆れたような顔を浮かべて、麗奈を見つめていた。
「こんなとこで寝てると風邪引くぞ。」
「え……あっ!」
麗奈に今までの記憶がフィードバックした。そうだ。自分は健斗が帰ってくるのを待ってて、いつの間にか寝てしまったのだ。
麗奈ははっきりとした意識で時計を見た。驚いたことに、ついさっきまで四の数字を指していたはずなのに、今は六時を指していた。
二時間近くも寝ていたなんて……自覚がなかった。だが、無理な体勢で長時間眠っていた事実は、体中の痛みが示していた。
健斗は麗奈が起きるのを確認するとため息を吐いて、キッチンの方に向かった。そこで何やらガサゴソしている。と、思っているとまた居間の方に帰ってきて手には麦茶が入ったコップを持っていた。
「いつ帰ってきたの?」
何気なく聞くと、健斗は片手に持った麦茶を飲みながら言った。
「たった今。」
「……長かったね。」
「まぁな。」
思ったよりも飄々とした態度だった。何ていうか……麗奈が予想していたのはもっと思い詰めているような健斗の姿だった。もしかすると、麗奈が勝手に想像してただけでそんな大した話じゃなかったのかもしれない。
「……あ、今日母さん帰ってくるの遅いんだって。夕飯どうする?」
「え……何それ。作れってこと?」
「インスタントでもいいなら何も言わないけど?」
健斗はやれやれと言った感じで腰を落ち着かせた。本当にいつも通りだ。何だか心配していたのが馬鹿らしくなる。
「話……どうだったの?」
「話?」
「惚けないでよ。のんちゃんとの話のこと。」
別に内容まで深く聞こうとはしなかった。麗奈が聞いたところで何も出来ない。何も出来ないくせにでしゃばって、健斗を困らせるようなことはしたくない。
だが本当は全て知りたいという気持ちが一番だった。それを口にはしないけど、一体どんな話をしたのか……何か進展があったのか、そういう類の話を聞きたい。
健斗は黙って麦茶を啜っている。麗奈はただそれを見ているだけだった。
「……サッカー部がさ……廃部になるんだって。」
「えっ?」
突然の言い草に麗奈は唖然としてしまった。サッカー部が……廃部?
そんな話聞いたことがなかった。
「正確には、廃部になるかもしれないっていう話。」
「……ど、どうして?」
「……それを話すと長くなるからあれだけど……きっかけは松本事件だって。」
「えっ?」
麗奈はまた驚きの声を上げてしまった。健斗の口から再びその単語が出てくるとは思わなかったのである。
今でも鮮明に思い出すことが出来る。というより、ほんのついこの前の話でもある。
松本絢斗……彼が麗奈に近づいてきたことがきっかけでそれは起こった。
俺と付き合えよ。
自信満々の彼は下品な笑みで麗奈にそう言ってきた。麗奈はそれを言われたとき、吐き気と共に何かぐるぐるした思いが麗奈の胸の中で巻き起こった。
そんな麗奈を守るために健斗は松本と勝負をすることになった。健斗は麗奈のためというよりも、結衣や……何より自分のために戦うことを決心した。
そして……あの事件を経て、麗奈は健斗のことが好きだと自覚した。
「あれさ、やっぱり思ったよりも結構大事になってたみたい。まぁ……それが全部じゃないんだけどさ。きっかけはそうだって言える。」
「そんな……」
「実績もない。面倒事は起こす。そんな部活にお金を掛けられるほど余裕はないって……だから……」
麗奈は言葉が出なかった。それはあののんちゃんのことを思うとだった。
大好きなサッカーを高校でなら思う存分やれるはずだったのに。また現実という厳しい壁が彼の思いを邪魔する。そんな彼の今の状況を見ると……悲しかった。
「……また……俺のせいなんだよな。」
健斗が呟くようにそう言った。その言葉に麗奈はすぐに顔を上げた。健斗は苦笑いを浮かべて、下を俯いていた。
「俺のせいで……またのんちゃんの邪魔をしたんだ。俺は……」
「そんなことないよ。だって……そしたら私にも責任がある。」
健斗は麗奈の言葉に驚いたのかゆっくりと顔を上げた。
健斗のせいじゃない。あの松本事件は自分が起こしてしまったことなのだ。
「私が松本さんに……はっきりと断ってれば、あんな風にはならなかったもん。私が松本さんと会ったりしなきゃ……あんなことには……」
迫り来る後悔の波が麗奈を襲った。そうだ……どうしてあのときはっきり言えなかったのだろう。
あなたとは付き合えない。
麗奈がそう言えば良かったのじゃないだろうか?
中庭で松本と話をしていたとき、彼から受けた告白を麗奈がはっきりとそう言っていれば、松本もそう大胆な行動を取っていなかったかもしれない。
どうしてあのとき返事を躊躇ってしまったのだろう……麗奈はそう思うと胸が苦しくなった。
するとだった。暖かい手のひらが麗奈の頭を撫でた。顔を上げると健斗が優しい表情で麗奈に微笑んでいる。
「……ありがとう、麗奈。」
「え……」
「そうだよな。自分のせいだって後悔したって……結局埒があかない。今のお前を見てそう思った。」
「……健斗くん。」
健斗はさっきまでの苦悶の表情とは打って変わって穏やかな表情をしていた。
「お前が気に病むことじゃないよ。お前は何も悪くない。だから……そんな顔しないで。」
そう言ってくしゃっと頭を撫でてくる。最近、健斗はよく麗奈の頭を撫でてくれる。それは何よりも麗奈に対する優しさを示してくれていた。健斗の優しさが暖かい手のひらを通して伝わり、次第に麗奈に安堵感が宿り始めていた。
健斗はそっと手のひらを離して「なっ?」と言って笑った。麗奈はその表情を見て、少し頬を赤らめて「うん。」と言って小さく頷いた。
しばらく沈黙が続いた。時計の針が時間を刻む音がしばらくの間麗奈の耳に聞こえていた。
「……廃部はもう、決定なの?」
麗奈が恐る恐るそう聞いてみた。すると健斗はゆっくりと首を横に振った。
「いや、学校側の条件ではとりあえず次の練習試合に勝つこと。そうすれば廃部は考え直すらしい。」
「そう……なんだ。」
麗奈は微かに希望が見えたような気がした。まだどうしようもないわけではない。チャンスがゼロでない限り、諦めるのはまだ早い。
「……それで、健斗くんはどうするつもりなの?」
麗奈はまた恐る恐るそう尋ねてみた。健斗がそれを黙ってほっておくわけがないように感じたからだ。健斗はしばらく何も言わず、黙っていた。麗奈は健斗が次に言うことをしばらく待っていた。
「……のんちゃんが、俺とヒロに……力を貸して欲しいって。」
「えっ?」
「試合に出てくれって。今日、そう頼まれた。」
健斗とヒロが……
確かに二人が試合に出れば、次の試合に勝つ可能性は大きく上がるだろう。健斗とヒロが試合に出れば流れは大きく変わり、サッカー部の廃部を免れる。麗奈はそう確信した。
そう思うと自分も何だか救われるような気がした。
「じゃあ――」
「今は断ったけどな。」
健斗は麗奈に言葉を続けさせず端的にそう言った。しばらくしてからでないと健斗が何を言ったのか意味を理解出来ず、思わず息が止まってしまった。
「……断ったの?」
「うん。」
「どうして?どうして断ったのっ?」
つい口調が荒くなってしまうほど、健斗が出した答えは意外だった。昔のチームメイトが助けを欲しがっているのに、健斗はそれを見捨てるつもりなのだろうか。
健斗はチラッと麗奈を見て決まり悪そうに小さくため息をついた。
「……まだ迷ってんだ……」
健斗は呟くようにそう言った。
「実のところ、のんちゃん以外の人はもうほとんど諦めてるって。」
「そんな……」
「俺も驚いた。でも仕方ないのかもしれないなって思う。そんな中に、こっちの勝手の都合で罪滅ぼしみたいに試合に出て、でしゃばって、サッカー部を存続させる。それに何か意味があるのかなって思った。ただの……責任逃れなんじゃないかって。」
健斗の言いたいことは麗奈にもなんとなくだが分かる。確かにその通りだ。
健斗が今衝動的に試合に出ると決心するとする。しかし、その決心の源はどこにあるのだろう。それはやはり、どんなに否定をしても……根底には過去を清算したい。友達に対して罪滅ぼしをしたい。その気持ちが必然的に強くなる。
だが……今の人はどうなのだろう。別に廃部になってもいいと思っている人たちにとっては良い迷惑になるのではないだろうか。
そんな疑心が生まれるのも当然だった。周りから見れば正しいことのように思えるかもしれないが、そう思わず余計なことをしてくれたと思う人も中にはいるかもしれない。
だから分からなくなる。
「それにさ……」
「ん?」
健斗は言葉を詰まらせて戸惑っていた。何か言いにくそうなことを口にしようとしている。
「それに……俺がその場しのぎみたいなことをしても、その後に同じなことが起こる。逆にそれも責任を逃れてるだけだ。もし俺たちが力を貸すなら、俺たちは必然的にサッカー部に入らなきゃいけないことになる。」
「…………」
「だけど俺には……まだその決心が……ないんだ。」
健斗は悔しそうに呟いた。そうか……それもあった。
健斗にはまだ、過去のこともやり残していることがたくさんある。
やり残してることがたくさんあるのに、ここで了承なんかしたら、結局一番無責任な形で終わってしまう。
だから健斗は……断らなければならなかったのだ。
麗奈は何も言えなかった。やっぱり聞くんじゃなかったと後悔した。
結局聞いても自分にはどうすることも出来ない。こんな風に健斗を悩ませるだけだった。
こんなんなら……いつもみたいに「お帰り。遅かったね。ご飯作っておくから、先お風呂に入ってきなよ。」と、笑ってそう言えばよかった。
後先を何も考えないのが自分の悪い癖だ……本当に嫌になる。
またしばらく沈黙が続いた。お互い口を開くことがなかった。
が、その沈黙を破ったのは健斗の方だった。
「……お前は、どうすればいいと思う?」
麗奈はその言葉に耳を疑った。そしてすぐに顔を上げると健斗は小さく笑って麗奈にそう言った。
「俺は……どうすればいいと思う?」
「……どうすればって?」
「何でもいいよ。お前が思った通りに話してくれれば。お前の考えが……聞きたい。」
健斗がこんな風に意見を聞いてくるなんて初めてのことだった。いつも健斗は他人に意見なんか聞かず、自分で決断を下す。
自分で判断し自分の決断に揺るぎない自信を抱く。
それなのに今回は麗奈に意見を求めてきた。それくらい思い悩んでいるのだろうか?
それとも……
麗奈は健斗の目を見つめた。何だか違和感があった。そこには何か、何か違った思いが秘めている。
麗奈は少しの間が考えた。私が思うこと……それは……
「……前も話したじゃん。健斗くんと縁側で。」
「うん?」
「健斗くんがサッカーをやりたいって話してくれた日……そこで私、後悔しない選択をして欲しいって言ったの覚えてる?」
健斗は頷かなかったが、真っ直ぐと自分を見つめてくる。ちゃんと覚えてる。健斗は目でそう言っていた。麗奈は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「今回も……やっぱり同じかな。のんちゃんの頼みを受け入れるか受け入れないかは、健斗くんが決めることだもん。どっちも正しいし、どっちも悪くない。ただ……そのあと、やっぱりこうしておけば良かったって後悔しないで欲しい。」
麗奈は一呼吸おいて、また顔を上げた。健斗は真っ直ぐ麗奈を見つめている。
「だって、もし後悔するような選択をしちゃったら……それこそ、同じことを繰り返すことになる。今の健斗くんがノブくんやリュウタくんたちに対して思っているように……だから……」
気がつくと、麗奈は頬に伝う何かを感じた。そっと触れてみると、自分はいつの間にか涙を流していた。
それに気がつくと余計に溢れ出てきて、止まらなかった。
「だから……ごめん……上手く言えない……けど……私……私……もう健斗くんが……後悔するとこを見たくない……思い悩んで欲しくない……悲しそうな健斗くんの……顔を……見たくないの……だから……」
結局それが一番強い思いだった。健斗にもうこれ以上苦しんで欲しくなかった。
もうこれ以上思い悩んで欲しくない。健斗はもう、もう充分過ぎるほど苦しんできた。色々な思いに振り回され、それを一人で戦ってきた。
翔のこと、神乃中サッカー部のこと、松本事件のこと、ノブやリュウタや他の人たちのこと……
その度に苦しくって辛くって、でも何も言わず健斗は頑張ってきた。もういい……
頑張らないで欲しい。そのうねり狂う思いから解放してやりたい。ずっと笑って、笑って過ごして欲しい。
なのに健斗は戦うことを止めない。そして時折悲しそうな表情を浮かべる。それを誰よりも一番近くで見てきた。
それが麗奈には自分のことのように辛かった。
「……もう……もう……頑張らないでよ……もういいから……だから……」
涙が止まらない。言葉が途切れ途切れで上手く伝わってるか分からない。必死に涙を止めてちゃんと伝えようとした。
するとだった……暖かな温もりが今度は麗奈の体全体を包んだ。健斗の匂いがした。
顔を上げると、健斗の胸がすぐ目の前にあった。そこで初めて自分の体は今、健斗に委ねられていることが分かった。
健斗は麗奈の背中に腕を回して、ギュッと優しく抱きしめてくれた。微かに震えている。
「……健斗くん?」
「……少しだけ……」
「え?」
「少しだけ……このままでいさせて……」
健斗の顔は見えなかったが、弱々しい声で麗奈にそう言った。健斗はさらに力を込めて麗奈を抱きしめる。胸がドキドキした。今まで健斗に抱きついたことはあったけど、健斗から抱きしめてもらったことは一度もなかった。
麗奈はゆっくりと健斗の胸に顔をうずめてそっと瞼を閉じた。心臓の音が聞こえる。トクン、トクンと一定のリズムを刻んでいる。
生きているんだなぁっとそう思った。
「……お前、反則……」
「え?」
健斗は抱きしめたまま麗奈にそう言った。
「そんなこと言われたの初めてだ。俺……どうすればいいか分かんねーよ。」
顔が見えないからよく分からないが……
もしかして、照れてる?
麗奈はそう思うと、何だか健斗が可愛いく思えてクスッと笑った。
「……ありがとう……」
健斗は呟くようにそう言った。その言葉が麗奈の心に深く染み渡っていく。とてつもない快さと安堵感と嬉しさが麗奈を包んでいく。
「……うん。」
麗奈はクスッと笑ってそう言うと、また健斗の胸に顔を埋めた。
健斗が傍にいる。何だかいつも近くにいたはずなのに、このとき初めて心の底からそう思った。
いつまでもこうしてたいと、そう思った。
それから、健斗はゆっくりと立ち上がって麗奈を見下ろした。麗奈はその表情に少しドキッとした。
微かに健斗の目下が濡れているの見逃さなかった。
「俺……やっと決められた。」
「…………」
「ようやく……ようやく前に進めそうな気がする。」
「……うん。」
健斗のその表情は今までで一番穏やかな表情だった。さっきまで抱いていた迷いがなくなっていた。健斗の中で一つの決意が固まったようだった。
健斗はゆっくりと背伸びをすると、ふぅっと息を吐いた。
「うしっ!俺着替えてくるわ。あ、で、どうする?夕飯。」
話が突然代わり、健斗はそう麗奈に聞いてきた。麗奈はチラッと時計を見るとすでに7時過ぎだった。
確かにそろそろお腹が空いてきた。
「だからぁっ。ようは作れってことなんでしょ?」
「ん~……まぁ、そうなるかな?何なら俺が作ろっか?この前店長に新しいレシピ教えてもらったんだ。」
それを聞いて麗奈は背筋が凍るような気がした。
「……いい。もう健斗くんが作った炭なんて食べたくないもん。」
「炭じゃねぇよっ!ナボリタンだっつーの。」
「ハイハイ。とにかく私が作るから。早く着替えてきなよ。」
「ハイハイ。」
「ハイは一回!」
「ハァイ……ってお前もだろっ!」
麗奈はクスッと笑うと、健斗も可笑しそうに笑いながら「ったく。」と呟いて居間を後にした。
居間で一人になった麗奈は疲れを吹き飛ばすように深くため息をついた。
健斗はどんな決心をしたのだろう。
気になるけど……今は聞かないでおこう。
それよりも麗奈の胸の高鳴りはまだ納まらなかった。
健斗が自分から抱きしめてくるなんて……
麗奈はギュッと手を握りしめて、恥ずかしそうにはにかんで笑った。
そして夕飯を作るために、立ち上がってキッチンの方へ歩き出した。