第9話 新たなる決意 P.35
騒ぎが落ち着いた頃に麗奈が健斗のところに駆け寄ってきた。
「健斗くんっ!さっきの話、本当?」
麗奈は少し興奮気味で健斗にそう訊いてくる。どちらかというと、他の人と同様面白がっているみたいだ。健斗はヒロにもらった坊主専門カタログに目を通しながら小さく頷いた。
「健斗くんが坊主かぁ~……何だかなぁ?」
麗奈はしっくり来ないと言うように首を傾げる。そんな風に言ってくる麗奈を見て健斗はむっとした表情になった。
「何がだよ?」
「いや……健斗くんが坊主にするんでしょ?何だかなぁ……坊主って林くんみたいな人なら似合うだろうけどさぁ、健斗くんは絶対似合わないよね?まったく本当にバカなんだから。」
麗奈がそう言うので健斗は寛太をチラリと見た。寛太は麗奈にそう言われたのが嬉しかったのか「ふふん。」と得意気な顔をしていた。妙にむかつくのは何故だろう。
「うるせぇ~!まだやってみないと分かんないだろっ?どうせなら、めちゃくちゃカッケー坊主頭になってやるっ!」
と言って健斗はまたカタログに目を通し始めた。その横でヒロはずっと高らかに笑っている。本当に……どうしてこんなことになったのだろうか……
「……健斗くん、大変だね。」
健斗を哀れむように言ってきたのは早川だった。鞄を持って、健斗たちに近づいてきたのだ。
「でも……坊主頭も素敵だと思うよ?」
「早川だけが味方だよ……」
健斗は泣きそうな声でそう呟いた。そんな健斗を見て、早川は困ったように苦笑した。健斗はカタログを見ていると、ふとここに佐藤がいないことに気がついた。
「あれ、佐藤は?」
「マナならもう帰っちゃったよ?何かあんまりテストの出来が良くないから焦ってるみたい。」
早川が小さく笑ってそう言った。佐藤の気持ちがわかる。昨日の健斗の数学状態である。すぐに家に帰って残りの教科で挽回しようと思うのだ。
健斗は恐らくヒロには負けてるだろうけど英語の点数はかなり良いはずだと思った。だから数学のカバーを英語で補っているから、佐藤ほど焦る必要はない。
早川はきっと今回も成績が良いんだろうなぁ……
「……あれ?そういやお前佐藤と仲直りしたの?」
健斗がカタログから目を離してヒロにそう尋ねた。その瞬時、ヒロの高らかな笑い声が止まり、それは引きつった笑顔へと変わる。
聞いてはいけない質問だったらしい。
だが健斗は心の底から呆れていた。一体いつまで喧嘩をしているのだろう?自分と麗奈ですら、こんなに長続きはしない。
Ryuでヒロと佐藤が喧嘩をしてからすでに二週間以上は経過していた。
「いつまで喧嘩してんだよっ?」
「うるせーっ!!本当にどうすればいいのか分かんねーんだよっ!!完全にタイミングを見失った。」
ヒロは開き直るようにしてそう叫んだ。するとそれに興味を持った寛太が「何々?」と言いながら健斗たちに距離を詰める。
「え?ヒロ、佐藤と喧嘩中?」
「何でお前嬉しそうなんだよ。」
「いや~、何かそういうのって気になんない?」
「知るか。どうでもいいけど、タイミングなんか関係ねぇだろ?あれはお前が一方的に悪いんだから……」
健斗がそう言うと、ヒロは「うぅっ……」と唸って頭を抱えた。実際こういう状況に陥ったことがないヒロはどうすればいいのか本当に分からないみたいだ。
「そういえば、ヒロくんはどうしてあんなに怒ったの?」
唸っているヒロに早川がそう尋ねた。そのとき健斗は「しまったっ!」と心の中で叫んだ。そう言えば早川には何も話してなかった。中々タイミングがなくって、早川に話すことを忘れてしまっていた。
この前あんなに健斗を心配して話しかけてきてくれたのだから、その好意に報わないわけにはいかなかった。
ちょうど良い機会だからちゃんと説明しよう、と健斗が思っていると……健斗が口を開く前に麗奈が早川に言った。
「あのね。健斗くんとヒロくんは、もう一度サッカーをやりたいんだって。」
麗奈が端的にそう言うと、早川が驚いた顔をして健斗を見た。しかも早川だけではなく、寛太までも「えっ?」と驚きの声をあげて健斗を見た。健斗は早川と目を合わせると、照れくさそうに小さく笑った。
「……本当に?」
早川が小さな声で健斗にそう尋ねた。
早川は健斗が何故サッカーを辞めてしまったのかをちゃんと知っているはずだった。というより、健斗と中学が一緒である人間は健斗の身に何が起こったのかを知っている。
だから早川や寛太にとっては健斗がまたサッカーをやりたいと思い始めたことは驚くべきことだった。特に……早川はそれをどんな気持ちで今聞いたんだろうと健斗は心の中で呟いた。
健斗は照れくさそうな表情を浮かべながら、チラリと二人を見た。
「……まぁ……まだ考えてる途中……だけど。」
「え~!健斗がまたサッカーやるなんてなぁっ。つーかあんな大きな騒ぎ出しといてサッカー部に入れんの?」
こいつは痛いとこをついてきた。確かに……神乃高のサッカー部員は健斗のことをあまりよく思っていないかもしれない。きっと入りたいと言っても、歓迎はしてくれないだろう。
弱った……
「今も言っただろ?まだ考え中なの。そんなことよりも、ヒロだよヒロ。お前はさっさと佐藤と――」
「健斗、ヒロ。」
違う声が健斗を呼ぶ。健斗はその声に聞き覚えがあった。まるで条件反射のように健斗はばっと振り返ると……教室のドアの近くに思いがけない人物が立っていた。
のんちゃんだった。のんちゃんがドアの近くで立って、その視線は健斗とヒロのことを真っ直ぐ捉えていた。
「のんちゃん。」
健斗は驚いたような声を上げた。するとのんちゃんは小さく微笑んで教室の中に入ってきた。そして、ゆっくりと健斗たちに近づいてくる。
「良かった。もう帰っちゃったかなって思ったんだけど、話し声が聞こえたからもしかしてって……」
「あ、うん。ちょっと色々と話しててさ。」
健斗はそう言いながらヒロをチラリと見た。ヒロはのんちゃんを見ながら小さな苦笑いを浮かべている。健斗も同じような心境だった。神乃高に入学して以来、のんちゃんがこうやって健斗たちを訪ねてくるのは初めてのことだったのだ。
健斗は少々戸惑いを隠せないまま、なるべく笑顔を作ろうと努めた。
「えっと……何か用?何か……のんちゃんがこっちのクラスに来るのって珍しいね。」
健斗は自然に振る舞い笑ってそう言った。するとのんちゃんは小さくはにかんで「うん。」と言って頷いた。
「用……っていうか、少し話したいことがあるんだ。」
「話したいこと?」
「うん。いいかな?ちょっと……」
健斗はチラリとヒロをまた見た。すると今度はヒロと目が合い、ヒロはさっきのおちゃらけた感じとは打って代わって真剣な目つきで小さく頷いた。
健斗はもう一度のんちゃんの方を見ると、自然な笑顔で頷いた。
「うん、いいよ。全然大丈夫。」
健斗がそう言うと、のんちゃんはほっと安心するようにため息をついた。そこまでして話したいことって……何なんだろう?
「私たち、席を外した方がいいよね。」
そう言ってきたのは麗奈だった。麗奈は健斗に微笑みかけて「ねっ?」と言ってくる。全てを理解している麗奈は気を遣おうとしているのだ。
健斗ははにかんで笑い「ワリィな。」と一言だけ言った。
「……結衣、林くん。……行こう。 」
麗奈が他の二人にそう言った。寛太はいまいち状況が飲み込めず不思議そうな顔を浮かべていたが、いつもと違う雰囲気だということは分かっているようだった。
早川は頷きつつも健斗をチラチラ見て来る。その切なそうな視線を受けながら、健斗は安心させるように軽く微笑んだ。
「うん……じゃあ私たち帰るね。また明日ね。」
早川は健斗たちにそう言う。ヒロと健斗は互いに「おう。」「またね。」と早川に言った。そして麗奈や寛太とともに教室を後にした。
人が一気にいなくなると、残るのは静寂のみだった。時計の針が時間を刻む音が耳に入る。まるで試験中みたいな緊張した雰囲気だ。
話が出来る空間が出来たのはいいが……三人とも話すきっかけが見つけられなかった。
しばらく沈黙が流れる。
健斗は……じんっと胸が熱くなるのを感じた。それは神乃中サッカー部を辞めるとき、今目の前にいるのんちゃんに何度も叩かれた感触と似ている。
「それ、何?」
のんちゃんが健斗が手に持っていたカタログを指してそう訊いてきた。健斗は今までそれを手に持っていたことを忘れていたかのように思い出して、苦笑を浮かべた。
「あぁ。坊主専門の……カタログ?」
「えっ?何でそんなもの持ってるの?」
「いや……その……」
「罰ゲームだよ。」
ヒロが笑いながら健斗を指さしながらそう言った。
「こいつさぁ、俺と英語のテストで勝負してんだ。」
「勝負?」
「そっ。負けた方はバリカンで剃られるっていうルールで。」
「おまっ!!のんちゃんにまで言うなよっ!!」
「マジッ?」
のんちゃんが心底驚いた顔をしたので、ヒロはまた可笑しそうに笑って続けて言った。
「でさ、こいつ結局今日へましたらしくてさ。まっ、奇跡が起こらない限り俺に勝つのは不可能ってなって……」
「こいつにこんなカタログを渡されたんだよ……ちくしょう。」
健斗が愚痴を零すようにそう呟いた。本当に……どうしてこんな風になってしまったのだろう?
眠気に負けた自分が腹立たしい。しかも今はすっかり目が冷めているし……健斗はため息をつきながらカタログの表紙を飾っている坊主頭の青年を見た。どや顔が妙にむかつく。
するとしばらく呆然としていたのんちゃんがぷっと吹き出した。それからまるで今まで我慢し続けたのが一気に爆発するかのように腹を抱えて大きく笑った。
「アッハッハッハッ!け、健斗が坊主になるなんて、想像できないよっ!」
「だろっ?もう俺も来週が楽しみで楽しみで仕方なくてさぁ。」
「ふざけんなよっ!こっちはお前のせいで高校生活がパーになりそうなんだぞ。それを……」
と、むきになっている自分に健斗ははっとなって気がついた。この感じ……何だか妙に懐かしく感じた。
こんな風にバカなことをして笑い合った。部室でも、学校でも、グラウンドでも……こんな風にみんなで笑い合ったっけ?
いつの間にか緊張していた空気なんて消えていた。そこには朗らかな笑い声が満ちている。穏やかな空気が流れていた。
「……っとに、ざけんなよなっ!」
健斗はそう言いつつも、二人につられるようにして声を立てて笑い始めた。
何がおかしいのか分かんないけど、でもすごく愉快だった。