第9話 新たなる決意 P.32
家に帰ったのは時刻は夜の八時を過ぎていた。そこで夜ご飯を済ますころにようやく寛太に勉強を教えるのを終わった。寛太は艶々した表情で元気だったが、健斗とヒロは精も根も尽き果てていた。
とてもじゃないが……自分の勉強なんてする体力は残っていない。とにかく疲れていた。健斗は自転車を置くため、庭に足を運んだ。
「おかえりー。」
自転車を置こうとすると声が聞こえた。縁側で麗奈がアイスを食べながらゴンタとじゃれている。ゴンタは健斗が帰ってきたのに気がつくと、麗奈の元から離れて健斗に駆け寄ってきた。尻尾を大きく振りながら健斗に甘えてきた。
健斗はゴンタの頭を撫でながら自転車を元の定位置に戻した。
「ただいま。」
「遅かったね。ご飯食べちゃったよ?」
「知ってる。食ってきたし。」
「テスト期間なのに遊んでもいいの?」
「遊んてたわけじゃねぇよ。それにそういうことは寛太に言えよな。」
健斗が憤慨したように言うと、麗奈は理由を悟って苦笑いを浮かべた。
「また勉強教えてーって頼まれたんだ。」
「そうだよ。……まぁ別に明日英語だからいいんだけど……よくはないか。」
剃髪がかかってるしな。
「何?」
「何でもない。ほらゴンタ邪魔だぞ。」
健斗は甘えてくるゴンタをたしなめて、縁側から家の中に上がった。麗奈の横で靴を脱ごうとすると、麗奈が健斗の前に何かを差し出してきた。
「お疲れ様。アイス、食べる?」
「マジ?サンキュー。」
健斗は笑って麗奈からアイスを受け取ると、麗奈の横にゆっくりと座った。袋を開けてアイスをパクッと一口食べた。冷たさとほどよい甘さが頭の中に広がる。疲れが一気に吹き飛ぶようだった。
「そろそろ帰ってくるかな、って思って用意してたんだよ。」
麗奈が笑って健斗にそう言った。健斗は「ふ~ん」と呟いてペロッと舐めた。
「つーかお前本当にここ好きだな。」
「えへへ♪まぁね。」
「でももう寒くなるから、ここは使えなくなるぞ。」
「神乃崎の冬は寒いの?」
「あぁ。めっちゃ寒い。一月になったら軽く気温が一桁とか……雪なんて四月になるまで降るんだぜ?」
「ふ~ん……そっか。」
「東京の冬はどんな感じ?」
「う~ん……雪はあんまり降んないかな?逆に降ったら珍しいって感じ。でもすっごく寒いよ?」
「ふ~ん。」
健斗はまたアイスをペロリと舐めた。ほどよい甘さが口の中に広がる。全く、アイスクリームを発明した人物には敬意を払いたい。一体どんな人なんだろう?アイス……という名前だろうか?
「今日の数学のテスト出来たの?」
健斗はギクッとして苦笑いを浮かべた。その反応を見た麗奈は呆れるようにため息を吐いた。
「ダメだったんだね。」
「……うるせー。」
「健斗くんは理系に向いてなさそうだね。」
「かもなー。まぁ文系の方が色々と楽そうだから別にいいや。」
「あれ?大学受験するの?」
麗奈は意外そうな顔をして、健斗にそう言った。ヒロも同じことを聞いてきた。正直はっきりとは分からないが、一応そのつもりでいた。
「多分な。まだ分からないけど……お前は?」
「私?私は受験するよ?もちろん。」
「へぇ……すげーな。そんなはっきり決めてるなんて。……え、何?何かやりたいこととかあんの?」
そう言えば麗奈とそういう将来のこととか話したことがない。良い機会だからこの際色々と聞きたかった。麗奈は健斗の問いかけに笑って頷いた。
「うん。一応ね。」
「マジ?何々?」
「え~?恥ずかしいよぉ。」
「隠すような話じゃないじゃん。いいから教えろよ。」
健斗が催促すると恥ずかしそうにしていた麗奈がじっと健斗を見つめた。
「……一応ね、医学部を受験しよっかなって考えてる。」
「医学部っ?」
スケールのでかい話だった。まさか医学部を受けようとしてるとは想わなかった。あれは相当の学力がないと受かるようなものじゃない……ということくらい健斗も知っていた。
「すげーなお前。へぇ~……医学部かぁ。」
「一応だよ?でも……行きたいなぁってずっと思ってるんだ。」
「何で?医者になりたいから?」
健斗が端的にそう訊いてみると、麗奈はクスッと可笑しそうに笑った。
「そんな端的な理由じゃないけど……一番の理由は……お母さんかな?」
「お母さんって……お前の?」
健斗が一応訊いてみると、麗奈は膝を抱えて恥ずかしそうに頷いた。なんとなく理由が見えてきたような気がした。
「お母さんは心臓の病気で死んじゃったから。何だかそれを治せないことがすごく悔しくって……でもお母さんと同じような病気を抱えてる人がいて、同じように苦しんでる人がいるんだって思うと……何だか悲しいから……」
「お前が医者になって、その人たちを救いたいって?」
健斗が麗奈の気持ちを代弁していうと、麗奈は顔を赤らめて恥ずかしそうにまた頷いた。はにかんで笑い健斗をチラリと見る。
「子供みたいでしょ?でも……ずっとずっとそう思ってきたから……だから医学部を受験するつもりなの。」
健斗はそう呟くように言う麗奈を見つめた。
そういう気持ちを持つことは、親を亡くし、深い悲しみを背負った麗奈にとっては当たり前のことなのだろう。
自分と同じような悲しみを味わせたくない。親がいなくなる辛さを誰にも味わせたくないという気持ちが……麗奈を医学部に行くという強い決意の源になっているのだろう。
健斗はその気持ちを十分理解して、ふっと笑った。
「そんなことねーよ。すげーよお前。ちょっと見直した。」
「そうかなぁ……?誰にも言わないでね?こんなこと言うの……健斗くんだけなんだから。」
そう呟く麗奈が、何だか可愛らしく思えた。健斗はクスッと笑うと「あぁ。」と言って、猫みたいな麗奈の頭をくしゃと撫でた。
「頑張れよ。応援してるから。」
「……うんっ。」
麗奈は嬉しそうに目を細くして笑った。麗奈の笑顔を見て安心した健斗はそっと麗奈の頭から手を放した。
「健斗くんは?やりたいこととかないの?」
「ん~……俺はまだないなぁ。まだ自分が何をしたいのか、何をするべきなのかも分からないし……」
でも今はそれでいいと思ってる。やりたいこと、やるべきことなんてこれから先見つければいい。そのために大学に行き、自分の生きる道を探す。健斗はそう考えて、大学受験という道を歩もうとしているのだ。
それに……今は目の前の問題を一つずつ越えていきたいと思っている。
それに対する答えが一つ、今日見つかったような気がする。これから健斗が何をすればいいのか……何をするべきなのか……何をしたいのか。
佐奈と話し、ノブの気持ちが分かった今、健斗の気持ちは今までが嘘のように晴れやかだった。一つの決意が決まろうとしていた。
だが……今はそれを話すことじゃないな。
「……ねぇ。」
「ん?」
「私たちって……将来どうなってると思う?」
麗奈が健斗の顔を覗き込むようにしてそう訊いてきた。健斗は突然の問いかけにドキッと胸を高鳴らせた。
「どうなってるって……何が?」
「だから~……その……こんな風に、縁側でアイスを食べながら、健斗くんとお喋りする……ずっとこんな風なのかな?それとも……時間が経てば違っちゃうのかな?」
「……高校を卒業して、大学に入った……その先ってこと?」
健斗が聞き返すと、麗奈は小さく頷いた。健斗はゆっくりと前を見た。小さな池の水面が風で揺れていた。
それについては、健斗も考えたことがあった。自分たちはこの先もずっと……このままでいられるのだろうかと。
麗奈はこの家にずっといて、また夏が来たら、こんな風に縁側で麗奈と色んな話をすることが出来るのだろうか、と。
それを考えている自分に気がついたとき、健斗はあることが分かった。
自分は、今の生活が好きなんだと。今の生活に幸せを見いだしている。麗奈がこの家にいる状況を欲している。麗奈がこの町にいる……今の世界が好きなんだ、と。
麗奈がいなくなるなんて……考えられない、考えたくなかった。
「……ずっと……こうだといいんだろうな。」
「え?」
「けど……こんな風に話が出来るのは……少なくとも今だけだと思う。永遠じゃない。」
「…………」
麗奈は寂しそうな表情を浮かべた。そして膝を抱え込んだ。残酷な話だが、健斗も悲しいくらい辛いが……人は日々成長していくもの。その中で価値観も変わっていくし、状況も状態も……全てが変わっていくものだ。
いつまでもこのままというわけには……いかないのだ。
「……ずっとこのままがいい……」
麗奈が呟くようにそう言った。寂しそうな表情が間から見えた。
「健斗くんと……ずっと……」
「…………」
――麗奈……
自分はどうすればいいのだろう。麗奈に対する思い……自分にも分からなくなっていた。
それに気がついたのは……やはりあのときだ。麗奈の誕生日の日、麗奈のために光り橋を見せてあげた。
ホタルを捕まえている間、夢中だったから何も思わなかったが……ふと今思うと、どうしてあんなに頑張ったのだろう?
なぜ麗奈のために、そこまでしてあげようと思ったのだろう?
そして橋の上で麗奈に抱きつかれたとき、死ぬほど胸が高鳴った。その胸の高鳴りは明らかに今までとは違った。いつも馬鹿にされてると思っていたが、そうじゃない。
目を閉じたとき……自分は何をしようとしたのだろう?以前、麗奈にされたときはあんなにむかついて、あんなに怒ったのに……そのとき自分は自ら麗奈を欲した。
そして、麗奈が家の前で自分に言った。
――私は健斗くんの……何なの?
その言葉を聞いたとき、健斗の心が強く痛んだ。麗奈は自分にとって何なんだろう?
ただの家族?それとも同級生?
違う。
少なくとも麗奈は自分の中で一番特別で、一番大きな存在となっている。
恋心を抱いてたはずの早川よりも、自分の心の中で麗奈の存在が大きくなっていた。
だから話したいと思った。話さなきゃダメだと思った。
自分がこんなんだから……麗奈を悲しませている。麗奈を苦しませている。
そんなのダメだ。自分は決めたはずだ。
麗奈の笑顔を……守るんだって……
…………
…………
…………
もしかすると……俺はもう……
「あら?あんた帰ってたの?」
後ろから声がして健斗と麗奈は同時に振り返ると、そこには母さんが洗濯物を持って立っていた。
「あ、うん。ただいま。」
「ご飯は?」
「食ってきたからいらない。」
「あっそう。っていうかあんたたち、明日もテストなんでしょ?いつまでも遊んでないで勉強しなさい。」
そう言って母さんは奥の方へと消えてしまった。健斗はほっとため息を吐いた。そしてまた振り向いて麗奈を見た。驚いたことに麗奈は涙を目に溜めていた。
健斗の心が疼く。
あぁ……もうっ……
「バカ。何泣いてんだよ。」
「別に……泣いてなんか……」
麗奈は強がるように涙を拭った。
でも健斗は正直嬉しかった。
麗奈にとっても今の時間はとても大切で、失うのが怖いくらい、健斗を思ってくれているのだ。
ちょっとさっきのは意地悪だったかもしれない。
「今先のことなんて考えても仕方ないだろう?俺たちは“変わる”かもしれないけど……今がある。それに……」
健斗はそう呟いて慌てて口を閉ざした。その異変に気がついて麗奈は不思議そうに首を傾げた。
「それに?」
「な、何でもない。とにかく話はおしまい。部屋に戻って勉強しろよ。俺は風呂に入るから。」
麗奈は納得のいかない表情を浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。
「アイスのゴミ。片付けておくよ。」
健斗がそう言うと、麗奈はまたと頷いてアイスのゴミを健斗に渡した。そしてゆっくりとした足取りで自分の部屋へと戻っていく。
何だかいつも以上に、思い詰めているようだった。何かあったのだろうか?未来を予感させる何かが……
それよりも、健斗は自分が言おうとしていた言葉を思い出していた。
危なかった。思わず口を零すところだった。
何を考えてるんだ……俺は。健斗は自嘲気味にそう呟いて、洗面台へと向かった。