第9話 新たなる決意 P.26
「はい。これでいいわよ。」
殴られた後の腫れが思ったよりもひどかったので健斗はヒロに連れられて保健室に行っていた。
健斗は無言のまま養護教諭である南莉子先生――通称南ちゃんは去年赴任したばかりの新しい先生で、一応一児の母でもある。そのわりには若く見えるが、実際の年は誰もしらない。――に手当てを施してもらい、肩をパンッとたたかれた。
「喧嘩をするのはいいけど、ほどほどにしなきゃダメよー?じゃなきゃあたしの仕事が増えるんだから。」
と冗談を交えながら笑って、調査書に記入し始める。健斗はそっと自分の頬に触れる。
「……もっと殴られたかった。」
健斗はポツリと呟いた。突然の言い草に南ちゃんも思わず口を開けてポトンと鉛筆を落とした。
「山中くん。人の趣味は否定しないけど……殴られたいっていうのはどうかと思うよ?」
「あのね南ちゃん。今そういう話じゃないでしょ?」
ヒロが思わずつっこみを入れる。南ちゃんは何が可笑しいのか「そりゃそっか。」と笑った。しかし健斗はそんな冗談にも全く笑いをこぼさず、ただしょんぼりとしていた。そんな健斗の様子に、南ちゃんは「う~ん……」と呟く。
「おい少年。いつまでしょんぼりしてるんだっ?らしくないぞっ?」
おどけた様子で健斗の頭を撫でる。普通なら健斗は嫌がるのだが、南ちゃん相手では頭が上がらない様子である。そういう気分ではないという理由が一番かもしれないが……
「……翔くんのことで思い悩んでるのね?」
急に真剣な赴きで南ちゃんはそう言った。ヒロはその名前を聞くと急にピンッと背筋が張るような思いになった。健斗は何も反応せず、ただ黙り込んでいた。
「……詳しくは知らないけど、翔くんはトラックに跳ねられそうになったあなたを助けて、身代わりになった。あなたはそれを自分のせいだって思ってるんでしょ?」
沈黙が答えを出していた。
南ちゃんはそれからふっと表情を緩めた。
「でもね、山中くん。翔くんが亡くなったのはあなたのせいじゃない。ただの事故だったの。」
「違う……俺のせいなんだ。俺があいつを……殺した。」
健斗は重い口を開いて重い口調でそう言った。
「だからあいつは……俺を恨んでる。聞こえるんだ……あいつの……あいつの声が。」
「じゃあ、もしあなたが逆の立場だったらどうなの?」
南ちゃんの問いかけに、健斗はゆっくりと顔を上げた。健斗は南ちゃんの目を真っ直ぐ見つめていた。
「もしあなたが翔くんを助けて、その代わりにあなたが死んだ。それを……あなたは翔くんのせいで自分は死んだって、翔くんを恨んだりする?」
南ちゃんの鋭い問いかけに健斗はどう答えていいか分からないという顔で下を俯いた。
「……分からない。」
健斗はポツリとそう呟いた。そして、頭を抱え込みまた深く思い悩み始めた。
「分からない……だって俺……俺あいつに……」
ヒロはその健斗の様子を見て、少し違和感を感じた。はっきりとは言えないが、健斗はまだ誰にも言っていないことがある。その苦しみに悩まされている。
それを恐らく南ちゃんは気づいたのだろう。上手くそれを聞き出そうと誘導していることが分かった。
「……翔くんに、何か酷いことを言ったのね?」
南ちゃんがそう問いかける。すると健斗はゆっくりと顔をあげて小さく頷いた。酷いこと……?何のことなのだろうか?
ヒロはただ黙ってそれを聞いていた。
「……俺、あいつに裏切られたって思ったんだ。部活に出ないで、委員会ばかりやって……女といちゃついて……それを見て俺すげーむかついて……お前なんか、もう友達でも何でもないって。そう言った。あいつにそう言ったんだ……俺は……」
胸が締め付けられるような思いがヒロを取り巻いた。そうか……そういうことだったのか……
事故に遭う前、確かにずっと翔は部活に出る回数が減っていた。それは委員会の仕事が忙しかったからという理由だった。健斗はそれを愚痴にしていた。
しかし、そう、翔が事故に遭った日、あいつはヒロの元に突然やってきた。
「健斗いる?」
教室に入ってきた翔はヒロに突然そう聞いてきた。ヒロはそのとき今日は部活がないため、帰りの学活が終わるとすぐに帰っていった健斗の後ろ姿を思い出していた。
「あぁ……何かもう帰ったよ?急いでるみたいでさ。」
「マジッ?ったく連れないよなぁ。じゃあ追いかけるわ。」
「あれ?お前委員会は?」
走り去ろうとする翔を呼び止めてヒロはそう聞いた。翔は足を止め、くるりとヒロに向き直した。
「おう。委員会の仕事なら今日の昼休みで終わりっ!明日からは部活に出られるから。」
それを聞いてヒロは妙に安心した。
「あっそ。ちゃんと健斗に説明しとけよ。あいつお子ちゃまだからかなり怒ってるぜ?」
「分かってるっ。じゃあ~なっ!」
「おう。」
走り去る翔の後ろ姿をヒロは見えなくなるまで見つめていた。それが翔と交わした、最後の言葉になろうとはこのときは思いもしてなかった。
何だ……じゃあ翔が死んだ原因は自分にもあるじゃないか。
自分が翔に健斗が帰ったことを言わなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
いやそれよりも前に、健斗といっしょに帰ってればこの運命は避けられたかもしれないのだ。
自分が……
そう考えていると、はっと気がついた。健斗もそうなのだ。この思いに悩んでいる。この複雑な思いのカオスで正確な判断が出来ないでいるのだ。
誰のせいで翔は死んだなんて、そんなの決められるわけがない。答えのない答えを追い求めている。
健斗の気持ちに初めて触れたような気がした。
「翔くんと喧嘩したまま……ってことね。」
健斗はその言葉を聞いてゆっくりと頷いた。
「俺がいけないんだ。俺がもっと……大人だったら……あいつのことをちゃんと理解していれば……あいつを許してたら……あんなことには……ならなかったのに。」
違う。
健斗のせいじゃない。
俺にも責任がある。俺も……お前とあいつを引き合わせた超本人なんだ。
心の中でそう叫んだ。言葉にすることはできなかったけど、そう叫んだ。頭がおかしくなりそうだった。
「……じゃあ、ずっと後悔しながら生きていくつもり?」
その言葉はヒロにも向けられたもののような気がして、思わず身構えてしまった。健斗はまた思い悩むかのように深く頭を抱え込んだ。
「あのね、山中くん。こうしてたら、ああしてたら。そんなことを考えて、悩んで、あなたは人生を無駄にする気なの?過去にとらわれたまま、せっかく助かった命をあなたは無駄にするつもりなの?それこそ、翔くんに申し訳ないって思わない?違う?」
珍しく口調が荒くなった南ちゃんは健斗を真っ直ぐ捉えていた。健斗はしばらく黙り込んでいた。すると、突然立ち上がって南ちゃんに背を向けた。
「……帰ります。手当て、ありがとうございました。」
南ちゃんは何も言わなかった。深くため息をついて、「そう……」と呟いた。健斗は黙ったまま歩き出して、そのまま保健室を後にした。
ヒロも立ち上がって、南ちゃんにお辞儀をした。そして保健室のドアノブに手を触れたとき「真中くん。」と呼ばれた。
ヒロは振り返って南ちゃんを見ると、南ちゃんは穏やかな表情でヒロを見つめていた。
「……あなたも同じよ。自分を責めたりしないでね。」
ドクンッと胸が高鳴った。まるで心が見透かされているようだと思った。ヒロはしばらくためらってから、顔をあげて苦笑いを浮かべた。
「……はい。」
それだけ答えると、ヒロは軽くお辞儀をして、ドアノブを捻り、保健室を後にした。