第9話 新たなる決意 P.25
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。それとほぼ同時に、クラス中のみんながざわめき始めた。これから昼休みに入るため、それぞれ色々と思うことがあるのだろう。
翔がいない世界は悲しいくらいにいつも通りだった。一番前の一番右の席。そこが翔の席だった。どんなに端っこであっても存在を強く印象づけていた翔。本人がいなくなるとその席は輝きを失ったかのようにひっそりと、孤独をかみしめているようだった。
ヒロはチラリと健斗の方を見た。健斗は変わらず、そこに座ったままただ一点を見つめていた。何を見つめているのだろう。聞いてみてもどうせ「別に。」と返ってくるに決まっている。
ヒロは小さくため息をついた。いつもなら弁当を片手に健斗と翔と共に中庭に行き昼練をするときだった。だが、その翔がいない。もういないのだ。
健斗はどうするつもりなんだろう?これからのこと。サッカー部のこと。深い悲しみと罪悪感、そして喪失感が健斗の心に根付いている。この間のことを思い出した。
健斗はもう……サッカーが永遠に出来ないんじゃないか。そう考えると背筋に寒気が走った。
「きゃっ」
クラスの女子が小さな悲鳴を上げた。それだけではなく必要以上のざわめきがクラスの中で起こった。何だろう?と思って、ヒロは前を見た。するとはっと息を呑んだ。
そこには神乃中サッカー部が全員集まって、クラスの前にいた。全員ぞろぞろとこのクラスの中に入ってくる。
神乃中サッカー部は部員数が健斗とヒロを含めて12人しかいなかった。上の代がいなくなったため極端に数が減ったのだ。そのうち二年生が七人で一年生が五人だった。
クラスに来たのは二年生の五人だった。五人は健斗の前に立つと誰も口を開かずただ健斗を見つめている。ヒロは立ち上がって、五人のもとに歩み寄った。
「ノブ、リュウタ、のんちゃん、佐久、琢磨……」
ノブは相変わらず長い前髪をかき揚げてヒロを睨みつけた。リュウタも睨みをきかした目でヒロを見る。のんちゃんはおどおどした様子で、ノブたちを見る。佐久や琢磨は健斗のことを見ているが何を言えばいいのか分からないと言った様子だった。
そんなことよりも、ヒロは五人……特にノブとリュウタを宥めるように言った。
「ここじゃまずいって。移動しようぜ。健斗も……いいだろ?」
「当然だよ。」
ノブが刺々しい感じでそう言うと、突然ずっと黙っていた健斗が立ち上がり、飄々として教室を後にした。どこへ向かったのか分かっていたけど、ヒロたちはその後を追いかけるようにして教室から出て行った。
かねてから、その話があった。
健斗はいつになったら学校に来るんだと。五人からずっと問いつめられていた。
「お前も分かってんだろ?」
健斗のいない部活が終わったあと、部室内でノブの怒声が響いた。いつも笑い声に満ちていた部室はそこにはなく、ぴんっと空気が張り詰めたような緊張が部室内に流れていて、誰もが息を呑んだ。
「もうすぐ大会があるんだぞ!なのに何で健斗は出て来ないんだよ。」
「そうだよ。このままじゃ一年にも示しがつかねーし、何より健斗がいなくてどう勝ち進むんだよっ?」
ノブとリュウタの言っていることは、ヒロにもよく理解していた。
部室でその話をした二週間後には、泣いても県大会へと向けた大会が開催される。神乃中サッカー部はその二週間後に一回戦がある。健斗に何が何でもとりあえず学校に来いと理由はそのことも含んでいた。
「分かってるよ。今必死で説得してる。ただ……もう少し待ってよ。あいつの気持ち、考えてくれよ。」
「辛いのはあいつ一人じゃねぇんだよっ!」
ロッカーを力いっぱい殴る音が部室内に響いた。琢磨がその音に驚き、「ひぇっ」と声をあげた。
「辛いのはみんないっしょなんだよっ!今でも信じられねーっ!翔が死んだなんてこと……あいつが……あいつがもういないなんてこと……でも仕方ねぇだろっ!」
ノブはそう言い捨てると、くるっと背中をヒロに見せた。微かに体が震えているのが分かった。
佐久やのんちゃんがノブに寄り添って背中をさする。それを見るだけで心が疼いた。
そのとおりだ。辛いのはみんないっしょ。健斗一人じゃない。
翔の葬式の日、サッカー部全員声をあげて泣いた。悲しくて悔しくて、突きつけられた現実がどうしても信じられなくって……でもどうすればいいのか分からず、ただ泣くことしか出来ない。
だが今自分たちにできることは、目の前に迎える大会を勝ち進み、県大会に出場すること。今回の大会を心の底から楽しみにしていた翔のためにもそれが必要だった。
だがヒロは一方でそれを上手く主張することが出来ないでいた。健斗のあんな姿を思い出すと、言葉が出て来ないのだ。
「……今日、俺らも健斗の家に行くよ。」
佐久がそう言った。みんなで健斗の家に行き、部活に出てくれるように頼もうと思ったのだろう。しかしヒロはそれに対して素早く反応した。
「それはダメだっ!」
ヒロの勢いにそれを言った本人の佐久が驚いた顔を見せた。
「どうして?」
リュウタが冷静な態度で聞き返す。その答えをヒロは口に出すことなく呑み込んだ。
今あいつのところに大勢で押しかけたら、あいつの心は本当に崩壊してしまう。
確証などない。だが直感的に……特にあの日の健斗を見たヒロは少なくともそうとしか感じられなかった。
今あいつを説得できるのは自分しかいない。それが、誰よりも長い付き合いである自分の使命だとヒロは思っていた。
「とにかく……もうちょっとだけ待ってくれ。少なくとも大会の一週間前までには、あいつを連れてくるから。」
ヒロはリュウタや佐久の目を見て力強い口調でそう言った。リュウタや佐久、そして琢磨ものんちゃんも何も言い返してこなかった。
すると背中を向けていたノブがごしごしと目をこすってヒロと向き直した。
「絶対だぞ。もし連れて来なかったら、今度は俺らがあいつん家に押しかけるからな。」
そこには強い覚悟を感じた。ヒロはしばらく間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
それから一週間が経って、健斗は説得の甲斐あって学校に来た。そしてそれを聞きつけたノブたちが昼休みになるとすぐに健斗の元に押しかけたのである。
ヒロたちはサッカー部の部室の中に集まっていた。全員それぞれ配置について、みな重たい口を開かないでいた。健斗もただ長椅子に腰掛けて、虚ろな目で何かを一点見つめていた。
「……どういうつもりだよ?」
口を開いたのはノブだった。刺々しい言い方で健斗にそう言った。健斗はゆっくりと顔をあげてノブをみる。それからまた俯いて、歯がゆそうな顔をして「ごめん……」と一言呟いた。
しかしその態度が気に食わなかったのか、ノブはさらに健斗に詰め寄った。
「ごめん、じゃなくてっ!どういうつもりなのか聞いてんだよっ!」
「ノブ。ちょっと落ち着けよ。」
それを制したのは意外にもリュウタだった。リュウタは驚くほどに冷静な顔つきで、健斗を見下ろした。健斗は一瞬だけリュウタと目を合わせたのだが、すぐに決まりが悪そうに目をそらした。
「健斗……夏の大会がもうすぐだってこと、知ってるよな?」
健斗は頷かなかったけど、リュウタは構わず続けて言った。
「正直、お前がいてくれないとダメなんだよ。部活内の士気も高まらないし、翔がいない上にお前までいなかったら戦力的にかなり厳しくなる。お前はいなかったから知らないだろうけど、俺らは翔のためにも県大会に出場するって決めたんだ。だから……部活だけでもいいから出て来いよ。」
リュウタが健斗を諭すようにそう言った。その言葉はリュウタだけではなく、ここにいる六人全員の気持ちだった。健斗にその思いは届いたのだろうか?
健斗はただ下を俯いて唇をかみしめていた。
「……ダメなんだ。」
「え?」
リュウタが思わず聞き返した。全員が健斗の言葉に耳を傾けた。
「……翔が言ってる……何で……何でお前が生きてるんだって……お前のせいで……」
「翔はそんなこと言わない。」
それを言ったのはヒロだった。ヒロが翔のことをよく知っていた。健斗と同じ幼なじみの翔が健斗にそんなこと言うはずなかった。しかし健斗は大きく首を振った。
「違う。言ってるんだ。あいつは俺を恨んでる。あいつは……だって俺……あいつと……」
健斗はその先を言えなかった。口を閉じて、さらなる罪悪感に押しつぶされそうになっていた。さっきまで感情を露わにしていたノブですら今の健斗の様子をただ黙って見ていた。
「……じゃあ、どうするつもりなの?」
それを口にしたのはのんちゃんだった。いつものちょっと調子が高い声で健斗にそう聞いた。
「健斗は……どうしたいの?」
健斗は黙り込んでいた。何も言い返すことが出来ないで、下を俯いて唇をかみしめていた。しばらくの間沈黙が続いた。重い空気が部室内に流れている。
「……ちまえよ……」
誰がボソッと口にした。それを口にしたのは、他でもない……ノブだった。ノブは健斗を見下すように睨みつけて、もう我慢の限界だと言わんばかりに健斗の胸ぐらをつかむ。そして誰かが止める暇もなく、健斗を思いっきり殴り飛ばした。
突然殴られた健斗はそのままの反動でロッカーに体が当たり、頭を垂れて床に座り込んだ。頬は赤く腫れ、口元から血が滲み出ていた。
ノブの突然の行動に誰もが動揺を隠せないでいた。しかしノブは息を荒らし、健斗を怒鳴りつけた。
「辞めちまえよ、お前っ!迷惑なんだよっ!」
「ノブ……っ」
「こっちはな、翔のためにも県大会に出なくちゃなんねぇんだっ!それを何だよお前。ダメなんだって……自分勝手も大概にしろよっ!お前みたいなやつは、このチームにいらねぇっ!邪魔なだけだっ!」
ノブは言いたいことを全て吐き出したかのように、息を切らしていた。健斗は何も反論しなかった。ただ……頭を垂れて無反応だった。体をピクリとも動かさず、まるで死んでいるようにそこに座り込んでいた。
ノブは舌打ちをして、苛々をぶちまけるように、その辺にあった椅子を蹴っ飛ばした。そしてそのまま部室を乱暴に出て行った。さらに重い空気が部室内を流れた。
すると今度はリュウタが何も言わず、健斗に背を向け、部室を後にした。そしてまるでそれに続くように、のんちゃん、佐久、琢磨の順に部室を後にした。
部室の中に残ったのはヒロと健斗だけだった。ヒロは体中の緊張が緩むかのようにその場に座り込んだ。そして思い切ってため息をついた。しばらく呼吸を忘れていたかのように妙に息苦しく感じた。
「……健斗……」
ヒロは健斗の名前を呟くように呼んだ。だが健斗は無反応だった。本当に死んでしまったのではないか。そう思えるほどだった。
そこからだった。神乃中サッカー部の崩壊のカウントダウンが少しずつ時を刻んでいたのだ。