第9話 新たなる決意 P.23
ヒロは窓の外を呆然と眺めていた。ここからスキの草が見えるということはもうすっかり秋を表しているということだった。
風は寒くもなく暑くもなくちょうど涼しい温度だった。
最近ぼ~っと物思いに耽ることが多くなったと思う。色々な思いが交差しながら、深い暗闇を歩き続ける。
のんちゃんと会うのは久しぶりだった。健斗もヒロもとても仲が良かった。ふっくらとした頬は相変わらず食べちゃいたいと思うくらい柔らかそうだった。そして温厚な性格も、それに似合わないゴツい体格も、短い足も、何も変わってなかった。
のんちゃんにとってはきっと自分の生活なんて何も変わっていないのだろう。変わったのは、自分たちの方なのだ。少しの間忘れていた思いが蘇ってしまった。
健斗を呼んだのは別に大した理由なんてない。ただ少し……話がしたかっただけだ。これからどうするべきか、なんて話を掘り返すようなことは言うつもりはなかった。
健斗と話すことで何かが変わるわけではないなんて分かってる。
ヒロはチラッと机に置いてある写真を見た。中二の春に撮った写真だ。神乃中サッカー部、春の地区大会優勝したときの写真……
そこにはサッカー部のメンバーと……健斗と翔、そして自分が嬉しさを全力で表した表情で写っている。
あのとき……いつものような日常だったら今頃健斗ももっと違う道を歩んでいたのにな……
今頃、U-16で大活躍でもしている。俺はそれを、遠くから見ているんだ。
そんなことを考えていると、ヒロの部屋のドアがノックされる音が聞こえた。ヒロはその音にはっと我に返り、ドアの方を向いた。
健斗が来たのだろうと思って待ち構えていると、驚いたことに中に入ってきたのは一人じゃなかった。健斗の後ろに麗奈がくっついていた。意外な展開にヒロは健斗に目を向けた。
健斗はヒロの視線を受け、苦笑いを浮かべた。
「お前、いいの?」
ヒロが尋ねると、健斗はほとんど間髪を入れずに小さく頷いた。
「うん。麗奈には……ちゃんと話しておこうって思ってさ。」
健斗の言葉を受け、麗奈ははにかんで笑い、恥ずかしそうに下を俯いた。
正直ヒロは驚きを隠せなかった。健斗が自分の悩んでいる問題を人に話そうとするやつではなかったからだ。いつもこいつは自分一人で問題を解決しようとする。それが正しかろうと悪い結果だろうと他人の意見を取り入れようとはしない。
今回もそうなると思っていた。だが違った。健斗は自分から麗奈に“聞いてもらいたい”と言ってる。それが大きな変化だってことを、長い付き合いであるヒロが一番感じ取っていた。
同時にやっぱりなという気持ちもあった。健斗が気づいていないだけで、麗奈は健斗の中で……
「ごめんな。麗奈ちゃんが来るとは思ってなかったから……あ、今お茶持ってくるから適当に座ってて。」
女の子を部屋に上げた以上、何ももてなさないわけにはいかない。ヒロは立ち上がって麗奈にそう言った。
「あ、別にいいよ。そんなに気を遣わなくっても。」
「いいから。ちょっと待ってて」
ヒロはそう言うと、部屋を後にした。
健斗と二人で残された麗奈は少しもどかしい思いをしなから、ふぅっとため息をついた。そしてチラリと健斗を見る。健斗は退屈そうな顔で猫みたいに欠伸をしている。
何だか少し気恥ずかしい気がして、麗奈は慌てて目を逸らした。そしてそれを紛らわすように、ヒロの部屋の中を見渡す。飾り気のない普通の部屋だ。が、机には参考書などがたくさんある。
健斗の部屋に似ていた。
「何キョロキョロしてんだよ。」
健斗にそう言われて麗奈ははっと健斗を見た。健斗はにやけて麗奈を見ていた。
「男の子の部屋に入ってるから、緊張してんの?」
「べ、別にそういうわけじゃないよ。」
といいつも、少しはそういう気持ちもあった。健斗の部屋に入るのは慣れていたけど、他の男の子の部屋に入るというのは何だか変な感じがする。
「あいつも相当テンパってるみたいだぜ?お互いうぶいな。」
「健斗くんに言われたくないんだけど……」
「俺は早川を家に入れたことあるもんね。」
「嘘っ?いつっ?」
「さぁ?いつだったかなぁ?」
麗奈の記憶が正しければ……健斗が松本絢斗に暴行を受けた日と麗奈が風邪をひいた日だ。そのことを言っているのだろうか?
だが健斗は知らないふりをしてまた欠伸をしている。すると健斗は突然立ち上がったと思うと、ベッドの上に寝転んだ。
「勝手に人のベッドに寝転んでいいの?」
「いいだろ別に。こいつん家の枕が最高に気持ちいいんだ。」
というと、サッカーボール型の枕を取ってそれを頭の下に敷いた。やっぱり幼なじみだということがあって、健斗はヒロの家に慣れているみたいだ。
そんなことよりも麗奈は少し気にかかっていることがあった。
「……ねぇ。」
「ん?」
「いいの?」
健斗はそれを聞くとうんざりしたような顔つきで麗奈に言った。
「さっきもそうだったけど、お前の言うことには目的語が抜けてる。」
そう馬鹿にした言い方をして、健斗はふんっと鼻で笑った。
まったく……皮肉を言わせたら世界一かもしれない。だがそんなことに構ってる場合ではないので麗奈は無視することにした。
「健斗くんたちの話のこと。本当に私が聞いてもいいの?」
「いいも何も、お前が知りたいって言ったんだろ?本当に貧相な記憶力だな。同情するよ。自分で言ったことをすぐ忘れるなんて。」
――むかっ!
「あのねっ!私は真面目に聞いてるのっ!」
「俺も真面目に言ってるよ。お前の可哀想な記憶力について。」
もうダメだ。一旦皮肉を言い出したらこれだ。下手に何かを言えば言い返される。今は健斗のペースだ。
麗奈は諦めて疲れからか大きくため息をついた。当の本人はベッドの近くに置いてある漫画を手に持って読みこんでいる。
何だか怒るのも馬鹿らしくなる。
しばらく沈黙が続いた。するとだった。
「……お前には……話しておきたいっつーかさ。」
「え?」
突然の言葉に麗奈は自分の耳を疑った。健斗は漫画に目を落としながら、しかし意識ははっきりと麗奈に向けて言ってきた。
「お前には、その……色々と世話になってるし。ただ……話しておくべきかなって思ったんだよ……ただそれだけ。」
――素直じゃない。
それでも嬉しかった。健斗が麗奈のことを少なくとも家族以上の気持ちで見ていてくれたことが。麗奈の独りよがりではないことが分かって、全身が喜びで震えた。
でもそれを言葉には出さない。何だか負けた気がして悔しい。でも……健斗に対する気持ちがさらに強まったような気がする。
――「話したい」って素直に言え!バカッ!
心でそう叫んでみる。 でもそういう自分も素直じゃない。
「ありがとう」の一言が素直に言えないのだから。
健斗は決まりが悪くなったのか、パタンと漫画を閉じて「ったく、つまんね。」と言いながら投げるようにして漫画を置いた。
「もうっ。人のなんだからもっと丁寧に扱いなよ。」
「いんだよ。俺これ何度も読んでるし。」
「どういう理屈だよ。」
麗奈が言おうとした言葉が後ろから聞こえた。振り返るとそこにはヒロがお膳に飲み物を乗せて立っていた。
健斗はビクッと体を跳ねさせ、乱暴に置いた漫画を元の場所に丁寧にしまった。
そんな健斗の仕草を麗奈はおかしそうにクスクスっと笑った。ヒロは呆れるようにため息を吐く。
「ったく人ん家で好き勝手すんなよな。」
「いいじゃん。昔からの付き合いだろ?ヒーくん♪」
「ヒーくん?」
麗奈がその呼び方に反射的に反応した。
「幼稚園のときのあだ名だよ。今じゃばぁちゃんくらいにしか呼ばれてないけど……あとお前、次その呼び名使ったらぶん殴るかんな。」
健斗はそう言われるとひきつった笑顔を見せた。麗奈は二人のやり取りを見ておかしそうに笑った。やっぱり二人は長い付き合いなんだなと思う。たまに羨ましく思う。
「ごめんな。何にもなくてさ。麦茶でいい?」
と言って、麗奈の前に麦茶が入ったコップを置いた。麗奈は「ありがとう」と言って、その麦茶を受け取った。ヒロは健斗にも麦茶を渡すと、自分は椅子に座りふぅっと息を吐いた。
「さて……何?お前麗奈ちゃんに全部話す気?」
「うん。」
ほとんど間髪を入れずに健斗は麦茶を少し飲みながらそう答えた。それを聞くと麗奈は何だか妙に身構えてしまい、姿勢をよくした。
「どっから話すかなぁ……」
ヒロはガリガリと困ったように後ろ頭を掻いた。三人ともまったく口を開かず、しばらく沈黙が続いた。
「……前さ、お前に話したよな?」
「え?」
「縁側で、お前に俺の悩んでること。サッカーが今、やりたいんだって。」
「あ、うん……」
確かにその話なら聞いた。健斗はサッカーが今やりたいんだって。でもそれには色々と責任がつきまとうって言っていた。お母さんやお父さんにも迷惑がかかるだろう。お金だってかかる。竜平さんにも迷惑がかかる。
人に迷惑をかけてまで自分のやりたいことをやっていいのか?
健斗はそれを悩んでるようだった。
「それだけじゃないんだ。」
「それだけじゃない?」
「うん。やりたいからやるっていう簡単な話じゃないんだよ。もっと……ちょっと複雑な事情が俺らにはあってさ……」
「……事情?」
「うん。何て言えばいいかな……今日会った、のんちゃんの話にもなるんだけど……」
健斗が苦笑しながらそう呟いた。するとそれをフォローするようにヒロが口を開く。
「俺が説明しよっか?要は、翔が死んだ後の日のことを話せばいいんだろ?」
「うん……そうだな。」
何だか本題に入るみたいだ。
翔……それは健斗とヒロのもう一人の親友。
健斗が心に深い傷を抱いてた。その理由は自分のせいで翔を亡くしてしまったと思い込んでいたからだ。その悲しみは計り知れない。
ただ……そのこと自体の話は聞いたけど、そのあとの話を聞いていない。ということはそのあとに何かがあったということだろうか?
とにかく話を聞こう。麗奈は真っ直ぐヒロの顔を見た。
「……あれはそうだな……中二の夏だった。夏休みに入る、少し前だったかな?」
「健斗っ!出てこいよっ!いつまで引きこもってんだよっ!」
翔の葬式から三日経った。ヒロは健斗の鍵のかかっているドアを叩きながらそう叫んだ。だが返事はなかった。健斗はもう葬式の日からずっと学校に来ていない。健斗のお母さんの話によると、ろくな食事も取らず、中で引きこもっているらしい。
翔が死んだのは誰のせいでもない。お前のせいじゃない。だから気に病むな。
そう言ったはずなのに、健斗は自分を責めている。罪悪感という苦しみから離れることが出来ないでいる。
「話したくないんだ。」
弱々しい声が部屋からした。いつもの調子ではなく、完全に精神的な疲労を表していた。
「いいから開けろっ!いつまでそうしてるつもりだよっ!」
ヒロがそう言っても健斗は一向にドアを開けようとはしなかった。しかし弱々しい声が返ってきた。
「もう、外に行きたくない……翔がいない世界が……怖い……」
完全に精神が崩壊している。罪悪感という重い物体に押しつぶされている。しかしそれがヒロの怒りに火をつけた。
「てめぇっっ!!いい加減にしろっっ!!お前一人が悲しいんじゃねぇんだよっっ!!開けねーつぅんなら、このドアふち破るぞっ!!!」
声を張って、健斗にそう言った。隣で見ている健斗のお母さんがハラハラしているのが見なくても分かった。
これでも開けないんだったら、本気でぶち破ってやるっ!!
そう心に決めていると、ガチャンと鍵が外れる音がした。するとずっと開かなかったドアがゆっくりと開いた。そこから健斗の顔が見えた。だが、それを見たときヒロの背筋が凍った。
ヒロの知らない健斗の顔だった。
頬はくぼみ、目の下には隅が出来、唇はカサカサに枯れ、髪はボサボサだった。
光のない虚ろな瞳をヒロに向けた。
目頭が熱くなった。こんな健斗は見たことがなかった……それでも逸らすわけにはいかなかった。
自分が強くいなければならない。翔の死を乗り越え、健斗を支えなければならない。
そう心に決めた。