川と毛皮と逝き還り
この作品は、大学の課題で書いたものをなんかこのまま終わらせるのもなぁ、と思ったので投稿したものです。
ですので、もし教授がこれを見ているならば、その課題は紛れもなく私が書いたものであって剽窃などではございませんのでよろしくお願いします。
この作品の投稿日を見てください、課題の提出日の方が早いです、ですのでこれは提出後に投稿したものです、何卒よろしくお願いします。
あと、課題提出時と題名が違うのはできるだけ身バレしたくないからです、それもよろしくお願いします。
バサバサ、と羽音を立てて、鳥が幾らか飛び立った。
キャンキャン、と甲高い鳴き声が森へと響き、次いでガサガサと茂みが揺れた。
羽音を出した鳥がどんな鳥なのか、その鳴き声が何の鳴き声なのか、それは音を立てた者にしかわからない。
ただ、ひとつだけその場の誰にでもわかる事があるならば、それらの生き物は逃げたのだ、という事だけだった。
そして、その場に居るただ1人を除いて皆がわかる事ならば、それは熊から逃げているのだ、という事を付け加えても良いだろう。
無論、普通の熊が出た訳では無い。
ここは山奥、ここで暮らす獣達ならば熊の1頭や2頭見たことが無い方が不自然で、熊が出たとてそこまで大慌てする事も無く、せいぜい鹿やなんかの熊に食われるような生物が静かに逃げ出す程度であろう。
件の熊は、普段なら知らん顔して呑気にピィピィ歌っているであろう鳥達すら泡を食って逃げ出すような異様な雰囲気を纏っているのだ。
と言うのもこの熊、足が1本たりともマトモに地面を踏まず、ダランと放り出されながらもまるで腹に足でも生えているかのように、不気味にもズリズリと這い回っているのである。
それに加えて少し前に進む毎に頭部が前後にガクンガクンと揺れ動き、オマケになんだか異様なまでに痩せ細っているのだから不気味なことはこの上ない。
…もっとも、ここまで書き連ねて来たことは全て、鳥や獣にとっては、という話だが。
人間からすればこんな様子の熊が何千頭居るよりも、普通の熊が一頭居る方が余程恐ろしいだろう。
なにせこの熊、もう死んでいる。
種明かしをしてしまえば、これは熊ではなく熊の毛皮で、罠にかかっていた熊を狩人が仕留めて、運べる分の肉と毛皮だけ剥ぎ取って持ち帰る様子でしかない。
担いだ毛皮が狩人をすっぽり覆ってしまったもので、なんだか不気味な様子の熊に見えていた、という訳だ。
とにかくそんな様子で茂みを掻き分け、木の根を踏み越え、残雪に足を取られそうになりながらも、ノロノロと森の中を歩いていた狩人だったが、太陽がちょうど頂点に差し掛かった頃、遂に目的地へと辿り着いた。
「はぁ、こんなでっけぇのがかかっちまうとは思わんかったなぁ、あー、こわい」
ブツブツと文句を言いながら荷物を下ろしたそこは、古ぼけた桟橋であった。
古ぼけた、と言っても所々に修理や補強の跡が見られるので、今にも崩れそう、だとか少し川が増水したら流されてしまいそう、だとかそういった心配は殆ど無い。
そんな桟橋の上を狩人はスタスタと歩き、繋いでおいた小舟に近寄ると、外から観察したり乗り込んだりして舟の点検を始めた。
この狩人、中々慎重な性分らしい。
出かける時も見たろうに、飽きもせずに散々舟を見回した狩人はようやっと満足そうに頷くと、桟橋の上に跪いてキラキラと光る水の流れにそっと両手を浸し、それを掬って顔を洗った。
濡れた顔を袖でグイと拭って、頬をピシャリと叩く。
「さぁて、もうひとつ、けっぱるとすっかね」
そうして元気を取り戻すと、また荷物の下へと戻ってそれを持ち上げ、今度は小舟に積み込み始めた。
まずは軽い肉の包みを持ち上げて船底に、銃は肩から降ろして立て掛け…と、最後に毛皮を乗せようという所で事件は起きた。
「うわっ! とっとっ…とぉっ!? 」
毛皮のあまりの重みに舟が大きくバランスを崩して揺れ動いたのである。
慌てて体勢を立て直そうとした狩人だったが時既に遅く、その動きで余計に弾みのついた舟はグルンと一回転。
舟に乗せた荷物諸共、狩人は川にドボンと落ちた。
先程冷たくて気持ちがいいなどと思っていた川の水も、こうなっては最早そんな呑気な事を言っている場合では無い。
ひっくり返った舟に必死にしがみつき、なんとか上によじ登ろうとする狩人。
その顔に何かが覆いかぶさった。
それは今まさに舟へと積み込もうとしていた熊の毛皮であった。
毛皮はまるで命を奪った相手に仇なすかのように広がっていくと、川の流れを一身に受けて本来の重みよりも余程強い力で狩人を押し始めた。
さしもの狩人もこれには耐えかね、舟を掴んでいた指はズリズリと端の方へと追いやられていく。
無論狩人とて木材に爪の後が残るほどしっかりと掴んでいるのだが、それでも自然の力というものは恐ろしく、遂に狩人はその手を舟から離してしまった。
離してしまえば後は早い。
狩人は自分が命を奪い、そして今逆に命を奪われそうになっている因縁の毛皮ともみくちゃになりながらあっという間に舟からも岸からも離されてただ川を流されていく。
無駄だとわかってなおジタバタと暴れる狩人だったが、息ができないのではそれも長くは続かず、そのうち意識をぷっつりと途切れさせてしまうのだった。
川は大人しくなった狩人をグルグル引き回したり浮かべたり沈めたりしながらどこまでも運んでいく。
それはまるで川という大きな生命が、気に入った玩具で遊んでいるかのような風情であった。
だが、どんな事にも終わりは来る。
先程の比喩を使って言うならば、川は狩人という玩具に飽きてしまったのか岸辺に彼をポイと打ち上げて、そのまま知らん顔してまたいつものように流れ始めた。
では流されていた狩人の方は、と言えばこちらは残念ながらいつものように立ち上がる、という訳にはいかない。
体には川底に擦った為にできた大小の傷ができていたし、冷たい水に長いこと浸かり過ぎた為にその手足は冷えきって随分と血色も悪くなっていたからだ。
だが、何たる運命の悪戯か、これほどまでに長く川に揺られていたにも関わらず、狩人の命はまだ尽きてはいなかった。
その証拠に、暫く時間が経った後に、ではあるが狩人はうめきながらもその目を開いたのである。
「はぁ…なしてこんな事に…」
起き上がって辺りを見回し、そこが自分の知る場所では無いことに気がついてから、狩人はそう呟いた。
今まで幾度となく往復した川だからこそ、狩人は今いる場所に生えている植物が普段の川沿いの物とは違った物であることに気づいたのである。
だが、それがわかったとてそれは彼に味方をする事実では無く、それどころか絶望を深める材料にしかならない。
なにせ全身くまなくびちゃびちゃの濡れ鼠、食料なんて一口もなく、現在地はと言えばどこかも知らない山の中、頼みの綱の銃は自分とは引き離されてどこかへ流され、おまけに周囲には深い霧が立ち込めていると来たものだ。
唯一の救いである水に困る事は無い、という点も、この川の水を飲んでも安全かどうかすらわからないのだから気休めにすらなりはしない。
まったく絶望的な状況であったが、それでも折角生き残ったからには死ぬのはごめんだと思った狩人は、ひとまず濡れてしまった衣服を絞って軽くしようと考えてズボンを脱いだ。
「おーい、そこに誰か居るんか? 」
不意に、狩人の背後から声がした。
まさか声をかけられるとは思っていなかった狩人は、驚いて飛び上がりその拍子に持っていたズボンを泥の上に落としてしまった。
べチャリ、という大きな音が辺りに響く。
「おー、やっぱり誰か居るなぁ、なぁに怖がるこたぁねぇ、オラおめぇの事を取って食ったりなんかしねぇからよ」
狩人は、そのなんだか親しげな声を聞いてゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
突然声をかけられたから驚いて取り乱したが、こりゃあよく考えれば渡りに船、事情を説明して帰り道でも教えて貰おうじゃないか。
そう考えた狩人は、下着姿なのも忘れて声のする方向へと歩み出て、そしてソレを目撃した。
「なっ、なんだいありゃあ」
叫びそうな口を咄嗟に抑えながら、狩人は木の裏で静かに震えていた。
狩人が霧の中、遠目に見たソレは、しかしそんな条件でもハッキリとわかる程に、人の形をしていなかった。
更に言えば、その影の形を狩人はその仕事柄よく知っていた。
親しげに、のんびりと、田舎のお人好しの農夫のように話していたその存在は、明らかにイノシシの形をしているのだった。
「まったく、臆病なやっちゃなぁ。
オラは別におめぇの事をどうこうしようって訳じゃねぇのによぅ」
ブツクサと話す声はゆっくりと、しかし確実に狩人へと近づいてくる。
狩人は先程不用意にも大きな音を立ててしまったのを今になって悔やんだが、後悔は先に立たぬもの、嘆いた所でどうする訳にもいかない。
素手で1戦交えようかとも思ったが、イノシシと素手で戦って打ち倒せる自信は狩人には…いや、狩人であるからこそない。
逃げようにもこちらは道を知らず、あちらが道を知っている現状ではいつかは間違いなく追いつかれてしまう。
あれもダメ、これもダメ、と悩んでいる間にも物音は近づいてくる。
もう己の命運も尽きたか、と思った狩人の目に、1つだけ現状を打破し得る物が映った。
それは衣服以外にはただ1つだけ一緒に流されてきたあの熊の毛皮であった。
狩人は静かに、それでいて素早く熊の毛皮を着込むと、その生臭さに閉口しながらも蹲った熊に見えるようにできる限り姿勢を整えていく。
やってきたイノシシに自分を熊と勘違いさせて追っ払おうというのである。
絶体絶命の状況が生み出したこの奇策が自身の首を締めていないことを今更ながらも祈りながら、狩人はイノシシを待ち受け、そして遂にその時は来た。
「おー、今度流されてきたのは熊公かぁ、ほれ、こんなとこで寝てっと風邪引くど」
「は? 」
一か八かの覚悟で望んだにしては気の抜けたその一言に、狩人の口から思わず困惑が漏れる。
「おっと、寝てなかっただか、こりゃぁ失礼。
ほんでもいくら熊公だでこんな場所で濡れたまんま居たら体に悪いべな」
狩人には何が何だかわからなかったが、とにかく今自分が熊と勘違いされていて、しかもなぜだか普通に受け入れられているらしいという事だけは理解できた。
「お、おう、俺も悪かったよ、なんせここには丁度流されてきたばっかで、如何せん気が立ってたんだ」
「おーおー、わかるとも、オラもここに流されてきたばかりの時はそりゃあもう混乱したもんじゃ。
まぁとにかく付いてきんさい、大したモンもねぇが、オラの仲間が建ててくれた寝ぐらがあるで、その濡れちまった毛を乾かすぐれぇの事はできるだよ」
狩人は会話の相手の隙を伺って熊の毛皮の腹に開いた穴に慎重に目をあて、相手の姿を改めてその目に捉えた。
ゆっくりと観察できる状況では無く、しかも狭い隙間から覗いたのでハッキリと外の様子が見られた訳では無かったが、先程遠目から見た時よりも相手の姿はしっかり見えた。
それでわかった事はと言えば、何度見ても親しげに話しかけてくるその相手は、やはりイノシシであって、何かの間違いで人になっているような都合の良い事態は、一瞬たりとも起こりはしない、という事だった。
この事実を目の当たりにした狩人はいたく落ち込んだが、今はとにかくこの訳の分からない生き物の機嫌を損ねるという訳にはいかず、ひとまず会話を続ける。
「それはまったくありがてぇ話だけども、ちっと迷惑なんでないかね?
お前さんらだって寝床が水で濡れるのは嫌だろう」
「なんもなんも、オラだって昔はおめぇみてぇに濡れ鼠の天涯孤独だったのを今の仲間に拾って貰った身よ、同じ境遇の相手に手を差し出さんとあっちゃあオラの仲間に申し訳が立たん」
「ああ、そ、そうか、それなら…その…うん、お邪魔するとすっかな」
何とかして自然に離れて貰おう、そう思っていた狩人だったが、元より口下手故に人より自然相手の方が具合が良いと狩人をやっていた男である。
その上相手の提案は少なくとも表面上善意しかないとあっては最早彼に為す術はなく、マトモな言い訳も思いつかないうちに言いくるめられて離れるに離れられない状況へと追い込まれてしまった。
「それがええ、ほんならオラの後ろに付いてくるんだぞ、ここらは霧が深いでここらの事をよく知らん者がうろつくにゃ、ちょいと不便するからな」
「おお! それは気をつけなけりゃいかんなぁ! 」
ちょうど絶たれたと思った希望が再び手の届く所へ戻ってきた事に喜んだ狩人は勢い込んで答えた。
当然この霧で迷った事にしてどこかこのよく分からんイノシシに似た生物が追ってこない場所まで逃げ延びるつもりなのである。
「なんだか調子が出てきたみてぇで良かったけんど、あんま浮かれてっと逸れっちまうぞ」
「おう、俺はこの上なく気をつけるとも」
狩人がコクコクと大袈裟な程に熊の首を手で動かして頷いてみせると、イノシシも満足気に頷いてくるりと振り向き、元いた方向へと歩いていく。
狩人は早速別の方向に歩こうとも思ったが、最初から逸れたんじゃあおかしく思うに違いない、と思い直してここは一旦イノシシについてこの毛皮を山で運んでいた時のように歩きはじめた。
ややあって狩人がそろそろこの場を離れて逃げ出そう、などと思っている所に、不意にイノシシから声がかかる。
「なぁ、熊さんよ」
「うおっ! なっ、なんだべ? 」
脱出計画を考えているところに話しかけられたのだから狩人はびっくり仰天、大声を上げてしまった上に、その後に平静を装って続けた声はうわずる始末。
不審に思われたかと思ったものの、イノシシの声色にただ少し困惑が追加されただけでなんとか凌いだ。
「いや、そんなに驚かれちゃ話しづらいんだけども…」
「昔っから図体に似合わねぇ小心者だもんで…面目ねぇ」
「そんな事気にする事は無ぇべ、オラはもうちっとばかり自分が用心深けりゃ良かったと何度も思ってらぁな」
「いやぁ、そんな事言われちまうと益々面目ねぇ。
だけども折角そう言ってくだすったならこの件に関しちゃこれで終いにするとしやしょう。
ところで俺に話とは一体なんのお話で? 」
狩人は励まして頂いたから、と恩を返すつもりで気軽に尋ねた。
「ああそうじゃ、聞きそびれる所だった。
頭をそんなにグラグラ動かして、いってぇどうやって前見てんだい? 」
狩人の背にツツーッと冷や汗が走った。
そして、態々墓穴を掘るような真似を自身を静かに恨んだ。
なるほど確かにこの熊の頭はグラグラと揺れているにも関わらず前を見る事に支障はない。
何故かと問われれば至極簡単、中の狩人が外を伺うのに使っているのは胸についた傷であって頭部ではない、つまり頭部なんか正直どう動いていても視界にさして影響は出ないのである。
だが生身の生物の目は当然頭についているので、頭を可動域の限界までぐにゃぐにゃガクガク揺らしながら歩行していたら視界もグラグラ揺れてとても真っ直ぐ歩くどころの騒ぎではない。
疑問を持たれるのも当たり前である。
「あ、あー、そらアレだな、そのぅ…ホレ、さっき俺が小心者だって話はしたろ? 」
「おう、確かにしとったな」
「そんであんまり小心者だもんで、いっつも周りを見回してねぇと落ち着かねぇんだ。
前を向いてる時間が少ないのはまぁその…慣れると案外こんなもんでも道がわかんのよ」
「ふぅん? 」
しどろもどろになりながらした説明を聞いて、イノシシは胡散臭そうに思っているのを隠しもしないで相槌を打った。
当然狩人もこんな理屈は無理がある、と思っていたので今作った適当な理屈をこの他にも次々と並べ立て、早口で説明していく。
あんまり狩人が必死に理屈を並べ立てるものだから、最後にはとうとうウンザリしてしまったイノシシが
「なんだかよく分からんけど、まあおめぇが別に不便してねぇってんならオラから言うことは何もねぇよ」
と言った事でとりあえずこの話はそこでおしまい、という事になった。
急場を凌いだ狩人はホッと息をつき、またイノシシに付き従って歩き始める。
そう、彼の頭の中からはもう今の一連のやり取りを乗り切った事に対する安堵でいっぱいで、最早もともと実行しようとしていた脱出計画については頭の隅に追いやられてしまったのである。
次にこの脱出計画について狩人が思い出したのはずーっと後、具体的に言えば結構な距離を歩き回ってくたくたになった狩人に
「ほら、もう目の前だあとちっと頑張んな」
と、イノシシが声をかけた頃であった。
ほぼ反射でイノシシの指さす方を見て、なるほど建物らしき物が霧にぼうっと浮かんで見えるぞ、と思った時初めて狩人はしまった! と思ったのである。
なにせここまで目的地がしっかり見えているのでは、今更迷った、などといういい加減な言い訳が通用する訳が無い、どう考えても相手を恐れて逃げ去ったと言うことがバレてしまう。
そうすれば今は優しげなこの怪物が、どんな形相で向かってくるかなんてわかったものではない。
ただのイノシシですら銃なしで向かい合うのは恐ろしいのに、話すイノシシなどというどう考えてもこの世の者ではない怪物を敵に回すには、狩人はやはり小心者過ぎたのである。
そういう訳で狩人は一旦抜け出しにくくなったとしてもその寝床とやらに入ってしまってから行動を起こす事にした。
もっとも、狩人がそうしようと思ったのはそれだけが理由という訳では無い。
単純に、更に近寄った狩人の目に映ったその建物が、小屋のような形をしていたからである。
狩人は当初、イノシシが寝床などと言うからには良くて地面に穴を掘ったり草が敷き詰めてあったりする程度の物だろうと勝手に思い込んでいたのだが、実際のところはと言えば、人間基準で見れば立派とは言えずとも、しっかりとした土の壁と藁で作られた屋根のある家と呼んでも差支えのない物があったのである。
これ程しっかりとした物はどう考えてもイノシシの蹄では…いや、もっと言えば人の手以外で作るのは到底不可能だろう、狩人はそう思ったからこそこの不思議な小屋に興味を持ったのである。
「ほー、こりゃあ確かに、立派そうな建物だべ、おめぇさんが作ったんか? 」
「いやぁ、ありゃあオラが作ったんでなくて仲間のうちに手先の器用なのが居ってな、そいつが作ったんじゃ。
アイツは何かを作るのが好きでなぁ、ほれ、あっちの方にいっぱいある同じような寝床もぜーんぶアイツが作ったんよ」
目を凝らして見回すと、狩人には確かにそれらしい物が幾らか見え、そしてその周りにその姿はなんとも判別し難いが動き回る影もまた、幾らか見えた。
どうやらこの辺りは1つの村のようになっているらしかった。
「ほれ、入んな入んな、お前さんにゃあちっと小さいかも知れんがね」
イノシシは鼻先でドアを押し開けると、家の中へと入っていく。
狩人もまたそれに付き従い、熊として不自然さがなるべく出ないようにかがみつつ、その入口を通った。
「おう、イノシシ、誰か拾ってきたな、私には匂いでわかるぞ」
ドアを通った途端、甲高い声が狩人の耳を襲った。
耳を抑えつつちらりとその音のした方を見ると、1匹のネズミがイノシシと向かい合って話す姿が見えた。
「うん、オラが今度拾ってきたのは熊公だ、新しく流されてきて困ってたもんでな、寝床が決まってここの勝手がわかるまで置いておく事にした」
「ほう、ほう、確かに水の匂いと熊の匂いだ、だがなんだか違う臭いもするような、一体これは何の匂いだったか」
訝しむようなその声は正しく核心を突いていた。
なにせ知っての通りこの熊には人が入っているのだ、人の匂いもするに決まっている。
狩人はまたも窮地に立たされる羽目になった。
「何かの勘違いじゃないか? 俺にはそんな、何か他の匂いをさせるような心当たりは無いがなぁ」
「いいや、私が匂いを間違える訳が無い、するぞ、確かに何か別の匂いがする」
震えながらした狩人の小さな反論は、しかし一瞬にして棄却された。
「ええい、よさんかネズ公、オラの客に変な言いがかりをつけるんでねぇ! 」
「言いがかりとは失敬な、私の鼻が信じられんと言うのかね」
「そんな事オラ言ってねぇ! オラの客に変な事で食ってかかるなと言っとるんじゃ! 」
「同じ事だろう、私の鼻とその新参者、一体どちらを信じる気だ」
やいのやいのと喧嘩をする2匹を尻目に、このまま喧嘩が続けばいいが、終わる頃には自分の正体は確実にバレる、そう思った狩人は頭を抱えて考えた。
考えに考えて、1つだけやり方を考えついた狩人は未だ言い争い続ける2匹に向かって口を開いた。
「あー、その、そういえば1つだけ心当たりがあった。
そりゃ人間の匂いじゃねぇか? 俺、ここに流されてくる前までは人間に飼われとったんじゃ。
だもんでその匂いが毛に染み付いちまってるんでねぇかと俺は思う」
「ほう! 人間か! 」
それを聞いたネズミはイノシシと言い争うのをパッタリとやめ、少し考え込むような仕草をした後に手を叩いて頷く。
「なるほど確かにこれは人間の匂いだ、その話なら辻褄も合う」
「なんでぇ、そんな話があったなら最初っから言ってくれりゃあオラだってこのネズ公と喧嘩せんで済んだのによぅ」
少し拗ねた様子のイノシシを見て、そもそも大嘘をついている狩人は少し申し訳なくなった。
とはいえ幾ら申し訳なくとも正体を明かす事はできない。
そこで狩人はもう1つ嘘をつくことにした。
「いやぁ失敬、俺もこんなよく知らん場所に流されてきた所で、いっぱいいっぱいだったんでよ、言い漏らしがあったのは申し訳ねぇ」
「ああ! 謝らんでくれよ、元はと言えば流れてきたばっかりの新参に要らんことを言ったこの阿呆が悪いんじゃ。
ほれネズ公、おめぇもさっさと謝らんかい」
「私がか? 良いじゃないか私の事は、別に恫喝した訳でもあるまいし」
「なんだとこのネズ公め! 」
「いいから! 俺は気にしてねぇから! 」
再び怒り始めたイノシシをなんとか宥め、狩人は改めて小屋の中へと入れて貰った。
外観に違わず、内部もまたイノシシやらネズミが使うには十分過ぎるほどにしっかりとした物になっていた。
木で作られた骨組みは頑強に屋根を支えており、ちょっとやそっとで崩れるようには見えなかったし、床も流石に板張りとは行かなかったが、しっかりと固められた土の上に隙間なく藁が敷き詰められており、最低限寛げる程度の状態を保っていた。
狩人はその藁の上にのそのそと這い上がると、ちょうど熊1頭が落ち着ける程度の場所を見つけてそこに不自然にならないように細心の注意を払いながらその身を横たえた。
多少なりとも柔らかい床というのは偉大なもので、最初はこんな所に長居していたら命が危ない、と思っていた狩人も、川に流されたり毛皮に入って長いこと歩いたりした疲れが出たのか、次第に眠気がわいてきて、とうとうすっかり寝入ってしまった。
彼が次に目を覚ましたのは、小屋の中に
「おう! 良い土産を持って帰ったぞ! 」
という元気の良い大声が響いた時である。
ビックリして目を覚ました狩人が例のごとく毛皮の穴からチラリとそちらを眺めると、今度来たのはトラであった。
だが、それよりも狩人を驚かせた物がある。
「こらこら、あんま騒ぐでねぇぞトラ公、今新入りの熊公が寝とるんだから」
「あ? オレがいつ騒いだってんだよ、んな事よりこれ見ろこれ! 」
それはトラがくわえてきた『土産』であった。
なんとそれは船が転覆した時に無くしてしまった、と狩人が思い込んでいた熊肉の包みだったのだ。
「ほう、これは肉の匂いだ、それもここじゃ滅多に無い新鮮なやつだ」
「肉なんぞオラは食わんぞ、芋なんかの方がよっぽど美味い」
「馬鹿言え、肉に勝る飯なんかある訳ねぇだろう。
それにほれ、こんだけ新鮮なら食ったらまたひとつ、近づけるかも知れんぞ」
近づける、という言葉が何に対する言葉なのか、狩人には見当もつかなかったが、とにかくこのトラからは今まで会った獣達よりも嫌な雰囲気を感じていた。
「近づく、ねぇ…本当にそんな事ができるのやら疑問だども、おめぇが言うなら食ってみっかな。
おっと、そうと決まれば熊公も起こしてやらねぇと、ほれ、起きなよ熊公」
イノシシが鼻先で狩人をぐいとゆすぶったので、狩人もこれ以上寝たフリをしているという訳にはいかず、のそりと起き上がる。
「ああ、どうも知らぬうちに寝入っちまっていたようで。
それから新顔も居るな、どうも初めまして、俺は熊」
「見りゃあわかる、そんな事よりお前もホレ、コイツをどうだ?
あの誰が建てたんだかわかんねぇ壊れた橋の近くに流れ着いてたんだ、他にもよく分からんもんもあったんだがソイツはほっといてこの肉だけ頂いてきたんだよ、どうでぇ上手くやったろう? 」
ガハハ、と笑うトラを前にして、いい加減この状況にも慣れてきた狩人は静かに考えを巡らした。
あの包みに入っているのは間違いなく生肉である、それを食べるのはなるべく御免こうむるが、だからといって今の自分は熊の姿をしているのだからこれを断るのも不自然だ、さてどうしたものか…と、考えた事で狩人はハッと気づいた。
なにも熊の口をくぐらせれば良いのであって、自分が食う必要など無いのである。
そうと決まれば話は早い、狩人は
「ありがたく頂くべ」
と言って、トラが広げた包みの肉へと手を伸ばした。
ところがこれが手を出す事を決めた時ほどにはあっさりといかない。
なにせ今狩人が使っているのは熊の手、人の手程器用でないし、そもそも今の狩人は着ぐるみに入ってその手で物を掴もうとしているに等しい。
その上掴もうとしているのがある程度滑りやすい生肉であるのだからたまらない、散々手間取った末に結局鉤爪に引っ掛けて無理やり口に押し込んだ。
そして狩人はまったく失念していたのだが、熊の口に生肉を押し込むという事は毛皮の中に生肉が落ちてくる、という事である。
狩人はものの見事に顔面で生肉を受け止め、口に数滴流れ込んできた血まで飲んでしまうという憂き目にあう事となった。
だが、この決断が起こした苦労はこれだけに留まらない。
「お前、随分と変わった食い方すんだな」
「んだ、食いもんで遊ぶのは感心しねぇぞ? 」
こうも挙動不審となれば、当然他の獣達からも不審な目で見られる。
狩人はまたも窮地に立たされた。
こうなればなんとか上手く2つ目の肉を食って疑いを晴らす他あるまい、と考えた狩人は、何も言わずにもう1つ肉を取って口へと運んだ。
先程の事でコツを掴んだのか、今度は手間取ることなく口に運び、飲み下した肉もしっかり躱して足下へと逃がしてみせる。
「さぁさぁ、俺ばっかり食ってたんじゃ申し訳ねぇ、皆さんも食ってくだせぇよ」
「おう、まあそれもそうだな」
何故1度目と2度目で食べ方がこんなに変わるのか、という不思議な出来事に頭を捻りながらも、トラとネズミ進んで、イノシシはいやいや肉に食いついた。
対照的な様子を見せた三者だったが、次第に全員その顔を渋面に染めていく。
「こりゃあダメだ、幾ら新鮮でもやっぱり死んでいちゃあいかん」
「うん、やっぱりそうか、残念ながらそういう事らしい」
「オラは最初からダメだと思っとったがね」
三者が口々に失望を口にする中、狩人は何とは無しに3つ目の肉を口に運び、そして仰天した。
なんとも恐ろしい事に、今飲み下して目の前に落ちてきた肉に、咀嚼された痕跡が残っていたのだ。
考えてみればおかしな事である、悪戦苦闘したはずの事が1度で上達する、長時間歩いてもボロが出ない、そもそも考えてみればイノシシに気づかれてから見つかるまでの短時間で違和感なく着込めるほど、熊と人の体格は近くない。
すべては毛皮自体が勝手に動いていたと思えば説明のつくことである。
気づいてしまったからには最早今まで命綱にしてきたこの毛皮も、気味の悪い物にしか思えず、狩人はたまりかねて熊の毛皮から飛び出した。
「なんと! こりゃ一体どういうこった! 」
…もっとも、その事実に気づいたのと引き換えに、今飛び出す方がまずい、という事実は頭からすっぽ抜けてしまったのだが。
さて、この狩人は気味の悪い毛皮から脱出したのと引き換えに、目の前の3匹の獣達に正体を晒してしまったのであるが、それ以外にも彼を心底後悔させた事実が1つある。
それは今まで霧越しであったり、毛皮の穴からであったり、とにかくハッキリとは眺められなかった3匹の獣の姿をしっかりと見てしまった事であった。
狩人が見たところ、この3匹の獣はみな、本来なら絶対に死んでいるはずの傷をその身体に刻まれていたのである。
「オイ、オイ、オイ! 」
トラが…いや、首筋を大きく抉られて、骨まで見えているトラの死体が笑いながら叫んだ。
「こりゃあ生きてる! 生きてるぞコイツ! 」
「なんと、それは本当か! いや、よく嗅いでみれば私にもわかるぞ、確かに生きている! 」
興奮したようにちょうど目の部分が何かに踏まれたようにぺちゃんこになっているネズミの死体も叫んだ。
「熊公が人間で…その人間は生きてて…いやぁ、オラにはさっぱりわからんくなってきたぞ」
そんな中で、ただ1人脇腹が大きくえぐれたようになっているイノシシの死体だけが静かに困惑していた。
「わからんも何もあるか! コイツは生きてんだ、コイツを食えば川を登ってまた現世に帰れるかも知れんぞ!
いや、そうでなくとも生き返りに近づけるに違ぇねぇ! 」
今にも狩人に踊りかからんとしたトラの前に、イノシシが立ち塞がった。
「オラはそんな事はしねぇ、会ったばかりならいざ知らず、熊だろうがそうでなかろうが、オラと話したのはあの人間だ、話した相手を食ってまで、生き返る気はねぇ! 」
「ほほう、ならば何故君はこんな所に留まっている、さっさと川に流れて輪廻に還れば良いものを。
それに私達の邪魔をする筋合いなどありはしないはずではないか」
獣達が牙を剥き、唸りあう中で、狩人はひっそりと毛皮の中に戻っていた。
そしてそのまま手をついて4足の体勢を取ると、扉に狙いを付けて構える。
ネズミかトラか、気づいた方があっ! と声を上げるがもう遅い。
次の瞬間には熊と化した狩人は駆け出し、扉をぶち破って外へと飛び出した。
そしてそのまま目の前に生えていた大きな木へと飛びついて登り、更にその隣に立っていた建物の屋根へと降り立ってようやく一息つく。
毛皮が勝手に動くならば、もしかすると熊としての力を借りられるのではないか、と思った狩人の予想が的中したのである。
「ああ、もうわやじゃ…」
呟いた狩人の眼下に広がっていたのは、一体どこから広まったのか、生きた人間を捕まえろ! と口々に叫ぶ死体の群れであった。
その多彩さたるや凄まじいもので、リスだのトカゲだのの小動物からゾウだのオオカミだのの大きな生物に、果てはヒトまで揃って叫んでいるのだからそれはもう恐ろしい様相である。
だが、最も恐ろしいのはそれらの生物は尽くみなどこがしかに傷を負っており、酷い者は全身グズグズで何の生物かもわからないような有様である、という所なのだった。
とにかく逃げねば、と考えた狩人は目の前に立ち塞がってみせたサルの死体を熊の膂力で払い除けながら走り出す。
行くアテなど無いように思えたが、狩人は唯一のアテをしっかりとおぼえていた。
それは即ち、トラが肉の包みを拾ってきた”壊れた橋の近く”である。
トラが肉以外の物も落ちていた、と言っていたのでここに銃が落ちている事に賭ける事にしたのだ。
無論狩人とて銃一丁でこの量の敵を相手できる、などという夢物語を信じて取りに行こうとしている訳では無い。
単に心中するならこんなよくわからない気味の悪い熊の毛皮なんかよりも、長年連れ添った己の愛銃と共に死んだ方が良い、と思ったまでである。
もっと良い方法があるならば狩人とてそうしたのだろうが、生憎この状況で取れる他の選択肢を狩人は持っていなかった。
そういう訳で狩人は行きに来た川からの道を今度は逆走して川へ向かって走っていったのである。
本気で走った熊の速度は凄まじく、人間の足ではウンザリするほど歩かなくてはならなかった所まで来るのに、熊の体ならばさしたる時間はかからなかった。
ここまでは森の中で熊の速度に追いついて来るような生物は居なかったものの、川沿いを壊れた橋を探して歩き始めてからは、ちらほらと追いつく者も現れ始める。
しかしながらそれらの散発的な襲撃程度では熊の体はビクともせず、逆に皆返り討ちにして川へ放り込んでやると、為す術なく川を流れていくのだった。
なんだか熊も悪くないのでは無いだろうか、狩人がそう思い始めた頃に、それはやってきた。
ウマに乗ったヒトが追いついてきて、足並みを揃えさせた獣達を一気にけしかけてきたのである。
例え熊の膂力であってもこんなに一気にやってこられては堪らない。
迫り来る敵をちぎっては投げちぎっては投げと川に追い落としても、やはり毛皮にどんどんと傷が増えていく。
狩人がそろそろ己の命運も尽きた頃であろうか、とも思った頃にふと、見えた物があった。
それは壊れた橋であった。
希望を見出した狩人は、小屋の扉を突き破った時と同じ要領で、万力の力を込めて周囲の獣達を弾き飛ばしながら走ると、一気に壊れた橋の近くまで走り抜けた。
ところが橋を見ても何ひとつ物など落ちていない。
しまった別の橋であったか、と狩人は一瞬思いかけたが、トラが橋の近く、と言っていた事を思い返して辺りを見回すと、彼の愛銃は果たしてそこにあった。
だが、獣達もまた背後まで迫ってきていた。
狩人はすぐさま走った。
それでも獣の方が素早く、狩人の手が銃にかかるよりも早く熊の背にその爪と牙が食いこんだ。
それでも狩人は死んでいなかった。
獣達の恐るべき牙がその背に食い込む前に、彼は毛皮を脱ぎ捨てて転げるように銃のもとへと身を投げ出していたのである。
この事実に気づいた獣達がその狙いを熊から狩人へと変えるまでのわずか数瞬、その間に狩人は司令塔であるヒトへと狙いをつけ、引き金を引いていた。
ダーンッ!
銃声が森に響き、ヒトがウマの上からどさりと音を立てて落ちた。
それを聞いた獣達が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、後にはクマの毛皮と狩人だけが残された。
「はぁ、はぁ、た、助かったんだべ? 」
「いいや、そうでもねぇさ」
なんとはなしに言った狩人の背後から、地に響くような声で応答が返ってくる。
「お前を食ってワシが現世に帰る、それで異論はねぇだろう? 」
むくり、と毛皮がゆっくり体を起こす。
そこにあったのはまさに、狩人が罠にかかっていたのを殺した時の姿そのままの堂々たる大熊の姿であった。
まさに絶体絶命、危機の多かった今日の中でも最も危険に晒されている、と言っても良い中で、狩人はしかし地面に唾を吐き捨て、啖呵を切る。
「へっ、1度俺に殺されて身でほざくじゃねぇのこの熊野郎め」
対するクマは静かに体勢を整え、それを返答とした。
そして狩人もまた、銃を突きつけ、引き金に指をかける。
限界まで張り詰めた空気が、水滴の落ちる音によって破れる。
先に動いたのは狩人、放たれた弾丸は狙い過たずクマの眼を貫いた。
だが、言ってしまえばそれだけで、クマの勢いを止めるには至らない。
牙のズラリと並んだクマの顎が、狩人の眼前に現れる。
ガチン! という音が森に鳴り響いた。
狩人が咄嗟に牙に噛ませた銃が硬質な音を鳴らしたのである。
だが、鋭い牙はそれで防げたとしても、勢いまでは殺せない。
足下が泥で不安定なのもあってズルリと滑った狩人は背後の川に真っ逆さま。
悔しげに吼えるクマを眺めながら川底に頭を打って意識を失ってしまった。
「おい、おい、アンタ! しっかりしろ! 」
次に狩人が目を覚ましたのは、また森の中であった。
だが、顔を覗き込んでいるのは人の顔。
それも血色も悪くなければ大した傷もない、ふつうの人の顔であった。
「ああ、おめぇさんその、変な事聞くけどよ、死んでねぇか? 」
問われた人は、開いた口が塞がらないといった様子で頭をふりふり答えた。
「そら俺がアンタに聞きてぇこったよ。
こっちからすりゃ急にアンタが川から流れてきたんだ、死んじまってんじゃねぇかと気が気じゃねぇっての」
「おー、ソイツはなんというか、すまなかったな」
「ま、良いってことよ。
とにかく一旦山を降りねぇとなぁ、まったく今ちょうど山菜採りに来たとこだってのに…」
目の前でブツクサ言っている男のあまりに普段通りなのを見て、狩人が、今までのは川を流されている間に見た夢だったのだろうか、と考えて首を捻っていると、男から更に声がかかった。
「ああ、後アンタの銃を忘れんなよ、随分しっかり抱えてたからな、大事なもんなんだろ? 」
「そうだそうだ、ありがとよ、確かにコイツは大事な…」
狩人は愛銃の姿を見て言葉を失った。
そう、その銃には最後にクマに嚙まれた時の大きな歯形が残されていたのだった。