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巻の九 帝王の器(ドーナツホール)

 そして誰でもない人がここにもう1人。

 皆に見つめられるが誰にも顧みられない宇宙の中心。

 他人が彼に望みを託す。

 一人で背負いきれないほど。

 背負いすぎたらどうする?

 全て、聞き流す。


 人として生きながらにして、心を持ちながら、虚無。

 邇仁は猫を撫でながら、ちらりと上目遣いで靖晶を見た。


「そなたもそれを治せと言う口か? 何をしてくれるつもりでいる? 女人の股ぐらが美しく見えるまじないでもかけてくれるのか? もうそなたの父が散々やったからやめておけ。予は別に何も困っていない」

「臣が困るのです! 帝王ともあろう御方が跡継ぎを作らないで。お身体の具合が悪いならいざ知らず――」

「歴史上、継嗣(けいし)のない帝王などいくらでもいる。古くは五帝、(しゅん)(ぎょう)の子にあらず! ()もまた禅譲されたものである!」


 急に、邇仁はすらすらと唱え始めた。手の中の宰相の君がびくっと顔を上げた。……いきなり古代中国の話が始まってしまった。五帝って『封神演義』より前。


「本邦にあっては天智の帝の跡を継ぎしは弟の天武の帝! むしろ歴史をひもとけば、弟に譲ると言ったものを我が子に与えようとしてモメることの方が多いではないか。早良親王も薬子の乱もそうだ。東宮が子を授かればよい。親戚は他にもいくらでもいる、式部卿宮とか。どんな前例もあるではないか。世継ぎが予の子でなければならぬというのは確固たるこの世の(ことわり)ではなくそなたらの都合だ」


 ――ガチガチに理論武装している。この話は彼にとって地雷ですらないのだ。


「そなたはどうだ、安倍晴明の末裔! 安倍晴明のDNAを後世に伝えるためだけにプライドのない結婚をしたか!」

「ウウッ!」


 自分のことを言われると耳が痛いが、ここで引き下がるわけにはいかない。


「で、でもあの。男は自分で産まなきゃいけないわけじゃないんですから、女ほどキツくはないしやってみたら楽しいかもしれませんよ? 女御更衣がお気の毒です」

「五百回くらい聞いた。やったら何ほどのこともない、楽しい、気持ちいいと。子を授からぬ美姫たちは埃をかぶって老いてゆくだけか。美女が好みでないなら醜女はどうか。やせているのが駄目なら太っているのはどうか。男のような女なら。いっそ寝ている間に何とかできないか」


 邇仁は冷ややかだった。宰相の君の方が不安げに彼の顔色をうかがっている。猫も人間を気にすると初めて知った。


「予が何を思おうがどうでもいいのだ。そなたも同じか播磨守。次は不豫(病気)だと騒ぎ立てるのか。本当に具合が悪かったら仕方ないと諦めたのか? 予が犬に股ぐらを噛み千切られでもしていたら納得したのか? それでも頑張って〝人並み〟にしてくれたのではないか? もっと具合の悪い者でも摂政がどうにかしてきたのに?」


 ――官奏の前の〝内覧〟は元々摂政の権限だ。幼帝に代わって政治の最終判断をするための。幼すぎてものが言えないどころか乳飲み子の帝は珍しくなかった。

 だが二十一歳の邇仁は臣下に〝内覧〟をしてもらう必要などない。


「本当は具合が悪くてもどうでもいいのだろう? 己の都合で予にかまっているだけなのだろう?」


 宰相の君が小さな前足で邇仁の手をはたいた。仔猫とはいえ爪を引っかけるのではないかと思ったが――

 爪は出ない。御引直衣の袖を押すばかりだ。そういえばこの塗籠の中のものには引っ掻いた傷など一つもない。猫の住処(すみか)なのに綺麗すぎる。


典薬寮(てんやくりょう)もそなたの父もそれはいろいろ手を尽くしたが放っておいてほしいのだ。なぜこの件だけやめろと言って素直に引き下がらない、そなたらは」

「……女人に興味がない、だけではないと。明空さまとも」

「愛人というのはそう言った方が皆すんなり納得するから。否定してもなぜか誰も信じない。話がこじれる」


 邇仁は宰相の君の前足を取って、桃色の肉球を触り始めた。爪が覗いたが、やすりでもかけたのか猫のものと思えないほど丸められていた。


「男も女も同じだ。なぜ女が駄目なら男を抱いているのだろうと思うのかもよくわからんが。そなたら、そんなに四六時中、股だの尻だののことを考えているのか? 人の腰より上はただの飾りか? 予はとても忙しいのに眠る時間を割いて女を抱けと言われる。無駄とは思わんか? 他に考えるべきことは数多あるのに。予は麗景殿も源四郎も賢木中将も尼御前も、そなたも同じように好きだがなぜ納得しない?」


 ――宰相の君も?


「口先で好きだと言うだけでは駄目なのか? 肌を合わせなければ愛がないことになるのか? 源四郎は家族も同然だ。大好きで何でも望むようにしてやりたかったがそれだけができなかったばかりに、あれは嘆いて仏門に入ってしまった。――かわいいしかわいそうだと思うが一番度しがたいのもあれだ。なぜ出家してしまった。心で好いているだけでは駄目なのか? なぜ? 予が何とも思っていないと? あれが俗世を離れて一番傷ついたのは予だ。捨てられたと思った。この機会に俗に還ってきてほしいと思ってはいけないのか。丹後守から公卿になった者もいるぞ。これから順繰りに相応しい身分を授けようというのに。僧をやめるのに叡山の許しが必要とは知らなかったのだ。予はよかれと思って」


 多分正論なのだろう。〝八歳の源四郎明丸〟を知らなければ靖晶もそう思っただろう。

 ――この塗籠に明るくて働き者の〝源四郎明丸〟を閉じ込めてその無邪気なところを邇仁が愛でて、残りを外に出せば〝明空〟になるのだろうか。

 ご寵愛があるならまだいい。その美しさを愛されているのなら。顔が綺麗なのだって彼の取り柄だ。

〝何となく〟〝そばにいるから好き〟〝皆と同じように〟

 ――それはたまらないなあ、たまらない。

 皆と同じように生きろなんて言われたってどうにかなるはずがない。


「――ご自分は〝人並み〟に合わせるのがお嫌なのに明空さまには〝普通〟になれとおっしゃるのですね」

「なれも何もあれは元々〝普通のスケベ〟なのだ。予はよく知っている。女が好きとは最近知ったが」


 邇仁はため息をついた。


「よく派手にコケる。全部見えているから助けてやろうと思うのに、本人だけが隠しおおせていると信じていて予が手を差し伸べると遠くに逃げてごまかす。見栄っ張りなのだ。好いた女がいるなら結婚しろと言って何が悪い! 予は首尾一貫して理路整然としている、あれがややこしいのだ! 普通のスケベなら普通にしていろ!」

「まあ……明空さまの生来のこじらせも大分ありますけど……」


 その〝好いた女と結婚しろ〟というのが靖晶の大地雷だというのはいったん置いておいて。


「そもそもあの方を〝道鏡〟にしてしまった原因は?」

「玉体を守るための緊急避難だ。そなた、媚薬で死にかける苦しさを知らんから好きなことが言える」


 両手で宰相の君の脇の下を掴んで持ち上げると、宰相の君はだらんと伸びる。邇仁は子供をあやすように緩やかに左右に揺さぶる。


「まず、安直なやつは酒に酔わせてその間に何とかしてしまえばいいと考える。それで酒に眠り薬をチャンポンされて三日、目を醒まさずに眠り続けたことがあり、当然その間、男として役に立ってはいなった。次に男をその気にする薬では下半身に血が回って、その反動で胸が苦しくて頭がガンガン痛んでそれどころではなかった。なぜか腹の下るものとか血の尿(ゆばり)が出るものとかあったな。毒を盛っておいて不豫(ふよ)だ病弱だと騒ぐのだからおめでたい連中だ」


 目の前が暗くなった。確かに知らなかった。

 ――土御門の邸にも唐天竺(からてんじく)伝来の薬学の書が少しはあり、薬草や茸がいくらかある。調合用の道具と秘伝がある。

 烏頭(トリカブト)は、少しなら強壮作用があるという。ほんの少しなら。自害用に備えているわけではない。

 典薬寮なら牛黄(ごおう)蟾酥(せんそ)のような世間に出回らないものもあるだろう。


「そなた、薬で悪夢を見たことはあるか? 薬で見る夢は並みの悪夢とは違う。手をつねれば痛いし苦しいが目が醒めない。思い出したくもない」


 いや、知っている。

 匂い袋、練り香、煎じ薬、黒焼き。生薬(しょうやく)、丸薬、膏薬(こうやく)

 気力が湧くもの、心を落ち着け気を鎮めるもの、眠らせるもの、幻を見せるもの、感覚を鋭敏にするもの。

 女を惑わすもの、男を(とりこ)にするもの。

 淫心をかき立てるもの。

 アッパー、ダウナー。

 カフェイン、エフェドリン、アトロピン、スコポラミン、トロパン、シロシビン、ブファリン、カンナビス、オピオイド。

 知っていても決して使ってはいけないとされる諸々。


「ありとあらゆるひどい目に遭った。勧められたものを口にするふりをして捨てるのは得意だ。香のあやしいのは小鳥がよくわかる、目白が悲鳴も上げずに死ぬ。菓子や薬湯はまず殿上童(てんじょうわらわ)の適当なのに分けてやると言って毒見をさせるのだ。相伴を断る者などいない」

「殿上童って、貴族のご子息じゃないですか」

「殺すつもりでやっているわけではないので己の息子が泡を吹いて倒れないとわからぬのだ、あやつら。ちょっと惚れ薬でその気にさせる、強壮剤で元気にする、自分はこれがよく効いた、程度の気分で(ひき)の毒やら茸やら盛ってきて予をひどい目に遭わせる。〝親切な〟連中とは度しがたいものでな。女官や蔵人では駄目だ」


 その、薬を盛る方に靖晶の父が協力していたと。――するだろう。靖晶だって大臣さまが頼んできたらそうする。

 命令されたら考えずに従うしか取り柄がないから。

 上の人もまるきり馬鹿じゃないんだから何か考えてくれているだろうと丸投げして――

 一番上がこの御方だ。この世の全てをご存知なほど万能なはずもなく、途中に一人でも馬鹿が挟まっているとその責任を負わされる。


「源四郎の力も借りて試行錯誤していたのだ。あれも何度かやられて倒れた。命の恩人に報いるつもりは十分にあるぞ」


 もういっそ殴ってほしい。

 いつぞや、「お偉い方は大人のくせに葡萄(ぶどう)一つ剥いて食べることもできないのか」と思ったのが恥ずかしい。

 邇仁は宰相の君が小さくねうねう声を上げたので揺するのをやめ、板敷に置いた。宰相の君はよたよた歩くが綾の紐がもつれてよろめいた。


「必死で避けるより、女を抱いて終わるならその方がずっと楽なのはとっくにわかっている」

「おわかりなのですか」

「勿論。先帝は皇女は六人いたが皇子は予と東宮のみで陰で役立たずと呼ばれていた。不豫と言うが腎虚で崩御したのだ。一回や二回で終わるわけがない。自ずから薬など召して無理をなさったのかもしれない。更衣が女六の宮を産んで死んだとき泣いておられた。また女だった、予に苦労をかけると。予の母も死んだし斎院の母后も死なせてしまったと。男は女ほどキツくないだと、嘘だな。そなたがキツいと思わなかっただけだ。不得意な者の気持ちがわからんだけだ。――寵愛を受けられぬ妃たちが不憫だと言うが子宝如きで人を幸せにしようなどおこがましい。原因と結果を逆転させるなよ、陰陽師」


 ――土御門の十二神将は直系、傍系、ごちゃ混ぜだ。姉が躍起になって手当たり次第に目についた男の子を手許にかき集めた。

 赤ん坊が生まれて女だと母親は責め立てられる。陰陽の家に女はいらない、秘伝を継ぐのは男。頭の悪い男もいらない。陰陽師でなくても役人の家はそんなものだ。女に漢文は教えられない――

 そうして卯月と弥生は犠牲になった。

 女が生まれて喜ぶのは后がねとなる姫を求める摂関家などの一部の高級貴族。皇族も女子はあまり必要ではない。皇女を降嫁できるような立派な貴族はそう多くない。全員を神の巫女にもできない。

 男だって余るときは余る。


「入道の宮など七番目だか八番目だか、先々帝がご存命の頃には疎んじられて寺に入る羽目になったのに今になって皇子が足りぬとは何の冗談だ。どのみち悩み苦しむのならどれを選ぶかは己次第ではないか、予に選択肢はないと申すか。宿命なのだから諦めて先帝の轍を踏めと」


 ――世にまたとない人は世にまたとないような苦労をなさっているものだ。


「さっさと譲位したいとは何度も思ったが東宮もまだ子作りできる年齢ではないので、予の皇子を確保しておきたい状況は変わらん。むしろ東宮が妃も持たないうちに死んだら後がない。――退位後ならいよいよ死んでもかまわんと、もっと恐ろしい手立てを使われる。予は己の命が惜しくて高御座にしがみついている。この身は死後、どこに行くかまで決まっているという話だ」


 天津神と国津神よりもたらされた神器をもって高御座に即かれた日嗣(ひつぎ)のみこさまは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の力を継承する大日如来の化身だという。前世の功徳でそうお生まれになり、その徳でもって京の都をお守りくださっている。

 陰陽師は太陽を回すがこの御方は太陽そのもの。

 ――太陽の巡りは、計算を離れないものだ。古代中国ではあまり計算を外すと陰陽師は死を賜ったものだが、京の都に死刑はない。

 慈悲深くも太陽の方が計算に合わせてくださる。臣の権利が大きくなっただけこの御方ばかり不自由になって。


「予に頼み込まずとも、薬など盛らずとも他に好色な者はいくらでもいるではないか。得意な者がすればよい。予はかかわりたくない。なぜ予でなければならぬ。式部卿宮の子が男ならそちらでもよかった程度だろうに」


 この御方はここにいるには繊細すぎる。

 宰相の君さまは塗籠一つ。この御方は七殿五舎(しちでんごしゃ)と清涼殿、後涼殿――それは望めば大臣の邸や寺などに行幸程度はできるが、それだけだ。

 ただ好色なために皇子皇女が多すぎて養いきれず臣下に下した帝もいらっしゃったのに、この御方は聡明でいらっしゃるのに、そんな簡単なことができないばかりに美姫を揃えた花園で毒に苦しんでいるとは。

 命を狙うものですらなく賢すぎて清らかすぎる人に淫らな夢を見せて俗世に引きずり落とすための――


「いや、わかるぞ」


 うまく歩けない仔猫の尻をつつきながら、邇仁は力なくつぶやいた。


「源四郎と予と、立場が逆なら何もかもうまくいっていたのだ。昔からあれは美しくて賢くて何でもできて、予が勝っているのは背丈くらいで、予と並ぶとどちらが皇子かわからんとささやかれていた。あれが左大臣家の姫を娶って子をなして、予が寺に入るべきだったのだ。ずっとあれから奪っているような気がしていた」

「おやめください。播磨守はあの方のためにここに参ったのではありません」


 畳に手をつき、深々と頭を下げるのに計算はなかった。自然と下がっていた。


「あなたさまの御為(おんため)です」


 ――お家への忠誠心とかない時代。陰陽寮はこの人のためにあるわけではない。

 この人のために何かしてやりたいと思うのは靖晶の都合、自己裁量だ。


「ありがたい」


 邇仁は靖晶の左肩に手を置いた。


「源四郎が生きて戻るよう、術に専念してくれ。そなただけが頼りだ。あれの命だけでも助けてくれ」

「勿体ない。わたしこそ他にできることがなくて情けない」

「何もできないわけではない、大したものだ。明後日の強訴勢のことは気にするな。こちらで何とかするから」

「何とかってどうなさるのです」

「まあどうにかなるだろう。予一人ではない、大臣などがたくさんいるのだから。誰か得意な者がどうにかしてくれる」


 声ばかり明るくて実に頼りないお言葉。

 ――今更ながら。

 靖晶は明空に情をかけたことを悔いた。「何だかかわいそう」と言ったのは弥生だったか。女の言うことを真に受けたばかりに北嶺大衆蜂起などを起こして。

 あのとき寺に帰していれば何か違っていたかもしれないのに。

 責任を取らねばなるまい。


* * *


「……何だか期待したより半端な様子だったなあ、源四郎とは」


 靖晶が恐縮しきって退出した後、邇仁は畳に横になって顔の上に宰相の君を乗せて背中の匂いを吸っていた。猫の愛で方としてこれが最上と思う。大分大きくなって、来月にはできなくなってしまうのだろうが。


「どうせなら茜さす斎院とやや子を見つけてほしかったのだが。陰陽道の術は、探す相手の方も霊験が必要なのか? 前斎院は賀茂大神の加護がありそうなものだが。相性なのかな。まあ悪僧とて赤子に手をかけはすまい、いずれ見つかるであろう」


 彼は最近、とてもいいことを思いついた。

 一番苦手な肉食系尚侍が病のために里下がりをすると言い出したが、噂では病ではなく懐妊だと。

 ――後宮で懐妊したのなら邇仁の御子だ。尚侍は后妃に準ずるのだからちゃんとしなければ。

 産まれる子を次の東宮として、弟に位を譲れば彼はあらゆる面倒から解放される。上皇になればもっと気楽に堂々と牛車で町に出られる。

 女かもしれない? 身籠もったものの途中で流れて産まれないかもしれない?

 大丈夫。

 茜さす斎院が産んだばかりの男の子と取り替えればいいのだ。一歳や二歳の差はどうせ誰にもわからないし、弟の子と式部卿宮の子と茜さす斎院の子で何が違うのか。皇統は守られる。茜さす斎院は誰も頼んでいないのにもう四人も子を産んでいる。

 姉は子作りが得意だったらしい。既にいるものは有効活用しよう。尚侍だって体裁の悪い子なら手放してよそで育てなければならないのは同じ。誰も損をしない。これから邇仁が子をもうけるよりずっと確実だ。

 斎院も自分の子が高御座に即いたら喜んでくれるだろう。母の願いを子が叶える。忠孝だ。彼女には皇太后になってもらおう。尚侍を尼にして、代わりに斎院を皇子の養母に。辻褄を合わせればいい。

 相応しい位を用意すれば長年の軋轢(あつれき)も消えて和解できるはず。

 その場合、賢木中将が偉そうな顔をするのに決まっているので、殺さないまでも軽く毒か何か盛って口を利けなくしてやる必要があるが。できるのは知っている。自分が散々ひどい目に遭ったのだから、一度くらい臣下も毒をあおげばいい。強訴が恐ろしくて腰が抜けたとかで陣定に出てきていないらしいが、丁度いいので一生腰が抜けたままでいてもらおう。

 高御座を投げつけてみたら意外とビビっていたのでそんなに警戒しなくてもいいと思うが、なぜか中将はやたらと臣下に嫌われているので。人望がないと言うのか。准太上天皇、なりたいならやらせてやればいいのに、どうせ大したことはできはしないのに誰も彼も反対する。不思議だ。世間で言われるほど悪いやつとは思わないのに。

 不思議といえば安倍の陰陽師は狐の子ともっぱらの噂のわりに、チョロい。

 ――邇仁の清浄な身の上、男の九割は臆病者と馬鹿にするのだが、残り一割に「もしやこの人は本当にブッダの転生なのでは。生まれつき高貴の魂を宿していらっしゃるのでは」とものすごく恐縮するやつがいる。都は恋愛至上主義者が幅を利かせていて、そういう俗世にうんざりしていると普通に生きているだけの邇仁が神々しく見えるらしい。源四郎がそれで見事にいじけて寺に入ってしまったし、播磨守もどうやらそのタイプだったようだ。

 男女の営みを陰陽の和合と言う、陰陽師は「若い男は和合して女から気を吸わないと身体に悪い、ちゃんとしろ」とかガチ説教で来るのかと思っていたらさしたる工夫もなく正面から挑んで論破できてしまって不思議だった。清浄だと何か神秘的な力が宿って貴重なのだろうか。それなら市で出会ったときにそうとわからないか。

 単に気が弱いのだろうか。


「苦手だから避けているだけなのにどうして皆、説教したり逆に敬ったりするのだろう。干した魚が嫌いなのと何が違うのか」


 しかし干した魚が嫌いという程度でもやたら説教するやつもいる。

 人間はなぜ自由に生きられないのだろう。

 ――上皇になったら自由に生きよう。できなかったことをしよう。陰陽師と鬼退治に行くとか。源四郎が帰ってきて、どうしてもと言うならあれも連れていってやろう。尼御前も仲間にしてやってもいい。そういえば源四郎に俗の名をつけてやらなければ。

 楽しみなことばかりだ。

 強訴とか関白たちで勝手に何とかすればいい。どうせ官奏で上がってくる頃には、邇仁が意見を挟む余地などなくなっている。

 三井寺辺りから悪僧を借りて護衛にして、強訴の間、邇仁は神鳴の壺(後宮の隅)にでも隠れていろとかだろう。邇仁自ら兵を率いろとか死ぬ気で叡山を登って詫びろとかいうことには絶対にならないのだから、どんな結論が出ても大差ない。

 臣たちが勝手に内覧の仕組みを作ったのだから臣たちが考えればいい。こんなときだけ頼られてもお門違いだ。

 天照大御神がどうやって八岐大蛇を退治して御剣(ぎょけん)を手に入れたか――答えは得意なやつが勝手に持ってくるのを待つ、だ。


* * *


 ――状況を整理しよう。

 叡山の第二陣が来るのが明後日。

 預流は、式部卿宮邸でしっかり茜さす斎院とその子供たちを守る。清涼殿を打ち壊して、その後で勢い余ってこちらに来るということはあるまい。多分。火の手が上がらないかだけ気をつけなければ。

 今日、明日はご飯をちゃんと食べて眠る。平常心。いつだって死ぬ前の日のようにふるまうのは仏道を志す者としては当然の心構え。慌てず、騒がず。


「お邸の全部が壊れたわけではありません、中将がしっかりしていればあの程度は直せます。いつも通りの暮らしを大事にしましょう、斎院さま」


 預流は西の対で斎院親子と一緒に夕餉(ゆうげ)を食べることにした。昨日は「折角だから尼寺を満喫してください」と茜さす斎院にも野菜の煮たのと漬けものだけの精進料理を出したが、今日は斎院とその子らには兄宮一家と同じ鯛の焼きもの。


「市は普通に開いていたらしいのです。民草はいつも通りですよ」


 こういうときこそきちんと食事を摂って精神を安定させる。預流もちょっと贅沢に焼いた山芋に山ほど甘葛(あまずら)をかけたもので強飯(こわめし)をもりもりいただいていると、怯えていた姫たちも乳母を手招きした。

 ――流石は后がねの姫君。乳母に箸で鯛をほぐしてもらい、一口ずつ食べさせてもらう。すごいなー、わたし、いつからこういうのと無縁になったんだっけなー、と感心した。しみじみ、自分はドロップアウトするべくしてしたのだと思う。


「尼御前さま、父上さまはお元気でしたか」

「大分がっくり来ていたけど、誰かにぶたれたとかではないから。お邸が壊れて落ち込んでいたの。まあ一日くらい落ち込んでもらわないとねえ」

「落ち込んでもらうのですか」

「駆け引きよ駆け引き」


 気の毒で見ていられなかった、とは子供には言えない。方便だ。

 十一歳の大姫(おおいひめ)も六歳の中姫(なかのひめ)もお顔がかわいらしいのは勿論、実に上品で取り乱すこともない。

 ――斎院だけがどんよりと暗い顔をして食事に目もくれない。預流よりも大姫の方が母の顔色をうかがって、


「母上さま、鯛がおいしゅうございますよ。一口でも召し上がった方が」


 健気なことを言う。――本当に、あの男に顔しか似ていなくてよかった。


「尼御前さま、荒法師をご覧になったのですか? どんなでした?」


 中姫はまだ幼く、興味津々で尋ねてきた。


「見たわよ、顔が傷だらけの大男。女に興味ないのか無視されちゃったけど」

「傷だらけって? 荒法師は頭巾(ずきん)で顔を隠しているのではないのですか?」

「あれはお袈裟なのよ、そういえばあの人は裹頭をしていなかったわねえ……」


 初手例外。いや、預流は以玄の他にも悪僧を見たことはある。

 いつだってそれは不機嫌な男が連れてくるものだったが。御寺のクイーン。僧綱のくせに悪僧の中の悪僧。

 ――明空はこの非常時に一体どこで何をしているのか。みこさまが大変なこのときに。

 もしかして出てくるタイミングを見計らってるのか。みこさまが「源四郎、助けて」と泣き言を言うのを待っているのか。まさかとは思うがあのしょうもない男、出てくるたびに格が落ちていくから。

 ギリギリになって彼が颯爽と現れて一人で強訴勢を追い返して、邇仁と預流が並んでそれを見て二人とも目がハートになって「格好いい、抱いて」みたいなことになったりするのか。いやいやそんなご都合主義な。

 まだこの晩、預流は夢を見る余裕があった。


 預流が裹頭を巻いた荒法師を見たのは〝明後日〟ではなかったし、それは叡山の山法師ですらなかった。


 次の日の朝、粥など食べていると男の騒ぐ声がした。強訴勢が早く来たのかと一瞬緊張したが、屋根の上からではない。不動明王真言のように統率されてもない。もっと少人数で粗野だ。酔っぱらいが騒いでいるようにも聞こえる。


「預流さま! 荒法師です!」


 沙羅が駆け込んできて叫ぶと、それでもひやりとした。


「叡山の第二陣、もう来たの!?」

「いえ、四百人もいません。十人くらいなんですが何か妙に絡んできやがって。昨日の今日で荒法師だから、門番の連中がビビっちまってうまく追い払えないんです」

「十人?」


 ――茜さす斎院がここにいるのがバレて小部隊を寄越した? それにしては十人は少なすぎる、盗賊団でもそれくらいいる。不意打ちならともかく昨日の今日ではどこの貴族の邸宅も警戒して護衛を増やしている。

〝うまく追い払えない〟とは門番の武士たちは悪僧を殺めると仏罰が下ると思っているのもあるだろうが、預流の方針に気兼ねして手荒なことができないのだろうか。宮邸では日頃、遊行僧や托鉢僧をむげにするな、預流に知らせてくれれば布施をすると言い聞かせているから。


「叡山じゃないとか言ってます。もうわけわかんないんですよ、門番が預流さま呼んでこいってうるさくて」

「仕方ないわね、行くわ」


 預流は匙を置き、袈裟と数珠をかけて門に向かった。

 下駄を引っかけて庭を突っ切ると、確かに門のところで甲冑をつけた武士たちと裹頭に墨染めの悪僧ばらが大声で揉めていた。


「式部卿宮の邸では尼が僧を歓待していると聞く、ここではないのか!」


 ――北嶺大衆らしからぬ言葉が聞こえた。斎院を捜しているのでもない。


「ちょっとこれ、何」


 預流が声をかけると、武士たちがほっとした顔で振り返った。


「預流さま、申しわけありません、この者たちが――」

「おお、噂の尼か」


 墨染めの大男たちがその隙に彼らを押しのけた。しっかりその手には薙刀があるし、太刀に手をかけている者もいた。


「思ったより若いし美しい。後家と言うから(ばばあ)なのかと」

「こんな娘が尼とは世も末だな」

「都の女はいいな、肌が白い」


 裹頭で見えないが、にやにや笑っているのが声でわかる。――生臭どもめ。


「こちらでは尼が僧に功徳を施していると。さあ施してくれ、一晩中歩いて眠いのだ」

「あなたたち薙刀や太刀を振りかざして人の邸に押し入るつもり」


 ぎゅっと数珠を握った。整然としなければ。理性と秩序あってこその信仰だ。


「托鉢にはお作法があってしかるべきでしょう。こちらは親王の邸よ、武具を持ったまま入ろうというのは敬意を欠いていると思わないの。まずは礼節を弁えるものでしょう」

「そちらこそ武具を持つからこそ敬意を払い、助けを乞うべきであろうが」


 むしろ彼らは一歩も退かず、脅すように薙刀をかまえた。


「我らは夜通し歩いて三笠山(みかさのやま)より参った。大織冠(たいしょっかん)の名にかけて、山法師どもに仏罰を下すため馳せ参じたのだ! お前たちを北嶺大衆から守ってやる、泣いて喜べ!」

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