巻の六 バーナムの森が動かぬ限り
おお明空よ。しんでしまうとはなにごとだ。
ということで十日後に滅亡するパラレル平安京、一番に脱落したのはドSの心にガラスのハート、阿闍梨にして権律師・明空でした。
理由「ヒロインと結婚したくない」
お前、すごいな!
その頃、只人には見えないところで炎が上がった。
まず比叡山に飯炊きの煙が増えた。
それは王朝に生きる人たちにとっては些細な兆しだった。
陣定から五日ほど、預流は何事もない平穏な日々を送っていた。朝夕の勤行、写経、庭の池で水垢離、尼たちを集めて勉強会。清浄な尼のあるべき姿。
「……明空から連絡がないの、不気味ね」
何だか落ち着かない気分を抱えながら。
てっきりあいつは自業自得のくせに、預流に文句をつけて怒鳴り込んでくると思ったのだが。御寺をクビになったのだろうか。今、どうしているのだろう。
もう二回くらいひっぱたいてやりたいとも。
しかし口には出さず。
「あら二瀬は綺麗に写経ができるわね。漢文は不得意って言ってなかったっけ」
二瀬の書いたものを添削してやろうと思ったが、あやしいのは「五蘊」の「蘊」の字の難しいのくらいだ。
「見て写すくらいなら。読めと言われればまだ無理です。……土御門の陰陽寮及第理系Ⅰ類特進コースがとても歯が立たなかっただけで……」
「それは致し方ないんじゃないのかしら……」
「いえ、これまで役人くらいにしかなれないと思っておりましたが実際の役人の家ではあんなにしているのを知って、自分が恥ずかしくなりました。どこかで中将さまに頼れると思っていた自分の甘えを思い知りましたので、精進してもう一度、大姉君に挑戦したいと思います」
二瀬は熱心に写経に挑むのだが、煩悩丸出しなのがいいのか悪いのか。――君、全然僧侶になる気ないね?
それどころか兄宮の目につくところに出てきて、隙あらば兄宮に取り入って小間使いになろうとしていた。兄宮は「最近、預流が拾ってきた子は気が利いている」と上機嫌で気づいていないので結果オーライだが。生きる気力に満ちているのは喜ばしいことなのだ、多分。
明空も、結婚などとんでもないが行くあてがないと邸に来るなら、詫びを入れるなら邸で使ってやらなくもない。私度僧となって二瀬と並んで兄の小間使いをするのだ。
そうして預流をお姫さまと呼んでかしづいてもらう――いや、あれは気持ち悪いからやらなくていい。
連絡がないといえば靖晶もだ。陣定などの顛末を手紙に書いて送ったが、「ふーん」程度のリアクションしかなくてかえって不気味だ。陰陽寮の仕事はしているらしい。――彼本人より、弥生はあそこまで結婚のお膳立てをしていてこの顛末、馬を駆って式部卿宮邸まで殴り込んできたりしないのか。良彰の動きは。戦々恐々だ。
一体世の中はどうなっているのだろうか。諸行無常。盛者必衰。心を無にして経を誦して弥陀の誓願にすがるのみか。
と思っていたら。
「あのう、預流さま。ええと。お客人なのですが、変わった方で」
ある日、写経中に音羽がおずおずと言い出した。
「不実な夫君の行いに耐えられず、いっそ尼になりたいとおっしゃっているのですが」
「まあ。DV? 浮気? 漠然としたモラハラ? 女の生き方に疑問を抱く方は大歓迎です」
「大歓迎……していいんでしょうか」
「何かためらう理由があるの?」
「はあ……」
そもそも、夫のDVやモラハラに悩まされている女は全然〝変わった方〟ではないと、そう思ったが。
「――大変だわ」
音羽の話を聞いて、預流は確かに邸に入れていいものかどうかためらった。
* * *
「変な尼の次は女みたいな坊主?」
「坊主頭なだけで女じゃないのか、あれ」
「あれも惣領の愛人か?」
「惣領は坊主や尼が好きなのか? ゲテモノ趣味に目覚めたな」
「いやあの女坊主は良彰と手に手を取って心中したって」
「男同士で愛人ってどうするんだ?」
「お前知らないのか」
「今度こそ大姉君がキレるんじゃないのか。愛人なら愛人でいちいち邸に乗り込まれるなよちゃんと外で遊べよ間抜け」
「父上、何とか言ってください。尼のことも良彰のこともちゃんと説明を。二郎は恥ずかしいです」
十二神将がまた、衝立の陰からはみ出して好き勝手言っている。
坊主頭に他の色を着せていると面白いほど似合わない。何があると思っていたのか安物の墨染めの用意があったので着せてみたが、袈裟までは手に入らないし本人も渋った。
「そんな、お坊さまのような格好は」
「いや、あなたはお坊さんなんだ」
鏡を見せると
「本当だ! 大人になったわたしはなぜ坊主などに! そんな、世を儚むようなことが?」
「なぜと言われても……」
大真面目に驚くので、何だか疲れる。袈裟は諦めた。
「ここは都で一番の陰陽師の邸で、この方はその惣領さまよ」
と弥生が好き放題吹き込むので頭が痛い。
「陰陽師さま。お助けいただきありがとうございます。ひとまず、父母の家に帰りとうございます。父母から改めてお世話になったお礼や御挨拶などを」
明空は真に受けて、きちんと座り直して頭を下げる。――これは〝八歳〟にしては立派な口の利きようなのかもしれないが、二十一歳が言っているとめまいがした。
「……父母ってあなた、お母さんもう亡くなってるんですが。父親はどうなったんだっけ……」
「確か二年前に一番上の兄君に位を譲って坊主になった。向こうも寺にいる」
「幼馴染みの致仕大臣の大律師、父親のことじゃん」
「本当だ、幼馴染みでもなければ童貞でもないし納言で止まってて大臣でもない、どういうことだ」
良彰もやっと落ち着いたらしい。この展開にドン引きしながら参加していた。――どういうことだと言われても。
「母が……まさか母が亡くなったショックで出家したのですか、わたしは」
「出家した理由はひとまず置いておきましょう……じゃあ一番上の兄君に連絡……と思ったけど、賢木中将が散々喰い荒らしたお邸じゃないか。あそこに行かせるのはまずいような気がする。筒抜けだ」
「御寺に連絡じゃないのか?」
「主上から還俗させよとの宣旨が出ている御寺に?」
「わたしは還俗するのですか、よかった!」
「あの、ご本人は会話に参加しないでくれます? 今、大人の話をしているので」
実にややこしい。
「そもそもこの状態、世間に出していいのか……? 都大路の不動明王と呼ばれたお人が……」
「この手のは、もう一度同じショックを与えたら記憶が戻るのがお約束だぞ」
「何度も清水の舞台から落としたら死んじゃうじゃないか。思い出したらまた舞台から落ちちゃうじゃないか。頭を打っただけじゃなくて、累積したストレスが清水ショックでこういう形に結実したのかもしれない」
現に母が死んで父が出家したと聞いたらそれだけで寝込みそうなものなのに、そんなに動揺している感じがないし――本当に〝源四郎明丸、八歳のみぎり〟だったらもっと他に出てくる言葉があるはずなのに、それが出てこない。
単純な記憶喪失ではなさそうな気がする。
「十日や半月くらい、うちで人知れず静養させちゃ駄目なんですか? 心が弱って子供に帰っているのでは? 何だかかわいそうですよ。たくさん食べそうな感じの方でもないし、急ぎのお勤めがあるならともかく、ないんでしょう?」
弥生はもしかしたら明空の線の細い美男子ぶりに惑わされ血迷っていたのかもしれないが、そう言われるとそれが無難な気もした。
三日くらい気楽に過ごしたら案外、治るかもしれないと。治らなかったら改めて、洛外の寺に追い出すもとい静養させる算段をしようと。どうせここでも寺でも薬湯を飲ませて大人しくさせておくくらいしかない。何より一家の主婦から許可が出ると強い。
ということで明空改め源四郎明丸は十二神将の十三番目になり、良彰の次男で十三歳の利松の子分になった。
それでどうなったかというと。
「オレら、今から虫取りに行くから代わりに薪割りやっとけゲンシロー! お前大人なんだから虫取りしないだろ!」
「わかりました、利松ぎみ! 虫取りは別に好きではないです!」
「まあ、源四郎は薪割りが得意ね!」
「他にすることはありませんか、弥生さま!」
「じゃあ掃除をお願い」
「はい、お任せを!」
家事に力仕事が多かった時代。何も考えなくてもできる仕事が多かった時代。
バトルに使われていた筋力が平和利用され、頭に残っていなくても身体が憶えていた寺仕込みの掃除の技で邸の板敷がどこもかしこもピカピカになり、十二神将たちは彼一人に家事を押しつけて遊びに出かけ、弥生は誰も見ていないうちに源四郎にだけ干し柿をやるというWin-Winの関係が発生。陰陽師たちの業務は、通常通り。
「惣領、源四郎はとても働き者で助かります! 大姉君の局が匠の技でこの通り! 寺育ちはスゴイ! ひと月でもふた月でもいてくれていいですよ!」
弥生の機嫌がみるみるよくなって、逆に怖いものがあったが。そんなに働かせたら静養じゃないだろうと思うが。良彰も呆れていた。
「……弥生は源四郎に入れ込みすぎじゃないのか? お前、立場を弁えろよ。そちらは近年稀に見る清浄な功徳あるお坊さまでお前は人妻だぞ」
「まあ、源四郎はこのなりで八歳よ。妙な勘繰りをしないでくれる?」
弥生が口を尖らせるのを、源四郎が笑って取りなす。
「わたしは、やれとおっしゃることをしているだけですよ。どうやら他に行くあてもないようですし、働かざる者食うべからずと申しますし。身体を動かすのは好きです」
――水汲みだの薪割りだの掃除だので褒められて笑っている〝八歳の源四郎明丸〟の素朴で屈託のないのを見ていると、靖晶は毒気が削がれるところもあった。
明空は喧嘩を売るときにしか笑わなかった。いつだって怒っていた。
あれは複雑な前提を下敷きに作られたキャラだったのだ。本当はこんなに素直に笑う人だったのだ。女嫌いの素振りもない。どうやらクソガキどもに相当ナメられて馬鹿にされているようなのに、言われるがまま笑っている。
――彼のためにはずっとこのままでいた方がいいのではないか、と思った。
宇宙に風穴が空いていることなどもう忘れてしまった方が。
こんなことになっているのを預流に黙っているのは不実であると、心が痛まないでもないが。
――陰陽師たちは宗教のオカルティックな側面だけ深堀りしすぎてわかったような気になっていた。油断していた。いつも高僧の顔ばかり見ていたので、寺は掃除をして勤行して貴族向けの御修法をする場所だと決めつけていた。
縦割り身分制度をそういうものだと諦めておもねり、政治に無関心すぎた。彼らは中の上の下のテクノクラート、技術職なので試験に及第すると簡単に首を切られることはない。
文句を言わなければずっとそのままでいられるのだと。
朝廷の権威を信じ込みすぎていた。
比叡山末寺の将来ある若き僧綱を簡単に行方不明になどしてはいけなかった。いや、良彰が止めなければいよいよ明空は清水の舞台で死んでいたのかもしれないが。
寝て起きれば勝手に今日と同じ、変わり映えのない明日が来ると、彼らがそう思い込んでいたのに変わりはない。
* * *
その日。賀茂大神を祀る今斎院、先帝皇女、女六の宮・親子内親王は斎院御所の簀子縁より不思議なものを見た。
「比叡山に立ち上る煙がいつもより多いわ。火事なのかしら」
「斎院さま、あれは竈でご飯を炊いているのですよ。恐ろしいものではありません」
「でもいつもより多いわ」
「法会でもあるのでしょう」
おつきの女房はそう答えたが、これは紛れもなく不吉の兆しだった。
彼女の不安の声はたちまち陰陽寮に届いて。
「……十一歳の賀茂斎院さまが叡山の飯炊きの煙が多いと不吉がってるそうですー」
「そんなことが不吉とか? 暇じゃないんだぞこっちは」
「いや、待て。法会があるとか聞いてないぞ。貴人が叡山に登るとか座主が下りてくるとかいう予定もない」
「高僧は粕漬けを食うものだが、運び込まれてないか?」
「高僧じゃないのがたくさん集まっているみたいだ。何だろうな」
陰陽師たちも首を傾げた。彼らもまだ経験がなかった。
人は生の米を消化するようにできていない。蒸したり粥にしたりしなければ。
常よりたくさん米をふるまうのは理由があってのこと。
只人には聞こえないところで今上の御代、平安の安寧を魔女たちが嘲笑っていた。
バーナムの森が動き出す。