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巻の四 僧侶の悲鳴が聞こえない

「BLの攻様に捨てられた!」

 安倍良彰、35歳。職業:陰陽師。上の息子は18歳。

 21歳の坊主に泣かれるも、若い者の気持ちがとんとわかりません。

「ああイライラする! 紫蘇を千切って蝦夷地に行け!」

 京の都で最強の陰陽師、安倍良彰が5秒でハチミツとクローバーを終わらせる!

「放せ! 捨身する! 捨身飼虎(しゃしんしこ)する! 崖から落ちておれの骸を虎に与える!」


 不穏の気配は間違いなく自殺志願で、明空は大声で喚いて良彰を振り払おうとする。


「いくら清水が洛外でも京の都に虎なんかいません! 野犬に喰われるだけです! いいとこニホンオオカミ!」

「この際、野犬の餌でも木々の肥料でもいい! 大自然の一部になる! 今すぐ草や花になりたい! 何も考えず人を傷つけないものに!」

「落ち着いて! とにかく落ち着いて! 若い身空で親不孝な!」

「これ以上親不孝をしたくない!」


 いけ好かない若造と思っていても目の前で死なれると寝覚めが悪い、というほどの思考もなかった。とにかくもがいて抵抗するのを必死で押さえつけて高欄(こうらん)から引き剥がして――

 平安の男は結構泣く。男の涙にいちいちドン引きしていては陰陽師は務まらない。明空がへたり込んで、子供みたいにぐすぐす泣いて法衣の袖で顔を覆うので、背中を撫でてやりさえした。息子にすらこんなに優しくしたことはなかった。


「大丈夫です、律師さま。この良彰は安倍家の末席、傍流ながらかの晴明公の末裔の一人。死にたくなるほどの悩みでも、八卦で見通してさしあげましょう! 陰陽の位相で全て解決します!」


 ――重たい人生相談は占い師の本領。むしろ、良彰は恩を売る好機と考えた。だが。


「……安倍? 陰陽師なのか?」

「……おれ、何回か話してるはずなんだがなー……そんなに印象に残らないのか」

「お前のところの惣領が不甲斐ないせいで!」

「は?」


 かえって明空に胸ぐらを掴まれたりした。平常時の戦闘力なら一秒で良彰がねじ伏せられ、腕の一、二本折られるところだが、泣きべそをかきながらでは力が入らずすがりつくだけで終わった。

 それから涙ながらの告白などあって。

 こうして初めて良彰は、明空が政争で失脚したことを知ったのだった。


「……助けない方がよかったですか?」

「お前な」

「普通、失脚して坊主になるものなのに失脚して坊主じゃなくなるの、珍しいですね……」

「職を失ったことより! みこさまが、みこさまがおれを見捨てた! 言いわけしようにも会ってもくださらない!」


 明空は金切り声を上げてまた泣き出した。……この状況、清水寺の皆さんは気づいていないのだろうか。とっくに気づいているがかかわりたくなくて無視しているのでは。もう良彰も恩を売るとかどうこうではなくなっていたが逃げるわけにもいかない。やっと貧乏クジを引いたのを自覚した。


「……ええと。二十年、BLの総受として生きてきたのに攻の人に梯子を外された?」

「おれはあの方のために生きてきたのに! 全てを捧げて尽くしてきたのに今更女と結婚しろだなんて!」

「それってもしかしておれに代わりに攻になってくれって話だったりします? おれ白拍子の追っかけで忙しいのでそういうのはちょっと」

「しない! 図々しい! お前如きがみこさまの代わりになどなるか! みこさまは凛々しく聡明でお人柄がよく何より徳があるのだ!」

「あっそう。でもフラレたんですね」

「言うな!」

「まあ泣きましょう、これから一緒に酒でも飲みましょう。安酒ですがおごります」


 良彰は大人ぶって肩に手を置いた。


「転んだときは盛大に痛がるのも次へのステップですよ。無理に我慢すると治るものも治りません。山田は母の言う通り、折れた紫蘇を千切っていれば十巻もこじれることはなかったんですよ。思いきって自分の中から紫蘇ごと真山を千切り取りましょう、ドン底のダメ人間になりましょう。蝦夷地に行ってみるとか。意外と生きていけるのに気づきます。そして浮上する気になったとき、新たな恋を探すのです! 大丈夫です、律師さまのお顔なら半年後でも来年でも十年後でも素敵な攻様か稚児に出会えます! あるいは姫君に! 顔面の美しさは儚いと言いますがビョルン・アンドレセンは物憂げな美少年からチョイ悪オヤジ、ロマンスグレーを経て魔法使いか妖精王みたいなファンタジーな爺さんになったんですから、律師さまもその路線を目指しましょう! 今は絶望してそれどころではないでしょうが、傷が癒える日は来ます」

「もう会った。素敵な攻様も稚児も姫君も足りている」

「わかりますわかります。ええ、今はまだ攻様を忘れられる日など来るとは思えないでしょう。日にち薬と言って」


 ものすごく雑な一般論で良彰はなだめようとしていたが。


「違う。おれはもう何度もあの御方を忘れようとしてきたのだ」


 明空に当てはまる部分などなかった。


「あの御方が攻様だったことなど一度もない」


 良彰は知らなかった。

 明空が失恋したのは今日ではなかった。

 いや、彼は生まれてこの方、一度も失恋したことなどなかったのだ。



 それは何気ない日常だったし、誰にでもあることだった。


「源四郎、源四郎や」

「はい、源四郎明丸(あきらまる)にございます、みこさま」


 源四郎明丸は物心ついた頃から梨壺(なしつぼ)麗子(れいこ)腹の東宮さまのおそばにつき従っていた。

 幼き麗子腹の東宮邇仁さまは、亡き母の邸と後宮の梨壺とを行ったり来たり。源四郎も一緒に行ったり来たりしていて、自分の母の邸にいたことはほとんどなかった。そのうち母も尚侍(ないしのかみ)として梨壺に伺候することになり、彼に実家というものはなくなった。子供の頃から公と私の区別はなかった。

 ある日、東宮邇仁さまが一枚の絵を指し示した。


「お前、これをどう思う」


 それは裸の男女が肢体を絡ませ合い、結合した秘部まではっきり描き込まれた明らかな春画――この頃は偃息図(おそくず)と言った。房中術(ぼうちゅうじゅつ)を絵に描いたもので、見て楽しむというよりは性教育や健康法の教材だった。見て楽しむものもしっかりあったとも言われているが、現存しない。

 ――古代中国の皇帝は〝後宮三千人〟と謳われるほど多数の寵姫を抱えていたわけだが、荒淫が過ぎて体調を損ねることがないよう、道士たちが真面目にスローセックスを研究し推奨していた。それは巡り巡って梨壺のみこさまの手に渡った。平安京の帝の后妃は三千人もいなくても十人や二十人くらいはいるもので、帝王学の一環として房中術は必須科目だった。

 今どき珍しいくらいのド直球のセクハラだったが、源四郎は焦らなかった。


「これは何でございましょうか。この人たちは何をしているのですか? 相撲ですか?」


 本当はとっくに知っていたがにこやかにすっとぼけた。みこさまはといえば彼が恥じらうところを見たかったわけではなく、大真面目にうなずいた。


「女に子を生ませるのに、男はこんなことをしなければならないらしいぞ」

「まことですか。女人は(こうのとり)や菜種畑からやや子を授かると母は申しておりました」


 源四郎はテンプレート通りに反応したが。


「……気持ち悪くないか?」

「は?」


 十歳にも満たない子には早すぎたのだ。源四郎はセクハラを受け流したが、肝心の邇仁がもろに真正面からダメージを受けて暗い顔をしていた。


「予は正直、恐ろしい。本当にこんなことをするのか。主上(父上)もお前の父母も?」

「男女の交わりなしに生まれてくる子などおりません」


 源四郎はといえば慌ててしまって、さっきコウノトリがどうとかほざいたのをまるっと忘れた。


「お前にやる。予は何だか気分が悪くなってきた」

「……絵柄が怖いだけできっと本物の女人はもっと美しいものですよ?」


 源四郎はフォローしたが邇仁は暗い顔で庭に降りていき、一日中、花や池の魚を眺めていた。


 ここからもう、邇仁はボタンをかけ違っていたというのに。

 皇族には恐ろしい掟があった。〝添い臥し〟だ。

 親王など皇族の男子は元服すると大臣やら何やらそれなりの格の高級貴族の、少し年上の娘が添い寝するようになる。大抵がそのまま、最初の妻になる。

 東宮邇仁の元服・初元結(はつもとゆ)い・加冠(かかん)は十一歳。帝の唯一の皇子、それはもう盛大な祝いがあった。重臣たちは皆、慣例でなければもっと早く元服させたかったことだろう。

 その日に東宮妃を迎えた。彼の添い臥しは太政大臣(後の関白)の姫君で、後に弘徽殿女御と呼ばれる。何と父帝の妃の姉姫。太政大臣は全部のマスにベットする主義だった。

 ――十一歳で結婚とかいってその日から本当に大人のような夫婦生活を送れる少年などいない。たまにはいるのかもしれないがレアケースだ。女は初潮でそうとわかるが男が具体的に大人になる瞬間とかあんまり観測するものではないので、世間では男は十五歳くらいでようやく一人前の人間らしくなる、という雑な認識だった。「声が変わる頃には勝手にスケベになるだろう」と。

 だから新婚初夜といっても仲よく手をつないで眠りでもしたら大したものだと皆、和やかに笑っていた。

 だが十一歳の邇仁が偃息図から受けたトラウマは根深かった。儀式や宴の間、ずっと血の気が引いて吐きそうだった。まだ幼いのに酒まで飲まされてふらふらで寝所に入ると。

 後の弘徽殿女御となる玲瓏(れいろう)な珠玉の如き姫君が御帳台(みちょうだい)のそばに座っていたのが――


「申しわけありません殿下、わたくしは妃にはなれません」


 突如、わっと声を上げ、袖で顔を覆って泣き出した。


「――こんなことを言って死を賜ることになるかもしれませんが、なれないのです。想う男君がいるのです。あの方を忘れて殿下と男女の契りを交わすことはわたくしにはできません。本当に申しわけありません、自らくびれろとおっしゃるのならそのようにも」


 彼女は当時十四歳だったが、それにしてはなかなかませた泣きっぷりだった。


「くびれる必要はない」


 そしてこれは邇仁には渡りに舟だった。逃げ道を見つけて、一瞬でプレッシャーがぱっと散った。


「予も同じだ。そなたと男女の契りを交わすわけにはいかない」

「そ、そうなのですか? なぜ?」

「想う男君がいる」


 勢いで言い間違ったが。


「予が即位しないまま病で死んだりすればそなたは自由に誰とでも夫婦になれる。ええと、式部卿宮の母が前の東宮妃で、夫が死んで再婚しているぞ。即位しても弟など生まれればそちらが東宮になるということもある。譲位してしまえばよい。恐らく四年ほどだ。譲位したら予は坊主にでもなるからやはりそなたは想う男と夫婦になればよい。契りを交わさず、四年ほど我慢するのだ。命を粗末にするな」

「本当にそんなことが許されるのですか」

「予が許すと言うのだ、許す」


 こうして大人たちの政治をよそに、ませた子供たちは密約を交わした。以来、二人は毎夜、御帳台の端と端に離れて眠るようになった。


「で、これは興味本位だがそなたの想う男君とは誰なのだ」

「少将為正さまです」


 ここもまんまとやられていた。

 弘徽殿女御も気になる。


「殿下の想う男君とは」

「あー、うん、まあ。そのうちわかる」


 邇仁はごまかしただけだったが。

 うっかり、彼のそばには女のような絶世の美少年がいた。誰がどう見てもそうだった。

 それで弘徽殿女御さまは、ことあるごとに気を利かせて邇仁と源四郎明丸を一緒にいさせてさしあげた。妃を迎えたというのに男二人で眠ることがあるほど。邇仁は「困ったなあ。でもまあ、別にいいか」と思っていたが。

 よくなかったのが源四郎明丸だ。彼は邇仁のように純情ではなかった。初元結いの宴で年上のドスケベ少年に押し倒されていかがわしいことをされそうになり、ぶん殴って逃れたりしていた。その後も似たようなことは多々あったが何ごとも暴力で解決していた。


「……みこさまはおれが好きなのか? どうやらおれのことが好きな男はたくさんいるようだし、みこさまも……」


 だが相手が邇仁となると。


「でもみこさまなら……」


 さくっと決意を固めて。

 源四郎明丸は着飾ったり化粧をしたり、肌が綺麗になると聞いて柘榴(ざくろ)の皮で身体を洗ったり、涙ぐましい努力を始めた。それは親たちにも筒抜けになり、


「うちの四郎が東宮さまの寵を賜る、実にめでたい。断袖(だんしゅう)の契り、龍陽(りゅうよう)の寵。尻で大臣になれたら安いものだ。兄たちの出世の助けにもなる。うちは男ばかりで妃を出せないと思っていたが、男でも顔がよく生まれつくとこんないいことが」


 彼らも全力で応援した。誰も止めなかった。

 邇仁だけが気づいていなかった。ぼんやりと勧められるまま隣に座り、手をつないで一緒に寝ていた。

 そうして二人が十三歳になった頃。邇仁は少し背が伸びただけで、十一歳だった頃と大して変わらなかった。

 変わったのは源四郎明丸の方だ。彼は一人、御手がつかないのに悶々とするようになり。

 ある日、御帳台で自分からみこさまに抱きついて求めた。困ったのは全くそんなことを考えていなかった邇仁。


「え、待って、そういうの無理」


 幼い彼はそうと知らず手ひどい言葉を使ってしまった。傷つけずに優しく、なんてことができるはずがなかった。

 そして源四郎明丸は素直に傷ついた。

 ――全て自分の一人芝居だったのだ。何という思い上がり。恥晒し。穢らわしいことを考えていたのは自分だけだった。純情なみこさまに、よくも。

 翌日、源四郎明丸は頭を丸めて寺に入った。

 家族もみこさまも泣いて止めたが、もう一刹那もみこさまと一緒にいてはならないと思った。


 ここで終わっていたら悲しいが美しい物語だった。しかし明空は名を捨て、僧となっただけでその後も生きており。

 生きるとは美しいことではなかった。

 ぶっちゃけ、傷心の明空はかなりヤケクソになっていた。こうなったら高僧に抱かれまくって滅茶苦茶にされてやる、再会したときにみこさまがビビりちらすような魔性のゲイになってやる、見てろ邇仁と決意して寺に入った。

 案の定、いきなり僧都(そうず)に目をつけられた。


「何と、こんな幼い僧が。後五年は稚児が勤まったろうに。だが剃髪したとは思えぬ美しさよ。格別に、功徳を授けてやろう」

「かしこまりました」


 その日のうちに床に招かれることに。

 が。

 気づいたら僧都をボコボコにのしていた。


「あれ?」


 他にも明空に色目を使う僧は多く、触れようとした者が数多いたが、誰も彼も容赦なく殴り倒していて。邇仁から寺に納めるため作ったという法具の剣を賜って、その暴力は一層冴え渡り。

 いつの間にか「見た目は繊細で美しいのに最強の格闘王。触れることの叶わない美貌の不動明王」とかいうものになっていた。目指したものと大分違っていて、本人ばかり首を傾げていた。

 目下の稚児も彼に憧れ、言い寄ってきたが、


「無理。お前もそういうつもりだったのか、がっかりだ」


 彼はいつかの邇仁と同じ言葉で拒んでいた。そうして傷つく稚児たちを見て、過去の自分を慰めていたが。

 十六歳になったとき。

 飛鳥の寺で、実に可憐な小坊主を見かけた。


 桜花咲き乱れ舞い散る境内で一人、伽藍の威容に圧倒されてかぼんやりたたずむ墨染めの影は一幅の絵のような。

 自分より少し背は高かったが顔はてんで子供で乙女のように華奢で甘い優しい目をして。昨日今日剃髪したのか頭が青く、刃を滑らせた傷があった。かさぶたが赤く生々しい、それすらも折れた桜の枝のよう。一体誰に手折られたものか。

 そう考えた途端世界の全てが塗り替えられた。

 日の光の色が変わったようだった。極楽浄土にはあらゆる苦痛も悩みもなく、(たえ)なる(がく)()が響き穏やかな風に薫香が漂い、大地までも光り輝く。貴族向けのおとぎ話だと思っていたが、それが目の前に広がった。あらゆる脳内物質が迸って天上の光景を見せた。

 これこそが本物の恋だったのだと。

 俗に〝桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿〟と言う。梅はこまめに枝を剪定すると新たな枝が伸びてそこから花が咲くが、桜は下手に切ると傷から腐って木が傷んでしまう。

 もし枝を切ったなら、傷に墨を塗って清めてやらなければ。


「――飛鳥は初めてか? 伴はいないのか?」

「あ、はい」


 明空が声をかけると、小坊主は高い声で答えた。まだ声が変わっていないとは。それで一層心が躍った。女みたいだ。


「心が逸って家の者に黙って出てきてしまい、薬師如来さまを拝みに参ったのに右も左もわからず難儀しておりました」


 しかも小坊主もこちらを見て心なしかほおを赤く染め、視線を逸らす。――満更でもなさそうな反応だ。イケメンに生まれたことを父母に感謝した。


「それはここに来たら薬師さまを拝まねば。こちらは何度か来ているから案内してやろう。身内に病の者でもいるのか? 怪我?」

「ああ、いえ。その、わたしの身体が至らぬゆえ薬師さまの誓願(せいがん)にすがろうと……」

「――己が病弱なのか、確かに背丈のわりに骨が細い。それで若くして出家することになったか、気の毒に」


 なるほど、墨染めは簡素だが五條袈裟(ごじょうげさ)は布地がいい。紫の絹に銀糸で紋が縫い込まれて。言葉遣いも上品で、名家の令息なのだろう。生来病弱で世間に出ることもなく、深窓の姫君のように育てられたのだろうか。


「では一緒に拝んでやろう。こちらも未だ修行中の弱輩だが一人より二人の方が功徳があるだろう。僧の和合は尊いもの、同じく仏の道を歩む者同士、手を携えて高め合ってこその修行だ」

「ありがとうございます、お若いのに立派なお坊さまでいらっしゃる。わたしの方が背が高いというのに未熟者で、お恥ずかしい。もう十六にもなるのに」

「ああ、おれも十六だ、奇遇だな。これも御仏の宿縁か。十六で声が変わらないとはさぞ重病を患って……」

「わたしのことはともかく……お名前をうかがっても」

「叡山で見習いの明空だ。そちらは?」

清寧(せいねい)と申します。私度(しど)の僧です。御寺(みてら)の預かりではございません。我が師は寺に属さず位もない遊行(ゆぎょう)上人(しょうにん)にて、しかしその尊い志に感銘を受けて発心し、髪を下ろしていただきました。師は吉野か熊野か、過酷な旅に出てしまいわたしは連れていってはいただけなかったので、せめて姿だけでも立派なお坊さまに近づけようと必死にあがくばかりの拙い身の上です」

「何やら複雑な事情があるのだな、いや問うまい」


 ――私度で師匠が不在! なら今はフリーなのか! つき合っても文句を言うやつはいないのか!


「御仏の道に身分の貴賤はなく受戒(じゅかい)の師の有名無名もなく、志があれば灌頂(かんじょう)など後からでも間に合うだろう。――ほら、そちらが東塔(とうとう)だ」

「まあ、噂に名高い三重の裳階(もこし)。これが天平(てんぴょう)の祈りなのですね。何百年も前の信仰の心が形になって残っているとは素晴らしいことです」


 一体この身体のどこに至らないところがあると言うのか。途方もない病で余命幾ばくもないのだろうか。あまりに美しいから天神地祇に召されてしまうのか。

 なら早く愛欲を満たしてやらなければ。

 それで二人、手をつないで仲よく境内を巡った。握った手が柔らかくすべすべしているのに密かに胸高鳴らせたりしながら。

 ――彼は人生で初めて、はしゃいで浮かれまくった。

 自分のことばかり考えていた。薔薇色の未来があると勝手に思い込んだ。

 最後に一緒に馬小屋に入って。

 後は皆さんご存知の通り。

 彼が見たのは極楽浄土ではなく、禅宗で言う〝魔境〟だった。


 だが皆さんご存知でないこともある。

 彼がへどを吐くほどショックを受けた真実。

 ――女に惚れてしまった。

 ――自分は他人が言うようなオメガバースのΩではなくただのストライクゾーンの狭いβだった。凡人だった。運命のつがいなどいなかった。相応しい白馬の王子さまが現れると思っていたのに。

 他人がどう思おうが自分でどう思おうが彼はシスヘテロだった。好みが偏っているだけで骨の髄までヘテロ男性だった。

 もう一つ。

 初めての恋だった。

 明空がみこさまのことを忘れたのは十五年でこの半日だけ。やっと記録更新した、からではない。

 邇仁に抱いていたのはそもそも全然、恋ではなかった。

 どんな形でもいいから認められたいという浅ましい煩悩で肉欲を求めたのか。

 それとも親兄弟にそうせよと命じられてその気になっていたのか。空気に流されていただけだったのか。

 私利私欲のため寵愛を求め、純真なみこさまを穢そうとした。

 その挙げ句、あろうことか応じてくれないみこさまに情がないと恨んであてつけに出家までして。

 僧の姿になったくせに、口先ばかり達者になって少しも煩悩を断ち切れていない。

 恥知らず。


 この時代に切腹の習慣があればこんなみっともない話はせずに済んだだろうに。


「――天竺に行きたい」


 この発言は元々、仏道とか全然関係なかった。


 ――さて。

 明空がいなくなってからの邇仁の五年はまるで違っていた。

 いや、同じだったのかもしれない。


 明空は迫ってくる好色な僧たちを全員、殴り倒して撃退したが。

 即位した邇仁のもとには高級貴族の家から何人も女御更衣が。彼が望もうと望むまいと、いないと体裁が整わない。

 十五を過ぎて、それらに手がつかないと。


「今日も主上のお召しはなかった。わたくしは主上のお望みに叶わなかった、女として必要されていない。死にたい」

「わたしはそれほど醜女ですか。いっそ殺してください」

「ごめんなさいお父さま、お家のため皇子をお産みするとお約束したのに果たせそうもありません」


 美姫たちの嘆きと怨嗟(えんさ)が後宮に満ちる。邇仁は聞かないふりをして日々を必死にやり過ごしていた。相変わらず毎晩、弘徽殿女御を形ばかり召して御帳台の端と端で寝ていたが。

 邇仁が十八歳になったとき、ついにその暮らしは崩壊した。


「わたくしは浅はかでございました。陛下はこんなに立派な男君でいらっしゃるのにどうして拒むなど……もうあの方に恋していたことも忘れてしまいました。父が皇子を望んでおります。……わたくしも陛下の御子を授かりたいと思います」

「えっそれは、困る。そなたとは今までの関係でいたい」


 弘徽殿女御があっさり心変わりしてしまった。いや七年も経ったのだから「あっさり」ではない。結構な熟年夫婦だ。

 だが邇仁の方はまだ全然男女の契りが怖いまま。彼は背が伸び、声が変わり、様々な書物を読んで歌を詠んで、蹴鞠(けまり)がうまくなった。

 身体も男になって妙な夢を見るようになった。

 それでも例の偃息図が、怖い。

 タイミング悪く明空の母・前尚侍が死んでしまった。臣下の妻はちょっとまずいが友達の母親はオッケー、彼女のもとに逃げ込むという手段もあったのだが。

 ここに新たな戦力が追加される。浮かれ女(ビッチ)という噂の新尚侍だ。他の男と浮き名を流した女、普通なら后妃に相応しくないとハネられる物件だったが、邇仁がその気になるのを待っていられないと。真面目で大人しい女が好みでないなら肉食はどうかと。

 更に宴席に白拍子がたびたび出てくるようになり、裸で踊るような遊び()が出てくるようになり、酒や食事に媚薬を盛られるようになった。――おまじないのようなものならいい。本当に効く媚薬は、脳や心臓に悪い。


「――このままでは殺される」


 バッドトリップしたり胸を押さえて悶え苦しんだりした挙げ句、邇仁が助けを求めたのが。


「源四郎、助けて。女が怖い」


 はいそうですかと十八で世間に出してもらえるほど平安天台宗の修行は簡単に終わるものではない。

 ――あんなに手ひどく振っておいて今更何を、とはねつけるべきでもあった。

 だが。


「はい、みこさま。源四郎にお任せください。みこさまの眠りは誰にも妨げさせません」


 明空は見た目は立派な僧だった。

 経典を読み、経を誦し、坐禅し、水垢離し、五体投地し、御仏の像の周りを一心不乱にぐるぐる歩き回り、霊山を歩き。

 それは熱心に修行に打ち込んでいるように見えた。

 皆、「あんなしんどいことを文句一つ言わずにする明空はすごい」と言っていた。「仏道の才がある」とも。

 ブッダクレイジーを演じるのは楽だった。マニュアルが用意されている、その通りにやればいい。いろいろなパターンが事細かに。それで死んでもかえって褒められる。

「あいつが天竺に行きたいと言うからには志があるんだろう」と誰かが言い出してロールプレイの型が増え、元の動機がうやむやになった。

 本当の自分から目を逸らして惰性とヤケクソでやっているだけなのに誰も気づかない。誰も彼も見る目がない。要領がいいだけで、明空ほど仏道に向いていない人間はいないのに。

 俗物のくせに俗に還る度胸がないだけなのに。

 被害者だったことは一度もなく、恋愛の敗者ですらない。

 何者でもなく、今や仏教に甘えている。

 ――俗物ならばせめてみこさまにこれまでの非礼を詫びて償うべきでは。

 ――お助けするべきでは。

 こうしてひどく嫉妬深い夜居(よい)の僧が清涼殿に居座って后妃が寵を賜るのを邪魔するようになった。

 あろうことか男の身で寵を受け、独占して帝王に子孫繁栄の義務を果たさせない。それは己の一族、兄たちの立身出世のため――僧のなりをして信仰とはほど遠い俗物、私利私欲で国を傾ける奸臣(かんしん)

 今上に皇子皇女が未だないのは邇仁に非があるからではない。怪僧が幅を利かせる世の中だからだ。


 だが、事態がまた変わった。

 斎宮女御麗景殿さいぐうにょうごれいけいでんの出現で。

 皮肉にもこのカードを切ったのは明空の父と兄。いざ本当に明空が寵を独占するようになると「これはまずい」と焦って身寄りのない女王(にょおう)の後ろ盾になり、新たな女御に仕立てて送り込んだ。

 一転、邇仁は彼女を毎日、夜の御殿(おとど)に召すようになった。その様子は玄宗皇帝と楊貴妃にもたとえられるほどだった。

 が、それは彼がついに男女の恋の味を知った、からではない。

 麗景殿女御が入内し、初めての夜を清涼殿で迎えることになったそのとき。

 彼女は、あろうことか夜の御殿で匕首(あいくち)を抜いた。


「いいか、お前が誰だろうが触ったら殺すぞ」


 ――大逆、弑逆(しいぎゃく)未遂。邇仁は大声を上げて武士たちを呼び集めるべきだったが。


「マジで!? 召すだけで触らなくていいの!?」

「……は?」

「気が変わった、子供がほしいとか言わない!?」

「い、言わない……何だお前」


 ありえないことが起きて、なぜだか二人の利害は一致した。かつての弘徽殿女御のように端と端で眠るようになった。それだけの話。

 それだけで明空はお役御免になった。


「叡山に帰ってよいぞ」


 今度はそれで、はいそうですかと帰りはしなかった。

〝道鏡〟と指さされるようになった以上は意地がある――のですらなくて。

 修行よりも、みこさまのおそばでつらくて惨めな目に遭っている方が何かしているような気になれたから。

〝忠臣〟のロールプレイが一番楽だった。


 こうしてすっかり明空が君側(くんそく)(かん)とささやかれるようになった頃。

 都には奇妙な尼がいた。夫を亡くしてわずか十二歳で仏門に入り、僧位を得られない女の身で、まるで何も考えていないようにがむしゃらに功徳を求めて突っ走る。痘瘡(天然痘)で倒れたのに蘇り、まだ走り回っている。

 男になろうとして失敗したので、女のまま女を捨てて成仏するなどとほざいている。

 頑張ったところで誰かが認めてくれるわけでもないのに。変人と呼ばれるのが関の山。地位や名誉が得られるはずもないのに。

 墨染めではなく萌黄の法衣で、高貴の姫には短すぎるみっともない髪でどこへでも走っていく。

 そんなの長く続くはずがない。どこかで転んで痛い目を見るのに決まっている。

 なのにもう九年。

 どうしてそんなに一生懸命でいられるのか。

 どうしてそんなに楽しそうなのか。

 本当に何にも執着していないのか。

 どうして、どうして――



 ものすごく長い十年分の身の上話を聞いている間に、月が昇って傾きつつあった。


「……えーっと、おれは俗人なので思ったままをぶっちゃけますが」


 良彰はかなり頑張って眠気をこらえきったと思う。

 ため息だけは我慢できなかった。吐いた分、勢いよく息を吸って一言。


江口(ソープ)へ行け!」

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