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巻の三 会議は踊る、されど

 預流はいつの間にかお妃候補から外れていた!

 王朝文学に描かれない政争・謀略の世界で。

 勿論主催はこの人、八岐大蛇。

「尼御前から押し倒して近江に寺を建立して追放、結婚作戦改め、坊主から押し倒して丹後に追放して結婚作戦、臨機応変に大・採・用~~~!!! けしからーん! 坊主なんかやめて結婚しろー! 本当はやってない? そんな言いわけ、誰が信じるかー!」

 童貞の想定を超える最低野郎、キレッキレです。

「いやわかっている。預流は親切だから坊主が胸でも悪くしたのをさすってやっていたとか、目にゴミが入っていたのを取っていたとかなのだろう? 偶然顔が近かったのを、賢木中将の腰巾着で色欲で目の曇った近江守がそのように解釈しただけなのだろう?」


 兄さま、何て心が綺麗なの! 自分に言い聞かせて現実逃避しているような気もするけど! いやそのように見せる演技だったのだが、目論み通りなのだが、そこまで綺麗な事情でもなく何と説明していいかわからない!


「わざわざ陣定が開かれてお前は女御更衣に相応しくないということになったが、そもそも後家の尼に興味を持った邇仁(ちかひと)が悪いのだ。堂々としていろ」

「……いや、別に主上が悪いわけですらなくて勝手に忖度した人たちが……」

「かの僧は主上のご寵愛深……覚えめでたいがまだ若いので、還俗(げんぞく)して結婚させては、という話になったそうだ」

「えっわたし、結局結婚するんじゃないですか」


 しかも相手が靖晶から明空(みょうくう)に変わった。好き嫌い以前にあいつと結婚生活なんかできるわけないじゃん。絶対DVするってあの男。……待って? 邇仁は「源四郎(げんしろう)と結婚しちゃいなよ!」と言っていたがその意向、関係あるの?

 しかしここで兄宮は顔を歪めるように笑って、天を仰いだ。


「入内に比べたらお前が元坊主と結婚するかどうかなど些細な話。顛末(てんまつ)までじっと見て確かめるやつなどおるまい! お互い、髪が伸びるまで待つとかごまかしてうやむやにして現状維持だ! 女の髪が伸びるのに何年もかかる、その間にやつらは醜聞など忘れる! 人の噂も七十五日! これからも清い身のままわたしの邸にいなさい! コバエのようなマスコミの取材など皇族の力で追い払ってくれる!」

「……わーい、兄さま頼もしーい……って喜んでいいのかしら……」

「邇仁に割って入る意志がないという言質(げんち)さえ取れればいいのだ、綸言(りんげん)汗の如し!」


 天子の言葉と汗は一度出たら引っ込まない、というたとえ。


「最悪、坊主には別の女をあてがっておけばよいのだ」

「それは聞き捨てならないわ」


 兄はかなりヤケクソ入っていたが、こうしてお妃候補・預流の前を巡るバカ男たちの戦いは本人の知らないところで勝手に始まって勝手に終わったのだった。

 預流は無事、自分の住まいである東の対に戻り、再び尼や稚児に囲まれる生活に。結果的に何かやたらスリリングな一夜を過ごしただけで速攻、自宅に帰ったのだった。


「何だ、明空のエアセックス作戦だけで何とかなってたんじゃないの。あーあ、振り回されてわたし、馬鹿みたい。……靖晶さんに何て説明したらいいのかしら……わたし以上に馬鹿を見たわね、あの人……あの諦めの笑顔はどこまで事情を知って?」


 預流は少し気まずいくらいに思っていたが。

 彼女は自分が妃に相応しいかどうかが陣定で審議されたというのがとんでもなく大変なことだとわかっていなかった。


* * *


 陣定の議題は通常、国司の人事や地方反乱の対処――平将門、藤原純友の乱とかこの会議でどうするか決めていた。これ以上にないシリアスな政治の大舞台だ。これに参加し発言権があるとないとで平安貴族としての格が滅茶苦茶違う。

 参加資格があるのはこの人。


「いやーわたしも預流の前は尼ながら絶世の美女と聞いて多少モーションをかけたりしておりましたが? まさか僧とデキているとはいざ知らず?」


 恋も文学も謀略も全力の八岐大蛇、三位中将(さんみのちゅうじょう)為正(ためまさ)! 息子に殴られて気絶していたとは思えない回復の早さ!

 そもそも彼がこの話を本物の政治の舞台に持ち込んだ!


「左大臣息女・預流の前に不義密通の噂あり。彼女を今上の妃にというお話、今一度審議すべきではないでしょうか。いえ夫を亡くしてもう随分経ちますから不倫と言うほどの問題ではないでしょうが、女御更衣(にょうごこうい)にしてよいかというとやはりまずいのでは。なる前に発覚してむしろよかったではありませんか。わたしは若い二人の恋愛を応援してやりたいのですよ?」



 ……実のところ明空は一応預流を気遣って一番最初に来た。何せ賢木中将は入内妨害のプロ。その前に行動を起こしておけば向こうは動かないだろうと考えて逸ったのだ。賢木中将が夜這いに来るより自分がエアセックスで済ませる方が遥かにましだろうと。殴られて終わるところまで気遣いに入っていた。

 が。目撃者の近江守は。


「あれはやってませんね、段取りも気配も不自然で。童貞と処女が牛車揺らして必死にそれっぽいフリしてただけですね。為正さまの乳母子(めのとご)として断言します。あれはやってません。見世物として面白かったのは確かですが」


 都で一番スケベな男の腰巾着、騙されなかった!


「ふむ、ネタとしても面白いので採用してほどよく醸しておくか。よくやった。出世させてやろう」

「ははっ、ありがたき幸せ!」


 それで賢木中将が誰にチクりに行ったかというと。


「何と、源四郎が洛外で尼と和泉式部(いずみしきぶ)。問い詰めねば」


 いきなり今上邇仁本人。蔵人(くろうど)と囲碁打ったりしているプライベートの時間に〝たまたま近くの廊下を通りかかって〟「すごい噂を聞いてしまったぞー」とやたら大きな声で独り言を言って、邇仁に呼び止められた。

 しかもここに悪辣な仕掛けをした。


「いえ、まだです」

「まだとは?」

「かの尼は后がね(お妃候補)ということになっています、主上から問い詰めたのでは彼の面目を潰してしまいます。律師(りっし)どのから言い出すのをお待ちになりませんか? あの女は自分のものだ主上とて譲れないと、自分から言い出す彼の男ぶりをご照覧になるべきでは? それが大人の態度というものですし、絶対その方が面白いですよ。わたし、ちょっとやらしい雰囲気にしてきますから」

「確かに道理! 源四郎の方から予に告白すべきだ!」


 ――八岐大蛇、入内妨害作戦がとっくに成立していたのを知っていた、ただ一人の男!

 わざと情報を上流で止めて、無駄に靖晶をぶつけたり自分からぶつかりに行ったりしていた。「絶対その方が面白いから」――童貞の想定を超える最低野郎。人の気持ちを弄ぶのにためらいがない。

 一方で無邪気なこの御方。


「知っているか中将。源四郎はかの尼を〝浄瑠璃世界(じょうるりせかい)菩薩(ぼさつ)〟と呼んでいるのだぞ。清浄(しょうじょう)な瑠璃の光だと」

「えぇ、何と。律師どのは普段詩歌などわからないと言っているのに、浄瑠璃の君とは美辞麗句を」

「それも男の僧で、もう死んだと嘘をついていたのだ!」

「メロメロなのがバレたくなかったんですねー! それほど隠していたのだからぜひ慌ててもらいましょう! この中将為正にお任せあれ!」


 この世でこの人だけが「ラブラブバカップルを横からつっつきながら応援している」つもりだった。



 そして二枚舌どころか頭が八つの八岐大蛇は自ら廃屋で夜這いをかけようとして息子にブン殴られて。


「よし。クローズドで楽しいところはもう全部終わった。頃合いだ、情報をオープンチャンネルに大々的に放流するぞ」


 こうして急遽、陣定が執り行われることとなった。紫宸殿(ししんでん)の東側、左近衛府(さこのえふ)の詰め所、陣座(じんのざ)に大臣、公卿が呼び集められる。本来、臣下の控え室だったが会議の実権が帝から臣下に移り、いつの間にか控え室でメインの話をするようになった。

 参加資格は三位以上の家臣、あるいは参議(さんぎ)。――皇族の山背式部卿宮には参加資格がない! このために皇位継承権を捨てて臣籍降下して源氏や平家になる皇子がいるほど。

 三位以上ということで全員、礼装は黒の縫腋袍(ほうえきほう)石帯(せきたい)を締めた束帯姿(フォーマル)。三位以上は武官も縫腋袍を着、文官も飾太刀を帯びる。かなり圧迫感のある光景だ。朝廷の公式会議なので普段裸足で畳にあぐらをかいている人たちが、珍しく皆、(くつ)を履いて床几(椅子)に座る。着席の前に何度お辞儀をするとか細かく決まっているが、割愛。

 あんまり難しい議題だと真面目な意見を述べられないのでばっくれて欠席する者すらいたが。――尼と僧が不義密通とか無限に遊べる炎上素材、今日に限って全員出揃っていた。

 ――〝和泉式部〟!

 ――〝伏見の里〟!

 ――〝すずろにあらぬ旅寝〟!


「これはここ数十年で一番大物のスキャンダル。何たって后がねの尼と主上のご寵愛深いイケメン律師ですよ」

「世も末だ!」

「で、近江守が仔細を聞いていたというがそれはどこまで? 前菜からフルコース聞いていたのか? デザートまでも? そういう状況に至るまでの前提は? その辺、詳しく」

(わたし)はエロ動画の序盤も飛ばさず全部見る主義だ」

「エロスだけでなく関係性も重要視したい」

「わからん。絵でくれ」


 ――童貞は、逃げ方を知らなかった。賢木中将がスキャンダルで后がねを潰すやり方を知っていたので真似したつもりだったが、その後、どうやってノーダメージで逃げているかまで把握していなかった。明空は結局のところ冷笑家の逆張り野郎で、恋愛脳を侮っていた。上司と言わず部下と言わず一緒に色町に行き、政治のために恋をし恋を政治利用する男をナメてかかっていた。


「まあまあ。僧の女犯(にょぼん)など大した問題ではないでしょう。彼はまだ若い。あたら若き才ある者が御仏の道に入るなど勿体ないことだと思っておりましたが」


 賢木中将本人は言い出しっぺのくせにこのように表向き、取りなすような顔をしていた。

 俗物だらけで真面目な人が全くいなかった、わけではない。

 特に一番真面目だったのが初瀬の父・内大臣。四十四歳。


「預流の前は確かに初瀬の妻であったが初瀬が身罷(みまか)ったときまだわずかに十二歳。人生は長い、尼となって一生法衣をまとうというのはやりすぎだと思っていた。かの律師とは十六の頃からつき合いがあり、今に至ると。昨日今日のふしだらな戯れなどではないのだろう。互いに袈裟を着る身、立場を(おもんぱか)って関係を隠していたのかもしれない。我が家を気遣って黙っていたのかも。かの姫は初瀬と契りを結んだときは裳着(もぎ)を終えたばかりの幼い童女であった。それが真の男女の愛を知ったのかと思うと我が子のことのように感慨深い。わたしとしては若い二人を祝福してやりたい。皆で寄ってたかって責め立てたのでは不憫だ。初瀬も草葉の陰でそう思っているだろう」


 彼の言い分を聞いて涙ぐむ者まであった。――何ていい話なんだ。みっともない真相と比較して申しわけないほど。


「しかし僧のままで妻を持つのは障りがありましょう」


 それを堂々とつっつく賢木中将。さっき大した問題じゃないって言ってたのに。


「……引き裂くと言うのか、好き合った二人を。島流しにするとでも?」


 ――この真面目な人の、娘を弄んで子供まで産ませておきながら「えー、性格の不一致。結婚はできません。騒ぎ立てるとそちらの不名誉ですよ? 今後の縁組に支障出ますよ?」とばっくれた最低野郎。陣定における最悪の対戦カードが来てここで空気にびりっと電流が走る。

 しかし賢木中将、するっとこれをかわす。


「いえいえこちらは若いのですし、俗人として相応しい官職を授けてはどうです。無位無官で放り出したのでは惨い。丹後守(たんごのかみ)とかどうでしょうか。融通できます」

「おお、悪くないんじゃないですか。これを期にかの僧は俗世の官として朝廷を支えてくれれば」


 内大臣に逆らうのではないか、喧嘩は困るとびくついていた某中納言が、うっかりこれに飛びついた。

 一見内大臣の意向に添って折衷案を出しているように聞こえるが、僧綱(そうごう)としてクビ、左遷。しかし真面目な内大臣、「坊主が妻帯って、宗教はそんなことでいいのか?」とはうっすら思っていたので反論しづらい。これで一気に場の流れが賢木中将案に。


「賢木中将もかの尼御前のもとに忍んでいったという噂がありますが?」


 某参議から多少の横槍が入ったりもしたが。


「わたしはほら、そういう話を聞くと首を突っ込まずにいられないたちで。后がねに相応しい美姫と聞いたらいてもたってもいられずみっともないことをして、すげなくされてしまいましたよ」


 安定のオートレスポンスモード対応。


「中将はまた頭に怪我をしていますが、女に殴られたのでは? そちらは傷害事件じゃないんですか? 被害届は出さないんですか?」

「これは今回の話と何も関係ないですよ、息子の家庭内暴力です。お恥ずかしい。わたしは大人しい子供だったのでわかりませんが、第二次反抗期なんでしょうか、手がつけられなくて。カウンセラーとかいたら紹介してくださいよマジで」


 事実だが真実ではない。


「世間では色男と呼ばれていてもかの尼御前のためにこんな恥をかいて息子に嫌われて家族にも見放されるのか死んでしまいたいなどと一人で悶えておりました。美しい妻も恋人もいるのに尼御前一人が手に入らないために身を滅ぼすことになるのかと思い詰めて。でも彼女は仏の道のためと言っておられましたが本当は律師どののためにわたしを拒んだのですねえ。仕方ないですよね、彼、わたしとはジャンルが違うイケメンだから女性的美形だから。ストイックだし、ガッツリ肉食のわたしとは何もかもが真逆。浄瑠璃の君とか呼ばれたんじゃ。彼に負けたなら本望です。完敗です。そんなこととも知らず一人涙で袖を濡らしていたとは、わたしときたらとんだピエロですねー! こっちこそ出家したいですよー!」


 またべらべらと長いわりにうっすいことを喋って。


「いつもいつも仕方のない人だな中将はー!」

「どうかわたしのことは気にせず二人、お幸せにー!」

「そんなこと言って僧尼(そうに)の間に挟まろうとするんだろう、やめろよー絶対にやめろー!」


 男から男へのセクハラの激しい貴族社会では賢木中将の個人的な話は、全部シャレということになった。平常運転。シリアスからギャグまでこれ一本。

 ――世間にバレても全く困らない男、何をしても失うもののない男、大勝利。常日頃から恥知らずキャラを作っているヤツだけ全属性無効。賢木中将のメタデッキは完璧に明空にだけダメージが入るよう組まれていた。脇道がいろいろあっただけで、最終的に陣定でこういう展開に持ち込むのは計算通り。

 そうとは知らずに踊らされるばかりの不真面目な公卿の皆さまは。


「で、尼本人は今?」

「受領の(ナントカ)と駆け落ちしているとかいないとか」

「この上、受領とまでデキているとは何という和泉式部!」

「受領の恋人がありながら僧を惑わせ主上と賢木中将の目に留まるほどの……そんなに……」

「……わたしも一目見てみたい……」

「式部卿宮の初草の君という話は?」

衣通姫(そとおりひめ)で和泉式部!?」

「いっそ夢のような好き者の女! それが破戒の尼で!?」

「属性盛りすぎか! 和泉式部も己の兄までは!」

「淫獣か!?」


 内大臣に聞こえないよう声を低めつつ好き勝手に妄想を膨らませて。

 ――こうして理性が脆く性欲がバカみたいに強い男どもの夢のような概念、〝幼くして夫を亡くし悲しみに打ちひしがれていたら実の兄に関係を迫られ、ショックで出家するも次々にあらゆる身分の男を惑わす魔性の尼・ビースト預流の前〟が爆誕した。陰陽師の言霊のなせる業なのか、彼が言った通りの淫乱ドスケベ尼になった。


「ど、どんな女なのだ……まさにファムファタル」

「そんな恐ろしい女、若い美僧に押しつけて二人まとめて洛外に封印して無害化を図った方がいいのでは。若くて顔のいいやつが責任を取れ!」

歓喜天(かんぎてん)だな!」


 男女逆ですよ。


「……そもそもそんな女を妃にしようと言い出したのが間違いでは?」


 そしてついに良識派とそうでない人が全員、同じ結論に達した。

 さてこの会議で、関係者で重臣でありながら一言も発しない人がいた。

 預流の父、左大臣順久(よりひさ)(きょう)。本当なら左大臣は一番偉い一上(いちのかみ)、この会議で一番強い身分だが。

 議題が議題なので公平を期すため、この日、帝からの宣旨(お達し)で直々に一上は次席の右大臣ということになっていた。賢木中将の父である。

 この時点でもう彼は心折れてしまった。持ち上げられてから梯子を外された。正直、欠席したかったが不在の場で何を言われるかそれはそれで心配で。まさか、いてもボロクソ言われるとは。

 ――この九年、娘に何の期待もすまいと彼の方が悟りの境地にあるような風情だったが、今回の騒ぎでは預流が中宮(皇后)になるかもとちょっとだけはしゃいでしまった人だった。一瞬、玉の輿(こし)の夢を見た対価にしてはあまりにも高くついた。こんなことならやっぱり妹姫を薦めておけばよかった。

 とっくに死に別れた夫の父の内大臣が何か勝手に格好いいことを言ってまとめてしまったが、婚姻関係を解消して九年とか時効だ。娘を傷物にされたこの人はといえば、「生臭坊主め、クビにして流罪、遠流(おんる)だ! 太宰府や鬼界ヶ島(きかいがしま)に流してしまえ! いやわたし自ら成敗してくれる、誰か太刀を持て!」くらい言いたかったが政治がそれを許さず、彼はそもそも「うちの娘に限ってそんなふしだらなことは」と言えるほど娘のことを知ってもおらず――


「内大臣がいいこと言ったし、じゃあそれで」


 心の籠もらない一言だけを言った後で。


「……敦能さま?」

「ち、違います誤解です義父上。初草とか無責任なやつが勝手に言っているだけで」

「大事に育てた娘を和泉式部だの衣通姫だの淫獣だの……もう出家遁世(しゅっけとんせい)するしか!」

「早まらないでください義父上! あなたまだ若いですよ、四十ですよ!」

「触るな! 我が子も同じと思って世話してきたのによりにもよって同じ母から生まれた妹を、この恩知らず! ケダモノ! よくも我が娘を! あれが奇行に走るようになったのは全てお前の仕業か!」

「違います、何もしていませんー!」


 場外で妻の連れ子を激詰めすることに。

 ここに来て預流本人を激詰めするのは怖いという深刻な父と娘の断絶の結果、〝唯一〟本当に何もしていなかった兄宮がこうむった深刻な風評被害。預流本人と向き合うときには強がってへらへら笑っていた山背式部卿宮敦能殿下、実は大変なことになっていた。〝大事に育てた娘〟って九年放置した時点で全然大事にしていない。

 なぜか結果として実際にしでかしたやつほどスルーされるということになり、モブ陰陽師の重たい気持ちとか事実婚のレベルばっか上がっていたとか微塵も評価されず、父親に認識すらされなかった。これはこれで悲劇。

 左大臣と同じくらいいたたまれなかったのは、明空の三人の兄。大納言、中納言、参議とうっかり全員公卿で会議に参加していた。勿論弟を助けてやりたくて出てきたが、醜聞の唯一の証拠が賢木中将の手下の目撃情報で、流れが「けしからん、今すぐ結婚しろ! お幸せに!」となっていたら反論できるはずもなく、この期に及んでは本人を問いただすこともできず、


「あいつはそんなやつではないはずなのですが……伝聞情報で僧綱をクビ、は処分が重すぎませんか……一生の問題ですよ、せめて本人に真相を確かめてからでは駄目ですか……駄目ですかー……」

 青ざめて弱々しく言い募るのが精一杯だったが、誰も聞いてはいなかった。



 この会議で出た意見を書類にまとめて〝上卿(しょうけい)〟、主催者が清涼殿(せいりょうでん)で帝の認可を得るのが〝官奏(かんそう)〟。最後は帝がいいとか悪いとかやり直せとか言う。

 が、陣定システムには重大なバグがある。

内覧(ないらん)〟――帝に見せる前に摂政や関白がまず書類に目を通し、自分に都合の悪い意見は消してしまう。ここでほぼ決定。関白は陣定には参加しない。しかし内覧もやりながら陣定にも一上として出席していたとんでもない人がかつていた。藤原道長という。言えば何でも通った。無茶苦茶だった。

 で。今の関白は賢木中将の伯父、一上・右大臣の義兄。――はい、出来レースです。

 賢木中将と右大臣が言ったことは何でも通すし反対意見はここで消す。そんなに家族仲がいいわけではないが、娘を弘徽殿女御(こきでんのにょうご)として邇仁の妃にしている手前、預流を入内させたくないという利害は一致している。預流の父・左大臣が何も言わなかったのは、ここでハネられるのがわかっていたからだった。

 そしていよいよ官奏。

 ――明空の兄たちはそれでも邇仁が「何かの間違いかもしれない。当人たちの話も聞いていないだろう、調査からやり直せ。本当だったとしても処分が重い」と言い出すのに一縷(いちる)の望みをかけていた。あまり大声で主張すると内覧で消されてしまうので小声でささやかに必死に目立たないよう言い募っていた。

 が。

 阿闍梨(あじゃり)にして権律師(ごんのりっし)・明空の還俗・結婚について邇仁はあっさり承諾した。兄たちの最後の望みは絶たれた。――〝還俗〟は一般人から見たら「坊主なんかやめちゃいなよー」程度だが、僧から見たらエリート官僚としてやってきたのに無惨にクビ。そもそも感覚に温度差がある。

 彼の結論はこう。


「大変遺憾である」


 この後に個人的感情が長々と続く。


「身持ちのことではない。若い男女にはいろいろあるのだから好き合っているならそうと申せばよいのに、げん……(くだん)の権律師・明空とやらはなぜそんな意地になって隠していたのだ。ここまで話が大きくなるより前にこっそり教えてくれれば、尼の求道を妨げては君主の徳を損ない、ひいては国家の安寧に障るとか、式部卿宮が反対するのも理があるとか、それとなく入内話をごまかしてなかったことにしたのに。長いつき合いなのに恋の話一つ語ってくれないとは水臭い」


 これは全部本音で邇仁は普通に友達として傷ついていた。その傷心が彼自身の思い込みと賢木中将による情報操作、何も嘘をついていないのに〝あえて平地に波瀾を起こす〟八岐大蛇のマインドコントロールテクニックの産物だとは気づかなかった。

 ――こうして兄たちの悲嘆むなしく、明空は欠席裁判で弾劾され、罷免され、ひどいセクハラを受けた。セクハラをうまく受け流せる者だけが生き延びる平安社会で、当人不在の場所でセクハラだけされるというのは最低最悪だった。

 こんなに大変な政争謀略があったことが、「ヘタレの父親」「皇族は政治に対してニュートラルでなければいけない、という建前を鵜呑みにしている兄宮」「三下の役人で歯牙にもかけられていない受領の陰陽師」がボトルネックになって当事者の預流に伝わっていない。



 さて長年の怨敵をついに型にはめて清涼殿から叩き出すことに成功した賢木中将。後は沙汰が完了するまで、邇仁が「やっぱりやめた」とか言い出したりしないように見張るだけの簡単なお仕事だったが。


「いやよく我が意を汲んでくれた、賢木中将。予は前々から源四郎は女と結婚して幸せになるべきと思っていたのだ」

「は?」


 後宮で二人で双六(バックギャモン)とかやってたら、逆に邇仁がにこにこし始めて薄気味悪く思った。


「そなたは我が姉聟、予は常々兄弟の如く親交を深めたいと思っていた。東宮()はまだ幼いし予に兄はいないから。仲よくしよう」

「……わたしはあなたの側近中の側近、一番の忠臣を陥れて内裏(だいり)から追い出しましたが?」

「悪役を買って出るそなたの方が忠臣ではないか。陥れたなどとは思っていない。予はあれには俗に戻ってほしいと思っていた。才があり、いかようにも生きられるはずなのになぜわざわざ苦しい道を選ぶのかと。これでよかったのだ。予のそばにいるべきではなかった」


 つい賢木中将がぽろっと本音を洩らしても、勝手にいいようにいいように解釈して一人でうなずく。


「そなたが予のため、朝廷を支えてくれればよいではないか。いや、予がそなたのためになろう。――ここだけの話、禅譲(ぜんじょう)してもいいぞ」

「は?」


 その挙げ句にさらっと、とんでもない問題発言が飛び出した。賢木中将の方が耳を疑うような。

 手の中で賽子(さいころ)を転がしながら、世間話のように。


「こんなもの、大して楽しくはない。欲するならくれてやろう、茜さす斎院でもそなたでも。それで兄弟姉妹の仲が丸く収まるのなら。別に退位したとて命まで取られるわけでなし。妃が死んで悲しいとか何となく寂しいとかでやめていいのだろう? 今やめたら皆うるさいから続けているだけで。退いたら嵯峨野(さがの)にでも離宮を作って引っ込もう。何なら予こそ出家でもしよう。寺の生活はここほど窮屈ではないようだし。亡き父母の菩提を弔いたいとかでよかろう。たまには斎院ともども遊びに来てくれ。皆で楽しく過ごそうではないか」


 内裏に巣くう大蟒蛇(おおうわばみ)ともあろう者が、その言葉で(もとどり)の下に汗をかいた。かつてない大負荷がオートレスポンスモードを鈍らせる。彼がこれまで吹っかけられてきた凡百の平安MCバトルとは次元が違った。急に高御座(たかみくら)を投げつけてくるとか。

 ――試されているのかと思った。

 自分の思い通りになって浮わついている今なら隙ができると。

〝綸言汗の如し〟とは言うものの流石に禅譲なんて話は思いつきでは通らない。東宮は関白の孫、それを差し置いて斎院が一足飛びに女帝に、は関白が許さない。関白は今少し邇仁を高御座に座らせておくつもりだ。

 これは邇仁自ら垂らした巨大な釣り針なのでは――

 うなずいたが最後、衝立の陰から明空が飛び出してきて「やはりそういう(はら)か、奸臣め。馬脚を現したな」と剣を突きつけるのでは――

 几帳、屏風、それとも壁代(かべしろ)の向こう?

 床下ということもある。

 陣定では誰も明空を庇わなかったが、そのうちの誰かはひっそり裏で手を組んでいたのでは――

 関白は中将があんまり動き回るのが鬱陶しくなって切り捨てる気になったのでは――

 広めの部屋を布や衝立で仕切る寝殿造りでは誰がどこに潜んでいるかわからない――


「ふざけるなこの馬鹿」


 オートレスポンスモードの出した答えは。


「おれはお前から全て奪って(ひざまず)かせてやりたいのであって譲られる気など毛頭ない、憶えておけ! こんなものだと。おれに押しつけて放り出すようなものがほしいわけがない。誰が仲よくなんかするか、バーカ!」


 すらすらと平安貴族にあるまじき軽快な啖呵(たんか)を切って、賢木中将は自分の言い放った言葉に驚くありさまに。流石に今上帝にバカとまで言うつもりはなかった。

 邇仁も驚いたようだった。聞いたこともない罵声を浴びせられ、あまりのことに賽子を手にしたまま目をしぱしぱさせていた。だがショックで言葉を失うということはなく。


「……そなた、弁は立つがよそよそしくて突き放したところがある。そう思っていたが意外と熱く叱ってくれるのだな。しかもそんな崩れた言葉を使うとは。雅なばかりではなかったのか」

「……あれ?」

「それが中将の本音であったか、そうか」


 むしろわけ知り顔でうなずいた。賢木中将の方が何が起きているのかわからなかった。


「うむ、冗談でも言っていいことと悪いことがあった。忘れてくれ。――しかし予がそなたを兄のように慕っているのはまことだ、変わらない。むしろますます兄弟のように親しみを感じる。予は甘いことを言う前に、そなたの前に立ちはだかる威厳ある帝王でライバルであるべきだったのだな! 貴様を倒すのはこのおれだったのだな!」

「は、はあ」

「気づかなくて済まなかった、頑張ってやってみよう。普段のキャラを崩してまでの厳しい叱咤激励、しかとこの心で受け止めた。これからも朝廷のため尽くしてくれ」


 馴れ馴れしく肩を叩いて。


「中将は怒るとあのようになるのだなあ」


 なぜかにやにや笑いすらした。

 こうして、この人も見事に〝世間の誰も知らない賢木中将の本心を自分だけは知っている〟という気分になってしまったらしかった。バッチリ絆された――恐るべし内裏の大蟒蛇、頭が八つの八岐大蛇。

 問題は八岐大蛇本人。

 天下を賭けたゲームが終わり、邇仁が退出した後も呆然と座り込んだままだった。どうやら危機を脱したらしいと認識して改めて全身に汗が噴き出し、髻が緩むほどだった。今頃、息が切れてきた。


「……これでよかったのか……? 今のは本当に冗談だったのか……?」


 こっちの方が、誑かしてしまったことに戸惑っていた。まだ何が起きたかよくわかっていなかった。――茜さす斎院が「為正はオートレスポンスモードを使いすぎて自分を見失っているのではないか」と心配していたのを彼は杞憂だと笑っていたが、しっかり自分を見失っていた。結果オーライでは済まなかった。

 あのぼんやりした邇仁に、思いっきり尻尾を踏まれて剣だけ持っていかれたようだった。


「え、あいつが言ってほしいこと、あれ? ええ?」


 こうなると今回のオートレスポンスモードは誰の願いを叶えたのか。


「――明空はあいつには甘いのかと思ってたがあいつにも四六時中キレてて、あいつの方がキレられると報酬系が満たされる人間になった?」


 こうして我が世の春を謳歌する身となった賢木中将は、「妻の弟との距離感が掴めない」というどこにでもある斬新な悩みを抱くようになった――


* * *


 一方その頃。

 こちらは「妻の弟に距離を測られている男」――安倍良彰は陣定など全然無関係だった。なぜか尼御前が唐突に自宅に出現して去っていったのに首を傾げながら、いつも通りに陰陽寮に出勤して貴族のスケジュールを決め、占い・おまじないデリバリーサービスをやって。

 ほとんど洛外の某五位大夫(ごいだいふ)の邸を退いて馬で帰る途中、道端で珍しいものを見かけた。


「律師さまではないか」


 三十メートル離れていても見間違えようのない形のよい頭と若くて顔のいいオーラ。墨染めに木欄(もくらん)の袈裟。まず権律師・明空が牛車にも馬にも乗らず道を歩いているというのが珍しく、しばし声をかけず見守ってみた。


「寺とは逆方向だな。この方向は、清水(きよみず)か? 僧なのだからよその寺に用事があってもおかしくはないが、歩きとは。高僧のお使いなら牛車を使うはず。しかもこの暗いのに灯りも持っていない」


 何とはなしに後を()けながら、彼は悪い笑いを浮かべた。


「……ははーん。清水の寺稚児とデキているのだな? あるいは坊主だろうか。よその寺の男に手を出したせいでロミジュリなのだな。許されぬ恋なのだな。ここは一つ、弱みを握っておくか」


 陰陽師は他人の個人情報を知ってナンボ。あの坊主は若いくせに身分を笠に着てパワハラ三昧、惣領をどれだけいじめたか。少しくらい反撃の種でも掴めれば。彼としてはそんなつもりで馬をその辺の木につないで、尾行を続けた。

 明空はずんずん音羽山(おとわやま)の坂道を登って本堂へ。はて。僧や稚児の住まう僧坊や庫裏(くり)ではないのか。もう暗いのに、灯りが点いていない方へ向かっている。――経堂(きょうどう)から誦経(ずきょう)の声がして、夜の勤行が始まっている風情なのだが。勤行を抜け出して会う約束なのだろうか、なかなか罰当たりな連中だな、と思っていると。

 かの有名な〝清水の舞台〟に至った。この頃から完全木造、木を組み合わせて釘を一本も使わず、音羽山の崖に寄りかかるようにそびえる懸造(かけづく)りの大伽藍(だいがらん)。地上からの高さは約十三メートル。

 明空は高欄(手すり)に手をかけると。

 ――みっともなく袴の裾を乱して片脚を上げた。明らかに高欄を跨ごうとしているのに気づき、良彰は駆け寄って背中にしがみついた。


「り、律師さま! 駄目です、命あっての物種! 清水の舞台から飛び降りるって江戸時代発祥の民間信仰だから、今飛び降りても願いが叶ったりはしませんよ!?」

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