巻の二 彼氏彼女の事情
預流の前、21歳、御仏に仕え俗を離れた清浄の尼。
と言えば聞こえはいいがブルジョワオタク高等遊民!
フリーライダー!
カネモチの家だからへらへら笑って暮らしていた!
陰陽師は妻が恐れるので一条戻橋の下に鬼を飼っているという話だが、そんな鬼を恐れるような女がこの話の安倍さんちにいるわけがない。
良彰の妻・土御門の大姉君こそは陰陽師も調伏できぬ都で一番の女鬼。
男系一族に女として生まれてしまった専業主婦・弥生が預流に容赦のない現実を突きつけてくる!
「おい、尼御前さまが惣領を訪ねてきたって――」
「あ、父上」
「良彰、いいとこなんだから邪魔してんなよ」
「お前たちが邪魔だ、餓鬼は下がってろ。尼御前さまは上臈だぞ、覗くな」
――安倍良彰の声は聞き慣れていたので、預流は一気に安堵した。弥生にじっと見られながら手水を使って沙羅に装束を整えてもらっている間、生きた心地がしなかった。
「尼御前さま、こんなあばら屋にいらっしゃるとは。急なことでご歓迎の仕度もできませんで。不肖この安倍良彰、惣領に代わって御挨拶を――」
「そしてこれが我が妹背の良彰でございます」
良彰が結局ぞろぞろと子供たちを連れて入ってくると、弥生はそちらを見もせずに手で指した。
「は? や、弥生、何を」
「はい知ってます親戚のお兄さん! ……ご夫婦で顔が似てる」
「わたくしも晴明公の末裔にございますから」
「えーっ親戚のお兄さん、奥さん若いじゃないですか! 播磨守さまとそんなに離れてないでしょうこの方」
預流は必死で良彰に話しかけ、「わたしは敵ではないのです、お兄さん公認なのです、いやそれもどうかと思うけど」とアピールしていた。「良彰も助けて」と思っていたが、なぜか彼は弥生を見て硬直するばかりだった。
「ど、どういうつもりだ弥生……」
「これはしょうもない嘘つきのおっさんなので言うことをいちいち真に受けないでくださいね!」
「はい、知ってます!」
「知ってるって尼御前さま!」
「良彰が妻、土御門の大姉君こそは陰陽師も調伏できぬ都で一番の女鬼。宮家のお方であろうともこの邸のうちでは安倍の女に従っていただきます」
何やらわたわたと挙動不審な良彰と違って、弥生は視線が惑わない。
「占いとまじないしか取り柄のない男どもに食事をさせまともな衣を着せて送り出すのが安倍の女の務めにございます。都を動かすのが陰陽師ならば更にそれを動かすのがわたくしたち。次代の子らを生み育てるのもわたくしたち。専業主婦と侮ってもらっては困ります」
まっすぐ預流を見つめて静かに啖呵を切る風情に妙な迫力がある。
「このお子さんたちは……」
良彰の後ろに隠れて預流を見ているが例によって全然隠れられていない。幼いのは五歳くらい、大きいのは沙羅や二瀬と変わらない、水干姿で十人くらいいる。顔がよく似ていて見分けがつかない。誰も彼も靖晶の面影があるようなそうでもないような。興味津々で預流をじろじろ見るが、衝立の陰にいたときも全然隠れていなかったので、出てきてくれてよかった。言いたい放題言っていたのが出てくるとかえって静かになった。
「わたしが産んだのは二人だけですよ。遠縁の子もまとめて日々、将来必要な漢語の読み書きや計算を教えているのです。十五になった者から元服して陰陽寮の学生になります。全部で十二人のはずですが」
弥生は、中くらいの一人の頭を撫でながら、
「十年経つ間に四人死んで四人逃げるとして、四人残ればいい方です」
笑顔でさらりと言い放った。
「惣領も京の男でございますから通う女の二、三人は致し方ないとして。知らぬ間に外で餅の一つも食べるとして。男の子が産まれたら当家の子です。道を受け継ぐのは男子です。女ならいりません、そちらのお好きなように」
――いちいち殺気が怖い。
「そ、そんなつもりで来たんじゃないんですが……そんな犬猫の子みたいにやったり取ったり……」
「そちらで算術の何を教えられると言うのです!」
良彰が見かねて弥生の袖を引っ張る。
「弥生、まだそんな段階ではないのに」
「靖晶さんの子がほしいのはあなたでしょう!」
「はいっ!」
それで背筋が伸びてしまう辺り、良彰は大概尻に敷かれている様子だった。
「ほ、ほしいんですか……」
「いや別に尼御前さまにプレッシャーをかけるつもりは……」
言葉尻を濁す良彰と、それを鼻で笑い飛ばす弥生。
「自分だけイイモノになりたくてごまかしているのですわ。騙されてはいけません尼御前さま、この男は何人、子が産めるかでしか女の価値を計れないのです」
「へ、平安時代としては普通の価値観だしお前だってまだ二、三人いけるだろう!」
「ほうらあなたにいい顔をしたいだけでわたしには〝まだ〟とか〝もう〟とか言う! ポリコレの敵! この男の陰謀でわたしは十六で子を産む羽目に!」
「人聞きの悪いことを言うなよ。お家のための縁組みだぞ。お前のためでもあった」
「おためごかしよ!」
――茜さす斎院は四人産んだというが預流の目の前には子供は一人も出てこなかった。十一歳の東宮妃候補の姫君はそれはたおやかで雅やかで上品で詩歌を愛する美少女なのだろう。二瀬は着ているものが安っぽいだけでとても落ち着いて礼儀正しく、この騒ぎが始まってから黙って端っこに座っている。斎院の子たちも同じように礼儀正しいのだろう。
十二人の未来の陰陽師がじっと物言いたげに預流を見つめ、その一人が鼻水を垂らして良彰に懐紙で拭かれているのを目前にすると、凄味があった。
「好きの嫌いの言って和歌を取り交わしたりしているうちは結構。靖晶さんのY染色体は晴明公から受け継いだものなので必ず当家にお返しください。跡を継ぐのはわたしの子で足りますが、血統が外部に流出するのが我慢ならないので」
「怖い……」
……つまりこの家族は皆が皆、晴明公の末裔でメチャメチャ血が濃く見えるが母系の良彰には晴明公由来のY染色体がなく、弥生にもない。科学で救われない一族。
朝粥などご馳走になったがまるで味がしなかった。
やっと弥生と良彰と十二人の陰陽師見習いが姿を消して、さてどうやって靖晶に連絡を取るか。沙羅に手紙を持たせて走らせるか、と思っていると。
また足音が。今度はふらふらした男。
「あーだる。弥生ー、メシー。何でもいいからー。そんで今日はもう湯使って仕事サボって寝るー。夜通し歩き回って疲れたー」
――聞き慣れた声だがキャラが違う。
そうして部屋の主が、昨日着ていた狩衣のまんま油断しきった表情で入ってきて――
「……預流さま。なぜ」
「なぜでしょうね……」
硬直した後に慌てて真面目に口許を引き結ぶ、靖晶のこのいつもの顔つきは〝よそ行き〟だったことがわかった。
……そうか、この男は結婚したらこうなるのか……いや、圧縮言語満載の非現実的な乙女ゲーイベントも困るのだが。
「いえ。あの。お姿がないものだから心配してあちこち捜し回ったんですよ」
姿勢を正して座り、今更かしこまった口調で喋られてもいろいろと手遅れだが。
「わたしも昨日はいろいろあってパニックになってたんだと思うわ……逃げる以外に対処法がなくて。やっと落ち着いたからあなたに連絡を取ろうと思った矢先で。結果として何が起きたかというと賢木中将と軽くバトって二瀬という新たな仲間が増えて、ここで一晩ぐっすり寝て、さっきあなたのお姉さんに圧をかけられたところよ。精神ダメージは多々あったけど生物学的貞操含め、健康被害は一つもなかったわ。昨日ぶっ倒れたのも物の怪の仕業だったことが既に判明して解決してしまった! わたしにしか見えない物の怪だったの、もう自分で御行奉為った! 謎は解体されたのよ!」
「話が早すぎて何が何だか!」
本当に、預流もどう説明していいのかわからないのだ。
「ていうかこの部屋の尼仕様、何?」
「ぼ、ぼくじゃないです。良彰が、多分良彰が余計な気を回して仕度を。……姉? うちの姉ですか。は、はあ……すいません、姉は身のほど知らずで……」
「……あなた身内にはモラハラ気味なのね」
「都に地雷女あり。上品では八岐大蛇の九つ目の頭、茜さす斎院。そして下品部門が我が姉、陰陽師も祓えぬ女鬼、土御門の大姉君です」
――それ、〝三大地雷女〟で本当ならわたしも入ってるんじゃないの? 出家・尼部門あるんじゃないの?
「いやうちの姉は幼いぼくがイマイチだからと十五まで髪を結って水干を着て馬に乗って、男のふりをして陰陽寮に入るのだと息巻いて読み書き計算をして、聟の来手がないので父が従兄弟に泣きついて無理矢理結婚させて」
……無理矢理って。そういえば良彰に恨みがましい風情だった。
「それで今でもぼくを目の敵にして、自分の子を博士や頭にしようと躍起になって英才教育に励んでいて。だから主上と茜さす斎院さまのお話、他人ごとと思えないんですよね。スケール感が全然違うけど根っこの原理は同じっていうか」
「あれ、わたしがかけられた圧と何か違う? 晴明公のY染色体は?」
「申しわけありません、無礼をしましたか」
「あの人が十五まで髪を結って水干を着て?」
穏やかそうで目つきだけ剣呑な弥生のイメージと全然違う。十五まで男装して、それから十年というところだろうか。――人はそれほど変わるのか。
男社会に寄ってたかって夢をへし折られて、あの人は今、女らしい格好をしていない預流をどう思っただろう。反生殖の仏教徒なんてバレたらどんな説教をされるのだろうか。もしかして恋愛脳の男なんかよりよほど恐ろしいラスボス出現なのでは。「仏教徒はちゃんと生きるなんて面倒くさいことはしないのです。その分、水垢離とか五体投地とかで帳尻を合わせます」なんて言う自信がない。信仰が、信仰が試される。
「――ああ、預流さまがご無事なら宮さまにお手紙で報告しておかなければ。暗号で書きますから」
靖晶は文机に向かった。使いの者が手紙を落っことしたり間違った相手に届けたりするので、大事なことは直接的に書かないのが基本だ。
「……どうしましょう、預流さまはしばらくこちらにご逗留しますか? いっそここの方が賢木中将のランダム出現がない分、警護はしやすいんですが。十二神将が守りを固めているので」
「十二神将」
というのは先ほどの十二人の陰陽師見習いのことらしかった。
「あいつらがいる限り絶対にやらしい雰囲気にはなりません。一人を菓子で買収すると黙っているということができず全員に即座にバレて殴り合って奪い合い大騒ぎになるシステムで、この家では静かにこっそり女と懇ろになるというのが不可能です。十二神将から瞬時に家中に伝わります。公卿さまとか関係ないです、我が家の最高権力は途中いろいろあっても姉に集約します」
「まあそれはよくわかるわ、使用人とかいてプライバシーないのはうちも同じはずなのに独特のカオスがあるわね、この邸……」
「受領マネーで見た目を取り繕っても染みついた下品の根性は直りませんねー」
「現代には受領がいないからスルーされてる感じだけどこの平安身分ジョークってどこまで笑っていいのかよくわからないわ」
ともあれ話が落ち着くと、靖晶は湯殿を使いに行き――そのまま、着替えて牛車でどこかに出かけたらしかった。
「結局、今日は仕事はサボれなかったの?」
「みたいですよ、大変なことがあるらしくって」
「大変って?」
「陣定です」
二瀬が言う言葉は、預流も聞き慣れない。
「ジンノ……何?」
「大臣さまや公卿さまだけが出られる会議です。政治のとても大事なことを話し合うもので、結果は主上に奏上され裁可を受けます」
要するに国会です。
「惣領さまは陰陽師ですので会議のお仕度などを。時間を決めたり宮城を清めたりなさるそうで。今からだと、陣定自体は夕方に始まるのでしょうね」
「会議って何を話し合うのかしら」
「そこまでは。でも急に招集をかけたようですし、大変なことがあるのでしょう。県召なんかは夕方から翌朝まで話し合うこともあるみたいですよ」
県召、春の除目は国司の任免。除目の前に陣定で受領の働きぶりについて評価・報告し合う会議があった。このために受領は参加・発言権のある公卿に胡麻を擂りまくることになる。
「預流さまも知らないことを知ってる二瀬ってナニモンだよ」
「それはやはり女の方に男の仕事の話はしないのでは。ぼくは陣定に出るのは無理でも、父の機嫌がいいときにせがんだらもしかしたら受領くらいにはしてもらえるかと思ってそれなりに勉強を。――儚い夢でしたが」
「……世知辛いわ……」
この陣定がとんでもないことになるとはこのときは誰も思ってもみなかった。
沙羅と二瀬は交互に十二神将に誘われて鬼ごっこやら何やらに参加して片方が預流のもとに戻って、を繰り返して落ち着かない。水汲みや薪割り、掃除、読み書き算術など時間ごとのカリキュラムがあるらしかった。
あれで十二神将の偏差値はとても高く、四則演算や漢文の授業の時間になって、沙羅も二瀬も揃って音を上げて帰ってきた。
「やべー、この邸の連中やべー……五歳で九九が言えなきゃ鴨川に沈められるって」
「何か計算と漢文のときだけ滅茶苦茶怖いおばさんが出てきて間違えると竹の尺差しでぶたれるんです……」
「あいつらあんななのに、おばさんの前ではぴたっと黙る……超こええ。おれまじない師に生まれなくてよかった……」
「ぼ、ぼくは役人になる勉強として参加した方がいいのかな……五経のまだやっていないところだったし」
「二瀬、顔が青いわよ。無理しない方が」
役人の家はいろいろと予想外だった。この家だけなのかもしれないが。
靖晶は夕方には帰ってきて、良彰と十二神将と皆で並んでご飯を食べたりしたが。その席に預流以外の女がいなかったのでビビったりしながら、〝偽装結婚生活・第二夜〟が始まった。
と思ったら。
「尼御前さま、宮さまのお使いが」
晩ご飯を食べ終えて暗くなった頃、預流に上座を譲ったら惣領はどこで眠るのかという話になった頃。
兄の乳兄弟の陸奥守がわざわざやって来た――兄と同い年の幼馴染みで賢木中将の手先になっているとは思えないが、そんなものがうろうろしたら父にバレバレではないか。不審に思ったが追い返すわけにもいかず、話を聞いてみると。
「尼御前さまの入内の話は、全く台なしになりました。急ぎ、宮さまのお邸にお戻りください」
「台なし?」
「はい。絶対に入内などありえません。ということで、受領の妻になる必要もございません。隠れ潜む理由がなくなりました」
と明るい顔で報告する。かえって薄気味悪いものがあった。
「……あ、兄さまに事情を聞かないと」
まさか父が預流を捕まえるのに罠にかける気なのでは、と逆に疑いたくなるような展開だったが。
「いや、多分これは本当に入内はなくなったんじゃないでしょうかね……」
なぜか靖晶が薄く、諦めたような笑いを浮かべていた。
ということで預流はばたばたと、沙羅と二瀬と牛車に乗って山背宮邸に戻ることに。そこに父左大臣が待ちかまえて――いるようなこともなく、普通に寝殿で出迎えたのは兄・式部卿宮敦能だった。
「おお、お帰り、預流。何やら心細い思いをさせたな、もう大丈夫だ。わたしに全て任せなさい」
兄宮も言葉は頼もしいわりに、やはりどこか諦めたような薄ら笑いで声に力がない。
「な、何があったんですか」
「近江守が見ておったと言うのだ」
山背式部卿宮は常にない虚空を見るようなアルカイック・スマイルで答えた。
「お前が牛車で洛外は糺の森であの女みたいな坊主と待ち合わせして、和泉式部していたと」