巻の十二 世界の中心で、無我をさけぶ
かくてあるべきものがあるべき場に戻り、なべて世はこともなし。
男と女が手を取って終わるなんて誰が言った。
新たな菩薩に導かれ明日も世界は続くことになった。
呪いと祈りの可能性を乗せて。
ニルヴァーナでも魔境でもそのときそれが見えたから。
彼らの人生もまだまだ続くが、ひとまず話には区切りが必要。
奇妙な尼の物語、これにて閉幕。
空が白み始めるまで待っていたが、結局、預流も明空も帰ってはこず。
「やめろよ、なあ、考え直せ」
「珍しく良識派を気取るんだな」
靖晶が草鞋を履いて山道を一緒に登る連れ合いは、良彰だった。一人でもよかったのだが、土御門邸の方に戻ってくるかもと様子を見に帰ったら捕まってしまった。
従兄弟にただ捕まってやめるなんて馬鹿なことはない。もういい大人だ。無理矢理馬に乗ってもう一度出てきたら良彰もついて来た。
「お前が山法師を説き伏せるとか無理に決まってるだろう。陰陽師の仕事じゃないぞ」
いつまでも横でぐだぐだ言っているのが往生際が悪いというか。
「他に誰もするやつがいないんだ。都の鬼門から災いが来るならそれを封じるのは陰陽師の務めだろう」
「格好つけるけどお前だって唇ムラサキ色だぞ」
「山法師だって本当に関白さまを失脚させたり内裏を炎上させたりしたいわけじゃないはず。打算があるはず。朝廷が陳謝して追加の領地とか金無垢の仏像とか贈ってくるのを期待しているだけのはず。それなら誰が言っても同じはず。人の理性を信じたい」
自分に言い聞かせている面があるのは、認める。胃も痛い。山道も歩き慣れない、牛車が通るよう整備された洛中の碁盤の目と重力が全然違う。草鞋の紐に皮膚が擦れて血がにじむ。三足持ってきたがもう一足擦り切れそうだ。傾いた地面を歩いているせいなのかめまいもするし、多分、明日、筋肉痛も来る。
それでも、もう朝日が昇るのだから。
タイムリミットだ。
「例によってちょっと土下座するだけ……この後で関白さまや主上の前でもゲザるのかもしれないけどわりと通常営業……普通に平伏するし……思えばこの話はぼくが荒法師に土下座して始まったんだからぼくの土下座で締めるのが筋ってもの、あのときと構図は同じ……天丼なんだよ、そういう話なんだ」
「やっぱり無理筋なんじゃないか」
良彰は悲観的なことを言うな。心が折れる。
「ぼくは皆で仲よく生きていきたいよ、これまでと同じように。良彰は違うのか」
「それはそうできたらいいけど理想論だろ」
「なにげない日常が理想って少し見ないうちに値上がりしたな。吹っかけられて素直にぼったくられるばっかりか、良彰のくせに。値切って安く済ませて関白に恩も売ってやる、受領は倒るるところに土を掴めって」
それで珍しく良彰が返事もしないほど驚いた様子だったが、自分でもびっくりした。
――理想。そんなものなかったはずなのに。
こんな世界はなくなればいいと何度も思ったはずなのに。
どうしてそう思ったんだっけ?
仕事が嫌だから? 人に頭を下げるのが嫌だから?
自分が嫌いだから? 他人が嫌いだから?
良彰が一番嫌いだ。弥生も好きじゃない。卯月はうるさい。近くにいるだけで押しつけがましい。面倒くさい。
この世に守るべきものなど何もない。
手に入ったのは宝ではなく呪いばかりだ。身内同士で足を引っ張り合って、誰も一方的な被害者ですらない。
幸せなんてどこにもない。
愚かな自分はもうとっくの昔にかけがえのないものを失って、償うことなどできはしない。
それでも、せめて。
誰も欠けてはいけないと思う。いつか死ぬのは仕方なくても今日であってはならない。
「できることをしないで諦めるわけにいかない」
――暑苦しいし恥ずかしい。こんなことを言うのはあの人だったはずなのに。柄じゃない。
――昨日は逸って力加減を間違えたのは確かだ。牛車の中で散々考えに考え抜いて冷静を保とうとしたはずなのに、いざ口に出したら思ったよりきつい言葉が出てしまったのは明空に当たってしまったのだろうか。含むところはないつもりだったのだが。いや、今となっては言いわけだ。
それにしても。
まさかあの人があんなに投げやりになるなんて。
南都北嶺大激突はそれはショッキングな話だ。普通の女に受け止められるものではない――が、あの人は止めるがわに回ってくれるのだと思っていた。「もっと優しく言い直せ」と言うのだと。何なら「わたしが代わりに叡山に抗議する」とか。
この世の終わり、どうにかなることが何もないとは。ひっぱたかれたよりよほど衝撃だった。
担がれて遠ざかってゆくときの、何もかも諦めた顔。もがいて暴れて逃れようとしたりしない、何もかも受け容れた顔。こぼれた涙。
痘瘡の病人を看病して倒れた人が。その瘢痕を見せてくる人が。
北嶺大衆は人間だ。以玄や横川の大僧都なんて代表までいる。洛中洛外の末寺を回るのは大変だが、叡山の方は四百人全員を説き伏せる必要すらない。預流は、同じ台密ではないか。
損得で動かない感情はあるかもしれないが、聞いてみたら案外損得だけかもしれない。絶対解決しない話、ではない。必要なのは対話と歩み寄り、落としどころだ。話してどうにかなるのなら話すべきだろう。どうにもならなかったらそのとき殴り合う、それが順番ではないのか。
頭を下げて済むならタダだ。それでは駄目なのか。
「……この九年、見た目よりヤケクソだっただけなのかな」
彼女自身、虚無そのものだったのだろうか。
虚無とは何だろう。菩薩とは。
もっとちゃんと聞いておくべきだった。あんなに時間があったのに。
しかしこの、山道は息が切れる。後どれくらいあるのかと顔を上げたとき。
遥か上の方に人影が見えた。
墨染めに紫の袈裟。
遠く離れていてもチカチカするような萌黄の影。
それで全て察した。
京の平安は守られ、彼の恋は失われた。
* * *
山の神は様々な姿を取るが、その日、そこに現れたのはとぐろを巻く黒い巨大な大蛇。
四百人の墨染めの行列の先頭に、白木の神輿。それが蛇の頭で、日吉山王の山中を案内する猿の役でもあるが――
「何事だ。どこで何をするつもりだ、お前たち」
神輿の前にたった一人で立ちはだかる僧の姿があった。裹頭をした行列の前で、彼だけが紫の五條袈裟を胴に巻いていた。丸腰で一見背が低くて細身なので、
「何だお前、神輿の前に出るとは――」
薙刀を振りかざして凄む者もあったが、怯む様子もない。
「阿闍梨にして権律師・明空の脇をすり抜けて通るつもりか。まさか内裏に向かうのではないだろうな。今上への無礼は許さんぞ」
大声ですらなかった。声を張らなくても通る。
まず一番最初に。
先頭を行く担ぎ手が、誰の合図もないのに白木の神輿を地面に下ろした。それはとてもあっさりと。
「――明空さま! ご無事だったのですか!」
「明空さま、生きておられた!」
誰かに何かを確かめるまでもない。神輿の担ぎ手も、その後ろにいた山法師たちもどっと彼に駆け寄って前にひざまずいて泣き出したりどさくさに紛れて手を取ったり、裹頭を解いてその手を押しいただいたり。
「誰か明空さまが戻られたと言ったか!?」
「明空さま、本当に!?」
「どちらにいらっしゃる!」
五十人の明空ファンクラブは前の方にばかり固まって編成されていたわけではない。バラバラに四百人の中に紛れ込んでいた。
他の者の声で徐々に反応が連鎖して、明空を全然知らない者はきょとんとしていたのが押しのけられ後ろに追いやられて、隊列どころではなくなった。将棋倒し事故が起きかねない勢いだった。逆にこれが広場だったら殺到して、明空本人を押し潰していた可能性すらあった。行列の後ろの方で明空を知らない者などは「何だ、止まったぞ、何待ちの時間だ?」とうろたえるばかりだろう。
狭い山道の途中、何十人かが列を乱して明空を取り囲んで道を塞いだだけで、四百人からなる北嶺の軍勢はただの段取りの悪い渋滞の列になった。もはや蛇でも猿でもない。味方が前に詰まって動けなくなると精鋭の戦術チームとか関係ない。
「明空さま、これまでどこにいらっしゃったのです」
「おいたわしいお姿ですが、お怪我などございませんか。一体何があって」
「明空さまのお話がある、静まれーっ! ささ、どうぞ!」
そばにいるというだけで勝手に仕切り始めるやつまで現れた。この状況、ハードル上がりまくりではないか、怖くないかと思うが真のカリスマは慣れているのでビビったりしない。
「吉野の山に籠もって己の心を見つめ直していたら、俗世では随分と時間が経っていた。とんだ荒行になってしまったが、悟りを得て戻ってきた。御寺に一言の断りもなく、皆には迷惑をかけた。立場ある者としてあるまじき軽挙妄動、処罰を受けても仕方がないが己を見つめ直すのに必要な修行だった。悔いはない」
小綺麗な顔を引き締めてすらすらと方便を唱えたが――
強訴勢は、明空の頭や顔や安物の墨染めがドロドロに土で汚れているのはともかく、見慣れない紫の袈裟と左手に巻いた黒檀の数珠だけがピカピカなこと、何日も山籠もりしていたと言うわりに全く髪が伸びておらず昨日剃ったような綺麗な円頭のままで髭も全然生えていないのをどう思ったろうか。まさか「流石、麗しい方は功徳があるからムダ毛が生えない」とか。
演説の後には有志の質疑応答がある。
「明空さま、還俗して結婚されるというのは」
「そんなつもりはない」
「しかし宣旨が」
「これから拙僧自ら内裏に赴いて抗議する。が、こんなに人数はいらん。――以玄というのは誰だ」
これで皆が一斉に振り返った。ここに裹頭をしていない者はもう一人しかいないので逃げ場がない。図体の大きな傷だらけの男は、京極桜林院に現れたときとは全然違ってものすごく嫌そうに背を丸めて出てきた。
「……こちらに」
明空は見知った相手ではなかったらしい。自分より随分背の高い相手をじろじろ眺めてから、
「でかいだけだな。陰陽師の方が怖いし土御門の大姉君はもっと怖い」
ちょっと笑って肩を叩いた。
「拙僧とお前と二人、近場に流罪にでもなれば話がまとまるだろう」
「る、流罪」
「何だ尻込みするのか」
にこやかな笑みではない。このところ久しく見ていなかった不動明王の忿怒の相だ。
「中将の邸を叩き壊して思うさま倉を漁って懐が暖かいのだろう。それで近江を越えて美濃にでも高飛びするつもりだったのだろう。流罪と何が違う。京には死刑がなくて幸いだ。それともおれと一緒では嫌か」
「そ、そのような」
「なに、どこに行っても喧嘩はあるのだから流れた先でも喧嘩で稼げ。生きて内裏にたどり着けたら、の話だがな。……横川の大僧都にも少々反省していただく」
明空は手を離すと大衆たちに流し目をくれた。
「他に五人、いや三人来い。後は御堂に帰れ。神輿も社に戻せ」
「ら、洛中には千人から奈良法師などが集って迎え撃とうとしていると言いますが」
「そうだ。検非違使や奈良法師に殺される。それで死ななければ次に洛中洛外の山法師に殺される。神輿がなければ南都に寝返ったと見なされて同門の知己に襲われる。三度ほど殺されてなお生きて内裏にたどり着けたら流罪を賜る究極の荒行だ。このおれ以外に成し遂げられる者はない。最初から最後までおれの伴をする自信のある者、三人しか許さん、三人より多いなら互いに殴り合ってでも減らせ。この権律師・明空、数を恃みに戦をしたことなど一度もない。大勢で群れをなしておれに恥をかかせるな。三人だけだ。この身には日吉山王の神威もいらん。おれの功徳のために死ねるやつだけついて来い。菩薩として浄土を建立した暁には脇士、いや四天王にしてやる」
――すごい啖呵だった。「皆に迷惑をかけた」とか言いながら一言も謝っていないし、誰にも謝礼を払う気もない。「三人しか許さん」って四人以上出てくると決めつけている。
「――わたしが参ります!」
「いや、それがしが!」
「ご一緒します!」
「四天王と言うならおれだ!」
「早い者勝ちだ、お前は引っ込んでろ!」
なのに何の勢いなのか、本当に何人か名乗りを上げ、お伴の座を争って殴り合いを始めた。明空は自分でやれと言ったので傲然と突っ立って眺めている。――陰陽師が理屈で考えた脚本ではこうはならない。真のカリスマは損得とか語らない、「おれのために死ね」の一言で人を動かして平然としている。これは明空自身がその気にならなければ無理だった。
この理不尽な話に抗議するどころか、「不動明王が帰ってきた、これでこそ明空さま。荒行の後で汚れていらっしゃるのに何てご立派な出で立ちなのだろう」と涙ぐんでいる人までいるのだから。普段どんな言動をしているのか。「神輿の神威は必要でしょう」「明空さまのお話に文句があるのか」とプチ宗教戦争で殴り合う者もいた。
いや、抗議する者もいるにはいた。
「神輿と手勢を連れてゆけば検非違使や南都などたやすく突破できますが、洛外の北嶺大衆が呼応してともに南都を討ち果たし」
「たやすい戦がしたいのか、腑抜けめ」
明空は鼻で笑った。
「楽して勝って悟りが得られるか。薙刀を取る北嶺大衆ともあろう者が貴族のように牛車に乗って極楽往生を目指すのか。人数で押し潰して南都や朝廷をひれ伏させて北嶺ここにありと勝ち誇るのがお前の信仰か、凡俗め。菩薩は遍く一切衆生を救う者、試練もなしになれるものか! 真の信仰は困難の中にこそある! 仏徒のくせに命が惜しくて勝てる戦に乗っかりたいだけなら、蜂起などせず根本中堂で南都を呪殺する修法でもしていろ。おれの浄土に臆病者はいらん。おれの荒行の邪魔をするならまずお前を成敗する。仏に逢うては仏を殺せ、だ。同門を殺す度胸もないやつは去れ!」
――無茶苦茶だ。正気なら誰も賛同しないところだが、周囲にいるのは明空ファンクラブ数十人。
「流石明空さま! 悪僧の中の悪僧! 不動明王! あえて苦難の道を行くお方!」
まともでないやつが即座に感激の声を上げた。――何と、ここに来て正論を吐く人間の分が悪い。
「か、勝つ見込みを捨てて何とされると」
「見込みで御仏の道を選んだのか、お前は! 何かいいことがあると思って出家したのか、好き放題薙刀を振り回してちやほやされたかったのか。世を憂えて釈尊の四門出遊の志に感銘し俗世を捨てたのではなく〝でも〟〝しか〟で得度受戒したか! お前のようなやつが仏法を乱す、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、お前は三法印を全くわかっていない! 吉野で全てを理解したおれはもはや敵の刃によってこの身の宿業と天命を試すのみ、味方の軍勢も確かな勝利もいらん! 随伴がいなければ格好がつかん、それだけだ!」
挙げ句、ただの真面目な人に対して怒鳴りつけて一方的にキレちらかした。そもそも仏道とは何も正論ではないのだった。――「自分のことを棚に上げてよくも」とは思う。
それでも言葉で対応してやるだけ明空の方がましで、高濃度のファンクラブは理性が残って真っ当な人間を小突いて突っかかり始めた。
「明空さまの崇高なお覚悟に水を差すな!」
「明空さま直々にお叱りを受けるとは羨ましい、けしからん!」
それでこの場から正義は失われ、まともな者は「かかわるだけ損だ」と後列に下がり、事情を知らずにぼーっと待っているだけの連中に紛れるしかなくなった。取っ組み合いの四天王位争奪戦は相変わらず続いている。
真性のブッダクレイジーが狂人の理論を展開してたちまちのうちに一大戦力を自壊させると、所詮金目当ての傭兵もドン引きだ。勝手に四天王の一人に指名された以玄は傷だらけの顔で薄気味悪そうに、菩薩を自称する泥まみれのチビを見下ろしていた。彼は自分がタダ乗りしていた宗教の小僧が恐ろしいものだったことを初めて知ったようだ。
「……明空さま、流罪になって御身はどうなさるのです?」
「別にどうも」
あんまり泥だらけだから、自分の飲み水を布に含ませて明空の顔や頭や手を拭いてやる僧まで出てきた。明空は顔を拭われながらつまらなそうに答えた。
「流刑地でも私度僧として経を誦すだけだ。結婚だの丹後守だの勝手なことを言われて腹が立つから一言申し上げるだけで、僧綱の位など何ほどのものか。こちらから叩き返してやる。役行者も流罪になったが赦され、行基菩薩も僧尼令に背きながら遊行して大僧正となった。この身に真の功徳があればいずれあちらからひれ伏して前非を悔い、高僧と崇め称えるであろう。死後に慌てて位を寄越した例もあるな。流罪の一つ二つ、かえって箔がつく。丹後国などいらん。修行の邪魔だ」
「た、叩き返すとは横川の大僧都さまの意向は」
「大僧都」
それで脅したつもりかと明空は女のような唇を吊り上げて笑った。
「それほど忠義があるならばおれを叩き殺して神輿を担いで何ごともなかったように進軍すればよい。大義名分を投げ捨てて、朝廷憎し南都憎しで戦をすればよい。大僧都さまといえどおれの名を使われる筋合いはない。さあ殺せ。ここで死ぬのも南都や検非違使にやられるのも同じだ。お前は頭の骨が丈夫なようだがおれは頭をやられたら死ぬぞ」
「ご、ご冗談を」
勿論ファンクラブが即座に反撃してくるのも恐ろしいが――明空は神輿のすぐそばに立っていた。彼を殺して神輿に血の一つも飛んだら、味方の血で穢してしまうことになる。これは敵にやられたら
「よくも神聖な神輿に狼藉を」と言うためのものだが、こんな戦場でもないところで味方同士で神輿を穢したら真面目に北嶺の神威を信じている連中が怒り出す。明空ファンクラブ以外に波及する。ここでは「卑怯にも敵の奇襲があった」という言いわけもできない。以玄は見た目より理性的だった。理性ゆえに損をするタイプだった。というか、カリスマがあって死ぬのが怖くない電波男が怖すぎた。
立て板に水の宗教名言の連発で、無茶を言えば言うほど明空の株は大高騰する一方だったが。
「……もう一つお尋ねしますが」
以玄の指がこちらをさした。
「あの泥だらけの女は何ですか?」
――預流は全て道の脇の木陰から見ていた。「女を連れているとナメられる」と言うので。しかし萌葱色の法衣が思ったより目立つらしく。また、明空とお揃いでこちらは髪の毛までドロドロなのが言いわけのしようもなく。
明空は途端歯切れが悪くなって目を細め。
「……何と言えばいいのかわからん」
「和泉式部だって言いなさいよ! 皆に紹介しなさいよ!」
「あの……ここはぎりぎり、浄刹結界の外だろう」
「そういう話なのですか」
そういう話だった。――明空一人で頑張ったら出陣前に根本中堂まで行けるというが、預流は山道に置き去りにされるとかまっぴらだった。明空に袈裟と数珠と草鞋を譲って、裸足で歩いて足を切ったら最悪、破傷風で死ぬ、わたし一人を打ち捨てて狼の餌にするのか薄情者とぎゃーぎゃー喚いてここまでおんぶされて来て、神輿の行列の方が下りてくるのを待った。
結果的に境内で演説するより、行列をぐちゃぐちゃにする方が進軍を止めるのは効率的だったのではないだろうか。何せ、大して声を張っていないので明空の話を聞いて大混乱して殴り合っているのは前の方に飛び出してきたファンクラブの狂信者だけだ。後ろの方に常識的でまともな論客がいたとして、そもそも話が聞こえていないだろうし以玄が諦めてしまった今、この混沌を立て直すのは無理だ。境内で整列する四百人に向かってきちんと話をしていたらそれなりに反論されただろうし「馬鹿か」と殴られたかもしれない。
伝教大師最澄に勝つ必要などない。「流石です明空さま」しか言わない連中で山道を塞いでしまえば。
――預流はホモソーシャルの熱狂がこんなに恐ろしいものだと知らなかった。御寺のお姫さまなどと呼んでいたが想像以上に君臨するクイーンだった。これに葡萄を食べさせてもらっていた邇仁まで怖いし、改めて、根本中堂でこんなものを見て強訴を予見し、都に逃げ帰った由西が大賢者だったことを思い知った。
「誰か下駄か草鞋の替えを持っていないか」
草鞋は消耗品なのでさっと出てきたが、流石にここに女が出現すると悪僧ばらの視線はとげとげしい。
「和泉式部って、結婚しないんじゃなかったんですか」
「結婚はしない……釈尊も耶輸陀羅……いや何でもない……」
「わたしを捨ててレベルアップするんだって言いなさいよ!」
「捨てるわけでは……別に捨てるわけでは」
「一緒に東国に逃げようって言ってたくせに!」
「えげつない地雷女に引っかかったという横川の大僧都の読みは当たっていたのか……」
若干カリスマ効果が減ったが、それでも完全に消滅するには至らなかったらしく、明空の四天王になりたくて殴り合って勝ち残った三人は「やっぱりやめます」とはならなかった。むしろ「以玄と三人で四天王だから女は枠に入れなくて気の毒だな」と聞こえよがしにマウンティングされたりした。
――確かに少しは悔しいところもあるのだ。
「女は生きてたらたくましくて死んだらそれで全部負けなのに、男は格好よく死ぬ道があるのってずるい」
せめて八瀬に下りていくまではきゅっと手をつないで歩いた。
彼が他人のために――みこさまや民草のために悲愴な覚悟で勇気を奮うのなら、止めた。必死で止めた。
でも違うと。
彼はただ。
清涼殿の夜の御殿も、清水の舞台も、陰陽師の邸も、東路も蝦夷地も。
飛鳥の伽藍も、天竺も。
そこも。
全て同じと気づいたから。
あの沢のそばで、預流が草鞋を脱いで譲って紐まで結んでやった途端、神輿を止めに根本中堂に向かうと言い出した。
「京を後にする前に皆に名を名乗っていく。それで何が変わらなくても。今更何をしに来たと言われても、南都に石ころ扱いされても」
「あんたに何もできないわ」
「そうあってほしいのだろう。それは煩悩ではないのか。女みたいなことを言うな」
頭を撫でられた。そういうことをしたことがないらしく、手つきはおっかなびっくりだったが。
「おれとお前は違う」
――以前の彼の言葉ならそこで終わっていたのだろうが。
「おれだってお前になりたかった」
「わたしのことなんか何も知らないくせにわたしになりたいとか何よ」
「お前がおれの何を知っている」
そこで珍しい表情を見せた。
「――ほら、もうすぐ殴り合うぞ」
目許が緩んで、まるで自分一人、大人になったような。
「この先もこの名でいるなら名乗らなければ。髪型や名前を変えたくらいで違うものになることなどできはしない。知っている。全て因果だ。己が腐っていれば因果も腐る」
それで額に口づけられた。
「自分で歩いて蝦夷地に行くのも流刑も、同じだ。流刑に女を連れてはいけんがお前が勝手に来るのは止めようがない」
「流刑地になんか行かないもん!」
「そうか」
「引き下がるな、もう一回くらい来いって言え!」
「変な女だな」
「普通よ!」
まるで預流ばかりがわがままを言っているように。
案の定、山道を下りきる手前で「隠れていろ」と岩陰に置き去りにされた。
おかげで彼がたった五人で朝廷側千二百の手勢に何を言いに行ったかわからないが。神輿も四百の軍勢も下りてこず拍子抜けしたのか、人数が少なすぎて交渉の使者だと思ったのか、朝廷側が五人に矢を射まくって一瞬で針山みたいにするということはなかった。
多分こんなところ。
「こちらは阿闍梨にして権律師・明空である! 内裏と主上をお守り奉るが我が役目。叡山の強訴勢は解散した! 脅威はもはやなく祭りは終わりだ。皆、御寺や邸に帰れ! このおれを弓矢で射殺して屍を大路に晒すなら、してみよ。その口で神仏の名を唱えてみよ。不動明王の鎮護国家の功徳、その身に思い知らせてくれる。明空を殺して成仏できると思うなよ凡愚ども」
――きっと今、彼の中では。
生と死の全てが等しく。
過去と現在と未来の全てが見えて。
それでいて何も聞こえず何も見えず、肉の身体も、心すらもないも同じで。
全てを知りながら全てから解放される。
人のまま静謐な虚無になる。
きっと千二百人の全員でないにせよ、何十もの兵が弓矢を引き絞って彼を狙っている。薙刀や太刀をかまえている者もいるだろう。
皆が彼を見つめている。
――こことそこでは全然違う。
すごく悟れそう。すごく気持ちよさそう。現世への未練、なさそう。スカッと死ねそう。菩薩になれそう。逆臣扱いでも人知れず叡山の奥で祀られる武神とかになれそう。
伝教大師さまほど崇め奉られなくても細々と語り継がれそう。
わたしではああはならない。
女が何を言う、と突き倒されてお終い。殺されすらしない。
悔しい。憎らしい。
南都辺りの空気の読めないやつが一発、あの男の胸を射て、そのまま一顧だにせず叡山に登っていけばいいのに。
立派なふりをして全部借りもののつぎはぎ。
袈裟も数珠も草鞋も、全部わたしのものなのに。
* * *
一矢だけ、誰かの放った矢が左腕をかすめたが、頭に血が回っているせいかほとんど痛みもなかった。連れてきた四人が暴れ出さないよう、手で制する余裕すらあった。伴が一人もいないと叡山からの使者だとすら認識されないかもしれないので連れてきただけだ。
ここで死んでいたらそこまでの運命だったのだろうが、まだ運があるらしい。いや、ないのか。後に行くほどこの選択は苦しくなる。
ありがたいやら厳しいやら。
「殺さないのか」
笑みが洩れたのは自嘲が半分だ。
「ならば小野右衛門佐さまはいずこにおられる。下馬なさい――」
明空が検非違使勢に向かって呼びかけると。
それだけで。
三百人の奥の方でわっと悲鳴が起きた。――検非違使の次官は落馬し、下官に抱き留められたらしかった。何が起きた、まさか射られたのかと思ったが、よくよく考えると明空はこのかわいそうな十三歳を馬ごと殴って半殺しにしたことがあった。声を聞いただけでトラウマが蘇ったのだった。
「ああ、そういう意味ではないのだが。いやそういう意味でもいいのか。童の扱いは難しいな」
なら次は。
「葵の左兵衛佐さまはいずこにいらっしゃいます。わたくしはこれよりこたびの騒ぎの責を負い、裁きを受けるため皆さまと内裏に向かいます。このようななりで殿上が許されないのはわかっておりますが、けじめをつけたいと。――が、その前にお伝えしたいことがございます。大事な話です。左兵衛佐さま、馬を下りてこちらに」
それだけですぐに出てくる相手ではない。
「大事な話とは何だ」
太刀をかまえたまま武官が尋ねるので、慌てず膝をついて答えた。
「お姿を消した茜さす斎院さまとお二人の姫君の行方です。お父君もご存知ないと。お邸に討ち入った叡山の悪僧のみが知っております。ぜひお伝えしたい」
これには武士たちがどよめいた。多分、背後の伴も驚いていると思うが。叡山の悪僧から聞いた話ではないから。
少しして武士が二人進み出て明空の首筋に太刀を突きつけた。そして、小さな身体に赤糸威の大鎧を着けた少年が、自分一人では動けないのか武者に抱かれて出てきた。こんな小さな大鎧、誰が何を考えて用意していたのか。
「我が母の話と言ったか、嘘なら許さんぞ」
子供そのものの甲高い声で居丈高に尋ねるが。
「はい、皆さまご無事でいらっしゃいま――」
言い終えないうち。
どこかで悲鳴が上がった。先ほどの右衛門佐が倒れた騒ぎとは違い、怒号が続き、軍勢自体が揺れ、太刀や弓をかまえた者が次々背後を振り返る。
「て、て、敵襲――!」
という声が上がるまでに大分かかった。左兵衛佐も、明空に太刀を突きつけた武士たちも振り向いた。
――神輿に合わせて攻撃を開始するために潜んでいた洛中洛外北嶺大衆の誰かが、痺れを切らしたのだろう。伏見辺りは遠いので叡山の神輿など確認せず早めに出てくる。神輿がない噂はどれくらい広まるだろうか。少しは日和見に戻るやつがいてくれればいいのだが。
「もののわからぬ童子を救うためなら方便は三つまで許される、これを御仏の教えでは三車火宅と――南都の方々の前でこのたとえを使うべきではないのかな」
いよいよ明空は立ち上がり、手を振った。連れてきた四人の出番だ。
「後はご自分で生き延びてください、ここから先は修羅道です」
* * *
軍勢が洛中に転進する間。
預流は一人、岩にすがってわあわあ泣いていたらいつの間にか。
どこから来たのかすぐそばに陰陽師が立っていて。
――恋に疲れて振り返ったらそこにいる男。冗談じゃない。
「違うもん! これ失恋したから泣いてるんじゃないもん! 女だからって卑屈になってる自分自身の内在化したジェンダーバイアスに気づいたんだもん! 社会がわたしの悟りを妨げる! どうしてこの期に及んで承認欲求が捨てられないの!」
「ちょっと何言ってるかよくわからないですね」
「あの男はやっぱりわたしの煩悩だったんだわ! 堕落させられた! 克服してやる! ……違うからね堕落とか煩悩とかアダルトな意味じゃないからね。心が! 嫉妬してしまうこの心が憎い! 草鞋一つくれてやったのが惜しいとか何てさもしい! わたしだってあそこでジャンヌ・ダルクしたいけどできないしジャンヌ・ダルクって火力満載じゃん大砲撃ちまくりじゃん! 殉教したいとかそれ自体が煩悩の極みー! あの男、人一倍ものわかり悪くて面倒くさいくせに皆の前では見栄張って格好つけやがって腹立つー! ニルヴァーナが、ニルヴァーナが遠いー!」
「懐紙、使います?」
昨日も散々泣いたのに今日も泣いて。靖晶に懐紙を恵んでもらい、竹筒に入った水を飲ませてもらい、屯食までもらった。布施を受け取るのは功徳とはこういう意味だった。たとえ相手が不倶戴天の怨敵でも受け取らなければならない。
そう。今や、この男が預流の不倶戴天の怨敵だった。諸行無常とはこのこと。
泣きながら屯食を食べて水を飲んで紙で思いきり洟をかんで少し落ち着いたところ。
いきなり靖晶が預流を指さした。
「今から晴明公直系の魔力、陰陽道の粋を尽くしてあなたに呪いをかけます」
「え」
「――三年以内に別れる! うまくいくはずがない!」
「お前も腹立つ! いやお前が腹立つ!」
ぶん殴ってやりたいのを拳を握っただけで堪えた。
「そもそもつき合ってないもん! 流刑地、行くかどうか悩むわー賢者モードだわー行かなかったら行かないであいつスルーしそうだわーあーやっぱり行かないー」
「じゃ何だとおっしゃるんです?」
「――自分自身にうんざりしたときすがりつくだけの相手? お互い同情とヤケクソが八割? たまたま南都北嶺大激突の吊り橋の上にいたから?」
「なお悪い!」
「あなたは吊り橋の上で一緒に泣いてくれなかったから?」
途端、靖晶が真顔になった。
「わからない、どうしてあなたをぶったのか」
――預流は何だか昨日からふわふわして現実感がなかったのが、今はぽかっと胸の中に黒い穴が空いているような気がする。
「あのとき明空をいじめてるのが気に入らないとかじゃなかった。ごめんなさい、八つ当たりか何かだったの。何だったのかしら、あれ」
「いえ、大して痛くはなかったですが」
「あいつは別に彼氏でも何でもないけど、あなたはわたしの黒歴史になったわ」
「それって褒められてるんですか、何なんですか!?」
「多分褒めてる。わたしはもっとよいものになるためにあなたから学ばなければならない」
明空は預流から何かを学んでとてもよいものになったようだが。
ブッダクレイジーを真似ても多分駄目なのだ、きっと。
明空は菩薩になる、預流は四天王になれなくてもその脇士に並び立たなければならない。
それに必要なものを持っているのはこの男なのだと。
今だって屯食なんか持ってこんなところにいるのは、偶然通りかかったのではないし女を慰めに来たのでもない。
靖晶はなぜか半笑いだった。
「フレンチブルドッグみたいな顔で言われてもなあ」
「そういうシーンじゃないのにメタな表現、やめてくれる!? わたしそんな顔してないし!」
「メッチャしてますよ。……それって〝いいお友達でいましょう〟って意味ですか?」
「わかんない! 昨日の今日で聞かれても無理! あいつ死ぬか流罪になるから再来月くらい、わたしがまだ京にいたらもう一回聞いて!」
「何てムシのいい話だ! 世間じゃそれを両天秤って言うんですよ!」
「だって昨日のってわたしが選んだんじゃないし! 何か気づいたらそうなってたし! 一緒に東国に逃げようって言ったのに!」
「うわあ思ってたよりガチな両天秤来たぞー……尼御前さまは一生不犯を破ったらやはり還俗して家庭に入らなきゃいけなかったりするんですか? 誰か責任を取らなきゃいけないとか」
「え、わたし私度なのに何で。明空とデキてるふしだらな尼って失礼な風聞が本当になっただけで、多分兄さまは邸に置いてくれるし」
預流は自分の両の手をぎゅっと握った。
「わたしたち、こんなくそったれの世界に生きるのは一度で十分で、ここで綺麗なものだけ集めて菩薩になるの。結婚とか子供とかしがらみが面倒くさいだけでいいことないって話で、斎宮や斎院みたいに純潔がどうこうじゃないのよね!」
「何てムシのいい話だ!」
そうだろうか。公の尼寺がないので尼のほとんどは夫を亡くした人か結婚で地雷を踏んで逃げた人、処女の尼はよほど病弱な人だ。
「これは両天秤ですらない、キープってやつだ! 都合のいい男だ!」
靖晶は憤慨するが、
「キープされるの? 呆れて去らないの?」
預流が聞き返したらなぜか答えに詰まって視線を逸らした。
「恋も愛も肉親の情も、人の足を引っ張るものであってはいけない。人は因果に生かされてしがらみで雁字搦めなものだけれど、避けられない運命もあるけれど、逃れられるものからは自由でなければならないの。――恋はなぜままならないのかと泣いているときが一番楽しいらしいけど、泣かずに済むならその方がいいに決まってるわよ」
それでもきっとずっとこれからも泣いてばかりなのだろうけれど。
「人間がそんな綺麗なもののはずがない。どっちつかずのあなたはきっと見るに堪えないみっともないものになる」
陰陽師のその言葉は理屈なのか呪いなのか。
「人と違うのだもの。みっともないのはそうでしょうね」
「〝普通〟に背を向けて人並みになれないことを居直っているだけだ」
「そうかもね」
「結婚もせず子も生まず働きもせずでは、いつか何も持っていないのを後悔するときが来る」
「死ぬときは皆、何も持たず誰も一緒ではないのよ」
――同じ場所で同じときに死んだら同じところに行けるような気がしただけ。
「あなたもわたしも死んでしまって皆に忘れられてしまうときは来るの。いつそうなってもいいように一つの悔いも残したくはないの。綺麗な虚無になれるように」
今、綺麗な虚無が一つ、洛中、いや内裏に向かっている。自己満足、大馬鹿、電波野郎、自殺志願者、メサイアコンプレックス、カルトの親玉、いくらでも悪口が思いつく。
――大師とか菩薩とか名前が残ることに、皆に拝まれることに大した意味などないと本当は知っている。
「そんなことはできない」
「できなくたってやるのよ。無理矢理、人にできないことをするのだから立派に見えることもあれば馬鹿にされることもあるでしょう。結局、草鞋一つで泣いているのだから馬鹿よ」
――あのとき草鞋をやらなければ今頃二人でまだ山の中でぐだぐだしていられたかと思うと胸が痛いけれど。
欺瞞だらけだ。
大嫌いなこの男にすがるかどうかも決めかねている。
「誰にでも許す浮かれ女と呼ばれても?」
「誰にでもではないし」
「そう思っているのはあなただけで」
「あなたが思っていればいいのよ」
「ずるいなあ」
「あなたもずるいんじゃないの? わたしだけずるいんじゃ男尊女卑だわ」
預流が笑ってやったら、靖晶が一度彼女を真正面から見てまた目を逸らした。疑うような目をしていた。――この反応は。
「あら、カマかけただけなのに思い当たるフシがあるのね。草食みたいな顔して平安タコ足配線設定あったのねこのムッツリスケベ」
「……人を引っかけるのは功徳がないのでは?」
「方便よ」
ならもうしばらく、振り回してもいいのか。




