巻の十一 策士は策に溺れる
世界の平和を守るため!
世界の破壊を守るため!
「明空さまに犠牲になってもらいましょう! ……あれっ預流さま。何でドン引きなんです」
地雷を踏んだ男が1人!
ここに来てまだ理性が残っていたのが仇になった!
彼は彼女の事情を知らず彼女は彼の事情を知らない。
それぞれに追い詰められた3人。
……明日、世界は終わるかもしれない。
そのときあなたは誰とどこにいる?
が、呆然としていたのは一瞬だけのこと。
「すいません、変わった格好の方でびっくりしました」
明空らしからぬしおらしい口調で頭を下げ、落とした薪を取り上げる。そこに十二神将がませた口を利く。
「ゲンシロー、これは惣領の愛人なんだよアイジン」
「お前たち、余計なことを言うな」
靖晶は咳払いして、
「源四郎、今日は薪割りも掃除もいい。出かけるからついておいで」
猫撫で声で言った。明空はきょとんとしている、預流はこの男の不機嫌そうな顔しか知らないので全然落ち着かない。
「お出かけとは、わたしはこのなりで見苦しいから隠れていなければならないのでは」
「隠れてはもらう」
それで靖晶は牛車の仕度をさせた。意外にも彼が一番先、上座に乗り込む。
「預流さま、どうぞ。源四郎も乗りなさい」
「三人ではぎゅうぎゅうではないですか。女人とご一緒するのは」
「いいから」
明空は断りきれずに最後に乗り込み、女物の紅の小袿を頭からかけられていた。
「弥生の衣をかずいて女のふりをして、僧であることを誰にも見られないように」
「一体どちらへ」
「お前の行くべき場所だ」
牛車が動き出した。――預流は多分明空に話しかけなければならないのだが、何も思いつかなかった。
いや、思いつきはする。
――清水の舞台から落ちたとか挙げ句、受領の邸で薪割り? ちょっと見ないうちに落ちぶれたものねえ。こんな状況になって、わたしが憎い?
思いつくが声を発する気にならない。以前の明空なら安物の墨染めを着て女の衣をかずいても皇子さまが身をやつして追っ手から逃れるようで、それはさまになっていただろう。今はちょっとの物音でも不安げにびくついて、預流を見る目にも警戒があって。本当に子供が怯えているようで。
これをいじめたら自分の方が悪者だ。
「おい、そこの車」
そのうち、牛車が止められた。外から濁声がする。
「そこの牛車、何者だ。どこへ行く。なぜ御簾を下ろしている」
御簾をめくったのは――裹頭を巻いた奈良法師だ。薙刀の刃が光るのも見えた。預流は緊張するが、靖晶は予測していたのか慌てず騒がず。
「見てわからんか、安倍の陰陽師だが。頭の嫡子、播磨守だ。明日の戦に備えて検非違使の皆さまの武運長久、戦勝を祈願をすることになっている。何か?」
彼の口がよく回るのは嫌な雰囲気だ。このために上座に座ったのだ。
「一人ではないのか。奥の女は?」
「憑坐童だ。武門の方々は死穢を帯びておられる、憑坐童に移して祓う」
「童にしては図体が大きい」
「百年に一人生まれるかどうかの稀なる霊能を持つ者たちだ。只人にこの価値はわかるまい。あまり俗の空気を吸わせるな」
「戦勝祈願ならこちらにも頼む」
「検非違使の皆さまが先だ、お約束がある。後で陰陽寮から他に寄越す」
言いくるめて御簾を下ろした。再び牛車が動き出す。奈良法師が中を覗き込んでいた間、明空は女の衣で顔を隠して息まで止めていたらしかった。ぷはっと息の音を立てた。
「あ、あれは荒法師ですか」
「ただの荒法師ではない、南都の奈良法師だ。今日からこの辺の名物になった。晴明桔梗も知らんのは困るな」
「ご、ご冗談を。南都なんてそんなもの叡山が許すはずがない」
――子供のような喋り方だが南都と北嶺の関係は憶えていると。
「ああ、許すまいな。誰一人として」
靖晶の口調は硬い。
「戦とおっしゃいましたか、牛車で行けるようなところで?」
「そうだ。恐ろしいことになるぞ」
「惣領さまは源四郎を術の憑坐になさるのですか」
「ああ。少々難しいが、気負うな。普段通りにしていればいい。命を取ることはない」
「こちらの女人も憑坐ですか」
「尼御前さまには術を手伝っていただく」
靖晶が偉そうで明空が縮こまっているのはいつもと逆だが面白がれる気分ではなかった。
その後も何度か南都衆徒に呼び止められながら、長いこと牛車に乗っていた。どんどん邸宅や人家が減っていって、洛外に出たようだ。道祖神の祠か何かの前で止まった。
「ここから下りて歩きです」
榻を用意させて靖晶がまず下りた。
預流も下りると、榻のそばに草鞋が置いてあった。二足。
「山道ですのでしっかり紐を結んでくださいね」
靖晶も屈んで草鞋の紐を結わえている。
祠の裏に獣道があって、林に続いている。
「ここは?」
「叡山への抜け道です。行者が密かに使うもので。ちょっと遠回りですが雲母坂は今、検非違使の斥候に見張られていて面倒だから」
比叡山に登る道は雲母坂だけでなく、検非違使といえど全部を見張るのは無理だが――流石に預流は呆れた。
「……あのう、叡山って、わたしは浄刹結界のうちに入れないんだけど? 女人禁制よ?」
「あ」
普通に、靖晶は失念していたようだった。――結界といっても石碑があるだけでバリアが張ってあるわけではないが。
「素人は恐ろしいわね……いくらわたしが何でもアリでも結界破りはしないわよ。蜂起第二陣を前にしてイキって〝えい、えい、おー〟とかやってる北嶺大衆四百人の前で女の自由と権利を主張したらボコにされて放り出されるじゃないの。わたし、毎年叡山のふもとまで行って帰ってるんですけど、上まで登れないから」
「何かすいません……そういえば叡山はそうなんだっけ」
「叡山でなくても、吉野でも高野でも同じよ」
「じゃ二人で行ってきますから預流さま、牛車使って戻ってください」
「え」
今度は榻から下りかけていた明空が目を見開いた。
「ま、まさかわたしと? 惣領さまと二人ですか? 叡山に登るのですか?」
「はあ。そういうことで」
「そんな。突然叡山なんて。お、お坊さまのふりをしろとおっしゃるのですか、無理です、経も読めないのに。それはわたしは男ですが、頭を剃っているだけの偽法師など叡山の方々にはすぐにバレてしまいます。ふざけるなと叱られますよ」
激しく首を横に振って、完全に泡を喰っている。――ぐだぐだだ。もう少し事前に話し合うとかしてやれないのかと。
「いえ、あなたは立派なお坊さまです。法衣は安物だしお袈裟や数珠を用意できなくて申しわけないが、あなたはどこからどう見ても阿闍梨にして権律師・明空さまです。自信を持ってください。都に南都の荒法師がうろついているのを見たでしょう。あれを北嶺大衆と戦わせてはいけません。戦を止めるのです。あなたのために始まったこと、あなたが健在で和解したいと言えば止まります」
靖晶はなぜだか力強く言い切るが――そう思うのならここで言うなよ、牛車の中で説得しろ。
「わたしは、よくわかりません。いつぞやの強訴を止めるとかいう話ですか。そんな、冗談だと思っていたのに。無理ですよ。何もできません。お坊さまの話し方など思い出せもしない」
「もうそういうのやめませんか、子供のフリとか。あなた思い出してるでしょう。さっき預流さまを見て薪を落としたじゃないですか」
「あ、あれは手が滑っただけで」
「ならそれでよろしい。思い出さなくて結構」
ばっさり突き放して。
「あなたが言うべきことはぼくが考えます。登りながら憶えましょう。立派なお坊さまに見えるような話し方を。あなたを甘やかす時間は終わりです」
「ちょっと、話が違うじゃないの」
聞き捨てならないことを聞いてしまった。
「無理矢理連れていくの」
「もういいですよ、大体これで」
もはや、靖晶は面倒くさそうだった。
「見た目は賢そうに話せるんですから。〝朝廷有利、このまま戦っても損をするばかりだ〟と言わせればいいんですよ。元々明空さまが戻られれば第二陣はナシって話だったんですし」
「だからってこんな生け贄みたいな!」
「叡山内部もうっすら、南都勢登場で話が大きくなりすぎているのはわかっているはず。内裏が炎上して朝廷が転覆したりしたら彼ら、東宮を擁して次の朝廷を建てるなんて器用なことはできない。そんな仕度はしていない。朝廷というジャッジ役がいなくなれば南都と吉野と高野と三井寺と石山と……無限に宗教戦争を続けるしかなくなるんですから、引き下がるきっかけを作ってやれば。必要なのは落としどころですよ。朝廷は明空さまの還俗の宣旨を取り下げるとか仏像を寄進してやるとか何とか、面目が立つようにすれば」
「嘘八百じゃないの。宣旨の取り下げなんか本当に出るかどうか」
「後で個人的にお願いして何とかします! この人がそう言えばそうなるんだからいいじゃないですか!」
「何よそれ!」
「叡山も一枚岩じゃない、この人の顔を見るだけで揺れる明空ファンクラブがいくらかいる!」
喋りながらヒートアップしてきたのか、目が血走っている。
「そこから中心の連中を突き動かすには、むしろ明空さまご本人より源四郎が涙の一つも流した方が威力がある。――そうだ、立派なお坊さまの真似ができないのなら泣け!」
靖晶が明空の肩を掴んだ。
「嘘泣きは平安男子の必殺技だ。自分のためにこの世を乱してはならないと泣いてみせろ! 涙一つで今上の御代をお守りできるなら安いものだろう!」
明空はその剣幕が恐ろしいのか、怯えた目で後ずさり、逃れようとする。
「主上の、いや梨壺のみこさまの御為だ! 玉体をお守りするためだ!」
それが靖晶の一言で凍りついた。
――やっぱり由西が言った通り、靖晶は邇仁に絆されている?
あの御方を守るためなら明空に何をしてもいいと思っている。脅して大声で恫喝して。
明空もずっとそうしてきたから当然の報いとはいえ――
「お前の行い一つに幾人の命が懸かっているか。行くのだ、源四郎!」
「い、いや、です」
「こんなときにわがままを言うな! もう十分休んだだろう! この上、何が必要だ!」
――いや、もしかして彼は。
自分の手で、ここにもう一つ神輿を担ぎ上げようとしている?
そんな馬鹿な。
いや。
「やめなさいよ」
預流は割って入ったが。
「靖晶さん、あなたまさか」
顔が笑っていなかったかどうか、自信がない。
「こんな子供のフリして逃げ隠れするような、若くて生きてるくらいしか取り柄のないやつを切り札に、伝教大師最澄さまに勝負を挑んで北嶺大衆を止めるつもりなの?」
――自分の親戚が安倍晴明になれそうだからこいつも最澄くらい軽く超えられるだろうと?
信仰を解さない陰陽師。わかってはいたが、ここまで。
気づいたら靖晶をひっぱたいていた。
「罰当たり、現実見ろ! 絶対無理よ! 皆死んで滅茶苦茶になるんだわ、この世の終わりよ!」
怒っているような、おかしいような、泣きたいような。
「わたしたちにどうにかなることなんか何もないのよ!」
喚いたとき、そんなつもりは少しもなかったのに涙が一筋ぽろりと落ちた。
次の瞬間。
靖晶の姿が遠ざかっていた。ぽかんと呆気に取られた顔がいつまでも目の裏に残った。
墨染めの腕が預流を抱えて走り出していた。さほどたくましい身体つきとも思わないのにあっという間に陰陽師の従者たちを振り切って林の中を駆け抜ける。
すぐに道を逸れて、どこにいるのかわからなくなった。
――この体力馬鹿、どれだけ走ったのか。
一筋二筋ほどの小川がちょろちょろ流れて沢に溜まっているのに出会ってやっと預流を放り出して、息を切らして顔を突っ込んで水を飲んでいた。野生動物か。かずいていた小袿もどこかにやってしまって。
水を飲みながらうめくように泣き声を上げ、袖で顔をこすり。泣き方も動物みたいだと思った。
――わたしだって泣きたいのに。
「……みこさまは源四郎の気持ちをこれっぽっちもわかってくださらない……どうしてわたしばっかり」
何か、一人でぼそぼそ勝手なことをつぶやいている。多分、思い出したのだろう――走っているうちにか、靖晶の言ったように預流を見て薪を取り落としたときにか。
あるいはもっと前に思い出していたが忘れたふりをしていたのか、そもそも記憶喪失などではなかったのか。
預流の知ったことではない。
陰陽師にいじめられて見事に泣いているが、これを見たら叡山の連中はかえって激昂して山を下りてくるのに違いないだろう。
「荒法師に討ち入られて、少しは怖い思いをすればいい……何もかも滅茶苦茶になればいいんだ」
――嘘。この男、わたしに本当のことは一つも言わない。やっとわかった。
「さっきのって陰陽師があんたをその気にさせるのにテキトー言ってただけで、実際みこさまってあんたが出ていかなくてもひどい目に遭わないらしいわよ。一人だけ安全なところにいるから。逃げ隠れする先が変わるくらい」
預流がばっさりと断言したら、しっかり聞こえたらしく頭まで真っ赤にして預流を振り返った。ひどい顔だ。顔しか取り柄がない御寺のお姫さまのくせに涙でぐしゃぐしゃなだけでなく鼻水まで。
「ほら。今、怖くなったでしょう。あんたなしで世の中そこそこうまくいくようになってると思ったら恐ろしくなったでしょう。叡山のてっぺんに飛んでいきたくなったでしょう。自惚れるんじゃないわよバーカ。あんたに救えるものなんかあるわけない。世の中の役に立ちたいとか煩悩なんだから」
わざと意地悪に言ってやったら、普段なら殴りかかってくるくせに一言も言い返さない。顔を歪めてまた涙をこぼす。顔を覆いもしないで。女の子か。いや男が泣くのが恥ずかしいってもっと後世の概念なんだけど。
「泣きたいのはこっちよ」
――どいつもこいつも自分のことばかりだ。
その挙げ句、こんなところに連れてこられて。何だここ。木しかない。空が曇っていて日が射さない。日が暮れてしまったらいよいよ真っ暗闇だろう。
土の地面から冷気が上がってきて下半身が冷える。風も冷たい。木々の間を吹き抜けるとびゅうびゅう音がする。叡山のふもとのどこかとして、どうやって帰ればいいのだろう。
帰ったところでどうなる。
誰も預流の言うことを解さない。仏道の頽廃は極まって仏徒たちが都を踏みにじり、大切な人たちが不幸になる。兄や斎院だってどうなるかわからない。
斎院は面倒くさい人だが案外いい友達になれたかもしれないのに。
預流が内大臣を救えなかったばかりにあの人の息子は死ぬのだ。
寒いのではない、これは、ひとりぼっちだ。
言葉を尽くしたところで誰にも伝わらない。
気づいたら預流も泣いていた。北風で涙が冷えて泣くほど顔が冷たくなる。なのに目と鼻は熱い。最初は懐紙で押さえていたが、それもすぐなくなった。
「わたし、何のために出家してこれまで。何のために」
――世界の全てを救うなんてできないのはわかっていたはずなのに。
「手の届くものくらい大切にしたかったのに」
他の誰でもなく自分の目が曇っていたせいで――
風が吹くばかりだと思っていたが、答える声があった。
「……お前が十割、無駄なことをしているのは誰の目からも明らかだったが、どうして今頃気づいた。これまでは何だと思ってやっていた。もう十年近いだろうに」
「あんたってそういう男!」
「お前が無力なのは当たり前だろうが、気づいてなかったのはお前だけだ」
厭味っぽい感じすらなく、真面目にそう言っているのが憎たらしい。さっきまでびーびー泣いていたくせに引っ込んだのか、涙と一緒に悪いものを出しきったのか、いつの間にかいつも通りのテンションに。
「何で今になって泣く。お前こそ頭でも打ったのか」
「普通に南都北嶺大激突が怖くて自分の無力さに恐れおののいてるんですけど――!?」
「話がそのレベルになってやっと気づくというのもすごいな、一番に南都衆徒に突っ込んで死ぬタイプなのかと思っていた。一生目が醒めないまま死んでいればそれなりに名を馳せたろうに、どうして今更普通の人間のような。もしかして寒くて幻覚が見えているのか? 山は怖いぞ」
「うるさい! 全部全部あんたのせいよ!」
「……そうだな」
「いや違うから、わたしをここに連れてきたのがあんたってことで強訴や南都衆徒の話してないからね!? ――何でわたしこんなこと言わなきゃいけないの!? どうしてわたしの気持ちがわからないの!?」
「わかったら気色が悪いだろうが」
――なぜだか少しも慰めない。喚いていたらこちらもいつの間にか涙が引っ込んでいた。
袖で顔を拭ったら、意外と明空がすぐそばにいるのに気づいた。預流が木にもたれて座り込んでいる隣で膝を抱えて背を曲げてぼんやり何を見るでもなく。
横顔を見ていると鼻の尖っているのが綺麗だ。泣いたばかりであちこち赤い。いつか思いっきり殴りつけたのはもう治ったらしい。睫毛はまだ濡れている。
「――長生きなんかするんじゃなかった」
気づいたらそう洩らしていた。
「初瀬さまが身罷られたときに預流もお伴すればよかった。こんな恥を晒すくらいならさっさと死ねばよかったのよ、生きてても何もできなくてつらいだけだわ」
「仏道の基本だ。――おれも最初に恥を晒したときに死んでいればこんな大騒ぎを起こして人さまに迷惑をかけることもなかったのに」
――こんなことを言う男だったのか。
「さっき南都衆徒に出会ったときに膾にされていればよかったのに、なぜ隠れてしまった」
「そうよ。わたしが斎院のご子息の代わりに北嶺大衆に射られればいいのに。ここ、南都も北嶺も来そうにないわよ。悪僧どころか人間の来るところじゃないわよ。何で逃げてきちゃったの」
「しくじった」
冗談でもなさそうなのが。
「ここじゃ偶然、狼に出会うのに期待するくらいしかないじゃないの。心中もまともにできないの」
「心中なのか?」
「違うの?」
「わからん」
――「全然違う」と言われるよりはマシなのだと思うことにした。
「坊主も務まらない出来損ない、生まれてこなければよかったのだ」
「あんたそんな自虐芸するタイプだったんだ。仏道の才がある設定はどうしたの」
「やめろ死にたくなる。それで僧綱を罷免されて? いつの間にか北嶺と南都が戦を?」
「つまり半端に才能あるとろくなことないのね。ああわたし何もできなくてよかった!」
お互い、生傷に塩をすり込むような自虐合戦。
「四男だからな。家の用は兄上たちで足りているのに母に苦労だけかけたようで申しわけない。お前は長女のくせに尼になって申しわけないと思ったことはないのか」
「考えたことなかった。ううん、お父さまとは気まずいから考えないようにしてた」
「お前が后の宮となって玉の台を狙っていたのに転げ落ちて天下の浮かれ女呼ばわりされて、左大臣さまは憤死しそうだという話だぞ。そうなったら祟られるのはおれだが」
「あんたのせいじゃん」
「おれのせいだった」
「わたし何も困ってないんですけど」
益体もないことを言っていたら、明空が頭を二回振ってくちっくちっと不思議な音を立てた。しゃっくりなのかと思った。
「……今の、くしゃみ? あんたくしゃみまでお姫さまみたいね」
「寒い。山の中で寒いのはまずい、頭がおかしくなって死ぬ。行の最中でも、そうでないときでも何人か死ぬのを見た」
――釈尊は命懸けの苦行などしなくていいと言ったはずなのに平安天台宗の修行はわりと命懸けだ。
「ちょっと歩く。歩きながら経を誦す。身体を暖めないと死ぬ」
立ち上がろうと腰を浮かすので、腕を掴んで止めた。
「さっき走って汗かいて冷えちゃってるのよ。冷たい水も飲んでお腹の中から冷えてるんでしょう。動いたら余計汗かくわよ。座ってなさい」
「座っていたら――死んだ方がましと言いながら足掻こうとしたな、みっともない」
「まあ、それもあるけど」
彼の左手に息を吐きかけてこすってやった。見た目は細いがごつごつしている。剣を握るからたこができている。近頃は薪割りや水汲みをしていたという、それもあるのか。ここだけ、お姫さまでも貴族でもない。
「あんた末端が冷えるのね、冷たい手。そっちも寄越しなさい」
手が冷たい人間は心が暖かいというが――
が、右手どころか左手も振り払われ、引っ込められた。しまった。調子に乗った。「女が触るな、穢らわしい」と――
違った。
彼の冷たいのは手だけではなかった。
正面から抱きすくめられたが法衣から抹香の匂いがしないのは妙な感じだ。土の匂いと、ちょっと汗くさい。
何より顔が冷たい。一度目のキスは痛かったが今度のは冷たい。首に触られると縮み上がる。また、丁度その辺りが暖かいのか首だの背中だの触ってくるのが。愛は惜しみなく奪うものってこういう意味だったのか。ものすごく奪われる、体温を。
いや奪われるというよりは。
……こういうのを年貢の納めどき、というのではないか。
「あんたからしたら今更なんでしょうけど何か一言くらいないの?」
――普通の女君は、邸に素敵な男君を迎える。あるいは素敵な男君に盗み出される。
預流は何も普通ではなかったので恋愛がイレギュラーでも仕方がない。――まさか徹頭徹尾、花も歌も持ってこないどころかずっと「おい、お前」呼びとは思ってなかったが。平安恋愛小説のはずなのにこの界隈に花や歌を持ってきそうな男はものすごいろくでなししかいないので「ちょっとは人並みにしてよ」とも言いづらい。
それでも薄ら寒い山の中で二人、身を寄せ合って暖を取っているとそれなりにロマンチックで、このまま人知れず凍えて死ぬか狼に遭遇して喰われるか、どちらでも仕方がないと思っていたが。
あるいは芥川の鬼が追いかけてくるか――それは実の兄かもしれないし鬼を操るまじない師かもしれないし。
いつの間にか空が晴れて梢の隙間から星が覗くようになっていた。満天の中に北斗七星の柄杓がさえざえと輝いていた。落ち着いて見たことがなかったけど星空って綺麗なものね、とか言おうと思ったとき。
「――北があっちでこれが行者の水飲み場なら、登っていけば横川に出る」
突然、明空がつぶやいたのでびくりとした。彼の方は真面目くさった顔つきだ。
「やめてよ。四百人の山法師を引き連れて都に討ち入る方になるの」
「そうなるのか?」
「なるわよ、あんたわりとその場の空気に流されちゃう方でしょ。その場の空気に流されて出家してその場の空気に流されてわたしとここにいるんでしょ」
彼の方がずっと預流のことを〝気分、勢いで出家した〟と言っていたものだが――
「洛中洛外の北嶺七百人の中にあんたの知り合い、何人いるの? その人たちに何て言うのよ? 泰仁寺で一緒に暮らしてた人も出てくるかもしれないのよ?」
「――それは何か言わなければいけないような気もするしひたすらどうでもいいような気もする。薄情者だったな、おれは」
「今更叡山に登ってどうするのよ。南都はどうするのよ。あいつらあんたのことなんか何も知らないわよ。あんた源氏だから藤原でもないし。皆、勝手に暴れたのに何とかしなきゃいけないほどの何か、あんたにあるの?」
胸にひしとすがりついた。見た目より筋肉がついていてたくましい。
なのに中身は空っぽ。
――姿を現さなくても陰陽師が鬼を放って追いかけてきた。あいつはそういえば天文博士を目指していた。星を見る男だった。天の光は全てあいつの仕掛けた呪いだった。
「ここにいてよ」
――ここでわたしと、何もかも全部滅茶苦茶になるのを見るの。
「でもやっぱり寒いぞ、ここは。凍えて死んだら笑える」
「それは笑えるけど」
――多分とても幸せだ。
「でもわたしそういうので死なないような気がするのよね。いいところで終わらないでいつまでもダラダラ生きてるの。そういうのにうんざりしてるの」
「奇遇だな、おれもだ」
「清水の舞台から飛び降りて生きてたんじゃねえ」
「あれは相手が悪かったような気もする。……ここも同じか」
「わたしなんか痘瘡で一人だけ生き残って気まずいったら。きっと南都北嶺大激突でも一人だけ生き残っちゃうんだわ」
「女にしては骨が太いから?」
「言うほどではないわよ。他の女、知ってるの?」
「知らん。思えば母親も疎遠だった」
「あんたが男にしては細いの。……もしかしてあんた、男のこともあんまり知らない?」
「そう言われれば知らんかもしれん。知ったような気になっていたことばかりだ。これも仏道の基本だ」
「あんたそれしか話題ないの?」
「お前には何かあると言うのか」
共通の話題が元々それしかない。
「永遠にここにいられないなら大峯に行きましょう」
ただの思いつきだったが、口にするといい考えのような気がした。
「お師匠さまが最後に向かったの」
「いつの話だ」
「九年前」
「もうそこにはいないだろう」
「でも行ってみたい」
「結界を破って大峯奥駈道を穢す?」
「わたし一人で穢れる聖地って何?」
「おれ一人を穢すのとわけが違う」
「頭を剃って墨染めを着るわ」
「それでも女とわかる。他の修行者の心を惑わすな」
「バレてもあんたが助けてよ。一度くらい法具の剣をわたしのために振るってよ」
「……持ってないぞ。どこにやったんだ。清水で落としたのか?」
――しまった、余計なことを思い出させたと思ったが。
彼は慌てているのではなくて。
「全然気づかなかった」
寂しそうだった。
「大峯ではなく、東国はどうだ。立派な聖地でなくても」
明空の方から提案が出てきたのは少し驚いたし嬉しかった。
「行基菩薩は東路の果て、上総だか下総だかに御寺を開いたとか。西なら役行者。出雲でも太宰府でも」
「そうね、千日回峰行でなくても大峯奥駈でなくても」
「思いきって紫蘇を千切って蝦夷地に行けと陰陽師も言っていた、あいつでなく親戚の」
「紫蘇はよくわかんないけど蝦夷地とは大きく出たわね」
「天竺より近い」
それで明空は立ち上がって歩き出した。もう決断したのか、すごいなと思ったが。
二、三歩でまたしゃがみ込んだ。
「……草鞋が片方ない」
――よく見たら左足が裸足だった。走り回っているうちになくしたのか。
「吉野も東路も蝦夷も無理だ」
それでうつむいているのだから、決断力があるのかないのか、ここまで勢いで生きていると笑う。
「帝に背いて戦地になる京を後にして無一文で東路の果てを目指すのに、草鞋一つでしょげてんじゃないわよ」
すごい男なのか全然すごくないのか、こういうところ。
預流は立ち上がらなかった。
「仕方ないわね」




