巻の十三 幕間
最終局面に向けてちょっと休憩でーす。
正直、最終章に入れるところがありませんでした!
さて。
重たいシリアスになりすぎたので、少し後の話をする。
この話で一人だけ得をした人がいた。イケメンの介護に楽しみを見いだすようになった安倍家の弥生だ。靖晶はもとから自宅にいるとして、本来、彼女の身分では近づくことも叶わなかったいい匂いのイケメンが次々現れて。しかも明空は普段のキャラなら彼女と口も利かず二メートル以内に近づきもせず、賢木中将は逆に五秒で妊娠させてくるのにどちらも弱体化が入っていた。
「中将さま、お粥を食べましょうねー。はい、あーん」
その後も、賢木中将は無気力に陥って食事もろくに摂らない――彼ほどのちゃんとした貴族は普段から人に着替えさせてもらうのでそれも弥生が何とかしていた。
弥生が匙を取って粥を食べさせようとすると、二瀬がやって来て
「ぼくがやりますよ、弥生さま」
匙と粥の鉢を取ろうとする。――中将の食事係は倍率二倍、熾烈な戦いがあった。
「まあまあここはわたしに」
「でもぼくの父ですし」
奪い合う二人を脇から覗いて、良彰がげんなりした顔をした。
「その人、そろそろ帰ってもらいたいんだが? まさか本当に弥生の聟になるつもりなのか?」
「わたしの出世を喜んでくれないの?」
「夢見るな馬鹿。さっき連絡があって、これから左兵衛佐為成さまがお迎えにいらっしゃる」
「は」
「そりゃそうだ。お元気なんだし公卿さまをいつまでもここにいさせるわけないだろうが」
そうして現れた少年は、サイズ感こそ小学生だったが賢木中将が不思議な薬を飲んで身体が縮んだのかと思うほどそっくりだった。紙を当てて写し取ったようでどこからどう見ても確かにこれが跡継ぎだ。よくもここまで。それは色鮮やかな直衣に練り香の匂いを漂わせて、二瀬は改めて自分など出る幕がないのを痛感し、良彰も弥生もこんな小さな直衣があるのを初めて知った。
賢木中将を見るとその前にひれ伏した。
「父上! お懐かしゅうございます。こんなみすぼらしいところに隠れておられたとはおいたわしい」
「みすぼらしくて悪かったな。あの状況でかくまってやってたんだから土下座して感謝して米俵の二、三十寄越せ」
良彰はかなり聞こえるようにすごんでいたが、ご嫡男はスルーした。
「為成が来たからにはもう安心です。一緒にお邸に帰りましょう、母上がお待ちです」
それで、リアクションに乏しかった中将が顔を上げた。
「斎院さま」
久しぶりに出した声がかすれていた。
「斎院さまが生きておられる」
「勿論です。姫たちも二郎も健在です、後は父上だけです」
ご嫡男は笑顔でうなずき、父の手を取って立たせようとするが、数え年十一歳。満年齢だと九歳くらいだ。一人で成人男性の体重を支えることなどできない。すぐに諦めて、扇で良彰を指した。
「おいお前と……お前、父上に肩を貸してさしあげろ」
「おれはこの邸の主の代理の代理だぞ」
「それは諦めろって意味でしょう、陰陽師は公卿さまに気に入られてなんぼよ」
弥生は鼻白む良彰の背中を叩いた。
二人目に指名されたのは――
それは恐らく二瀬が、「わー公卿のお坊ちゃんだーこんなガキなのに元服してんだなーすげーこの服って何がどうなってんだー男なのにいい匂いするー」とか騒いでいる十二神将の横では一人だけ大人しくてこざっぱりして見えただけだったのだろうが。
二瀬は返事ができず、弥生を見た。
――玉の輿の夢破れた弥生は、あっさり笑ってうなずいた。むしろ積極的に二瀬の肩をに手を置いて推薦する。
「この子、こちらで中将さまにずっとお粥を食べさせてさしあげてたんですよ。これを機会に使い走りでも何でも、中将さまにお仕えできないかと」
「ほう、下臈の子にしては見目がいい」
ご嫡男は何も気づかず、うなずいた。
「父上が戻られた祝いに衣と菓子をふるまう、ついて来い」
立派な跡継ぎらしい態度だった。
良彰は中将に肩を貸して牛車に乗せてさしあげ、中将はご嫡男とともに京極の邸に帰還した――二瀬は牛車の外だったが、それについて京極桜林院に。
そこはまだ強訴で打ち壊された築地塀が痛々しかったが、全部が壊れたままではないので穴のところに門番を配置してそのまま使っていた。
二瀬はずっと、寝殿や茜さす斎院のおわす北の対に入ってはいけないと言われて育った。
だが北の対が破壊され、今、茜さす斎院は東の対で暮らしていた――
京極桜林院まで戻ると、従者たちが中将を支えて歩かせた。強訴以来、ずっと土御門邸で座り込んで暮らしていたので脚が弱っていた。
そうして茜さす斎院のおわす御簾の前まで皆でやって来た。男の従者は本来、茜さす斎院の御前に出られる立場ではないので中将が畳に腰を下ろすとそそくさと出ていく。
二瀬も立ち上がろうとして几帳をひっくり返しかけた――こんなときに限って几帳の柱がささくれているのか、衣の端を引っかけてしまったらしい。無理に立つと土御門邸で借りた水干を破ってしまうし、斎院の御前で几帳を動かすのも――
「何だ為正、受領の邸に転がり込んでいたにしては貧相ななりだな」
二瀬が慌てている間にも、斎院の玲瓏とした声が響く。
「その狩衣、ひどい色味だ。人目を忍んで夜歩きするときはいつもそんなみっともない姿なのか? お前が訪ねる女は皆、期待した貴公子でなくてがっかりしているのではないか。思ったよりまずいが遠慮してそう言い出せないでいるのでは。もう何日も経っているのに衣の色を気遣う余裕すらないとは情けない。お飾りの夫の見た目が悪かったら飾りにすらならん。本当に離縁するぞ」
勿論、中将が着ているのは良彰の予備の狩衣だ。靖晶はもう少しましな絹の直衣も持っていたが丈が合わない。
居丈高な言葉に、中将の目尻にじわり涙がにじんだ。
「斎院さま……」
「返事が遅い。ぼーっとするな。わらわをこんな穴の空いた邸に住ませるとは。別荘の仕度はどうなっている」
それでたまらなくなったらしく。
中将は這いずって御簾の中に入った。大変無礼、不作法なありさまだったが斎院は抗議しなかった。
斎院はもうきちんと季節の襲の五衣に香を焚きしめ、長い髪も艶やかで、化粧も完璧な普段通りの皇女殿下に相応しい装い。山法師に持っていかれて調度が足りずいつもより多少貧相な塗りの脇息にもたれかかり、心労でやつれていたが誤差の範囲内。
夫から見て、いつも通り麗しい妻だった。
中将が膝にすがりつき、声を上げて泣き始めると、ため息をついた。
「全く、子供の前で子供のような。お前は邸の主の自覚が足りぬ。下臈のまじない師の邸などにいてはわらわが迎えに行けぬ」
――この男が社会復帰するのに半年かかり、その間、ずっと正妻の膝にすがって指を吸っていたそうだ。
御簾のうちで涙の対面が行われている間も、二瀬は几帳から衣を外そうと静かに悪戦苦闘していたが。
「そこの。お前、妾の息子だな」
いきなり話しかけられて顔を上げた。彼の他には立派なご嫡男と女房ばかり。二瀬に視線が集まっていた。
「い、いえあの、ぼくは二瀬といって、ええと、五位の尼御前さまの……」
「為正の子はわかるぞ。その鼻筋、耳の形、そっくりではないか」
――父に似ていると言われたのは生まれて初めてだった。
「誰ですか?」
ご嫡男だけが首を傾げていた。
「為成の兄弟だ。弟か? また妾の子が増えたぞ。これで何人目だ」
それで、何者でもなかった彼は正妻の認めた〝庶子〟になった。
彼が実母やその縁者と出会えるかどうかはまた別の話。
* * *
預流は土御門まで歩いていくまでの間に靖晶にこれまでの経緯をざっくり説明してもらったが。
「……わたしと結婚するのが嫌すぎてそちらのお兄さんを巻き込んで清水の舞台から飛び降りて記憶喪失に? そんな男の記憶を取り戻せって?」
「いや、あの」
靖晶ももうヤケクソなのか、半笑いで。
「何て説明したらいいんでしょうね……明空さまにはそもそも、性欲を感じるのは預流さまなのに巨大感情の矛先はみこさまで、預流さまに好意らしきものを抱くほどにみこさまへの後ろめたさが肥大してあなたのことを邪険にするという〝ツンデレ〟では済まない複雑なバグが搭載されていて!」
「ひどすぎる! そんなことを本人ではなくあなたから聞く羽目になるわたしって!」
「ぼくも言いたくないんだけど都の平和のために! いえ別に、許してやってくれという話ではないんです、みこさまと会って記憶が戻るならその方がいいけどそれは手続き上、非常に問題が発生するから」
「清涼殿には連れていけないけどわたしなら下駄履いて自分で歩くから手っ取り早く済むという発想!」
預流も感情がしっちゃかめっちゃかで今更、泣けばいいのか笑えばいいのか。
土御門邸に奈良法師はいないようだった。邸の中の明空が見つかったら大変だ、頑張って追い返したのだろう。藤原じゃなくて安倍だから南都は関係ないとか?
「良彰ー、ぼくらも奈良法師が見たいー」
「お前ら、遊びじゃないんだぞ!」
「坊主とか喼喼如律令パンチでぶっ飛ばしてやる!」
「陰陽寮で及第してからな!」
十二神将と良彰はいつも通りだった。特に、清水の舞台から冥界に落ちて神さまから不老不死の術を授かって帰ってきた安倍良彰。本当にぴんぴんして前と全く変わらなかったので、作り話なのかと思った。
「あ。尼御前さま、こんな折に」
「挨拶はいい。源四郎はどうしてる」
「薪割りかな」
靖晶が明空を源四郎呼びしているのにすごい違和感が。
兄宮の邸でもあまり出入りしない炊き所の前まで行くと、木一つない庭先で墨染めにたすきをかけ、薪を縄でくくって運んでいる若者と出会った。
「惣領さま、今日は何やら賑やかですが――」
靖晶に愛想よく笑いかけて――
預流と目が合った途端、持っていた薪を地面に落とした。




