巻の十 薄ら氷の如し・後編
敵は叡山、400人強訴……ではなく。
平安の薄ら氷を溶かす2300人による南都北嶺大激突!
御仏の名のもと、獅子身中の虫どもの手によって末法濁乱の世が到来する。
違うんです、最澄が悪いんじゃないんです、強いて言えば墾田永年私財法のせいです!
預流にはぴんと来なかったが、靖晶はそれで舌をもつれさせた。
「ソ、ソースは。エビデンスはあるんですかそれは」
「ある。東大寺や吉野はその辺の流民から聞いた噂で確かに何とでも言える類だが、これはやつがれが身をもって知っている事実だ。北嶺大衆は何とかいう坊主個人のために玉砕する狂信者の集団ではないし、勝てないと承知で喧嘩をするやつなどおらん。人の理性を信じたいのだろう? それなりの打算があり、至極真っ当だ」
「……あの以玄って人の予告の第二陣四百人って全然根拠のない出鱈目な数字なの?」
「いや。以玄とやらが北嶺大衆の精鋭四百人を引き連れて叡山を下りてくる。それが嘘ではないとした上での数字だ」
「どういう意味?」
「安倍の小僧。洛中で暴れているのは奈良法師ばかりか」
「は、はあ。叡山の山法師は一人も来てません」
「当たり前だ。やつらが北東から来るのは明らかなのだから検非違使の本隊は編成中として、斥候を雲母坂や八瀬に配置している。山法師が入り込んだら大騒ぎだ。――で。洛中で奈良法師と揉めている荒法師は一人もいないのか?」
「何言ってるの? 石山と三井寺がまだ準備中で、叡山の山法師が来られなかったら、南都の奈良法師と争う人なんて――」
自分で言って、預流は背中が総毛立った。
違う。
「……わたしがお粥を配ってるのに、誰も止めに来ない?」
――あのときは明空が、荒法師を連れて止めに来た。
明空はいないらしい。なら。
代わりにもっと話のわからないやつが来るはずだ。
泰仁寺から。
「――叡山末寺!」
靖晶が悲鳴のような声を上げかけて、人に聞かれまいと口を押さえた。
「こたびの騒動の発端となった、クビにされた何とか律師はどこの寺の出だ? 権律師から上の僧綱は寺領の収入がある。寺領の収入があるところには大衆、悪僧がいる」
「いる……いるけど何十人程度よ、多分」
預流も声が震えた。
「洛中洛外、嵯峨、桂、伏見、山科、宇治――他にも無数に叡山の末寺がある。そこから悪僧ばらが出てきたら、全部併せてざっと七百人」
「叡山そのものより多いじゃないの!?」
「その分、細かに分かれている。都で落ちぶれた者がまず洛外に散っていくからな。叡山や南都は寺領の大きな寺に近隣の貧民が吸い寄せられるが、洛外には都にいられなくなった者が駆け込むのだ。――寺に隠れている、所属のわかっている半グレ集団だ。検非違使の小使いと寺と二択で寺を選んだ。やつがれのような乞食坊主に住む場所が空いていると勧めてくれた寺はよく憶えている。洛外の北嶺大衆、少なく見積もって七百人だ」
由西は目を細め、あごで示した。まだ宮邸の前で粥を食べている人たちを。
「あの者たちに尼御前が袈裟と墨染めと薙刀を配りさえすれば、尼御前の大衆となる」
すっと胸の中が冷たくなった。
「わたし、そんなつもりじゃ――」
「先人の轍からは逃れられぬぞ。尼御前に真の功徳があるならな」
靖晶は聞いていなかった。一人、耳を押さえて歯噛みしていた。
「横川の以玄という人、あのとき特別にぼくらに話しかけたんじゃなくて帰り道、会う人会う人、全員にあの調子で第二陣の予告をしていたのか!」
「手紙も書いて送ったのだろうよ。気分でそんなことをするわけがあるか」
「どういう――」
「噂を流して洛中洛外の末寺が呼応して決起するように。一日置いたのは自分たちの仕度だけでなく、末寺が心を決めて参戦する仕度ができるように」
――そういえば。
由西もあのとき「明後日に第二陣がある」のを知っていた、宮邸の前にいたのに――
山法師があちこちでそう喚くのを耳にして――
「叡山の第二陣四百人は北嶺大衆蜂起の本隊ではない。本隊は、洛中洛外の末寺から出てくる七百人。末寺も併せての北嶺大衆だ」
「叡山四百に七百の……千百対千二百……」
――二千人を超える武力衝突が、京で。
叡山の第二陣と朝廷は第一陣と同じように洛外の八瀬などで衝突するのだと思っていたが――
嵯峨や桂や伏見から、洛中の市街地を突っ切って八瀬に向かう武装勢力があったら――
「もし朝廷が末寺それぞれに叡山第二陣と戦ってくれと頼み込んでいたら本山と板挟みになって悩んだかもしれん。全員が叡山に従うわけではない」
泰仁寺も恐らく、明空のために全員が叡山に登ったわけではない。
「馬鹿正直に言いなりになって叡山と戦わなくても日和見、傍観、黙殺、どちらの言うことも見なかった聞かなかったことにした可能性もあり得た」
玉虫色の回答、日本の伝統だ。
「――でも朝廷が頼ったのは三井寺と石山」
「石山は東密、三井寺は台密だけど随分前に叡山と喧嘩別れして東密以上にこじれて――関白も主上も多分悪気はないのだわ、三井寺も石山も荒法師が強いと名高いのだから」
「なお悪いじゃないですか。そんなにモメてる方にお願いに行って、ものの数ではないとスルーされた叡山末寺のプライドはガタガタです」
「石山と三井寺は二寺で三百人揃うが、叡山末寺は無数にあるから声をかけて歩くのが面倒だったのかもしれんがな」
「手間の問題なんですか?」
「わりとそんなものだ。――だがそこまでは横川の大僧都や以玄も予測しておったであろうよ。三井寺は呼べばひと時で出てくるのだから使い走りをさせてもそんなものかと思う者もあろう。伏見なども仕度にそれくらいかかるところはある。叡山の四百人に合わせて洛中洛外から四百人出てくれば万々歳。やつらの目論見には南都衆徒は入っとらんので、朝廷側九百に北嶺八百。三井寺・石山がやつらの想定する〝敵〟で貴族の手下などはいくら出てきてもものの数ではないと高をくくって、北嶺七百や六百で片づける算段だったか? 技や気合いで何とかすると? 裹頭の悪僧ばらを狙ってぶちのめしてスカッと勝って、朝廷にも多少謝ってもらいたい、くらいが大僧都の落としどころだろう」
由西は緩くかぶりを振った。
「だが現実には南都衆徒三百人が神木を動かして遠征してきた。三笠山から夜を徹してよつ時もかけて歩いてきて清水に至った。藤原の長者に頼られたと浮かれて。宇治や伏見を通って上洛したのだろうな」
「南都衆徒だと何かあるんですか。台密がモメてるのは東密では?」
仏教に興味のない人の認識はこんなものなのか。
預流が唇を噛んでいると、由西に杖で促された。
「己で言え、台密の尼」
――意地悪。
「東密ともモメているけど――南都興福寺と清水は南都六宗が一つ、法相宗、台密や東密よりずっと古い教えよ。藤原鎌足とか言ってるんだから。昔は仏道といえば南都六宗で、お坊さまがいくつもの寺を行ったり来たりして唯識や華厳の教えを学び合うものだったけれど、理屈が難しくてお坊さまが何十年も経典を勉強しないとわからなくて、庶民どころか貴族にも何をやっているのか伝わりにくくて――それに、都を京に遷す頃に伝教大師最澄さまが興福寺を飛び出して叡山で新たに台密の教えを唱えて真っ向から対立して。互いに激論を戦わせたのが決着がつかないまま入滅なさって。もう二百年ほど前の話。今や仏道といえばすっかり密教のこと。護摩を焚いて御修法をして霊験を祈ってもらうの、あなたが仏教だと思ってるの、大体密教の儀式よ。主上や貴族に御修法をさしあげ鎮護国家を祈るお役目はまず台密と東密で取り合って、南都六宗は後回し。唯識とかよくわからないけれど藤原の氏寺だし昔、世話になったのは確かだから今更寺領まで取り上げるのはしのびない。貴族の認識はそんな感じ。外から見たら同じ仏道、同じお坊さまでも南都は全然違うの」
「南都と台密こそ不倶戴天の怨敵、同じ仏道の徒と言いながら何も同じではない。東密とは三つ巴だ。誰も譲らん」
――それが現実。
仏徒同士がこんなに仲が悪いなんて、人に語らなければならないなんて情けない。
「……清水って台密じゃなかったんですか?」
靖晶はそこからぽかんとしていた。
「ええ。普段はまさか都でモメるわけにいかないから多少ギスギスしててもお互いスルーしてるんでしょうけど、今、叡山はパブリックエネミーなんだから堂々と対立して興福寺を助けるわ」
「興福寺は、仇の叡山が京で暴れていると聞いて三百人も出てきたのだろう。それが清水を拠点に、藤原を守るためとうそぶいて洛中でやりたい放題。――もう僧綱人事とかどうでもよい。末寺はこぞって、皆が叡山の方を見ている間に全力で後ろから撃ってくる。絶対にだ。何とかいう坊主のためではなく自分たちが北嶺大衆だから南都衆徒を討つ。強いて言うなら最澄のために? やつらの力を借りる朝廷、もとい藤原の臣ごと。ついでに清水も血祭りだ。慮って日和見をする臆病者など一人もおらず、皆が皆、南都衆徒憎しで出撃する。他の寺との連携など知ったことか。恐らく七百人より多く出てくる。何なら三井寺・石山も南都衆徒など見れば〝話が違う〟と大混乱になるのかもな」
由西は、僧の姿をしているくせに仏道の徒ではないという。なのに比叡山でタダメシを食う。どういうつもりかと思っていたが――
案外、彼の方が預流をどういうつもりかと思っているのか。
「藤原の氏寺のくせに平城京に置いて行かれた時代遅れの田舎者、観光地で案内人をしておれば生かしておいてやるのにわざわざ出しゃばって洛中で乱暴狼藉――この状況に一番はらわた煮えくりかえっているのは京の都の悪僧ばらだ」
――南都からすれば叡山は「出る杭を打ち損ねたばかりに声が大きいだけの裏切り者が朝廷にうまく取り入った」ように見えるだろうし、叡山は「あの連中はいつまで独りよがりの古い教えにしがみついているのか」と軽んじている。何なら「やつらのせいで伝教大師は命を縮めた」とまで思っているかも。
もう二百年も前のこと。最澄と徳一が何を論じたかなどどうでもいい。
先達が「あいつらが悪い」と言うのを真に受けるばかりで本当の意味など知らないまま憎み合っている。
「今それが出てきて直接、南都衆徒と小競り合いをして揉めていないのは知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのではなく、明確に朝廷を見限ったのだ」
「三井寺も石山も南都も、全員ぶちのめして台密の威信を守らなければ北嶺大衆の名が廃ると――まずい、東大寺や吉野や高野が来るって噂まで流れてる。興福寺の向かいの東大寺も南都」
「ただの南都じゃないわよ。総国分寺、昔は大僧正といえば叡山の座主じゃなくて東大寺別当のことだったのよ」
「一番まずいところじゃないですか! ……高野は東密の総本山として。え。吉野は?」
「大峯奥駈道の入り口、役行者のお膝元、東密寄りの修験だ。武勇の誉れでは南都北嶺に勝るとも劣らぬ吉野法師――つまり機嫌次第でどちらともやり合う」
「一人も仲よくできないのかよ」
靖晶の言葉が胸に痛い。自分が責められているようだ。
「台密だけ寺に引きこもっている場合じゃないですよ」
「東大寺や吉野は噂だけなんじゃなかったの?」
「ぼくらがどう思おうが末寺の中の人が信じたらデマも真実もない。ファクトチェックなんかしてたら後れを取るばかりですよ。南都衆徒に勅が下ったか、足ばかり速いヘタレの話を真に受けたかも彼らにとってはどちらでも同じ。明空さまのクビよりずっと大きな大義名分が出現した」
何せ明空も賢木中将もここに来て本人は少しも顔を出さない――同じく顔を出さないなら二百年前の伝教大師さまの御名が一番強い。
「末寺が今日動かないのは、ただ単に。しょうもない小競り合いなどするより、明日の叡山第二陣出撃と息を合わせて検非違使・貴族連合ごと南都衆徒を挟撃してやる、その方が格好がいいと思ったから。今日は息を潜めて隠れて、日吉山王の神輿が下りてくるのに合わせて出ていけばとびきりの神威になる」
何が台密の威信だ、馬鹿馬鹿しい。
「南都を呼んだ慌て者がいたせいで、かえって叡山末寺全部に喧嘩を売って全員を引っ張り出してしまう。南都衆徒は北嶺大衆蜂起のカウンターなどではなく最後のトリガー」
文字通りの獅子を喰らう獅子身中の虫――仏道の徒でありながら仏法を喰い荒らし仇なすものが、よりにもよって都に七百人も。
「急にかき集めた再編検非違使と貴族連合は政治信条で対立する。隊を分けていくつもある末寺を見張ることはできません。彼らは皆、揃って叡山を見据えなければ。叡山は四百人しかいないならあれはお前に任せた、なんて言って背を向けたらどうなるか。下手に隊を分けて末寺に何十人程度の小部隊を寄越しても、怒り狂った悪僧ばらの足止めにもならないでしょう。各個撃破されるだけです」
「検非違使も貴族連合も、叡山に向かって前の方で下位の武士が盾をかまえ、高級貴族は後ろにいるのだろうな。指揮官は高級貴族の令息、後ろで大切に守られている」
由西はため息のようにつぶやいた。
「末寺の悪僧ばらはその無防備な後ろから矢を射てくる」
その言葉で預流の心までも射抜かれた。
「北嶺大衆の中でも評判の強者は高僧たちが引き抜いて叡山に置いているだろうから、洛外にいるのはそれこそ有象無象だろうが七百人いれば看過できん。高僧たち直属の選りすぐりの精鋭中心の四百人が囮をやって皆の目を引きつけ、練度で劣り数が頼りの末寺は後方から打ちかかる。理に適った戦術ではないか?」
叡山の第一陣は皆、徒歩だったそうだ。第二陣と、迎え撃つ武士たちも徒歩だろう。
――小野右衛門佐とやらはいつぞや、煌びやかな馬具をつけた連銭葦毛の名馬に乗っていた。下臈ではないのだから戦であっても地面に立ったりしない。彼が名馬に乗っていたら貴族連合代表の左兵衛佐も対抗して、それは立派な名馬に乗るだろう。
二人だけ綺麗な格好で高いところにいる。甲冑を着ていても弓矢のいい的だ。
それに気づいた途端、世界から色が失せていくようだった。日の光の色が変わったようだった。風の音が耳をつき、口の中が土埃の味でいっぱいになった。
――内大臣は賢木中将の嫡男が死んだら、喜ぶのだろうか。
あの人とは初瀬が死んだ後に一度、会っただけだ。几帳越しに。初瀬とは庭で仲よく遊んでいたが父親とはそうでもない。
それも、預流の方から几帳を突き倒して姿を見せたのだった。初瀬の死で家人を疑い、責め苛んでいるという内大臣を諫めるために。
「内大臣さま。清子の覚悟をご覧ください。清子はこの通り、髪を下ろしました。お坊さまに整えていただき、戒名を授けていただこうと思います。尼になります。これから一生、初瀬さまの菩提を弔い御魂をお慰めします。ですから内大臣さま、初瀬さまを殺めた者を捜すのはもうおやめください。下人たちと、捕らえたお坊さまを解き放ってください。罪は清子が償います……」
何やら賢ぶったことを言ったような気がする。
真面目そうな人だったことしかもう憶えていない。預流が背中の辺りで切った髪を見せると、泣いていた。
あの頃、もう悪い男に弄ばれたふしだらな娘が産んだ子を捨てていたのだろうか。
二瀬は母が誰か知らないと言った。物心つかないうちに母と引き離され、父のもとに押しつけられたのだろう。醜聞が表沙汰になる前に。
そんな風に子を失って体裁のために〝ちゃんとした夫〟を迎えた女は、何人か見かけた。愚かな過ちを親に責められ、身を固めたものの新たな夫にも手放した子にも申しわけないと皆、同じように泣く。引き裂かれた相手をいつまでも想って忘れられない人も。
こんなことを立派なお坊さまに相談はできないと私度の尼に告白しに来て、そのまま出家したりする。式部卿宮邸に何人かいる。
「ひとときでも人を愛した心に嘘偽りはなく、この世に命を授かるのは御仏の宿縁でございます。子もあなたを慕って、いつか出会えると信じて元気にしていますよ」
やはり賢ぶった言葉で慰めたような気がする。
誰も救えていなかったのではないだろうか。
あのとき内大臣は預流の功徳に心打たれたのではなく、己の娘のみならず、よその娘まで不幸にしてしまったと泣いていただけではないだろうか。
こんな悲しいことが次々起きる自分の人生は不幸だと泣いていただけではないだろうか。
何てことだ。
預流の九年は無駄だった。
経を誦して病人を看病してかわいそうな女を何人も尼にして、鴨川で粥を配っても、何人助けても、前夫の父を冥府魔道に置き去りにしたまま。
家族になっていたかもしれない人だったのに。
あのとき捕らわれていた遊行の法師と賢木中将の息子とで何が違う。
二瀬は初瀬にそっくりだ。彼が聡明なところを見せるだけで、経典を写してみせるだけで預流は嬉しい。いっそ初瀬と血のつながりなどなくても救われるような気がする。
内大臣は彼を知らない。ずっと昔に追い払ったまま。
手を取れば互いに救われる道もあるかもしれないのに。
そちらを見ようともしないで憎しみに溺れ、中将本人ならまだしも十一歳の子を死地に送る――
射るのは預流と同じ御仏の教えを信じるはずの天台僧。食い扶持のために僧形となっただけで経を誦すこともなく武具を振るうばかりの破戒の徒だとしても、向こうがどう思っていても、仲間に違いはない。
預流は自分で台密を選んだ――流行っているからではない。女も法華経の五の巻を読んで龍女成仏せよと言っているのは台密だけだったから。南都の転女成男の功徳にすがるのはやめたから。
仲間といえば預流は藤原の女ではないか。南都衆徒はたまたま宮邸の前にいた連中が無礼だっただけで、北嶺大衆が不動明王真言を唱えながら預流に打ちかかってきたら皆で助けてくれるのではないか。
そもそも預流は、粥を施した者たちが石を投げてくれて喜んだ。自分の手足で人を殴ったり蹴ったりするなど些細な話だが。
彼らが預流を守るため、太刀を佩き弓を取って恩を返したいと言い出したらどうしていただろうか。
悪僧が破戒の徒だとしてそれを責める資格がこの身にあるのか。
知らないふり、見ないふりをしていただけで南都北嶺に悪僧ばらがいるのはずっと知っていたではないか。宗派が違っても教えが違ってもどこでも同じように人が寺に寄り集まって武器を取る。
伝教大師も釈尊も人に武器を持たせよとは一言もおっしゃらなかったのに、平安を謳いながら東西南北、密教も六宗も修験も、吉野も高野もどこもかしこも同じように。
世の中はそういうものだと諦めて目を背けていた。
何が功徳だ。
走り回っていたら何かした気になれた、それだけだ。
命知らずのブッダクレイジーを演じるのは楽だった。
見ようともしなかったのは預流も同じだ。自分のことを棚に上げて他人に煩悩があると。
恥知らず。
地獄とは死んだ先にあるのではない。
今、預流がいるところがそうだ。
三千大千世界の全てを虚無の静謐で満たし、救うことなどできはしない。
「――北嶺が末寺併せて最低で千百人、武士六百人、南都三百人、三井寺・石山三百人」
「六百人は藤原の内部分裂で三百人は親切な慌て者、三百人は優柔不断な朝廷の迷いの結果か。――二千三百人。なかなか大層な内乱ではないか」
「二千人を超える南都北嶺大激突……」
陰陽師たちが数を数えている。
数字しかわからないのだ。台密、東密、南都、同じ仏教徒なのになぜか仲が悪い。由西は寺の飯を食った上で数字だけしか解さないように決めたのか。
靖晶の方は数字だけでいっぱいいっぱいだ。
「もう、誰が味方で誰が敵かもわからない泥沼の混戦になります。以玄の率いる四百人が神輿を担いでゆるゆる下りてくるだけで都中の天台悪僧が神威を示し、本山を守ろうと悲愴な覚悟で背後から突進してくる。貴族連合と検非違使のどちらかはどさくさに紛れて南都衆徒と組んで政敵を血祭りに上げるかもしれない。南都は勢いで出てきて都会の空気にはしゃいでいるだけ。請われて手伝いに来たのに、まるで事情を知らない三井寺と石山は土壇場で誰に従うか混乱必至――しかも南都三百人はご覧の通り、弁当を持ってきていないので清水で足りない分は洛中洛外で現地調達です」
「今はただのゆすりたかりだが長期戦になれば掠奪も始めるかもな。何日もぐずぐず続けていたら本当に吉野や高野も参戦する」
「世の中の全部が滅茶苦茶になる」
あまりに絶望的で顔が引き攣りでもしたのか、そうつぶやいた靖晶の顔が笑っているように見えた。
「まさか明空さま一人がいなくなっただけでこんなことになるなんて」
「あいつ一人のせいかしら」
ぽろりとこぼれた。
誰のせいかと言えば真言を聞いただけで南都に向かって飛び出した臆病者のせい。
いや。
――皆、暴れる理由がほしかっただけなのではないか。
折角だから普段できないことを思いきりやりたい。
これまで我慢してきたこと、全部。
世界のたがが外れた。
多分、自分も。
元に戻れそうな気がしない。
「京の安寧は薄ら氷の如しね」
少し燃え上がっただけでもう全て融けて落ちる。
何だか全て、靄がかかって夢のようだった。現実と思えない。
「こうなると主上がおいたわしい。叡山の第二陣に狙われているのは主上なのに朝廷側は誰も彼もがもう退場した賢木中将を担ぎ上げて。洛外の悪僧ばらが主上を直接狙うかもしれないのに」
靖晶が頭を抱えるのがいっそ他人ごとのようにおかしかった。
「清涼殿に囮でも置いて逃げ隠れしていればいいだけじゃないの? 火をかけられたら大変だろうけど内裏が炎上するようじゃ都のどこにいたって同じだわ。こんなときに邇仁さまだけ心配してられないわ」
「御諱を呼んではいけませんよ、預流さま」
――叱られた。
終いに、靖晶はその場にしゃがみ込んでしまった。彼も考えがまとまらないのだろう。こんなこと、陰陽師如きにどうにかなるはずもない。
――彼が案外早く立ち上がったのに少し驚いた。しかも、何やら決意したように眼光が鋭い。
「数を数えていたら肚が決まりました。――預流さま、ご協力ください」
「何を?」
「明空さまを叡山に引き渡します」
「え」
「言いにくかったんだけどうちにいるんです。精神不安定でとても世間に出せる状況じゃなかったから隠していたけど、もう自然回復を待っている場合じゃないです。本当はどうするかも相談しに来たんですけど、今、決めました」
――何それ。
喜ばしいことのはずなのに、少しも心が浮き立たない。
――そんな大事なことをよくも今まで隠して、と怒りがこみ上げる感じでもない。
心が揺らいで立っていられないときに地面までなくなったような。
「あなたの顔を見たら治るでしょう。強引でも何でも治ってもらわなければ」
彼は一人でうなずいて。
「あの方に都を救ってもらうしかない。叡山が引っ込んで詫びの一つも入れれば皆、大義名分を失う。被害を最小限に抑えるにはそれしかないです」
「……そんなの、明空が一人で詫びを入れたくらいでどうにかなるの?」
「どうにかしていただくしか」
「わたしの顔を見ても治らなかったら?」
「それもどうにかしていただくしか」
そんなことを言われても。
「主上はどうにかなるとおっしゃったがこんなもの、どうにもならない」
深刻な顔をしているが、彼も何を言っているのか――実のところ大混乱しているのではないのか。
それはそうか。
明日、世界は終わるのだ。
文字通りの末法濁乱の世が始まる。
釈尊が入滅してから長い時間が経つと御仏の教えは形式ばかりのものになって誰もその心を解さなくなり、世の中は悪に踏みにじられる。
賢い人が予言した通りになった。
「うちと言うが、やつがれは安倍の邸になんぞ行かんぞ。用がない」
つまらなそうに由西が言い、靖晶は気まずそうに少し頭を下げた。
「何か……すいません」
「尼御前。行くならちと話を聞いてからにしろ」
「あ、気まずい話でしたらぼく、そこの角を曲がったところで待ってますので」
預流は行くとは一言も言っていないのに、靖晶はさっさと決めつけて築地塀の向こうへ駆け去った。
「高貴の女人に何か気がかりなことでも?」
「ではない。尼御前は、ええと、何と言ったか。――不悪口不両舌?」
「――この大変なときにわたしだけが目を閉じて耳を塞ぐわけにいかないわね。何」
「邇仁がおいたわしいだと、たわごとを! どこがだ!」
いきなり声を荒らげた。
――諱を呼ぶなと言われたばかりなのに吐き捨てるのだから。
そういえばこの人は呪詛木簡を書いた人だろうか。だとすれば自分が一番恨んでいる人よりも邇仁の名を書いたと。
「元はといえばやつが僧綱を気分で罷免したのが発端だというのに、何も損をしておらん! 藤原同士が揉めて喰らい合い、誰か失脚したとして、邇仁を退位させるわけにはいかんだろうよ。東宮は関白の血が濃いから関白一派がコケたら共倒れで悪くすれば廃太子。次がおらん。内大臣の姫が邇仁に入内するだけだ。それとも左大臣の姫か」
胸が痛む。
――二瀬の母は入内話が潰れたと言うが、子宝のない邇仁には処女よりも経産婦の方が相応しいということになりはしないか。
この際、気に入りなら後家の尼でもいいと言い出すくらい切羽詰まっているそうだから。
「先ほどの話、内裏の滝口の陣は数に入れておらんぞ。安倍の小僧、邇仁の護衛が何人いるか知っておろうに。――悪僧ばらが恐ろしいとして、滝口の陣を前に出して清涼殿より奥や離宮に引っ込んでおればよい。尼御前の言う通りだ。十やそこらの餓鬼が二人も指揮官として矢の飛び交う戦場に引っ張り出され、民草は掠奪を受けるやもしれんというのに、二十一の邇仁はぬけぬけと一番安全なところにいる! それをおいたわしいとほざいた、誑かされたものだな!」
――お飾りの指揮官のうち一人は茜さす斎院の長子。彼は彼で思うところあるのだろう。
斎院は第一陣襲来の間、ずっと娘たちと抱き合って震えていた。小さくぶつぶつと賢木中将の名を呼んでいたが――
今思えば半分はそこにいない息子の名前だったのかもしれない。
「臣と坊主が勝手に揉めるだけの話、心胆を寒からしめるどころではない。かえって風通しがよくなるのではないか。何もかも終わってから〝遺憾である〟とか言えば鶴の一声で騒ぎが収まったように見えるのではないか。偉そうに自分の手柄にするだけだ」
由西は大きく舌打ちした。
「肚が決まっただと。良彰の陰に隠れるばかりが取り柄の洟垂れの安倍の小僧めが、生意気にも世の中の役に立つつもりでいるぞ。邇仁に声をかけられたか、名を憶えてもらったか。鬼道を披露して晴明公の再来と呼んでもらうか。舞い上がりおって、気色の悪い。卑屈なくせに驕ったところは相変わらずだ!」
「ひどい罵詈雑言ね、功徳がない」
さっき話しながら思いついた悪口を頑張って我慢して、今まとめて言っているのだろうか。面白い。
「――でもそう思うわ。あの人が悲愴な覚悟するとろくなことがないのよね。知ってる」
「巻き込まれて引きずられるなよ、尼御前。やつがれはもう守るものなど一つしかない。他のものなど手に余る。こんなときだ。欲張るなよ。大事なものだけ抱えていろ。それすら守りきれるかわからん」
――彼だって別に中立などではなく顔を見たこともない茜さす斎院に絆されているくせに、偉そうに。
「言われるまでもないわ。わたしを誰だと思っているの。いずれ菩薩となるわたしは何も間違えないのよ」
嘘だ。
もう全部間違えた後だ。
ただのつまらない女。何にもなれはしない。
さっきの匕首を彼に差し出した。
「これ、返すわ」
「尼御前が持っておけ。必要になるかもしれん」
「刃物なんかかえってためらっちゃう。石でも握ってぶん殴る方が早いわ」
預流は無理に笑ってみせた。何だかこの先は、笑顔を作れそうもないから。




