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巻の十 薄ら氷の如し・前編

 全てのドミノが倒れ、歴史の新たな景色が確定した。

 陰陽師が未来を読み取る。

 今とは違う神仏混淆の神の存在する時代。

 歴史の分岐点、救済の奇蹟を求める人の手によって神威仏罰入り乱れる平安ハルマゲドン、ウォークラフトステージが開放される。

 誰もこれまで通りではいられない。

 ――一人が、護衛の武士を突き飛ばして預流に手を伸ばした。避けようとしたが数珠ごと左手を掴まれてしまった。


「気に入った、酌をせよ。戦勝祈願の宴でもてなせ」

「そうだ、酒と寝床だ。お前も一緒に」

「ずるいぞ、早い者勝ちか」


 ――もう我慢ならない。

 助平男には結局これだ。丁度下駄を履いている。

 預流はシンプルに、ためらいなく、相手の股間を蹴り上げた。狙いを外すのだけ心配だったが、どうやら当たったらしく呻き声を上げ、預流から手を離して薙刀の柄にすがってへたり込み、悶絶し始めた。

 ――賢木中将にひどい目に遭わされたおかげで迷う心を捨てることができた! こういう場面でためらうのは慈悲ではなく優柔不断! 攻撃は最大の防御、そして初撃に全力を載せる! 一発で殺すつもりで打つ、覚悟があれば工夫などいらない! 結果的にあいつは預流を強くした。見ていますか師匠! おかげさまで容赦のない女に育ちました!


「な、何をする!」


 本人は動けない。隣のやつが露骨に怯んだ。よし。


「神聖なお袈裟を何だと思っているの!? 礼儀を重んじない信仰とは何よ! 礼儀なくして三宝はならず! わたしがあなたたちに真の仏道を教えてあげるわ、わたしを敬え!」


 数珠を握って啖呵を切ると、なぜか悪僧のみならず門番の武士にも怯えたような目で見られた。――あなたたち、味方なんだからそこは「そうだ! 預流さまこそ菩薩になられるお方、間違いはない!」とか唱和するべきでは? 何でドン引きするの?


「何だこの女は、貴族の姫ではないのか?」

羅刹(らせつ)か?」


 ひそひそと悪僧ばらが失礼なことをささやいていると。

 がつんと、石が当たる音。

 武士たちが門の外を見た。荒法師たちを見据えるのではなく。


「尼御前さまをお守りするのだ!」


 更に遠くから声がして。

 荒法師がもう一人膝を折った。武士たちが木の盾をかまえて縮こまる。


「預流さま、身を屈めてください。石礫(いしつぶて)です」


 と言われたので預流も盾の陰に身を寄せた。

 こつこつ石が当たる音がして、残った荒法師たちがどよめいた。


「おい、敵は叡山横川の山法師ではないのか、こんな連中と戦いに来たのではないぞ」

「仕方ない、よそへ行くぞ。貴族の邸は他にもある」

「多分ここよりマシだ」


 彼らは舌打ちしてそそくさと門の前から離れていく――が、武士たちは一層盾をかまえた。荒法師たちと入れ替わりに、お風呂にあまり入らない人たちが来たらしい。皆、鼻をつまんだ。

 預流は恐る恐る、盾から顔を出す。

 そこにいたのは申しわけ程度の布の烏帽子を頭に載せているみすぼらしい麻の衣を着た一団だったが、


「大事ないですか、尼御前さま」


 話しかける言葉が先ほどの荒法師たちより礼儀を弁えているので、盾をよけさせて外に出てみた。


「ええと、あなたたちは……」

「いつぞや鴨川で粥を恵んでいただきました。洛中に荒法師が出て不穏と聞き、男だけでも集まって駆けつけた次第です。尼御前さまをお守りしようと」


 皆、預流に頭を下げた。十人、二十人ほどいる――


「まあ、情けは人のためならず、わたしの功徳がやっと実を結んだのね!」


 預流は最終回らしい展開に涙ぐんだ。まだあと三回残ってるのに。――これ、こういうの! ラブコメよりも、ヒロイック! 次は源大納言夫人と姫たちが駆けつけてこい!

 思わず目頭を押さえたとき。

 誰かの腹がぐーっと鳴った。一人が鳴らすと、不思議と二人、三人と続く。


「……皆、お粥、食べる?」

「そんなつもりで来たのでは!」


 ……いや、うん。功徳には代価を伴うのだ。


「腹が減っては戦はできないしあの荒法師どもに食べさせるよりマシだし……」


 急遽、宮邸の雑色も稚児も尼も総出で米倉を開けて(かし)き所の全ての釜で粥を炊くことになった。……臨時出費が馬鹿にならないがケチっても仕方ない。

 それで邸の前で鉢に粥を入れて木の匙を添えて配っていたら。


「面白い女だな」


 ラブコメみたいな言葉に顔を上げたら、由西だった。しっかり粥を受け取ってかき込んでいる。


「その台詞、あなたが言うの……何しに来たの」

「洛中に荒法師がうろついて不穏であるから様子を見に。まさか自前の武装勢力を持っているとはなかなか堂に入った宗教の教祖であったな」

「人聞きの悪いこと言わないでよ、功徳のなせる(わざ)です」


 由西は行者姿だったが、僧形なので目をつけて気色ばむ人もいた。


「尼御前さま、この坊主は何です。荒法師の仲間では」

「この人は……悪い人じゃないらしいのよ、よくわかんないけど」


 本当、何なんだっけ? 密教と修験道の違いがうまく説明ができない。実際、そんなに違わないものらしい。預流がどう言ったものか悩んでいると、


「見ての通り、薙刀も刀も持っておらん。ただの占い師だ。うぬらと同じく尼御前の功徳に助けられ、馳せ参じた」


 由西が自分から名乗った。


「……わたしを利用している者、の間違いじゃないの? そんなにわたしのこと敬ってる?」

「敬ってほしいならそうしよう」


 彼は懐から何か出して預流に押しつけた。――白木の鞘に入った匕首だ。護身用だろうか。


「武器はそれだけだ、尼御前に預けよう。杖も渡すか?」

「あら平和主義者」

「こちらでモメたくはないのでな」

「見ての通り、こちらわたしを敬って助けたいんですって。僧は本来助け合うもの。皆、争ってはいけませんよ。このわたしが悪人に粥をふるまうわけがないでしょう」


 預流は今度こそ満面の営業スマイルで言い切り、由西の肩を叩いた。それで彼に文句をつけていた者は、ひとまず引き下がった。

 ――これは意外と真面目に斎院の件で感謝されているのだろうか。このおじさん、身近にいなかったタイプの男だ。感心してちょっと匕首を抜いて刃紋を見たりしていると。


「あ、受領の陰陽師さま」

「いつぞやはお世話に」


 人垣が割れて。

 ものすごく間の悪いときに、靖晶がばたばたと飛び出した。


「尼御前さま、大丈夫ですか!」


 それで由西と真正面から目が合って。


「……こちらでモメたくはないのでな」


 心なしかさっきより由西の声が低い。


「この辺じゃ信じられないほど落ち着いた大人だわ、行者どの。立派よ。事情わかんないけど靖晶さん、この人に土下座しておけば?」


 これで靖晶がしれっと「誰ですか、この人」とか言い出したら大いにこじれていたところだが、


「な……なぜこの人がここに……」


 ちゃんと目を白黒させて心当たりのある顔をしていたので幸いだ。


「ええっと、ざっくり言って〝わたしが弱みを握っている人〟。今日明日はわたしに親切にしてくれるって今言った」

「何ですか弱みって!」

「わたしが聞きたいわよ、結局この人誰なの? 〝謎の法師陰陽師・由西〟とか名乗ってるけど」


 間の抜けた会話だ。


「ええっと……」


 口ごもる靖晶の代わりに、由西本人が忌々しげに答える。


「〝何となく気まずい親戚〟だ。その程度だ」

「え、そうだったんですか」


 なぜか預流でなく靖晶が聞き返した。


「……ここに来たのが良彰であったなら尼御前への義理など吹っ飛んで素手で殴っていたかもしれんが、お前は別にいい」

「あ、そ、そうなんですか?」

「十年ぶりか? 十五やそこらの洟垂れの餓鬼のお前しか知らんのに、本気で喧嘩をするのも阿呆らしい」

「そ、そういうものですか……」

「お前こそ何をしに来た、まさか粥を食いに来たのか」

「まさか粥をふるまうのを止めに来たとか」

「冗談きっついなあ、もう」


 ――あのときと坊主が違う人なのを寂しく思うべきなのか。あれも別に楽しい思い出などではなかったはずなのだが。


「どこもかしこも大変なことになってるから心配して駆けつけたんですよ。貴族の邸に片っ端から荒法師が詰めかけてご飯や酒や寝床をたかってるって騒ぎになってて、尼御前さまが大変なのではと思ったらここだけ雰囲気違うの何で……」

「功徳のなせる業よ」


 言った後で預流は眉をひそめた。


「荒法師? あれ、よその家にも行ってるの?」

「はい、右大臣さまの邸に上がり込んで酒宴をしている連中もいて。それを聞きつけて立派な邸がどこもたかられて大変で」

「検非違使はどうしてるの? 昨日の騒ぎで全滅しちゃったわけでもないでしょう?」

「昨日ボロ負けに負けたばっかりで、今頑張って再編中なんです」

「そんなに死人や怪我人が出たの?」

「いえ、全然出なかったわけでもないですが、そうではなくて」


 靖晶は歯切れが悪かったが、


「動ける者は全員で嵯峨野(さがの)の竹林を端から伐って削って矢を作ってます。嵯峨野の竹林、無限にあるのかと思ってたけどこのままだとなくなりそうですね!」


 ヤケクソのように、諦めたように笑った。


「……昨日がアレだったからお坊さん相手に射られないのはわかってるんですけどねー、持つだけは持ってないと。昨日は全然射られなかったのを(矢筒)ごと叩き折られちゃったらしくて、矢尻は使えるから軸の部分だけ急いで作り直してるんです。矢尻は金属だから職人が作るけど他の部分は、工場とかないので使う人が自作するもので。地味に羽根が足りなくて大変みたいですよ、あれないと命中精度が全然違うんだって」

「そ、そうなんだ」

「叡山の第二陣が一日空けて今日来ないのも、向こうも竹林伐って矢を作ってるからでしょう」


 ――実働戦力の運用、結構大変だ。リアルにはボタンを押したら矢が補充されたり最少回数のホイミで完全回復したりするストレスフリーなゲームシステムなどない。


「検非違使は、昨日は二時間で集合とか急に言われても無理だった人もたくさんいたらしいです。改めて別当さまが(命令)を出して、(褒賞)が出ることになってたくさん集まったので、余計必死に矢を作って明日どう動くかも打ち合わせしてて、洛中の警邏(けいら)なんてしていられない状態で」

「たくさんって何人くらい?」

「三百人」

「え。そんなにいたの。昨日より多いじゃない」

「襲撃が朝で、雑に愛人の家なんかに転がり込んでてどこにいるのかわからず連絡がつかない人が大半で」


 平安通い婚文化にはこんな弊害があった! 賢木中将だけでなく下っ端もどこにいるかわからない!


「勿論シフト組んで不寝番して二十四時間待機してる人たちもいるんですけど、それじゃ全然足りなかったのが昨日です。半日かけて声かけて回覧板とか回したら意外と出てきました」

「回覧板って、雑なシステムね……」

「元々彼ら、役人じゃないので。検非違使子飼いのその辺のヤカラなので、呼んですぐ来ないって怒る筋合いはぼくらにないので」


 何せ都は平安なので武士も普段は平安に過ごしていないと。即戦力と呼ばれる人々は武士ですらなく、暴を求められていないときは他のことをしていなければならない。兵農分離は大分後、争いが絶えず戦力を常駐させなければならない時代の概念だ。平和になったらまた武術専門の人の居場所はなくなった。


「それに賢木中将の仇を討つんだって貴族が自分たちの邸の護衛の武士を集めて大部隊を作って、チームプレイのために話し合いしています。それが三百人。賢木中将ほどの大貴族があんな目に遭ったのは流石に皆、ショックだったんですね。京極の高級住宅街に瓦礫の山ができたのはインパクトありますよ。あれを見たら対策しないわけにいきません。――それで普段なら門番をしている人が留守で、余計に荒法師が詰めかけるのを追い返せなくて」

「叡山の第二陣が四百人――もう貴族が数で勝ってるじゃないの」


 預流はほっと胸を撫で下ろしたが、


「そんな簡単な話じゃないんですよね」


 靖晶はヤケクソですらないようで大きく息をついた。


「再編検非違使勢の指揮は、検非違使佐右衛門佐藤原幹忠(ふじわらのもとただ)さまです」

「十三歳の? そんなのできるわけないじゃないの」

「そこは大尉や少尉が補佐するので、ただのお飾りですが――貴族の護衛の連合軍の方は、左兵衛佐(さひょうえのすけ)藤原為成(ためなり)さま」

「誰? 藤原、山ほどいてわかんない」

「斎院腹の賢木中将のご嫡男、十一歳です」


 ――それで預流はよろめいた。人が見ていなければ腰を抜かすところだった。


「そんなのいたの!?」

「いました。権大納言(ごんだいなごん)家に聟入りしていて、そちらにいたおかげで第一陣襲来の難を逃れて」

「何で斎院さまの子なのに十一歳の姫君と同い年なの!? 双子!?」

「年子です」


 そういえば茜さす斎院は四人の子持ちのはずなのに、宮邸に来た子供たちは三人――一人、もう元服していたのだ! 平安は乳幼児の死亡率が高いから早くに死んだのかと思って気遣って確かめていなかった! 誕生日で歳を取る満年齢でなく正月に一斉に歳を取る数え年なのでこういうことがある!


「あいつも親馬鹿じゃないの!」

「まあそりゃそうですよ」


 ――茜さす斎院に気を遣って二瀬を土御門邸に預けた意味は何だったんだ! いや、だからこそ気遣うべきなのか? 預流、わかんない!


「武官でいらっしゃるし、賢木中将の仇を取るのは息子さんでないと。……死んだわけじゃないんだから本人がやれよと思いますけど」

「結構キツいわねあなた」

「だって平安マッポー都市で強訴にやられて泣き寝入りするとか甘えじゃないですか?」

「ここに来て初めて判明したけどあなたそんな解像度で生きてたの?」

「尼御前さまだってお坊さまブン殴るの得意じゃないですか」


 人聞きの悪いことを言わないでほしい、明空を殴るのが得意なだけだ。さっき蹴ったのは正当防衛だ。


「勿論十一歳で指揮を執るなんてできないから検非違使と同じように大人の補佐がつきます、下官もつくし左大将(さだいしょう)さまもサポートすると。左大将さまは左近衛府で賢木中将の直属の上司で、賢木中将の仇を討ちたいというのはそれなりに理に適っています。――が、この人は内大臣さまの派閥で。内大臣さまは関白さまとモメがちで、以前から賢木中将に私怨を抱いていて」


 それを聞いて。

 頭の中に思い浮かべていた二瀬の姿がくしゃりと歪んだ。


「同情しているふりをして、この機会に何やら仕掛けて足を(すく)うのではないかと」


 ――知っていた。そういう人だ。

 知っていた?

 何を?


「検非違使勢と貴族連合勢は同じく叡山を敵としていますが指揮系統が一本化できず、政治的なしがらみがあってチームワークが期待できません。元々、豪邸の護衛は十人二十人単位で動くようにしか訓練されてないから単品で武勇があっても三百人や六百人を動員する大規模戦術バトルには不向きだと思います」

「……烏合の衆」

「昨日は大義名分が足りなくて団結できなかったけど、今日明日は大義名分が多すぎてオーバーフローします。確固たる正義と信念と政治信条が溢れ返ってぶつかります」

「何も考えない方がマシだわ」


 純粋にそう思う。


「そこに更に関白さまの迷いが出て。――昨日の検非違使は悪僧とはいえ、お坊さん相手に尻込みして矢を射られませんでした。貴族の手下の武士はいくらやる気でも土壇場で怖じ気づくかもしれないと、数で勝っていても全然安心できないようで」


 靖晶のそれは相談というよりは愚痴だったようだ。


「陣定の結果、三井寺・石山の悪僧ばらを傭兵として借り受ける話になっています。悪僧同士なら仏罰を恐れて射つのをためらう、ということはないのではないかと。どうせあの人たち、いつも抗争してるし。――それが合計、三百人」

「九百人!? 多すぎるわ!」


 さしもの預流も頭から血の気が引いた。――統率の取れていない大人数が打って出たら、その動きだけで洛中に被害が出るのではないか?


「三井寺と石山にお使者を送ったのが昨日。今日になって検非違使と貴族連合勢で足りるからお前らはいらない、とか言い出すのも角が立つし、貴族連合勢が本当にお坊さんを射られるのかわからないのも事実。大規模戦術バトルだと護衛の武士より三井寺や石山の戦術・戦略概念のあるプロの方が強いでしょうし」

「じゃ今、洛中をうろついている悪僧ばらは、三井寺の」

「じゃないんですよね」


 靖晶は暗い顔で、額を押さえる。


「叡山の強訴勢第二陣が下りてくるのが明日の朝。三井寺は叡山より近くてひと時(二時間)で出てこられるから強訴勢が動き出すのを肉眼で確認して狼煙(のろし)を上げて、それを合図に出立してもらって。石山はふた時(四時間)かかるからちょっと早起きしてもらうけど、それでも今日来るなんて約束ではないんです。寺から直接、八瀬の決戦場に向かってもらって戦いが終わったら寺に戻り謝礼は後日という段取りで、どこに滞在するとかご飯の用意とか全然ないんですから」

「じゃあの人たちはどこから生えてきた何だって言うの。勝手に湧いてくるとでも?」

「三笠山と言っておったから南都興福寺(こうぶくじ)や東大寺の奈良法師なのだろうよ。嘘をつく理由もなかろう」


 黙って聞いていた由西がぼそりとつぶやいた。

 叡山の悪僧が山法師、興福寺や東大寺が奈良法師。駄洒落みたいに見えるが本当にそうなんだって。


「興福寺って、京から一日中歩くわよ」


 確か昔、預流が飛鳥の寺に行ったときは一日中牛車に乗っていた。牛車は基本、山ほどついてくるお伴の歩く速度に合わせて、急がず優雅に進む。時速四~五キロメートル?

 預流は絶対嘘だと思ったが、靖晶は沈んだ声で肯定した。


「――軽く聞き込みして勘定しましたが、南都興福寺で三百人います」

「聞き込みって」

「やって来たのを邸に入れたのはいいが本物かどうかと右大臣さまに相談されたので、戦勝祈願のまじないをするとか声をかけて、名前と歳とどこから何人くらい来たのか聞き出して、祭文(さいもん)読んで幣帛(みてぐら)振ってきました」

「南都、遠いのよ!?」


 由西が慌てず、指を折る。


「叡山はのんびり歩いてふた時と半(五時間)、馬なら単騎駆けで全力疾走したとして二刻(三十分)か。三笠山は徒歩よつ時(八時間)、馬半時(一時間)

※当時の標準的な日本馬、木曽馬の速度を時速四十キロメートルとした場合。

「あっやっぱり陰陽師育ちはスゴイ」

「良彰が言うほどアホじゃないんだよな……」


 それとも、タダメシを食うために叡山まで行くくらいだから歩き慣れているのだろうか。あらゆる寺への道順が身体に叩き込まれているのだろうか。


「南都から京、夜を徹して朝から晩まで歩けばたどり着く」

「荒法師は重たい武装をして、三百人も固まって歩いてきたのだから急いでもそう早くないです。足の速い人だけ二十人とか来ても仕方ないので、遅い人に合わせて八時間から九時間、きっちりかかります。馬に乗ってきた人はいません。馬は人間より兵糧を喰うし、かさばるから隠せません」


 靖晶が冷静に反論した。


「ええと、陣定と官奏が終わって三井寺と石山に傭兵を借りるお使者を送るという話になったのが昨日の申一刻(午後三時)だから、(おおやけ)のお使者が南都まで馬を飛ばしたとして着くのが申三刻(午後四時)から酉一刻(午後五時)。日暮れの頃。――日が落ちるのが早いからもう暗い頃です」

「暗い中で武具を身に着けて飛び出して一晩中寝ずに歩く? 朝廷の命令とはいえ?」

「しかもそんな命令は出ていない」

「じゃあ南都じゃないんじゃないの?」


 預流にはとても信じられない。


「その辺のヤカラが、直々のご命令で暴れてタダメシが食べられると思って集まったんじゃないの? 今、坊主がトレンドだからって半グレ集団が頭剃って墨染め着てイキってるんじゃないの? 世が荒れると偽僧侶が横行するものよ」

「平安京が優雅な王朝絵巻のイメージとほど遠い末法暴力都市でも、流石に所属不明の半グレ集団が一日で三百人も湧いて出てきたりしませんよ。検非違使の方にもう三百人出てきた後なのに。そんな大規模な無法者の団体がいたら検非違使の下っ端も、この人たちも見知ってます。ぼくらから見えないことはあってもこの人たちからは隠れられません」


 靖晶は、まだ粥を食べている人々を手で示した。


「謎の三百人は今朝方、伏見の方から現れて。大半が清水寺で高いびきをかいて寝ていて。――今、洛中にいるのは清水の伽藍に入りきらなかった分とか」

「清水!?」


 それで預流はめまいがした。否定してほしかったが由西もうなずいた。


「大織冠と言っておった。摂関家の祖・鎌足(かまたり)不比等(ふひと)が建てた南都興福寺は藤原氏の氏寺(うじでら)


 歴史上、大織冠なる官位を授かったのは藤原鎌足一人だけ。藤原氏に敬意を示すときにだけ使う言葉。


「上っ面だけのその辺のごろつきの語彙ではなかろう。多少辺鄙(へんぴ)でも藤原の氏寺だから莫大な寺領を持つのを許されて、三百人も悪僧を抱えて平然としていられる」


 それに。

 興福寺と清水寺はどちらも南都六宗が一つ、法相宗(ほっそうしゅう)――いきなり来て入れてやるのは見知った仲間がいたのだろう。いきなり、ではなく密かに馬を飛ばして連絡していたかもしれない。都の誰を騙せても清水寺は騙せない。

 しかも。


「尼御前は聞かなかったか。叡山の非道の行いに対し、春日(かすが)の神木を興福寺に動かして抗議しているとも言っていた」

「……春日のご神木って」

「偽僧侶などではない。本物の南都の悪僧ばら、衆徒(興福寺大衆)だ。坊主も、()()()()()()()()()()()()()()()。偽物が雑な嘘をついているならいずれ本物が神威を示しに来る」

「南都北嶺が都で激突!?」


 南都北嶺とは京の都から見て最もタチの悪い二大武闘派寺社――南側代表は興福寺、北側は比叡山延暦寺という意味。

 春日のご神木は春日大社の神鏡を榊の枝にかけたものでそんなに大きくはないが、春日大社から出ることで神意を表す。――つまり、コックリさんを自分で無理矢理動かして「恐ろしい、天罰があるぞ」とか脅して、相手が聞かなかったら本当に殴りに来る。南都北嶺の神威とは結局、物理暴力。


「さ、賢木中将本人も反撃に出たってわけ。明空が北嶺大衆を動かすなら南都衆徒で対抗するって」

「……そんなことできませんよ、あの人には無理です。預流さまも見たでしょう、まだあのままです。十一の子の方がやる気があるくらい。――八岐大蛇は、死体も使い道があるというだけのことですよ」


 なぜか靖晶は悲しそうだった。


「賢木中将が被害者で南都衆徒が本物なら()()()()()()()()()()()()()()()

「……何にせよ瞬間移動でもしなきゃ無理じゃないの。早すぎるわ、どうやって」

「神威が因果を超えたのかもしれませんよ」


 靖晶は神も仏も信じていないはずだが。


「昨日、強訴勢の第一陣がお経を唱えているのが大内裏まで聞こえました」

「不動明王の真言ね。明空ファンクラブがリスペクトして唱えてたんだろうけど、本来は心が不動であること、迷いを取り除き障害を退け、願いを成就していただくために唱えるの。戦勝祈願もあるんだっけ」

「メチャメチャ怖かったですね」

「叡山も人数が増えるほどに有象無象が混じって一枚岩ではないが、ああいうことをするとド素人も一致団結したような気になれるものだ。横川は手練れ揃いだけあって要領がいい」

「それにやっぱり単純に、ああいう演出をされると本当に神さまがいるような気になる。神威におののきひれ伏したくなる」


 北嶺の神は本来、山王権現(さんのうごんげん)――山岳の蛇神、大物主神(おおものぬしのかみ)と鬼門を守護する猿とを伝教大師最澄がお祀りした。寺社で祀る神仏が一柱ということはないので不動明王も祀られ、参道を守る雲母寺の本尊も不動明王だが――


「あの真言が怖すぎて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あるいは真言を唱え始めるより前、二百の強訴勢に対し検非違使の手勢が少なすぎるとビビりちらした――検非違使の人数が何人か把握していた人はあまりいないだろうから、やはり真言が決め手でしょうね。賢木中将の邸は高級住宅街のド真ん中、他にも貴族の皆さまがたくさん住んでいらっしゃる。そこにあれが響いたんだから、邸に籠もって山法師を目にしていない人でも()()()()()()()()()()んだから、誰か怖くなって南都に使いを出したんじゃないですか。叡山が(北東)から来たから反射的に南へ」


 南都は勿論、春日大社、春日大明神。国津神を打ち破って豊葦原(とよあしはら)中国(なかつくに)平定(へいてい)した最古の武神、白い神鹿(しんろく)にまたがった建御雷神(たけみかづちのかみ)。藤の紋を背負った藤原の氏神。


「陣定、官奏が終わった後の勅使への反応なら甲冑を着るのは夕方になるが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――やって来た奈良法師は、明日の第二陣のためじゃなくて第一陣に間に合わなかった――」


 日吉山王の神輿が北嶺から下りて北東から都に迫るならば、藤原の貴族がすがる神は南都春日におわす――


「三百人って第二陣四百人に対抗するためではなく、第一陣二百人に合わせた数なの?」

「言ってみればカウンター。北嶺大衆蜂起の反動。――彼らは今頃、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。京の都で騒ぎが起きたら藤原氏の誰かが巻き込まれるのに決まっている、そう決めつけて出てきただけだから。敵が叡山で、久しぶりに助けを求められたから張り切って。藤原さん、山ほどいますからね」

「僧綱罷免の責任者は左大臣? 右大臣? 関白? 全員藤原だ」


 何せ預流も出家の身とはいえ、家は藤原だ。

 摂関家だけでなく、落ちぶれた傍系も山ほどあるので下臈にも藤原はたくさんいる。


「中将の邸が打ち壊されて、思ったより被害がひどくて彼らにとっては喜ばしい。これなら頼りにされるとはしゃいだでしょう」

「功徳のかけらもない」

「でも頼られたくて飛び出してきたんでしょう。実際それで右大臣さまは奈良法師を歓迎してお邸に入れて酒を出して機嫌を取って」


 さっきの荒法師が助けを乞えと言っていたのは脅すつもりではなく、本当に助けに来たから?


「――いもしない明空さまを神輿に担いで強訴ができるなら、賢木中将だって神輿になるというだけの話。本当は誰だっていいし本人が何を考えているかなんてどうでもいいんだ」


 靖晶が苦々しげに吐き捨てた。由西は面倒くさそうに頭を掻いている。


「他にも噂はあるぞ。向かいの興福寺が慌てて飛び出したのを見て、これから東大寺から更に三百人来るという」

「ほ、本当に? 東大寺にそんな義理ないわよ?」

「吉野や高野から更に六百人」

「九割デマですね、どこで聞いたんですか」


 預流は震えたが靖晶が斬って捨てた。


「魔法のように興福寺の南都衆徒が現れたせいで流言飛語が飛び出したんですよ。ソースを示せますか。今から東大寺が恩を売りに出てきても遅いし、流石に吉野や高野山は寝ずに歩いても明日に間に合いません。遠すぎる。昨日の朝の早馬が吉野や高野山まで飛んでいったとして、彼らが都の騒乱にかかわる理由はないし着いた頃にはもう終わっているとまともな人なら判断する」

「まともじゃない人なら?」

「興福寺のように藤原を助ける大義名分もないのに勅使でもない慌て者の知らせを真に受けて、百も二百も手勢を引き連れて一泊や二泊野宿して進軍、上洛するような狂人がこの世にいないことを願うばかりです。人の理性を信じたいですね」


 馬鹿にしたような口調だった。


「……結局今何人?」

「検非違使が三百人、貴族連合が三百人、三井寺・石山が三百人、南都衆徒が三百人」

「叡山四百人に千二百人……烏合の衆にしたってオーバーキルだわ。叡山は負けるために下りてくるようなものじゃないの」


 預流は寒気を感じ始めた。


「そこまで人数に差があるなら交渉で解決できないの? ぶつかるまでもなくやるだけ無駄とかそういう路線で説得できない? 明空のために玉砕したいわけでもないでしょう? 以玄は過激な明空ファンクラブなのかもしれないけど、四百人全員が同じテンションで特攻してくるわけじゃ」

「叡山の指揮官か。今頃、大僧都ともども朝廷の阿呆なのを指さして高笑いして酒でも飲んでいるだろうよ。やるだけ無駄などとんでもない、ここでやらねば男がすたると言うもの」


 今度は由西がためらわず断言した。


「それとも思った以上に阿呆で呆れておるかもな。三井寺や石山を殴れればいいくらいに思っていただろうに、朝廷の足許が崩れれば関白などの失脚もありえるのか? ()()()()()と怯えている可能性はあるな、朝廷あっての叡山だろう。肝心の朝廷をぶち壊してしまったのでは僧綱も何もない。しかしやらぬわけにもいくまい。面目がある」


 叡山でタダメシを食って預流のふるまう粥も平然と食って、ついでに賀茂斎院に想いを寄せる由西は多分神威にも仏罰にも興味がない、それが。


「明日、不動明王の真言で天地がひっくり返るのだ」


 難しい顔でそう言った。


「勝ちすぎるって? 勝って怯えるって何」

「叡山の第二陣が本当に四百人と思うのか?」

「わたしたちを油断させる嘘予告だったって? 八百人まで出てこれるのを半分とごまかしたとか?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

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