巻の一 止まった時間が流れ出す
「――初瀬さま?」
絶体絶命の危機に預流が見たのは死んだはずの夫の幻――
かと思いきや。
「すいません、うちの父が無礼なことを!」
突如、少年は角盥を放り出し、床に手をついてひれ伏した。
「立派なお袈裟を着て数珠もお持ちの尼御前さまを穢すなど言語道断。子として父に罪を犯させるわけにはいきません。どうか地獄行きだけはご容赦を。父には孝養を尽くさねばなりません」
何やら子供らしからぬ口上を長々と述べるが、預流は返事もできず硬直していた。――父親?
もしかして、この殴られてぐったりしている男? 恐る恐る身体をのけて距離を取る。その間も少年の話は続いている。
「申しわけありません、父の命令でこちらのお邸を探っておりました。――昼間、ぼくをご覧になって失神なさいましたよね。驚かせてしまって。そんなつもりはなかったのですが名乗り出るわけにもいかず、そうしているうちに陰陽師の方が仰々しい呪文を唱えてまじないを始めて、あちらにも申しわけなくて」
早口で言うものだからなかなかこちらから質問ができない。
「ええと。まさか、賢木中将の、お子さん?」
「……身の証など何もなく、外聞の悪い子です。本当はそのように名乗ってはいけないのです。従者の子ということになっていて」
少年は顔を上げ、はにかんだ。
「あ、あなた何歳」
「十一です」
「もうこんなしっかりした口を利く子がいる歳なの、この人!」
――二十一の処女にはピンと来なかったが平安時代にはこんなことがある! 言われて見直しても賢木中将には全然似ていない、ますます初瀬に似て見える。なぜだ。丸い目の形がなぞったようにそっくりだ。
「……ちょっと待ってよ、十一って」
「元服していてしかるべき歳ですが許しが出ないのです」
初瀬は預流と同い年なのでこの子が産まれたとき、十歳。初瀬に不貞があったとは思えない。平安なら普通に兄弟の年齢差。いやそうじゃなく。
茜さす斎院の長女が十一歳。
――同い年、気まずい! もしかしてこの子の存在、斎院に知られたらヤバいやつ!?
「え、どうして初瀬さまにそっくりなの」
「ハツセサマ? わかりません、ぼくは自分のことは。母の名も知りませんし」
次々いろいろなことが起きて預流はひたすらパニックになるばかりだったが。
「それより早くお逃げになるなりした方が。こんなことになっているのを父の従者に見つかったら大変です。父が気づくかもしれませんし、二度も殴りつけるのは気が引けます」
少年は冷静だった。そこに。
「預流さまー! 大事ないですか!」
ばたばたと軽い足音を立てて沙羅も戻ってきた。出ていったときと同じテンションで、水干に乱れたところは少しもなかった。
「あ。チュージョーだ。やっぱりこいつの陰謀だったんですね」
「さ、沙羅、平気なの」
「ええ! わからず屋の男どもに絡まれたんで千切っては投げ千切っては投げ、大活躍ですよ! 久しぶりに息が上がっちまって」
大きく手を振って語っていたが、ふと少年に目を留めた。
「こいつは何ですか。どうしますか」
「この子は味方なのよ。……あなた、わたしを逃がして大丈夫なの」
「父のこういうところが大嫌いだしこれ以上ぼくのような子を作ってはいけないと思います」
「し、しっかりしたお子さんで……」
なぜかこの少年が出てきて以降、預流は自分のペースを取り戻せない。
「ハイスペックなわりにいいところのないクズ男に、よりによってどうしてこんなできた子が! 完璧な悪になるために切り捨てた善の半身とかなの!?」
「ぼくはどうせ表に出られない子、これ以上扱いが悪くなることもないです。お気になさらず」
きっぱり言い放ち、少年は少し寂しげに笑った。
「寺に入って坊主になれとでも言われるだけです」
「……いずれ坊主になるならうちで引き取るしかないわね!」
やっと預流は自分のテリトリーに戻ってこられそうなキーワードを見つけた。
「あなた、そこでひどい目に遭っているのなら一緒においでなさい。稚児はいくらいてもいいのよ、この子も拾った子なの」
立ち上がり、沙羅の肩に手を置く。
「他に就職先がないなんて理由で出家しちゃいけないわ。ちゃんと勉強しないと。どのみち寺に行くにしてもわたしが仏道を教えて、いいところを見繕ってあげるから」
預流は微笑み、沙羅と二人、歩き出した。――少年は少しためらった様子だが、ついて来た。こちらを心配してくれているのかもしれない。
「あなた、名前は?」
「……尼御前さまが呼びたいようにお呼びください」
「じゃあ、二瀬とかどうかしら。わたしにとっては大切な名前よ。子供にそうつけたかったわ」
――こうして新たな仲間が加わった。
それはいいとして。
「預流さま、ここを出ていくってどうしますか。牛車動かそうにも伴はチュージョーの手下に追い払われちまってますよ」
「先に足を封じるとは無駄に知恵の回る……仕方ない、草履履いて歩きましょう。どうせいつも歩いてるんだし」
「具合が悪いんじゃ」
「病気でも物の怪でもなくて、二瀬の顔を見たらびっくりしすぎただけだから。もう一人現れたらまた気を失うかもしれないけど」
「流石にぼくのような顔は一人しか」
「原因がわかったら姫君ぶって牛車なんか乗ってられないわ。ここどこ?」
沙羅に松明を持たせ、三人であばら屋を出て歩き出した。月明かりの下、夜遅くに稚児二人を連れて歩いている尼。人が見たら物の怪と思うことだろう。
「靖晶さんには悪いわねえ、入れ違いになっちゃって。でもここにいて賢木中将が目を醒ましたらややこしいし、ふん縛る縄も持っていないし」
口に出して、ふと思い出した。
――あれっ。そういえば靖晶が昼間言っていた。
賢木中将にそれはひどい目に遭わされた内大臣家の姫君って――初瀬の姉では。
初瀬は母親の身体が弱くて左大臣家で預かって、預流とよく遊んでいたと言うが。
本当のところ、姉姫が悪い男に誑かされて非常に体裁の悪いことになっていて若君の教育に悪いから遠ざけていたのでは!? 二瀬が生まれた頃、わたしたちが筒井筒で遊んでいたというのはものすごく重大な意味があるのでは!?
亡き夫と賢木中将、両方のDNAを併せ持つ悪夢の子! それは一目見て気絶するのも当然!
――いやそんな風に言っては二瀬が傷ついてしまう。預流にとって悪夢なだけで人間を断罪してはいけない。彼の存在自体は罪でも悪夢でもない。平常心、平常心。
――そういえば賢木中将は、預流好みの美少年がいるから沙羅と交換しようと――二瀬のことだったのだ。あの野郎。次はもっと強い武器を用意して迎え撃ってやる。そういえば独鈷杵は置いてきてしまった。あれはあれで役に立つのに――
ぐるぐる考えながら歩いていたら。
「……あのー、預流さま。道わかってます?」
「全然わかんないわね!」
――そもそも預流はあのあばら屋がどこの何だったか未だに知らなかった。
「そもそも、どこに向かおうとなさってたんですか?」
「宮さまの邸だから堀川だ。ええと、丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦」
「その歌に堀川通、入ってないじゃないの。そもそも平安京と違うと思うわよそれ」
三人でやいのやいの言っていると、松明の灯りが動くのが見えた。一人だ。
「誰か歩いてますよ。盗賊かも」
「単に夜歩きしてる人かもよ。世の中は通い婚なんだから真っ暗な中、歩いてる男君は結構いるものよ」
「まあどう考えてもぼくらの方が変ですよね」
一応声をひそめ、沙羅はいつでも動けるよう腰だめにかまえていたが。
松明を持つ人影が、預流たちを見て立ち止まった。
「もし、尼御前さま。その珍妙な……縁起のよい御装束、尼御前、預流の前さまでは」
「はい?」
「陰陽寮の者です」
三十半ばくらいだろうか。よくよく見れば、狩衣姿に見憶えがあるようなないような。
「安倍憲孝と申します。安倍播磨守の父の従兄弟で陰陽寮の小役人です。いつも惣領がお世話になっております」
と丁寧に頭を下げる。
「陰陽師の人。ここ、どこ?」
「土御門です。そちらが陰陽頭の邸です」
築地塀を指さされ、愕然とした。
「ぜ、全然堀川じゃなかった!」
「こんな夜中に托鉢もないでしょう、どうして歩いていらっしゃるのです」
「話せば長いけどたちの悪い男から逃げてきたのよ、あべこべよ。式部卿宮の邸への道、わかる?」
「まだ大分歩かねばなりませんね。一キロくらいです」
「後ちょっとなんだけど、それ」
「高貴の女人は足腰が弱いのでは? こんな夜半に女人が稚児しか連れずに道を歩くなど危ないですよ。後一キロで野犬や賊に遭ったらどうするのです」
ものすごく常識的な話をされ、うなだれるしかない。――悪いのは賢木中将なのになぜ自分がこんな罰ゲームのような。そもそもなぜ彼女はあばら屋などに身を隠す羽目になったのか。お前んちの惣領のせいも少しはあるんだぞ、と思っていたら。
「安倍の邸にお泊まりになっては。もう家人も寝ているでしょうから婢女の寝床くらいしか用意できないやもしれませんが、女人を歩かせるよりは」
「ありがたくお世話になります! 結果オーライ!」
――さくっと頭を切り替え、憲孝の提案に一も二もなく飛びついた。
「いいわよもう、野犬と賢木中将に出会わないなら渡殿の端でもどこでも。――親戚の人はどうしてこんな夜中に?」
「恥ずかしながら、夫婦喧嘩で追い出されておめおめ安倍の家に帰るところです。ですがここで尼御前さまに出会ったということは、あの女が急にわけのわからんことで怒り出したのは御仏の宿縁だったのですね」
「居直る理由にされるのも困るけど」
それで憲孝と一緒に土御門の邸に入ると。
使用人などは雑に廊下の端に寝かされたりするものだが、思いのほかちゃんとした部屋に通された。畳に茵に几帳、一通りの調度が揃っているようで広いのに埃っぽくなく、屋根や床に穴が空いているということもない。あのあばら屋で夜を過ごすよりずっとまともだった。
「あら、謙遜だったのかしら。受領マネー万歳! まともな寝床最高!」
「おれは預流さまと畳で寝るから二瀬は几帳の陰で寝ろ」
「は、はい」
こうして、預流の長い〝偽装結婚生活・第一夜〟が終わった。あまりに波瀾万丈の展開の連続で、これで本当にいいのか、疑う暇もなく畳に横になってすぐ眠りに落ちた。
……罠だったと気づいたのは、翌朝。いや、憲孝にそんなつもりはなかったのかもしれないが。彼は善意百パーセントだったのだろうが。
ぐっすり眠って、射し込む朝日の気配で晴れやかに清々しく目を醒ました預流。彼女が起き出すと沙羅も寝ぼけ眼をこすった。
「さて、手水なり何なり借りないと――」
伸びをしたところで、あまりに違和感がないのに違和感を抱いた――
夜中は暗いので気づかなかったが、几帳やら畳の端やら布の部分が全部青鈍色のモノクローム仕立ての尼仕様だった。
「……何これ」
いや、無論、式部卿宮の東の対では全部こういう風になっている――が、彼女の記憶ではここは土御門の陰陽師の邸では。なぜ陰陽師の邸に尼用の部屋があるのだろう。
夫を亡くした母が尼になって? いやそれなら母が挨拶に出てくるはずだし、そもそも靖晶の父は現役の陰陽頭で亡くなっていないのだが? 尼になった祖母? その尼になった祖母は預流に部屋を譲ってどこで寝た? どれもこれも新品なので大昔にそういう人が使っていたものを引っ張り出してきた、わけでもない。
……というか、ここ。
邸の真ん中の方では。寝殿造りは外ほど下座で内側が上座。庭が遠くて見えない、ここはかなりの上座。
更に、煌びやかではないなりに漆塗りの文机など置いてあって。
「……ねえ、この部屋、露骨に漢語の巻物とか置いてあるんだけど。装丁がエンタメ書籍じゃないんだけど」
「おっさんは婢女の寝床しか用意できないとか言って、邸で一番いい部屋に通してくれたんですね」
……邸で一番いい部屋がそんな簡単に空いているものか。
「これ、どう見ても留守中の惣領の寝室なんですけど!」
事実婚がまた一段階進んだ!
しかもそのうち、ばたばたと小さな足音がして。
「惣領の愛人が乗り込んできたって?」
「ウワナリウチって言うんだろ」
「バカ、後妻打ちってのは妻の方が愛人のとこに乗り込んでいくんだよ」
「ちげーよ妻が妻のところに乗り込んでいくんだよ」
衝立の陰から子供たちのささやきが聞こえてきて。いや、全然ささやきではない。メチャメチャ聞こえている時点で。
「あれ美人か? 変な格好。新手の白拍子か?」
「惣領、ムッツリスケベなだけじゃなくてゲテモノ趣味か」
「おっぱいは弥生の方がある」
「コイビトとアイジンとツマって何が違うの?」
「平安京じゃ恋人なんて何かをごまかした言葉だ、欺瞞だよ」
その後、さやさやと衣擦れの音がして。
「お前たち、下がりなさい」
落ち着いた女の声で子供たちがわっと散って、ばたばた走り去る気配が。
「修羅場だ! 修羅場だ!」
「シュラバってなにー」
不穏なキーワードを撒き散らして。
その後、現れたのは二十五、六くらいか。紅袴にあまり派手でない葡萄染めの小袿を何枚か重ねた落ち着いた女で。
「お目覚めですか、尼御前さま。お手水と朝粥などいかがですか」
「あ、ありがとうございます」
大貴族のお姫さまは意外と自宅ではゆるい格好で暮らしていて、側仕えの女房の方がきっちりと着飾っていたりする。――陰陽師は別に大貴族ではなく、これくらいの家では女房が着飾る余裕はないので服装で主なのか側仕えなのか見分けづらい!
彼女は、ふう、とため息をついた。
「珍しく邸に戻ってこないと思ったら、なぜか惣領の寝所に尼などがいる。どういうことなのかしらねえ。邸の女主人としてはっきりさせておかなければ」
女主人だった! 女房ではなかった!
「わ、わたしはその、道に迷っていたら偶然! こちらのお家の方が泊めてくださるとおっしゃるからお布施なのかと! 布施は疑わず受け取るのが功徳でございますから!」
――何でわたしが怒られてるの!? 何でこの家には尼を住まわせる仕度があるのに、女主人が把握してない感じなの!? わたし、ここに住まわされるの!? 聞いてない!
「そ、そちらは女主人でいらっしゃる」
「邸を継ぐのは女です」
彼女はぴしりと三つ指をつき、丁寧に頭を下げた。
「弥生と申します」