四十三 彼の成長
「残り二週〜」
火音の掛け声で月火と、月火に必死について行っている凪担はペースアップをした。
今は陸上部に混ざって練習している最中だ。
月火は余裕の澄まし顔だが凪担は目を見開き、今にも酸欠で倒れそうな顔をしている。
残り一周のところでいよいよ危険になってきたので休ませ、水分と酸素缶を吸わせた。
月火が朝の買い出しの時に念の為と言って買ったのだが、元々ここまで追い詰めるつもりだったらしい。
「大丈夫か」
「は……歯が……歯が……じんじん……」
「あー……うん。ちょっと休憩してろ」
分かるような分からないようなことを言われたのでとりあえず休憩させた。
しかし息が整ったらすぐに戻ってくる。
「無理しない方がいいですよ」
「大丈夫です」
「じゃあ妖輩は校庭を五週、タイムアタックな。他は見学しとけ〜」
月火は凪担を引きずって物凄く睨んでくる氷麗と凪担の間に立つと火音の掛け声で走り出した。
もちろんぶっちぎりの一位。
そして意外にも、氷麗と凪担の差がそんなに開かなかった。
一周遅れでもいい程度だと思っていたが素質はありそうだ。
「月火さん……早いですね……」
「普通ですよ。先生、体がなまってるので炎夏さん呼んでもいいですか」
「あいつ動けないだろ」
「じゃあ兄さん」
炎夏は大怪我で療養中のはずだ。たとえ走れたとしても知衣か綾奈が許さない。
火音に頷かれた月火が水月を呼ぶと火光までやってきた。
「兄ってそっちか」
「どっちも来ましたけど」
「走るんでしょ? 最近運動してなかったからね」
「僕は毎日走ってるけど」
火光は最近、生徒と一緒に走るようにしている。
特級が四人になったせいで任務が減ったので体を動かす機会が減ったのだ。
玄智と結月を引っ張って炎夏と競争することが多い。
「……じゃあ三週な」
「先に準備運動させてよ」
「断る」
「えぇ!?」
水月はぶつくさ言いながらもおとなしくレーンに立った。
言い出しっぺの月火は一番外側だ。
火音の声でいっせいに走り出し、抜かし抜かされの接戦を繰り広げ結果的に水月、月火、火光の順になった。
「負けた……」
「やっぱり兄さんには敵いませんねぇ。火光先生に勝てたので良しとします」
「わーい」
火光は地面に手を付き、月火はその上に座り、水月は前で喜んでいる。
「月火、退いて?」
「昨日の仕返しです」
立ち上がった月火が火光の手を払うと見事に潰れた。
「窒息しかけたんですからね」
「ごめんね?」
「いった……」
火光は皮のめくれた手をさすり、ジャージに付いた砂を払った。
妹が怖い。
「火光、前髪にも付いてる」
「うぇ……」
火光は雑に払うとまた整えた。
「あ、そうだ。火音先生、午後から用事が出来たので抜けていいですか。凪担さんは任せたので」
「了解」
それから陸上部の皆が筋トレやタイムアタックをする中、月火と凪担はずっとマラソンをしていた。
最速ではないが駆け足でもない、ずっと息が切れ続ける速さで二週走ったらペースアップ、という感じがいいらしい。
現役体育教師が言うのだからそうなのだろう。
月火が無心で走っていると火音の声が聞こえてきた。
「月火、凪担、昼休憩!」
「はーい」
月火はゆっくりと足を止めると凪担に声をかけた。
「一周歩いてから戻りましょう。いきなり立ち止まると苦しくなりますから」
「は……はい……」
火音が酸素缶を持ってきてくれたので凪担に吸わせる。
これは酸素缶常備になるかもしれない。
火音の座っている朝礼台に戻った二人は月火の作った弁当を食べる。
「久しぶりにまともに食べた気がする」
「事実ですからね」
絶食後にいきなり食べたら確実に太るので朝は水と味噌汁だけにしたのだ。
昼は野菜と卵焼きと少量のご飯になっている。
月火と凪担は南蛮チキンと野菜と卵焼きとご飯だ。
「久しぶりに手料理を食べた気がします」
「二人とも曖昧ですね……」
「あはは」
凪担が店より美味しいと言いながら弁当を食べる横で月火が遠い目をしていると、頭に懐かしくも二度と感じたくなかった感覚が伝わってきた。
「お久しぶりです氷麗さん。火音先生を満喫できましたか?」
「うっざ。二度と帰ってこなくてよかったのに」
凪担は驚いて立ち上がり、火音は空の弁当箱を片付ける。
月火にも頼まれたので月火のもついでに。
「あんた、私と火音先生の相性がいいって……」
「あぁその事です。言いたいことがあって」
月火は立ち上がると土が付いているであろう髪を適当に払った。
「火音先生が迷惑してるんですよね。たいして気に入られもしてない奴に染められて気持ち悪いと。貴方のただ強いだけの気色悪い色で染められて嬉しい人なんていないと思います」
「は……はぁ!? まともに料理も作らねぇお前に……!」
「海外にいてどうやって作れと!? 貴方が染めなければ火音さんが点滴する予定もなかったんですけど!?」
堪忍袋の緒が切れた月火が氷麗の胸ぐらを掴んで睨むと氷麗は息詰まった。
火音が点滴をしなくてもいいよう、知衣達に迷惑をかけなくてもいいよう栄養剤を作っていったのだ。
月火は進んで海外に行ったわけじゃないし本心は行きたくなかった。
それを生徒という立場上、上が言うことには従わなければならなかったから致し方なく取った苦肉の策だと言うのに。
氷麗が邪魔をしたのだ。
染められるのが分かっているからこそ、今までと態度を変えてベタベタと寄り付いた。
火音は染まるのに一ヶ月もかからなかったと言う。
ただでさえ染まりやすい体質なのに、本人がどれだけ嫌がっていたか。
月火もこうなるだろうとは思っていたので作る時になるべく黒葉に妖力を注いで、ほぼ妖力なしにしようとしながら作ったので四ヶ月程度で栄養剤の妖力が分からなくなるほどに薄くなった。
だがそれは氷麗が部活で接した時、あっても体育で接した時に徐々に染まり、ちょうど染まるのと妖力が薄くなるのが入れ替わりで、数日間は空いても問題なく食べ続けられるように計算した策だと言うのに。
必要以上に氷麗が接触したせいで火音が絶食する羽目になり、知衣にも頼る羽目になった。
全ての計画を総崩しにしたのは氷麗だ。
「お前のせいで迷惑かかってんのに他人に擦り付ける気か?」
「……で、でも……火音先生が私に頼らなかったのはあんたの束縛の……!」
「何が……」
「月火! 昼休憩終わり」
後ろに手を引かれ、朝礼台から落ちると火音に抱きとめられた。
「大丈夫か」
「こいつ嫌い」
「俺も」
「……もういいです。帰りまーす。……あ、凪担さん、怒らない限りはこうはならないので大丈夫ですよ〜」
月火は緩く手を振ると駆け足で寮に帰って行った。
「ひ、火音先生……」
「凪担、食べた直後で動けるか?」
「よ、横腹が……痛くなります……」
「誰もが通る道だ」
火音は氷麗を無視すると凪担とともに部員を集めた。
私服に着替えた月火が門を出て行くのを見送りながら凪担とともに走る。
とりあえず陸上部エースの走りを観察させ、前に記録と称して撮った月火の走りを見せた。
「……体の角度が違いますね。腕の振りも……」
観点がいい。
これは成長に期待出来そうだ。
火音は走りを説明しながら時々陸上部に声をかけ、また凪担に説明を繰り返す。
三時頃、髪が黒一色になった月火がジャージで戻ってきた。
どうやら染めに行っていたらしい。
上機嫌で笑っている。可愛い。
「凪担、戻るぞ」
「あ、は、……はい……!」
二人は校庭を一周走ってから歩いて月火の方に戻った。
「お疲れ様です。体力はどうですか」
「うーん……走り続けるだけなら……なんとか……?」
「体力はある方。後は呼吸の使い方とか体術優先だな」
「では明日は体術ですね」
呼吸に関しては動きながら覚えるのが一番だ。
月火は凪担は手を掴むと手のひらを観察する。
「あ、あの……?」
「……いや、明日は……」
「欲しいものがあるなら取ってきますよ?」
突然聞こえてきた声に肩を震わせ振り返ると水月と沙紗が立っていた。
この四ヶ月間で沙紗は気配を消すことを覚えたのでいつも驚かしてくる。
「で、では本家の倉庫から刃物を一式……」
「僕が案内しとくよ。明日の昼までかかるかも」
「お願いします」
月火は深くお辞儀をすると水月と沙紗を見送った。
「は、刃物……?」
「明日のお楽しみです」
月火は凪担肩に手を置き、軽く叩くと興味が尽きて部員と話している火音に声をかけ、一人職員室に向かった。
「失礼します」
「あ、月火! 僕!?」
「違います」
「どうぞ〜」
項垂れた火光の代わりに晦が許可してくれたので中に入り、明日の空き教室を探す。
特別教室や体育館、柔剣道場、プール、校庭はその月のホワイトボードカレンダーにどこの部が使うかを全て記載されている。
校庭は陸上部が、プールは水泳部が、美術室は美術室が、柔剣道場は柔道部と剣道部が占領している。
柔剣道場がいいと思っていたがこの際校庭で裸足でやろう。
月火は校庭が陸上部だけの日に頭文字の月を入れると三日間借りた。
足りなければ後で書き足せばいい。
「凪担の教育?」
「そうです」
寄ってきた火光はそれを覗き込む。
「校庭で何するの?」
「武器の練習を」
「僕も教えて!」
「嫌です」
火光が武器を持ったら確実に無双してしまう。
欠点のない人間などつまらない。
月火が即答すると火光は破顔した。
「なんで?」
「十分強いので。四肢のどれかが使用不可能になったら教えてあげます」
「わーい褒められた〜」
なんとも単純だ。
席に戻っていく火光を晦も綾奈も呆れた目で見ている。
月火が職員室で火光とともに凪担のことを話していると火音が帰ってきた。
「あれ、月火? 寮に戻ったんじゃ……」
「ずっとここにいましたよ?」
「……鍵渡してない」
どうやら凪担は既に帰ったらしい。
鍵、というかカード式だが、開けるものを持っていない。
月火は目を瞬くと急いで寮に帰った。
しかし寮の前には凪担はおらず、少し待っても来なかった。
これは確実に迷っているな。
月火は寮に入って荷物を置くと凪担探しの旅に出た。