四十二 少女の帰国
校庭に現れた特級怪異に対し、火音が目にも止まらぬ早さで間合いに入り中の人物と目が合った瞬間、どこからかさらに重い圧を受けて火音は刀を落とし、その特級は大きく何度も謝りながら消えた。
高い耳鳴りとともに、反射的に屋上を見上げた。
屋上には漆黒の髪先をメッシュでグレーに染め、ふわふわと巻いた白眼の少女がジャージ姿で立っていた。
どれほどその姿を望んだことか。
約四ヶ月と一週間。
一度も、写真や電話でさえ顔を見れていなかった。
「目を離した隙にまたやらかしてますね。あれだけ躾ろと言ったのに」
「ご、ごめんなさい……」
妖心に守られていた男の子、と言うか少年は少し俯くと両手を組んで小さく何かを言う。
「……なんか言ってます?」
「……気を、付けます……」
「あー怒ってるわけじゃないですよ。それの手網を引くのはそう簡単ではありませんから」
少女は屋上を飛び降りると男子の真横にいた突っ立っている火音の方に駆け寄った。
さすがに気持ち悪いと思うので寸前で足を止める。が、そんな気遣いも虚しくすぐに抱き着かれた。
「……おかえり、月火」
「ただいま。やつれましたね」
「仕方ない」
ここ四ヶ月、まともに食べていない。
二月末からは知衣に頼んで点滴の栄養剤を貰っていたぐらいだ。
「今日の夜は何がいいですか」
「なんでもいい」
「一番困りますねぇ」
月火から離れた火音は月火の頬を両手で包んだ。
得意そうに笑うその笑顔に癒される。
「……いつ帰ってきた?」
「今朝です。沙紗さんが運転してくれて」
「連絡くれたら迎えに行ったのに」
「驚かそうと思って」
月火が小さく笑っていると横から血まみれの兄ダブルが飛び付いてきた。
雰囲気と言うものを考えてほしい。
だから電話も全て無視、返信も最低限になってしまうのだ。
月火が兄に愛でられている間、火音は申し訳なさそうに身を引いている男子を見下ろした。
「名前は?」
「え? あ、えっ……と……な、ぎ……にな……で、す……」
「なぎにな?」
どういう漢字だろうか。
火音が軽く首を傾げるとなぎになはしゃがんで校庭に字を書いた。
「凪担てん……あつ……? のり……?」
「天忠です……」
「珍しい」
珍しい名前が前後で組み合わさっている。
「よく言われます。あ、貴方……は……」
「……こういう場合はなんて名乗ればいいのか……まぁ火音でも火緖でも好きに呼べ」
「ふ、二つ……?」
説明が面倒臭いのでとりあえず無視しておく。
「ひ、火音さん……ヘルプ……おも……!…………うぐぅ……」
「月火、お土産は?」
「せ、正門前の車の中! 行った国全部の!」
二人に押し潰されている月火が残りの息を振り絞って正門と真逆の方向を指すと二人は目を輝かせて指さされた方に走って行った。
馬鹿だ。
火音に手を借りて起き上がった月火が軽く土埃を払うと一度咳払いをした。
「えぇと、自己紹介は終わりましたね。凪担さん、こちらは学園で教師をやってる火音先生です。火音先生、来年から同じクラスになる凪担さんです」
「先生……!」
「転校生か。帰国子女……ギリシャ?」
純日本人の顔立ちだがギリシャ育ちなのだろうか。
火音が見下ろすと月火が軽く首を横に振った。
「シンガポールです」
「待って何ヶ国行った?」
各国の調査だと言っていたがいったいいくつ行ったのか。
すると月火は指折り数え始めた。
「えっと……韓国行って中国行って日本来て、ロシア、スロバキア、ノルウェー……で……ドイツ、フランス、ギリシャ、シンガポールで帰ってきました」
「日本!?」
「北海道ですよ。この子の残穢を追って各地を転々としてたんです」
今見てもらった通り、かなり厄介体質なので同じ地には留まっていられない。
なので各国を転々としている。
月火も早く帰りたかったので絞りに絞り込んで、残穢の濃い国を割り出したのだ。
その結果、無意識イタチごっこのようになってしまった。
月火が韓国に着いた時にちょうど中国に行ったそうで、中国に行ったら日本に一度帰国していたらしい。
ここの制御が難しくなってきて、少し触れただけで問題を起こしてしまうのでずっと世界をさまよっていた。
それを死ぬ気で追いかけていた月火が見つけたのだ。
「くまが酷い」
「コンシーラーで隠したんですけど……」
「帰って寝よう。時差ボケがあるだろ」
「ですねぇ……」
一日に二度の搭乗など当たり前になりかけていたので感覚が狂う前に戻ってきたかったのだ。
火音は月火の肩を抱くと凪担も呼んで三人で寮に戻った。
「久しぶりの我が家〜!」
「お邪魔します……」
月火は大喜びで中に入ると床に寝転がった。
火音がクッションを渡すと月火は嬉しそうにそれに抱き着く。
数十秒して満足したのか、いつも通り無表情で珈琲を淹れ始めた。
残念だが火音にはない、と思っていたが頼まれたのでそのまま淹れる。
「飲めますか?」
「何とかして戻りたいから」
「寝てる間にやっと来ます」
「頼んだ」
一番手っ取り早い方法は妖力を注ぐことだ。
共鳴で形も似ているのでそこまでの違和感はない。
「あ、あの……ここにいていいんですか……」
「寮が整うまではいいですよ。来年度からは一人寮が持てますから。増築されたのでIHですよ」
「IH……?」
月火も疲れているので今日は火音の傍の床に座る。
とりあえず増えた同居人として、火音の事情を大まかに話した。
氷麗のことや色のこと、共鳴のことはガッツリ省いて潔癖で他人の料理や触ったものが食べられない、使えないということだけ。
あとソファとクッションのことも忘れずに。
「部屋がもう余ってないので……」
「あ、いえ……! そこまでして頂かなくても……物もありませんし……」
「そうですか?」
元々、両親の遺産を生活費と移動費に回していたので物など買う余裕はなかった。
だいたい野宿だ。
月火が荷物置き場を考えていると凪担がおずおずと話し始めた。
「あ、あの……お、ふ、たりは……ど、どう言う……」
「教師と生徒。家主と居候。同居人。婚約者」
「こんっ……!?」
「珍しい話ではありませんよ」
月火が指輪を見せると凪担はハッとした。
月火は中指に付けていたそれを薬指に付けかえる。
また取られたら嫌なので中指にしていたのだ。
まさかこんな小娘が十万近い指輪をつけているとは思うまい。
「さてと……。ここからは来年度から転入するにあたって必要なことを話します」
月火が姿勢を整えると凪担もすぐに整えた。
飛行機内で一通り説明をしたがここからは内密の、一般人に知られたら確実に弱みを握られることを話す。
主に怪異の正体や縦の関係の力関係。
クラスメイトになる炎夏と玄智の立場と火音の立場、水月と火光の立場も。
「なんか……集まってますね……」
「そういうところですから」
「月火グループの社長さん……なるほど」
月火は立ち上がると火音と凪担から空のマグカップを受け取ってシンクに置いた。
「明日からは実技です。寝て時差ボケを治してください」
「はい……!」
倉庫から試作品一号を引っ張り出し、凪担に枕にさせるとブランケットもかけた。
眠たかったのかすぐに寝落ちる。
月火が火音の隣に座ると火音に膝に寝転がらされた。
「髪染めたんだ」
「最悪です。もう……」
「可愛いのに」
「母様にバレたらどうしよう……」
本来、月火は髪を切るな染めるなと言われていたのだ。
髪は神聖なものなので切らない方がご利益がある、と。
それでも前に任務で致し方なく染めた時は、何故断れなかったのかについて五時間ほど問い詰められた。
毛先が傷んだので一センチほど切れば何故手入れをしなかったのかと問われる。
母は好きで尊敬しているがあの不機嫌になったあとの空気は地獄なので必死に隠していたのに。
韓国に行った時、ダサいと言われて半無理矢理染められたのだ。
たった二日しかいなかったのに。いや二日もいなかったのに。
月火が髪を触っていると火音が髪を梳き始めた。
「綺麗だけどなぁ……雰囲気に合ってて好き」
「前とどっちが好きですか」
「どっちも好き。月火なら全部可愛い」
火音が嬉しそうに笑いながらそういうと月火は頬を膨らまして顔をそっぽ向けてから眠り始めた。
何時間ほど眠っただろうか。
目を覚ますと座ったまま眠っている火音の顔が目に映った。
スマホを探して時間を見ると深夜の三時だ。
夕食が作れなかった。
月火は頭に置かれていた火音の手に触れると少しずつ妖力を流し込んだ。
二月始めか半ば頃、月火の妖力が倍ほどに増えたのだ。
ロシアにいたので急ぎで吸収具を送ってもらい、事なきを得たが未だ妖力は収まっていない。
一時間半ほどかけて妖力を流し続けると火音が目を覚ました。
「おはよう」
もしかしたらこの四ヶ月間で火音の顔面への耐久が減ったかもしれない。
少し顔を逸らすと無理矢理上に向けられた。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
「ん」
月火が帰ってきたのでご機嫌だ。
月火が起き上がり、小さく息を吐くと後ろから火音に抱き着かれた。
いつもより強い。
「戻った」
「本当ですか? 良かった……」
「お腹空いた」
「何か作りましょう」
月火は立ち上がると食材が何もないことに気付いた。
そうだ、誰も自炊しないので頑張って使い切ったのだった。
「……火音さん、スーパーに行ってきます」
「この時間に?」
「食材を使い切ったのを思い出しました」
「じゃあ一緒に行こう」
まだ四時前だ。
いくら二十四時間営業だからと言ってもこの時間に未成年を、しかも女子一人でなど出歩かせられない。
それが月火なら尚更。
月火は軽く買う物を確認してから久しぶりに二人で出掛けた。
二時間弱ほど買い物に行き、二人で大荷物を持って帰ると既に凪担が起きていた。
「あ、おかえりなさい。……おはようございます」
「おはようございます。よく眠れましたか」
「はい」
根は明るいのだろうが怪異のせいで完全に怯え切っている。
あれは妖心ではなく怪異だ。
自然発生した怪異に取り憑かれ、何故か守られている。
滅多にない事だ。それも特級。
「今日から甘えなしですからね」
「よ、よろしくお願いします……!」
もう六時なので火音の部活の予定を確認して朝食と三人分の弁当を作り始めた。
この際、一緒に練習に混ぜてもらおう。
「アレルギーとかってあります?」
「ないです。……アレルギーは……」
「嫌いなものは?」
「……り……りんごと……トマトが……」
そんな赤いものが嫌いなのか。
「青りんごは? 洋梨とか」
「それは大丈夫だと思います」
「いちごとかさくらんぼは? 赤パプリカとか」
「……食べたことないです……」
基本、決まったものしか食べないのでそんなに色々な食材を言われても分からない。
しかし月火は怒ることもなく軽く頷くと料理を始めた。
火音は座ってタブレットにペンを滑らせている。
月火からは外面は仏頂面だがとても優しい人だと聞いていたので少し怖かったが、薄く微笑んで楽しそうなのでこれなら怖くない。
凪担が暇なのでキッチンを覗き込んでいると火音もやってきた。
気になって少し見下ろせばイラストを描いている。
「上手ですね……」
「子供の頃から描いてるからな。月火の方が上手い」
「そんなことありませんよ」
すると火音に月火の絵を見せられた。
構図は月火で、色塗りは火音らしい。
とても不思議な空間だが幻想的で見惚れてしまう。
「綺麗……」
「よかったですね」
「元は月火の絵だろ」
二人の会話は所々、要点が抜けているのにそれでも伝わっている。
相当仲がいいのだろう。少し羨ましい。
「わぁいい匂い……!」
「和食は好きですか」
「はい! あ、でも滅多に食べませんが……」
それから味噌汁、酢の物、山菜の炒め物、卵焼きと言った、まさしく春らしい、朝らしい朝食を食べた後に三人は校庭に降りた。




