三十五 火音の問題
火音が熱を出して三日。
徐々に下がってきた時、問題が起こった。
月火の料理ですら食べられなくなったのだ。
水月に呼ばれて授業を抜けてきた月火は触ることも躊躇い、水月を見上げた。
「どう……し……」
「うーん……」
月火は顔面蒼白で自分の手を見つめ、火音は気分が悪そうにソファで口を押えている。
最悪だ。
あれほど拒絶しないと、月火なら大丈夫だと言ったのにやってしまった。
自分でも何故か分からない。
月火を拒絶してしまったという罪悪感と自己嫌悪感、気持ち悪いという不快感が体中を渦巻き、喋ることも出来ない。
こんな事になったのはいつ以来か。
もしかしたら他人の料理が食べられなくなった直後に智里の料理を食べた時以来かも。
今朝までは普通に食べられていたのに何故か。
いきなり食べられなくなるなどおかしい。
自身への疑問と罵倒が浮かび、全てが嫌になってきた。
咳き込みたいが絶対吐くので無理だ。
必死に息を止めて落ち着いていると肩に誰かが触れた。
視界の端で水月が月火を庇うように動いたのが分かり、それと同時に火音は意識を失った。
ここはどこだろうか。
真っ黒な空間で歩いて行けるほどの距離に黒い壁が見える。
右も左も前も後ろも上も下も、ほぼ立方体の箱の中心に浮かんでいる。
菊地の精神世界に似ているがここは火音の世界だろうか。
てっきり、菊地の妖心術で出来たものかと思っていたが全員に出来るらしい。
前の月火のように壁を破壊するか、自分で意識して抜け出せるのだろうが今はやりたくない。
月火をも拒絶してしまえばもう生きる方法など皆無だ。
月火を裏切った自分と、生理現象だから仕方ないと慰める自分が葛藤してまた吐きたくなる。
もういっそここに閉じこもってしまおうか。
噂に聞いた話だが精神世界にいた菊地は本体ではなかったらしい。
本体は屋敷の地下を掘った防空壕のようなところに入り、精神世界にいたのは精神が形になったもの。
それに皆の実体が入っていた。
精神が形になっていたからこそ自由に箱を作れたり村を建てたり出来たらしい。
火音の精神は今、極度に弱っているのだろう。
だから空間が狭いし今も徐々に狭くなっている。
月火の存在があるからこそ、こうやって自由に歩き回れる。
壁が黒いのは月火の影響だろうか。
菊地の壁が赤黒くなったのは月火の影響もあったのかもしれない。
菊地はどうであれ火音の壁が黒い理由は月火の存在が自分の意思よりも大きいからだ。そう断言出来る。
気分が悪くなってきた火音がしゃがみ、うずくまっていると誰かの気配がした。
見上げると見たことのない誰かが立っていた。
現代に似合わない大きな白いローブをまとい、顔をフードで隠している。
腕よりも遥かに長い口の広がった袖と、つまんでも引きずるほど長い裾。
袖と裾の先から金の刺繍がびっしり入り、それは上に行くほど細かくなっている。
また紫月が鳥居を開いたのだろうか。
一人でいたかったのに。
どうせ来るなら月火がよかった。
火音が睨むとローブを羽織った人は全方向に首を向けた。
ローブが大きすぎて男か女か、歳も分からない。
たぶん十七から上だと思うが身長しか情報がないので詳しいことは不明だ。
「誰」
「本当に染まってますね」
月火と同じ声だ。
火音が微かに目を見張れば相手はローブのフードをゆっくりと脱いだ。
月火と同じ黒髪に白い目の高さで前髪を切り揃えた美人。
「月火の方がいい」
「悪かったですね」
火音の不貞腐れた顔のまま頬杖を突いた。
こういう時に月火が頭を撫でてくれるのが嬉しかった。
「貴方が拒絶してるせいで姉様……月火様が染めきれないです。さっさと諦めて下さい」
「……何を?」
と言うか今、姉様と呼んだ。
妹がいるのか。そんな話は聞いたことがない。
染め切るとはなんだ。何も意地を張っているわけではないのに何を諦めろと。
「……説明が面倒臭いです。失礼します」
月火と瓜二つの少女は火音に近付き、静かに手刀を構えると一瞬にして火音の意識を奪い取った。
最近はよく意識を失う気がする。
気のせいだろうか。昔からか。
真っ暗な思考の渦で首が痛いなどと呑気なことを考える。
あのまま精神世界に引き篭もりたかったが今の感覚的に現実に戻ってしまったのだろう。
目を開けたくない。絶対自己嫌悪に陥ってまた迷惑をかける。
嘘をついて裏切ったくせに心配をかけるなどただのクズだ。
いっそこのまま寝て一生目を覚まさずにいようか。
起きた直後に今は何時か考え、それから目を開けるのが癖になっている。
起きる前に意識を覚まさないと命が危険になることなどしょっちゅうだった。
教師になってからはそんなこともなくなったが昔からの癖だ。
月火が稜稀の前では取り繕うのと同じか。
やはり癖はそう簡単には直せない。
この癖は直す必要はないか。必要とあらば意識が浮上した瞬間に目を開ければなんとかなるだろう。
金縛りのようなことになるのだろうか。
それはそれでなってみたい。
幽霊に触られても拒絶反応は起きるのか、そもそも触れないのかなどと考えているとふと頬に誰かが触れた。
また癖で目を覚ます。
昔は起きたら包丁が目の前にあるなど当たり前だったななどと思いながら焦点を合わせると黒葉が覗き込んできた。
奥には月火によく似た少女もいる。
「あ、主様! 起きた!」
黒葉の叫び声に火音は顔をしかめたが少女が覗き込んできたので無表情に戻る。
「遅い」
「誰お前」
本当に誰だ。
月火を姉と呼び、火音の精神世界に入ってきた人物。
御三家には出生の謎が多いがまさか生き別れの双子か。
そんな生き別れが双葉にも神々にもいたら珍しさが半減してしまう。
そんな事を考えているとカーテンが勢いよく開いた。
月火かと思ったが見る前にそんなわけがないと否定が浮かび、案の定月火ではなかった。
冷たい目をした水月と不機嫌な火光だ。
元々嫌いっていた婚約者が溺愛している妹を傷付けたなら許すはずがない。
だから起きたくなかったのに。
こうやって逃げようとする自分も嫌になってくる。
何故現実に向き合えないのだろうか。
イラストを描き始めた理由もそうだ。
暇つぶしから始めたが、暇潰しから現実逃避をするようになった。
やはり社会不適合者だ。
おとなしく大学部に通って月火と関わらず、火神に使い潰さておけばよかった。
大切なものは全て神々にある。
神々と関わらなければ失うものもなかったのだ。
踏み固められた道を歩き続ければよかったのに、何故大切なものを犠牲にしながら自分の欲を抑えられないのだろうか。
これでは過去の自分が決死の思いで火光を逃がした意味がなくなってしまう。
火光を失うのが怖かったから自分の一緒にいたいという欲を抑えて神々に預け、折檻を受けて死と隣り合わせの日々を送り始めたのに。
駄目だ。
甘えが出てしまう。
自分をさらけ出せる人を見つけてしまったから、自分を理解してくれる人と出会ってしまったから。
過去の自分に謝りたい。
無理をさせてごめん。もう何もしなくていい、と。
「火音」
「……はい」
火光に呼ばれた火音が平然を装って無理やり起き上がると誰かの手が頭に伸びてきた。
見上げると水月が冷たい目で見下ろしながら火音の頭を撫でている。
この兄妹は人の頭を撫でるのが好きなのだろうか。
「……なんですか」
「なんで敬語なの」
「何故でしょう」
たぶん、罪悪感と責任感と自責の念と自己嫌悪感からだ。
泣きたくなってきた。
月火と一緒なら泣けるのだろうか。
泣けるといいが。
この二人が拒んだら月火に近付くことは出来ない。
「体調は?」
「大丈夫です」
大丈夫なのだろうか。
もうどうでもいいので自問もしない。
火音が即答すると頭から手が離れていく。
月火よりも大きな手だが月火とは違って表面的な温かさのある手だった。
「火音、なんか隠してるでしょ。また月火と二人だけで解決しようとしてる」
火光の言葉に火音は黙り込み、自分の手を見た。
薬指には月火との婚約指輪がはまっている。
「隠してる……ことはありますけど……解決は……どうでしょう……」
どうやったら共鳴が出来るのかも、二人の強い絆が何なのかも、どうやったら治るのかも何も話し合っていない。
月火に飽きられたのだろうか。
月火と別れたら自殺する気がする。
別れて月火がいなくなるならもういいが。
「月火が動いてたのはそれが原因?」
「え……?」
水月の疑問に疑問が浮かび、見上げると二人のからかうような顔が見えた。
「ほら、その間抜け面の方が似合う」
「水月の泣き顔と同レベル」
「酷くない?」
いきなりなんなのか。
火音が無関心に二人を見上げると月火に似た少女が黒葉に引っ張られて出て行った。
たぶん妖輩専門病院だ。
天井からカーテンが吊り下げられ、奥には微かに人影が見える。
「そんな目で見ないで」
「どんまい。……で、何隠してるの? 月火は火音にも隠してるみたいだけど?」
火光はベッドに座ると足を組んで火音の方を見た。
にこにこと笑っているが苛立っているのがよく分かる。
「……なんでしょう」
「貫き通すか。寝てる月火を叩き起して聞くしかなさそう」
「ちょうどそこにいるよね」
水月と火光が出て行こうとしたので無意識に腕を掴んで止めた。
自分の行動に気が付いたのは二人と目が合ってからで、その時にはもう遅い。
火光は火音のベッドに座り、水月はカーテンを開けて向こうのベッドに座る。
ベッドを一室と例えると二部屋を繋げたようにカーテンを開けたり閉めたりしている。
「言いたくなかったらいいんだよ。いいけど言ってもらう」
「……言いたくないです」
「拒否権はない」
矛盾している。
火音が暴論をふりかざす火光を見ると頬をつねられた。
「その敬語やめて。なんか嫌」
「……はい」
「殴るぞ?」
何故敬語になったのだろうか。
自然と俯いてから首を傾げると二人を交互に見た。
また迷惑をかけてしまう。
嫌いな奴が裏切って妹を傷付けた上に迷惑までかけたらクズ以下だ。
言いたくない。
火音が黙っていると水月側のカーテンが勢いよく開いた。
不機嫌と言うよりは不服そうな顔の月火が泣き腫らしたであろう赤い目で火音を睨む。
「自己犠牲の癖をやめなさい。私たちは火音さんへの心配を迷惑だと思ったことはありませんし私も裏切られたとは思ってません。火音さんはずっと私を気遣ってくれていたでしょう」
月火がこれ以上傷つかないように息を止めてまで吐くのを我慢し、月火が傷つかないよう会うことを拒んだ。
自分の会いたいという欲を抑え殺して他人を優先する。
そんな人を迷惑だと思う奴はそいつの方が迷惑の出来損ないだ。
驚いた様子で月火を見た火音は一瞬さまよわせた視線をすぐに落とした。
「……無理」
「でしょうね。簡単にそうされたら困ります」
自己犠牲は火音の性格だ。
自分を犠牲にしてまで他人を気遣える優しくて勇敢な人。
それすらもなくなってしまえば本当の火音が死んでしまう。
素の火音がいなくなった火音などただの皮、器でしかない。
ベッドに上がってそのまま水月の隣に座った月火は水月を見上げた。
「コンタクトは?」
「こんな時間に付けてるわけないじゃん」
「冷たい人だと思われますよ」
「手が冷たい人は心が温かいって言うじゃん。その逆も然りじゃないの?」
そんな屁理屈な。
拗ねてしまった水月の腕を軽く叩くと火音の方を向いて得意そうに口角を上げた。
「言ったでしょう。何をした時も負けるのは貴方だと」
「……言った」
「貴方が私を裏切ったとしても負けるのは貴方です。それを怖がる貴方が心の底から私を裏切れるはずがない。でしょう?」
やはり月火には敵わない。
この人に勝てる人などいるのだろうか。
火音は俯くとそのまま頭を抱え、枕の方に寝転がった。
「もう……疲れた」
「お疲れ様です」
火音は一息吐くと布団に潜り込んだ。
火光が布団を剥がそうとしてくるのに必死に抵抗すると月火が火光を止めてくれた。
「……戻った?」
「戻りましたよ。代継さん……私とそっくりな人が教えてくれて」
「あれ誰?」
「紫月の祖先らしいです。……神々が怪異と交わった代の次女」
長女は月火だ、と。
妖輩者は皆、実体化した怪異の血を引いている。
それがどれだけ昔だとしても、どれだけ薄まっていたとしてもその力が失われることはない。
火緖の実父が怪異のように、怪異と人の間にも子は生すことは出来る。
出来るが危険極まりないのだ。
怪異は人を襲い、人は怪異には敵わない。
火音が怪異の子なのはその怪異が母を思って生まれた怪異だからだろう。
それでも十分危険だったはずだ。
さしずめ、怪異に殺されて母体が完全に死ぬ前に子だけを産ませたか。
御三家は容姿を継ぎやすいのだろうか。
代継と言うほどの名前なのだから継ぎやすいのだろう。
「……姉様って呼ばれてたけど」
「また説明します。私もよく理解出来てないので」
「おやすみ」
「はーいおやすみなさい」
まる二日寝たきりだったがまだ寝るらしい。
本当に寝たので水月と火光を追い出し、カーテンを閉めると火音のベッドに移動した。
火音が拒絶したと聞いた時、自分に対する哀れさやショックよりも火音がこれから苦労するかもしれないという考えが一番に浮かんだ。
自分の食事すら嫌う火音が唯一食べられたのが月火の手料理なのに、火音に頼られていたのにそれにすら答えられなかった自分の無力さに腹が立つ。
無力さへの腹立たしさと火音に対する心配と、役に立てなかったくせに一丁前に心配だけする自分への嫌悪感に苛まれ、一瞬いつもの屋上が浮かんだ。
あそこからは二度落ちた。そのうちの一度は二人で落ち、もう一度は腹部に傷があった状態。
一度目の時点で何度落ちたとて死ぬことはないと理解した。
それでも黒葉に命令すれば守りは入らないだろう。三体目は絶対に出てこない。
そう考えたが思い留まれた。
代継が戻す方法はあると言ってくれたから。
戻す方法とともに、火音の異常体質の原因とその解決策についても。