二十一 人の気持ち
一瞬の混乱が起こった後、わけも分からずそれを突き飛ばした。
火音が月火を庇い、月火は気持ち悪さで咳き込む。
「月火!」
「主様!」
火音と駆け寄ってきた黒葉が背をさすってくれるが吐きたくても胃に何も入っていないので吐けず、今朝に何も食べなかったことを絶賛後悔中だ。
今すぐ何か食べたら吐けるだろうか。
月火が気持ち悪さでうずくまっていると騒ぎを聞きつけた皆がやってきた。
瞬間、火光が月火の腕を掴もうとしていた男に飛び蹴りを食らわせる。
「俺の妹に何やってんだよ躑躅?」
「あまーいキス」
火光はそれを聞いて破顔するでも赤面になるでもなく、額に青筋を立てて躑躅に腕を振り上げた。
それを火光よりも怒っている水月が止める。
「傷付けたら駄目だよ。売れなくなっちゃう」
「別にいいじゃん。肝臓って高値で売れるらしいよ」
「じゃあいいよ」
「ちょっと待った!」
稜稀が二人の首を絞めて落ち着かせ、月火の方を見た瞬間に月火は全速力で走って洗面所の方に行った。
黒葉も狐に戻って慌てて追いかける。
「な、何が……」
「気持ち悪いんでしょうね」
珍しく静かな怒りを抑えている火音は月火が走って行った方に視線をやった後、唇を舐めて楽しそうな躑躅を見下ろした。
生まれた頃から日本にいたが妖神学園に在学するにも関わらず、学校は愚か、寮にすら入っていない問題児だ。
これだけ多い生徒を見ていたら不登校の子は一定数いるし火音も相談に乗ったことはある。
が、これは学校が嫌だとか人が嫌いだとか体調面でどうだとかそういう話ではない。
ただのサボり魔なのだ。
火神で妖輩にすらなれなかったこの男と同い歳など思っただけで身の毛がよだつ。
「ねぇ火光、退いて? 重い」
「やっぱ殴ろう。殴って生きたまま内蔵引きずり出してやる」
「お前教師だろ」
「でも……!」
火音の静かな怒りに気付いた火光と水月は自分の怒りを忘れ、静かにその場を退いた。
「ありが……」
「触んな気持ち悪い」
「は?」
躑躅と火花を散らしていると火音はふと視線を逸らした。
いよいよ月火が心配になってきた。
黒葉から水を貰っては吐いている。
胃がひっくり返りそうなほど痛いのを我慢して気持ち悪い嫌悪感を消しているようだ。
そんなことをしても消えないと言うのは分かっているだろうが吐き気をなくしたのか。
火音が心配しているとふと落ち着いてきたと返事が来た。
「何向こう見つめてんの? 気持ち悪いよ?」
「火光、殴ろうか」
「僕もいいかな」
稜稀と水哉で暴走する寸前の三人で止め、玄智と炎夏が離れたところで見ていると月火が戻ってきた。
虚ろな目をして自己嫌悪期の火音より酷い顔をしている。
「先生月火来たよ!」
玄智が声を掛けると三人の動きが止まった。
火音は安堵し、水月と火光は当然の如く飛びついてくる。
「月火大丈夫!?」
「何!? 何したらいい!?」
「もういいです。どうせ初めてじゃありませんし」
月火が二人の顔を押し退けると同時にその場が凍り付いた。
月火は口が滑ったと思ったがいっそ開き直り、堂々とする。
「え……月火……え……?」
「嘘でしょ……?」
「私が年齢=彼氏いない歴の人間だとでもお思いで?」
中一から中二の夏と言う僅かな期間だったがとある男子と交際はしていた。
あのキスは単なる事故だがそれでもカウントに入れていいならこれは二回目だ。
ちなみに月火が大怪我をした時、弱いくせに醜いと言ってフラれた。
「だって……嘘……!?」
水月と火光は魂が抜け、水哉が引きずって近くの部屋に連れて行かれた。
月火は腕を組むと驚いている火音を見上げる。
「嫌でしたか」
「そ、う……言うわけ、じゃ……ない……けど……」
かなり奥手な月火がまさか。
「事故ですよ」
「あぁ」
奥手な月火がまさかと思ったが単なる事故なら納得がいく。
納得の中に少しの安堵があったことに関してはもう驚かない。
「ねぇ月火って言うんでしょ? 時空が惚れてる子。僕と結婚しよう」
「貴方と結婚するぐらいならここで死なせて頂きます」
やんわりと死んでも嫌だと断ると躑躅は首を傾げた。
「死ぬのが怖くないの?」
「この方も帰国子女ですか」
「生まれも育ちも日本。ド田舎出身の引きこもり」
火音は緩く首を振ると、立ち上がって月火の肩を掴もうとした躑躅から月火を守った。
月火は腰に回された腕になるがままに従い、後ろに下がる。
「……君らどういう関係?」
「いろんな関係」
「例えば?」
「教師と生徒、家主と居候、同居人、友人以上」
とりあえず適当に思い付いたのを挙げておく。
月火に内心で最後のは余計だと言われたが腰に回した手に力を入れると無心になった。
「同居……共同生活……!? 男女で!? 不純!」
「お前が言うなよ。初対面でキスするってセクハラだぞ」
「なんで?」
「成人と未成年の行為は法律的にアウト」
一応、双方の合意の上で親も認めているなら問題はないが月火の場合は操られでもしない限り有り得ないので強制わいせつ罪か強姦罪の類ですぐに罰金か塀の中に行くはずだ。
火音が整いすぎた綺麗な冷たい笑みを貼り付けると躑躅は眉を寄せた。
「じゃあその腕は?」
「月火、嫌?」
火音が見下ろせば月火は真顔で首を横に振った。
「双方の合意の上で片方が訴えると思うか?」
「俺が訴える」
「いいさ。俺より前にお前がいなくなるから」
波南以上の馬鹿を久しぶりに見たと思いながらにこにこと笑っていると躑躅は黙り込んでつまらなさそうな顔をした。
「なんだつまんないじゃん。顔もタイプじゃないしチビでおまけに強いんだろ? 可愛げがないっつぅか……女として全体的に残念」
「はぁん?」
月火は顔を歪めた笑顔を作ると火音の腕を離して躑躅に近付いた。
綺麗に足を払うと肩を押して姿勢を崩し、みぞおちにかかとを乗せると力を入れる。
「チビで弱いお前よりマシだろ。火神の出来損ないなんだって? 妖輩の家系で妖力すら持てなかったお前が他人を見下せる立場か?」
「うっ……吐く……!」
「好きにしろよ。部屋なんて腐るほど余ってんだ。一生閉じ込めてやるよ」
完全に怒りで我を忘れている月火の肩に手を乗せると月火はハッとした。
火音を見上げた後、顔面蒼白で目を潤ませた。
月火の真横には稜稀がいる。
どれだけ水月と怒らないと約束してもこんな姿を見たらただで済むはずがない。
一晩中怒られる。
胃が口から出そうなほど吐いて既に痛い胃がさらに痛み、ストレスで穴があく気がした。
月火の気が動転して焦って困って思考が混乱していると稜稀が近寄ってきた。
月火は耳を塞いだが稜稀は月火ではなく躑躅の傍にしゃがみ、頬を爪で刺す。
「貴方のご両親はよく知ってるわ。私によく尽くしてくれた可愛い可愛い後輩ですもの。きっと私の初めての育児と一緒で甘やかしすぎたのね。ちゃーんと全部教えるから安心してね」
稜稀が薄く笑うと躑躅は焦りと恐怖からか、内蔵を圧迫され続けた結果の吐き気からか、顔を真っ青にして逃げ出すと屋敷を飛び出して行った。
稜稀は素早く可愛い可愛い後輩に連絡するとずっと耳を塞いでいる月火を見下ろして何も言わず、水月達がいる部屋に戻って行った。
黒葉に連れられて玄智と炎夏も心配そうに振り返りながら連れて行かれ、襖が閉まるのと同時に月火は糸が切れたかのごとく倒れかけた。
火音が慌てて支える。
こめかみの髪を掴み、焦点があっていない。
「ど、どうしよう……愛想つかされた……湖彗みたいに……なりたくない……!」
「月火! 大丈夫。愛想つかされたんじゃなくて休ませてあげようと思っただけ。月火は何もしてないだろ」
「でも……でも……」
完全な自己嫌悪に陥っている。
火音は少し躊躇ったが月火の頬に手を添え、顔を近付けた。
「落ち着け月火。月火は何も悪くない」
月火は小さく何度も頷くと深く深呼吸をした。
少し落ち着いたのかゆっくりと座る。
「もう……最悪な日です……」
「これぐらい濃い方が記憶に残るだろ」
「どれだけ薄くても残りますけど」
月火をあぐらをかいた膝に座らせ、腰に腕を回した。
肩に額を乗せると頭を撫でてくれる。
「……邪魔が入りませんように」
「一生平穏ならいいんですけど。それが出来ないのが……」
「神々だよなぁ」
月火は立ち上がると少し胃を押えた。
「月火!? ファーストキスっていつ!?」
足音の通り、火光と水月がやってきて襖を開けるやいなや声を揃えてそう聞いた。
月火は頬に指を添えて首を傾げる。
「妹の記憶を踏み荒らすより母様に礼儀を教えてもらった方がよっぽど有意義な時間が過ごせると思いますよ?」
「そんなことはない!」
「で、いつ?」
お前もか。
月火は少し楽しそうに見上げてきた火音を半目で見下ろした。
何が俺は味方だから、だ。
「そこまで言ってない」
「違うのですか……!」
「違わないけど! そうじゃないだろ」
今度は半目で見上げられ、月火は小さく笑った。
その流れで水月と火光を見る。
「私、プライベートのないこの家を出ていこうと思っているんですけど」
「失礼しました」
水月と火光は襖を閉じると叫びながら黒葉に連行されて行った。
月火は呆れながらも少し面白くて小さく笑った。
火音に手を引かれ、膝の上に座る。
「でも本気。一生味方になる」
「頼りにしてます」
「ずっと頼って。だから……頼り続けても許して」
月火は小さく頷くと火音の首に腕を回した。
背中に回った手が温かい。
やはりこの手が一番好きだ。
水月のように大きくもなければ火光のように柔らかいわけでもない。
それでも自分とよく似た冷たさと、ずっと欲しかった人の温かさを教えてくれるこの手が好きでたまらない。
理解し、理解され、他人に見てほしくない所まで見てくるのに嫌じゃない。
私を分かってくれるのかと、全てを受け入れてくれるのかと安心出来てすがり、頼りたくなる。
この手から離れたくない。
いつ死ぬか分からない人生で彼といられるのはあとどれほどか。
楽しい時間も、辛い時間も、いつまでも、この人を支え、支えられたい。
「世界で一番愛してる」