三 問題のキッカケ
「あのクズ湖彗! 水神にまで借金するとかどういう! しかも無期限!? 死ぬまで放置する気か!?」
前では絶対に見られなかった月火を火音は感情のない目で眺める。
帰ってきた途端、怒鳴り始めたので何かと思ったが今ので全て分かった。
水月と火光は珍しく遅いので今は二人きりだ。
月火は一通り吐き出すと落ち着いて部屋に着替えに行った。
タブレットを持って帰ってくる。
「そう言えば火音さんの同期の谷影さんが謹慎食らったらしいですよ。馬鹿ですよねぇ。監視カメラが強化されたってのに」
月火の一件以来、神々社と協力して完全に死角がないよう神々の最新カメラを設置したのだ。
カメラを倍に、しかも人気社の最新機種で増やしたので夢のような値段になったがそれで火の車になる神々ではないので普通に借金してもらった。
月火が火音に今日あったことを一方的に話していると玄智からメールが来た。
どうやら澪菜の元気が出ないのでクッキーの作り方を教えてほしいらしい。
ただ、火音がこんな状態なので週末に教えに来るか行くか約束し、明日作ったものを持っていくと約束した。
二人が帰ってくる前に型抜きクッキーを作り、生地を休ませている間に夕食を作った。
あとは二人が来てから温めるだけだ。
月火が机で焼きあがったクッキーにアイシングをしていると水月と火光が帰ってきた。
「ただいま〜」
「ついにお邪魔しますでもなくなりましたね」
「あ、お邪魔しま〜す」
言い直しても遅い。
月火は水月を呆れた目で見上げるとクッキーに目を輝かせる火光に釘を刺した。
「余ったらですよ」
「はーい!」
「火音は……寝てる?」
「起きてます。抑うつと躁状態が同時に来てる状態です」
今日は朝も昼も食べていなかった。
余ったものは月火が平らげたので夜は作るが食べれるだろうか。
お腹は減っていても動けずに食べれない時があるのでそこの判断が難しい。
「真反対の状態が同時に?」
水月と火光はよく分かっていないようだ。
「気分は沈んでいますが頭の中は興奮状態……やる気はないけど妄想が膨らんでいる状態です」
「そんなことにもなるんだね……」
水月と火光は気遣わしげに火音を見た。
昔の、初等部の頃と同じ目の火音だ。
少し怖いが月火はそんなことを気にすることなく一人で勝手に喋り続ける。
「あ、水月兄さん。あれどうなりました?」
「あ、うん。水虎が必死に食い下がってくれて一応借用書は作ったんだって。印鑑と拇印を押させたらしい」
「頼りになりますねぇ」
月火は大きな袋に入るだけ詰めるとそれを三つ作って、小さな袋も一つ作った。
小さな自社の紙袋に入れ、机に置くと火光に食べさせる。
「誰かにあげるの?」
「うーん……誰でしょう」
月火が自分も食べようと思って持ち上げると水月に横から食べられた。
火光はいたずらっ子のように笑う。
「彼氏?」
「正解」
「え!? 嘘!?」
水月はギョッとして月火の肩を掴み、火光も思ってもいなかった返事に月火に駆け寄った。
「嘘ですよ。玄智さんです」
「付き合ってたの?」
「だから嘘ですって。澪菜さんの元気がないので作ってくれと」
ここで火音が理由で先に伸ばしたと言うとまた罪悪感がかかってしまうのであくまでも玄智から提案してきた風に言っておく。
月火は顔を寄せてくる二人の顔面を押し返すと手を洗って夕食を温め始めた。
「ここにあるの食べていい?」
「いいですよ」
「やったね」
火光は喜んで食べ始め、月火は四人に珈琲を淹れる。
「火音は……」
月火は少し火を弱めると火音の頭にクッションを押し付けた。
「何……」
「珈琲は?」
「飲む」
かなり雑だが気に入っているものなので嫌悪感はないようだ。
月火は火音を起こすと珈琲を渡した。
いつも通りクッションと足を抱え、一点を見つめて珈琲を飲む。
頭の中にイラストやデッサンしたいもの、授業の問題や行きたいところなどが多く思い浮かぶがそれをやるどころかメモする気すら起きない。
月火は火音から空になったカップを受け取る。
「夕食は?」
「……無理」
「そうですか」
月火は火音を寝転ばせるとブランケットをかけた。
珈琲は飲んだので低血糖になることはないだろう。
夜中か、明日の朝にでも起きて何か食べてくれるといいがこの状態になることは滅多にないので下手に焦らして長引くよりは火音が求めるまで放置していた方がいい。
その日は三人で夕食を済ませ、月火も眠りについた。
翌朝、まだ日が昇る前に月火が起きると火音が既に起きて絵を描いていた。
どうやら鬱が先に終わったらしい。
薬の効果だろう。
一ヶ月ほど前まで副作用で目眩と倦怠感が出ていたので薬を飲むのを嫌がっていたのだが月火が無理矢理飲ませたのだ。
どちらかが収まってよかった。
「おはようございます」
「おはよう。お腹空いた」
「夕食の残りありますよ」
「食べる」
火音は喜んで食べ始め、月火は弁当と朝食を作る。
「今日は行けるかな」
「躁状態で行かないと約束したでしょう」
躁状態でどこかに出かけるとその後、必ず自己嫌悪に苛まれるので月火が慰めなければならない。
最近は落ち着いている時が増えてきていたので出勤は平常時と決めているのだ。
「……なんかやりたい」
「絵を描いたらいいのでは」
「仕事しよう」
「はいどうぞ」
見事な仕事人間になってしまった。
月火はパソコンを渡すと弁当を詰める。
今日は水月が会社で仕事をするので三つの弁当と皿に火音の昼食を乗せる。
しばらくすると水月と火光が起床し、火音の様子を見て少し安心した。
「今日は大丈夫そうなの?」
「大丈夫でしょうけど後で自己嫌悪に陥るでしょうね。後の症状を軽くするために外には出せません」
「そっか……」
月火は最近は症状が落ち着いていることを話すと二人とともに朝食を食べ始めた。
「火音は?」
「お腹が空いたようで先に夕食の残りを食べたんです」
「食べたならいいや」
火光は少し安心すると卵焼きを頬張った。
放課後、月火が帰ってくると火音がリビングにいなかった。
部屋にいるのかと思ってもおらず、アトリエに行くとアナログ用の机で突っ伏していた。
「ただいま帰りました。大丈夫ですか」
「……うん」
「そのクッション好きですねぇ」
一号をずっと持って歩いている。
今度火音専用に作らせようか。
月火は火音の背をさする。
少しすると顔を上げた。
どうやらアナログで絵を描いているうちに自己嫌悪になったらしい。
元々、テンションの高低差がジェットコースターより激しかったのでいきなり躁状態から戻ってもおかしくない。
こういう時、ソファにいたら寝転がれるのだがそれも無理なまま自己嫌悪感の後に自暴自棄になったのだろう。
「……このクッションちょうだい」
「いいですよ。同じようなものがほぼ無限に増えるので」
「この手触りが一番好き」
「二号からは毛を長くしましたからね」
月火は火音を立たせるとソファか自室か聞いてソファに寝転がらせた。
頭をクッション六号に置き、クッション一号を抱えて意気消沈する。
厚めのブランケットを掛けてやると少し落ち着いたのか眠り始めた。
火音が眠って少ししてから水月と火光が帰ってきた。
何故か後ろには晦がいる。
「おかえりなさい。無理矢理連れてきたんじゃないですよね?」
「うん」
「無理矢理ですよ! 帰りますぅ……」
晦は離れようとするが火光は断固として離さない。
「晦先生が好きなんですね」
「嫌いだよ。仕事で用があるから連れてきただけ。じゃなきゃ触りたくもない」
「明日の朝でいいですから!」
月火は火光に手刀を落とすと晦をソファに掛けさせた。
火音の横顔にクッションを押し付けるとうるさかったのかすぐにクッションを押さえ付け耳を塞いだ。
火光が火音側の床に座り、晦が向かいのソファに座り、一年と二年のことについて話し合っている。
月火が珈琲を淹れて皆に渡していると火音が目を覚ました。
上体を起こすと目眩がして背もたれに寄りかかる。
「大丈夫?」
「うん……」
水月が心配そうにすると火音は体勢を持ち直した。
雑に髪を押さえ付けるといつもの髪型に戻る。
「便利な髪ですね」
「なんで晦が……」
「仕事の話し合いですよ」
「お邪魔してます……」
月火は珈琲の乗ったお盆を片手で持つと皆に自分のマグカップを持たせて最後のカップを晦に渡した。
「ねぇ火音。一年の氷麗って子の授業態度が酷いってクレームきてるんだけどどうしよう」
「授業持ってない奴のこと聞かれても……」
火音は眉尻を下げると晦を見た。
少し申し訳なさそうに珈琲を飲んでいる。
「……月火が対応しろ。俺は休職中だ」
「おい教師。私は生徒なんですけど」
「先輩だろ」
火音は倒れるように寝転がると絵を描き始めた。
月火は晦側のソファの後ろから火音を睨む。
「去年はあれだけ気合い入れてたのに」
「こうなったらもう無理」
月火は溜め息を吐くと二人に氷麗の話を聞いた。
どうやら中二の半ばから反抗期が始まって生徒やクラスの子に当たるようになったらしい。
「火光先生を抑えてたはずなんですけど……」
「その晦先生が無理なら相当難題ですね」
「なんで僕が!」
火光は至って善良な生徒だった、と信じたい。
火光が眉を寄せて水月を見上げると笑顔で首を傾げられた。本当にそうかと問うように。
「……そんな問題児だったかなぁ……」
「火音よりはマシだよ」
「なんで俺が」
「だって」
上級生を屋上からぶら下げたり、同級生を剥離骨折させたり、下級生を脅してトラウマを植え付けたり、プールに落ちて吐いたり、毎年行事ごとに女子を泣かせたり。
「最後の二つは仕方ない」
「最初の四つは認めるんですか」
「あれは不可抗力だ。火光殴った奴と火光脅した奴と火光の不名誉な噂流した奴」
「不可抗力の意味知ってます?」
でも、これを聞くと火光の同級生を階段から突き落としたり同級生の肩を脱臼させたのは可愛くは聞こえないが優しい気がする。
麻痺だろうか。
「あ、あの、月火さん、お夕食大丈夫ですか……」
「食べて行きますよね?」
「えぇ!?」
「えぇ!? 嫌だ!」
二人はそっくりな顔で月火に嫌だの迷惑がかかるだの訴える。
「……そこまで言うなら仕方ありませんね。タッパーに詰めましょうか?」
「い、いえ……帰って食堂に行きますから……」
「残念」
「晦って家事出来ないんだ」
月火は晦を見送ると夕食を並べながら涙目で頬を押える火光を見た。
「自業自得ですよ」
「女って年々怖くなるよ。月火はならないでね」
「私は女ですからね」
月火が薄く微笑むと水月からは手刀を落とされ、しゃがんで頭を抱えると火音からは馬鹿にするような目で見下ろされた。
「災難だよ……」
「全部自分がまいた種でしょ。まいた種は摘まないと」
「むぅ……」
火光は膨れっ面になると甘口のカレーを食べた。
月火がギプスになったので最近は放置料理が多い。
右手で押え、左手で切ってから鍋に放り込んで放置が多いのだ。
無理はしてほしくないし美味しいので文句はない。
「美味しいね」
「それは良かった」
「もう二、三日でギプスは取れるんだよね?」
「谷影が精神科に通院し始めたらしいな」
火音は全く辛くないカレーを食べ終わると食後のデザートにいつの間にか作られていたレアチーズタルトを珈琲のお供に食べる。
甘いものと珈琲はよく合う。
「そうなの? 弱い精神だね」
「何やったんですか!」
「ん? 生徒にしか言い返せないなんて可哀想な頭って言っただけ」
「子供しか相手に出来ない幼稚な頭でよく友達が出来たねって微笑んだだけだよ」
当たり前のような顔をして首を傾げる火光とにこにこと笑って自重しながらも反省しない水月を睨むとタルトを細く切って出した。
「反省するまで火音さんの半量です」
「普通のことしただけ!」
「先にその頭をどうにかして下さい」
月火はお腹がいっぱいなのでタルトは食べずに先に風呂に入った。
久しぶりに浸かりながら力を抜く。
先日、神々が経営する金融機関から湖彗の借金が返済されたと報告が来た。
大きな借金を抱えた人が返済した時は他社とのトラブル発展を未然に防ぐため、報告するよう全支社に伝えてある。
一応、他社の金融機関から借りた金を神々に返したということはなさそうなので今は水神とどう縁を切らせるかを考えている。
玄智によると火神は徹底的に突き落としてほしいそうなのでもう放置することにした。
澪菜も守ってくれなかった両親より月火に頼りながらも心配してくれた玄智について行くことにしたようだ。
今は傷でプールに入れていないが部活の見学には行っているようで、結月も気にかけてくれている。
中等部の新入生からは少し怒りやすいが頼りになる先輩だといい評判だ。
あの二人を落とすのは勿体ない。
「……智里が根本か……」
火神を不幸にする悪魔だ。
さっさと追い出さなければ。
月火は薄く笑うと風呂を出た。