44 一本の電話
「疲れた〜」
久しぶりの出勤の後、火音はいつも通りソファに寝転がる。
筋力も体力も問題なかったし柔軟性も特に変わっていなかったので一安心だ。
月火が珈琲を持ってきてくれたのを見て起き上がる。
「皆さん喜んでましたね」
「鬱陶しいぐらいにな」
「園長が連日出勤でなくてもいいのでまずは体調を整えろ、と」
月火は頷きもせずにタブレットを触る火音に半目になる。
ここ最近は少し幼さい顔を見せるようになった。
前が大人すぎたのだろうか。
あれは大人と言うより超人だ。
「園長と水月兄さんが二人がかりで任務を止めてくれているそうなので今はゆっくり休んで下さい」
「迷惑かけてる……」
「頼んでもないのに向こうがやったんです」
月火が真顔で答えると火音は小さく頷いた。
酷い言いようだがここでプレッシャーをかけるよりかはこう言って気を楽にした方がいい。
その日の夜中、月火の自室。
まだ四時だが先程起床したのだ。
月火が新商品を考えていると電話が鳴った。
こんな時間に誰かと思えば知らない番号で、スマホからだった。
「もしもし」
『ふぇ!? で、出た……!?』
「え? あの……」
当然電話なのだから出るだろう。
月火が混乱していると声が変わった。
『もしもし、双葉と言うものですが』
「双葉さんですか。先日はお世話になりました」
『いえ、こちらも弟の無事が確認出来て安心しているところです』
父親は怪異なので兄だろう。
火音より少し高い声だが火光よりよく似た声質だ。
この世に同じ姿の人は三人いるというがこれで三人目だ。
一卵性か二卵生か分からなかったので本当にそっくりかは分からないが水虎の記憶通りならたぶん似ているはずだ。
『それで、火音……が落ち着いたらでいいのですが今度会いたいと思いまして』
「すみませんがこんな時間なので今すぐ返事をするというのは……」
『あ、もちろんいつでも大丈夫です。留守電に入れておこうと思っていたものですから……』
どうやらこの時間はさすがに起きていないだろうと思ったらしい。
おとなしくメールでいいものを、何故月火の番号を知っているのか。
月火はまた確認をしてから連絡すると言ってから電話を切った。
膝に空狐が飛び乗る。
尻尾がなくなったので少し物足りないほど小さくなった。
九尾たちによると最近は新しい自分にも慣れたようなのでもう暴走することはないだろう。
月火が空狐の頭を撫でてからリビングに行くと既に火音が起きてソファで絵を描いていた。
珍しくデジタルではなくスケッチブックでデッサンをしている。
「おはようございます」
「この鉛筆描きにくい」
「鉛筆ではなく姿勢のせいでは」
横向きに寝転がって右手で描いている。
「……デッサン用じゃない」
「姿勢の原因が大きいと思います」
火音は寝返りを打つと月火に鉛筆を差し出した。
デッサン用の鉛筆はナイフで削って浅い角度で長く削らなければならない。
火音の使っていた鉛筆は普通の角度だ。
「私の貸しますよ。今度削っておきます」
「頼んだ」
鉛筆の濃さを見てからアトリエに行って鉛筆を漁る。
鉛筆が詰まった筒型ペン立てが六本、タッチペン用が一本、Gペンや丸ペン、ミリペンや製図ペンと言ったあまり違いの分からない特殊なペンが色々入ったペン立てが二本。
筆や筆ペン、カリグラフィーペンなどの滅多に使わないペン立てが三本。主に多種類の筆で埋まっている。
鉛筆も濃さや芯の形など色々とあるのでなるべく多く揃えているのだ。
シャーペンやボールペン、消しゴムに関してはそれぞれ、自分の机に置いている。
色鉛筆や水月がくれたアルコールマーカーは全てケースに入り、棚の下に片付けている。
その日の夕方、月火が帰ってくると火音はまだデッサンを描いていた。
今日は気分が乗っていなかったようで休ませたのだ。
「気分はどうですか」
「平常」
やる気はないらしい。特にやることもないので問題ないが。
月火は鞄からスケッチブックを出すと先に着替えた。
いつも通りジャージだ。
「学校に持っていってるのは珍しいな」
「妖学の時間が余るので完成させてしまおうと思って」
「お前はやる意味ないもんなぁ」
月火は教えても知ってるしか言わないので最近は放置している。
神々の英才教育も如何なものかと思うが月火が出来上がったのは英才教育の賜物なので文句は言えない。
「久しぶりにペン入れの練習をしようかと思って」
「ペン入れが一番嫌い」
ペン入れは滲んだりはみ出したりすると修正が面倒臭い。
「このために火光兄さんに貰ったスケッチブックで描いたんですよ」
「色も塗るのか」
「久しぶりですからね」
月火は丸ペンで細かくペン入れをする。
固く太い線になるGペンより細く丸い線になる丸ペンの方がこういった背景にはあっている。
「……よし、線画終わり」
「お前の場合は塗ってから描き込むだろ」
「あれは線画なんですかね」
月火は少し下手になったなと思いながら水月に貰ったマーカーを持ってきた。
このマーカーは裏写りしやすいのでそれを防ぐための専用用紙だ。
「そう言えば今朝、電話がありました」
「電話……」
わざわざ火音に言うということは火音に関係するものだ。
そして今、火音に関係のあるものと言えばほとんど一つに絞られる。
「双葉さんから」
「だと思った……」
火音のテンションがあからさまに下がった。
「いつでもいいので面会したい、と」
したい、と言いながらこちらに拒否権はない気がする。
どうせ嫌だと言ったら問い詰められるのだ。
何年後かに伸ばして忘れさせてみようか。
火音が考えていると頭に手が伸びてきた。
見上げれば月火の薄く微笑んでいる。
「嫌だったら私が断っておきます」
「……兄妹揃って歳上みたいな事を」
「精神年齢は上だと思い込んでいます」
思い込むだけで絶対に火音には敵わない。
火音はふっと力の抜けた笑みを浮かべると月火の手に触れた。
まだ冷える季節なのでヒーターは付けているがそれでも二人とも手は冷たい。
「分かった、会うだけ会う」
「いつ頃がいいですか」
「適当に」
月火は小さく頷くと 火音から手を離した。
「……なんですか」
手を下ろす前に火音に掴まれ、また額に当てられる。
「冷たい」
「お互い様です」
「よくこんな手であの描き込みかけるな」
あの描き込みは異常なほど細かいので冷たい手では思うように動かない気がする。
「どれだけ細かい動きも出来るようにはされてるので」
「厳しい家だなぁ」
火音が離すと月火はさっさと戻って行った。
それから少しの間、沈黙が流れる。
別に珍しいことではない。
多くの人は二人だけの空間に流れる沈黙に耐えられないと言うが二人は興味のないことで話す方が耐えられないので話題がなかったら黙る。
よく似た二人だ。
「……描けた」
「朝から何を書いてるんですか」
月火が問いかけると火音はスケッチブックを上げて月火に見せた。
自分の視界から見た今の景色だ。
自分の手がスケッチブックの上を滑り、絵のスケッチブックの中にも同じ絵が描かれている。
「一番面倒臭いやつ」
「暇だったから」
「よくやりますねぇ」
奥にあるソファのぼやけ方や視界の端に写るソファまで細かく再現されている。
「で、昼間描いたのがこれ」
「同じの描いてたので……は……」
一枚めくったページには月火の寝顔が描かれていた。
呆れすぎて言葉を出すのも面倒くさくなる。
「暇人すぎる……」
「暇人だから」
「……破っても?」
火音は月火からスケッチブックを遠ざけると慌てて閉じた。
「やめろ」
「肖像画を描くときは本人に許可を取らないと肖像権侵害で訴えられますよ」
「肖像権に関する法律はないからな」
「裁判所は肖像権について裁判してくれます」
「何の話してんの……」
二人が声の聞こえた方を見ると水月と水月に引っ張られた火光がいた。
火光は眠そうだ。
「肖像権の話です。夕食はまだ作ってませんよ」
「待っとく。あ、活用してるね」
「久しぶりの練習です」
月火の絵を水月が眺めている間に火光は抜け出して火音と向かいのソファに寝転がり、背を向けてスマホをいじり始めた。
火音は嫌われたなと自覚しながらうつ伏せで肘掛に腕をかける。
「丸ペン派?」
「絵によって使い分けます」
「お前、ほとんどのペン持ってたもんな」
機械関係はほとんど火音の持ち物だがペンや紙、筆や絵の具に関しては月火が持っていたものだ。
火音は昔からデジタルしかやってこなかったのでアナログの画材はほとんど持っていない。
水月がずっと見ていたので気になって重い体を動かすと色塗りもほとんど終わっている状態だった。
だが、いつもの月火の完成絵を見慣れていると物足りなく感じる。
「……月火、サインは?」
「持ってませんよ。転載されても転載しか出来ない可哀想な人と思うだけですから」
どう転がっても煽るのが月火なのだろう。
火音は呆れると自分のスケッチブックに月火のサインをいくつか書いた。
「わぁかっこいい。書き方とかあるの?」
「ない。適当に崩す」
「僕のも考えて?」
火音は水月とローマ字で書くと適当に繋げてSを大きく崩し、いくつか書いてから水月に見せた。
「慣れてるねぇ。かっこいい」
「イラストには全部入れるようにしてるから」
「サインって難しそうだもんね」
その夕食後、月火と火音はいつも通り夜中に話す。
今日は水月と火光がソファで寝ているのでダイニングテーブルを挟んで向かいに座っている。
自室やアトリエに水筒以外で飲み物は持ち込まないと決めているので珈琲を飲みながらならここしか出来ないのだ。
水筒以外での飲食は禁止にしている。
「今日は朝から大量に人が来ましたよ。火音さんの様子を聞く女子とどさくさに紛れて私を見に来る男子」
「うるさそう……悪い」
「火音さんが気に病むことではないでしょう。今日はいないだけで追い払えましたから」
今、月火の元には火音の様子を探るもの、火音と月火の関係を探るもの、火神の真相を探る新聞部、月火を見に来るもの、月火のファンクラブを公式にしようとする中等部が毎日懲りずにやってくる。
最近は玄智達も慣れたようで普通に話している。
玄智も仕事に慣れたし炎夏は水虎から空いた時間に仕事を教えてもらって水月のような補佐を目指しているそうだ。
やる気があるのはいいことだが挫折しないことを願う。
水月は補佐に特化した能力を持っているからこそ月火の補佐が務まるのだ。
水月のような人間が他にもいれば補佐コースが無意味になってしまう。
そしてその日は最近の授業の様子や休み時間の様子を報告して夜の雑談は終わった。