94.頬にキスするぐらい許されるだろう。
決戦まであと一日、二十四日。
昼間から全員が仮眠や食事の休息を取る中で、月火は体育館で一人訓練をしている。
この手で稜稀を殺せるのか、この手で暒夏を殺せるのか、この手を血に染めて大丈夫なのか。
邪念が蔓延る中、出来るのか出来ないか、やらなければならないと言い聞かせる。
稜稀は劣悪な環境にいた火光の恩人だ。
水月に補佐の仕事を教えた水哉の仇討ち。
月火に当主と社長の仕事を教えた人。
火光に多くの道を示してくれた。
水月に多くのものを与えていた。
月火を最後まで突き放した。
何が駄目だったのか。何が気に食わなかった。
いつもは分かった稜稀の思考が曇り見えなくなり、何故自分に相談してくれなかったのか。何故水哉にも話せなかったのか。
子供達に隠して何を企んでいる。自分の父を手にかけて何がやりたい。自分自身を惑わして何故そこまで。
考えれば考えるほど分からなく、見えなくなっていく。
頬に涙が伝い、我武者羅に振っていた刀を地面に叩き付けた。
しゃがみ込み、頭を腕に埋める。
本当に月火に出来るのだろうか。
もし出来なかったら、皆が死んでしまう。出来ても死者は出るのに、何故やらなければならないのか。
……寂しい気がする。
今まで、寂しいと思った事はあっただろうか。
兄達が離れた時も、火音と離れた時も、炎夏や玄智がいなかった時も、屋敷で一人だった時も、寂しさよりも心配や現状に対しての気持ちが強かった。
昔から、自分自身でも気付いていたのだ。
一部の感情の起伏が著しく小さく、我慢強く壊れにくい。
笑い盛り上げ上手で自分もいつも笑っていた。
けれど、寂しいや可哀想、辛いや悲しいと言った負の面の感情が妙に少なかった。
知衣によれば、月火は大抵の事に耐えられるせいで自分にも他人にも心遣いという精神が少ないらしい。
自分の気持ちに疎く、他人の限界を理解出来ず、自分のキャパオーバーすら気付けない。
人間は「あの怪我はこんな痛みだから可哀想」と無意識に解釈し人を助ける。
しかし月火の場合は「あの程度の怪我ならどうにでもなるだろう」としか思えない。自分がそうだから、他人にも思えない。
だから粉砕骨折のまま戦えたし半身不随になってもリハビリでボロボロになっても適当に笑って過ごせたのだろう。
たまには休めと言われるが、休むのは疲れた時だけだろう。
疲れていなければ休む必要はない。
そんな事を知衣に伝えると、お前は馬鹿かと言われた。
疲れは溜まりに溜まって洪水となり押し寄せるもので、普段から定期的に抜いておけば溢れることも洪水が起こることもない、と。
月火が疲れのダムなどないと言えば、それが自身を理解していない証拠だと。
今ならよく分かる。
本当は怖いのだ。
怖いし寂しいし、こんな事やりたくない。
産み育ててくれた母を殺すなど。
月火を一途に愛してくれた暒夏に刃を向けるなど。
たとえ犯罪者でも殺人鬼でも、月火はやりたくないし出来る気がしない。
こんな立場、今すぐ投げ出して逃げてしまいたい。
だがそれでは他人に迷惑がかかってしまう。
でも死にたくない。
死にたくないし殺したくない。
白葉と黒葉に何度も守られ、他人のためなら死ねると思ったのに。仕事のためなら自分を殺せると思ったのに。
いざ目の前にすると怖いのだ。
死ねば何も感じないのか。火音とは二度と会えないのか。
瑛斗と訓練したいし桃倉の思い出話も聞きたいし洋樹と買い物にも行きたい。
氷麗とはようやく話せるようになったばかりだ。
炎夏とは声優について語りたいし玄智と見たい映画もある。
結月とまた泳ぎたいし凪担に教えたい事もある。
水月には仕事で迷惑をかけてばかりだ。
火光にももっと自由な時間を持ってほしい。
皆と過ごした時間を繰り返すだけでもいい。
一言一句の繰り返しでいいから、死にたくない。
死んだら誰とも会えなくなってしまう。
一人で光のない奈落に落ち、地獄をさまようというのか。
嫌だ、離れたくない。
やらなければならないこともやりたい事もやりたくない事も、これから先、山ほど出てくるはずなのに。
死にたくなかったから強くなった。
一緒にいたかったから苦しく辛い訓練と苦手で大嫌いな勉強も死ぬ気でやった。
その結果、母に裏切られました。犯罪者なので今すぐ殺して下さい。ではなんのために頑張ったのか分からない。
自分は母を殺すために鍛え、母を捕まえるために学んだのか。
兄の恩人と自分の師を殺すために生きてきたのか。
逃げ出したい環境下で逃げ出すことを許されず、ずっとその場に括り付けられる。
最悪だ。
こんなことならいっそ、この場で死んでしまった方が楽なのではないか。
目の前には触れずに切れる刀がある。
周りには誰もいない。
止められることも苦しむこともない。
そんな狂った思考のまま刀に手を伸ばすと、それを取り上げられた。
見上げると火音が立っている。
「帰るぞ」
「かえ……」
「次やろうとしたら折って捨てるからな」
火音は刀を収めると月火の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせた。
少し遠回りになるが、その顔を見られないよう裏口から中に入り寮に戻る。
「もう泣き止めばいいのに……」
「だって……」
月火は歳より遥かに幼い顔で泣き続け、月火のベッドに座った火音は月火を抱き寄せた。
こんな顔では可愛いとは思えない。
火音ではどうしようもない混乱に歪み、恐怖とストレスに染まった顔だ。
月火が泣き出した瞬間に寮を飛び出したので間に合ってよかった。
「こわい……!」
「大丈夫だから。まずは泣き止もう?」
「無理ぃ……」
普段こんな月火を見ることがないので火音が戸惑い、とりあえず背をさすっていると月火が火音の背に手を回して頭を胸に押し付けた。
「月火……」
「怖いんですもん! 一人で死にたくない! まだやりたいこともあるのに!」
月火の悲痛な叫びを聞いた火音は少し驚き、月火を強く抱き締めた。
「……ごめんな。月火にばっかり無理させて」
月火はまだ十七歳だ。
十八歳になった日に死ぬ可能性が九割方など、どんな責任感が強くてクソ真面目な大人でも逃げ出すだろう。
それを十七歳でまだ子供の歳に、当主だから死んで戦えと言うのは理不尽すぎる。
「死んでも守るから。月火が死んだら俺も死ぬから。一生離れないって言ったのは月火だろ」
「……火音さんは死なないで」
「月火が死んだら精神崩壊するし。どうせ死ぬから」
「生きてよぉ……」
月火が火音から顔を離すと火音は月火の濡れた頬を拭った。
「月火がいない世界で生きる意味はない」
「……小説のセリフ?」
「パッと出の素」
「イケメン」
月火は立ち上がると、いつもは隣に座るのに今日は自ら火音の膝に座り、火音の手を腰に回した。
背中にもたれ、鼻歌を歌う。
ご機嫌は治ったようだ。
「後で遺書書かないと。兄さん達は書いたかな」
「あ、敬語が抜けた。そっちの方が好き」
「独り言言う時はいっつもこれ」
「一生それがいい」
火音は月火の首筋を見つめ、食べたいななどと思いながら肩に額を乗せた。
「月火のあの顔は嫌い」
「いっつも泣き顔で喜ぶくせに」
「恥ずかしさとか混乱とかで泣くのは可愛いんだけど……俺以外の恐怖とかで泣くのは嫌。月火が傷付くのも」
「優しいね」
「あぁ可愛い……」
火音は月火を抱き締めるとそのまま頬に唇を落とした。
月火の思考が停止したかと思えば頬を赤く染め、世界一可愛い顔で混乱が始まった。
「……は、ぇ……」
「本当は十八になるまで何もしないつもりだったんだけど」
こんな状況下なのだ。
頬にキスするぐらい許されるだろう。
許されなくてもやるが。
「月火は高等部卒業したらどうする? 大学部行く?」
「は……初めはそのつもりだっただけど……本家の管理人がいなくなったし高等部で辞めようかと思って」
まだ恥ずかしがっている月火は少し顔を逸らしながらそう言った。
火光も水月も火音も、高等部卒業と同時に大学卒業試験も終わらせ学園の生徒と言う立場を辞めた。
火音と火光は直後に教師として高等部に就職、水月は一ヶ月間の研修期間を経て神々社月火社専務、神々当主補佐になった。
季節や月が曖昧なのであれだが、月火が十四になる前の夏に特級事件が起こった。
その一ヶ月後、月火社設立。
当時十九の水月は神々社専務見習いになった直後に重傷、一ヶ月後には正式に神々専務となると同時に月火社専務と神々補佐として名を馳せた。
ちなみに十八歳で卒業、事件が起こるまで謎の一年半があるが、火光が新米教師として火音に教わっている中、水月はどこかに行っていた。
本人も口を割らないので本当に謎の一年半だ。
「月火が辞めて本家に行くなら俺も辞めていい?」
「え? 辞めるんですか? 教師を?」
「次から敬語出す度にキスしていい?」
「吹っ切れた?」
「よし約束な」
月火は口角を下げると本題に戻した。
「月火が学園長として寮にいるならあれだけどさ。本家に帰るなら生活が不安定になりそうだし」
「本家と学園も遠いし……。……まぁいいと思うけど?」
「本当? 一緒に住んでいい?」
「現状そうなんだよね」
それはそうだが、やはり寮と家では色々と意識が変わる。
月火は苦笑すると小さく頷いた。
「いいよ。あの広い屋敷に一人は寂しいし」
「……無防備すぎ」
「卒業する時には十八超えてるもーん」
月火は顔を逸らすと上機嫌に足を振る。
「……月火、指輪の宝石は何がいい?」
「宝石?……アメジストかムーンストーンかなぁ」
「ダイヤはなし?」
「在り来りだし火音さんには似合わない気がする。……あそういえば」
ずっと聞きたいことがあったのだ。
月火が顔を戻すと思ったよりも距離が近く、思わず身を引いてしまった。
「近いぃ……」
「ごめんごめん。聞きたいことは?」
「そう。指輪のサイズをどうやって調べてるのかと思って」
「どうやってだと思う?」
月火の寝ている間に測っていたらすぐに分かりそうだし、何より九尾は隠し事が下手くそなので火音が何かをしているのを知ったらすぐに月火に伝わると思う。
なのに九尾も知らないという事は、月火も九尾も知らない時に測っているという事だ。
「うーん……」
「寝転がろ」
「えちょっ」
火音に頭を抱えられ、そのまま寝転がると足を挟まれた。
「分かんない」
「たぶん普通の人なら無理」
「火音さんがやることは基本無理だから……」
「そんなことはない気がするけど」
「そんなことはある」
月火は自分の薬指にハマった指輪をくるくると回し、ハッと顔を上げた。
月火が膝に座り、火音が手を重ねる時、時々だが指の付け根辺りをいじっていた気がする。
「プロ過ぎ……」
「頑張った」
「普通に測ればいいのに」
「サプライズしたいじゃん?」
火音は月火の手の甲から指を絡めると少し力を入れた。
「……月火、生きて帰れると思う?」
「思わない」
「生きて帰りたい?」
「うん」
「分かった」
とりあえず今は寝よう。
今は昼の十時。
午後二十三時からは動き始めるので二十二時には起きなければならない。
耳元でおやすみと囁くと、泣き疲れたのかすぐに眠り始めた。
火音は起き上がると月火から手を離し、頬を撫でる。
この愛らしい、可愛い顔が一生見れなくなるぐらいなら他人を肉の盾にして生き残った方がマシだ。
月火に嫌われそうなのでやらないが。
月火が本家に帰るなら二人きりの時間が増える。
雰囲気をぶち壊す水月も火光も来ないし月火も十八になるのだ。
プロポーズはいつにしよう。月火のウエディングドレス姿は見たいが他人には見せたくないので結婚式も悩みどころだ。
軟禁にならないよう気を付けなければ。
火音は月火に布団をかけると、上機嫌のまま寮を出た。