36.「前の焼き肉でMVP取ってますよ、この人」
弓道の知識がある方はどうぞ。
読まなくても全く問題のない内容です。
専門知識が鬼のように出てきます。
「ねぇ月火、炎夏は?」
「玄智さんの寮では?」
「月火のところかと思ったんだけど……」
夏休みも終わりかけの頃。
朝から炎夏の姿が見えず、誰も知らないという。
美虹が思ったよりもしつこく、今もまだ匿っているのだが。
「監禁……?」
「ついに……?」
二人が顔を見合わせると火音から弓道場にいると伝わってきた。
朝早くに鍵を借りに来たらしい。
「弓道場らしいです」
「どこの?」
「学園の」
玄智が首を傾げたので行った方が早いと歩き出した。
月火も久しぶりに引きたいので弓道着に着替えてから道場に向かう。
「弓道場は道場の二階です」
「二階……!? 確かに縦に長いし変な形だから毎回天井の高さを確認しようと思って忘れてたけど……!」
「よく回る口ですね」
弓矢を持った月火は道場に入ると中を通り抜け、左の扉からまた外に出た。
「階段……」
炎夏がいるので普段は閉まっている鍵が開いていた。
階段を上がり、扉を押して開けると土間で靴を脱いだ。
下駄箱に二人の靴があるのを確認し、中に入る。
奥に巻藁のある廊下を進み、右側の戸を開けると同時に矢が的に当たる清々しい音がした。
月火は弓に弦を張ると矢を矢立に入れ、胸当てと弽を付ける。
弽は野球で言うグローブで、弦を引く右手を弦から保護する役目と、弦を引っ掛ける役目をする。
何かと重要なものだ。
月火が向かいにしゃがんで色々と聞いてくる玄智に説明しながら準備をしていると炎夏が戻ってきた。
安土の方から二度の合掌が聞こえてくる。
的に刺さった矢を取る矢取りを行う合図だ。
「いるし」
「久しぶりに引こうと思いまして」
「火音先生が言ってた通りか……」
「火音さんは確定してからじゃないと言いませんから」
月火が弓の確認をしていると火音が安土から戻ってきた。
「月火の弓道姿は初めてかもしれない」
「九狐の村の時に炎夏とやってたよ」
「……ま?」
当時は火光一心だったので全く覚えていない。
火音は炎夏の矢を矢立に立てると壁にもたれかかった。
指導を頼まれたが水虎の弟子に教えることなどあるはずもなく、矢取り役としていいように使われている。
矢を三十本ほど持ってきており、矢取りの頻度は少ないが一回一回の本数が多いので疲れる。
月火の分は炎夏に行かせよう。
「玄智は見学だろ。上座で見とけ」
「はーい」
玄智が上座に入ると月火は矢を一本持ち入場する。
軽く慣らすだけなので立射で立ったまま放ち、的の中心に当たったことを確認すると退場する。
「……無理」
「綺麗に引けてたけどな」
「頭で考えすぎて弓返りがありませんでした」
「手の内の問題だろ」
手の内とは弓を持つ手。
手の内が雑になっていると弓返りがない。
弓返りは矢を放った後に勢いで弓が回り、弦が手の甲側に来ることを言う。
弓返りが出来ると正しく引けている証拠なのだが、弓返りに憧れすぎた結果、意識的に弓返りをしようとしすぎて手の内が緩み、弓返しになるはよく聞く話だ。
「やっぱりブランクですね」
月火は弓を二本持つと今度は座射で練習を始めた。
夏休み最終日、月火がお菓子を焼いている間、火光は机でパズルの続きをやっている。
夏祭りの日に買ってきた千ピースの続きだ。
水月はその向かいで十二面ルービックを回し、火音は角の液タブで絵を描いている。
玄智と炎夏はいないが瑛斗と凪担がおり、二人とも火光の手元を興味深そうに覗き込んでいる。
火光はパズルの場所を探す時間よりもピースを探す時間の方が多い。
見つけたらすぐにはめるので頭の中でどうなっているかの図はあるのだろう。
素人には絶対無理。
「火光、これ出来るの?」
「出来るでしょ」
「僕三段の六面しかやった事ない」
水月に渡された火光は全面を見るとくるくると回し始めた。
「……はい完成」
「わぁ凄い! ねぇ月火!」
「すごいですね」
何が凄いのか一切分かっていない月火がなるべく感心したような声でそう言いながらケーキにクリームを絞っていると火音が電話を始め、部屋を出て行った。
小さな任務が入ったようだ。
二級の引き継ぎならすぐに帰ってくるだろう。
月火は二つのケーキのうち、一つを箱に、一つを皿に乗せた。
「上出来」
何枚か写真を撮り、皆に声をかける。
「出来ましたよ〜」
「食べる!」
火光と水月は声を揃えてそう言うと片付けを始めた。
月火はケーキを机に置き、水月と火光が写真を撮ってから軽く熱した包丁で切る。
最近、ネットの投稿が出来ておらず音沙汰なしで皆が待っているので日常的なものも投稿することにしたのだ。
「……瑛斗も食べますか」
「頂けるなら」
「客人ですからね」
月火は瑛斗の分も切り分けて皿に乗せた。
火音の分は冷蔵庫に入れておこうと思ったが、ちょうど帰ってくるらしいので皿に移しておく。
月火が火音の椅子に座り、皆が他のところに座る。
「月火さんって本当になんでも出来るよね。出来ないことあるの?」
「やれないことだらけだと思いますよ?」
二人が話し、三人でも話していると火音が帰ってきた。
ちょうど食べ終わった月火はケーキとフォークを渡す。
火音がケーキを食べながらスマホをいじりながら月火と話しているとふと瑛斗を見た。
「甘いもの苦手って言ってなかったっけ……」
「日によります」
「前の焼き肉でMVP取ってますよ、この人」
月火は瑛斗の肩に手を置くと前の焼き肉で瑛斗が食べたパフェの個数を教えた。
五つ。
しかも焼肉でたらふく食べた後。
「食い過ぎだろ」
「神々先輩よりマシです」
「月火は空腹を蓄積出来るから」
「先生は少食ですよね」
火音の場合、幼い頃から三日に一度の食事だったので胃が縮んだ。
月火によれば、毎日食べる量を増やせば元の大きさに戻るらしいが食費が浮いて悪いことはないのでこのままだ。
月火の場合は食べている最中に胃が伸びるのでお腹いっぱいだが無限に入る。
満腹の状態で食べることを苦と思っていないからこその技だ。
「火音さんは永遠に飲めるだけの胃袋を持ってますから」
「飲むと食べるは違うだろ」
「胃袋に入れば全て一緒なのでは」
「確かにそうだけど」
いつもの二人の不思議な会話で休日の雑談は終わった。




