11の月―上―
想いが通じることは、正直言って怖いことだと初めて思っている。サツキさんと気持ちを交わし合って味わった幸せは、サツキさんに会えない日々に戻ると、あっさりと消え去った。
本当にサツキさんはここにいたのだろうか。私の気持ちを受け取ってくれたのだろうか。私の都合のいい夢なのではないだろうか…
虚しさについついそんな感傷に浸ってしまいたくなるけど、私にはそれを振り切るだけの試練が待ち構えていた。2月になると本格的な受験シーズン、サツキさんに会えない日々を忘れるように私は一層勉強に力を入れた。そして滑り止めの私立に合格し、本番の公立高校の受験を3月に終えて、私は無事に第一志望の学校に入学することができた。
サツキさんへの想いに溺れることなく、きちんとやるべきことをやり終えた。私の胸の中にこみ上げるのは、途方も無い安堵だった。これでサツキさんにきちんと胸を張って報告出来る。
目標となるものに向かって突き進んで、私はそれを手に入れた。これで少しは恋に現を抜かしても怒られることはないだろう。そんな俗っぽいことを考えながら、私は桜並木を見上げて高校の門を潜ったのだった。
***
高校生になると、急に周囲の子たちは異性を気にし始め、どんどんカップルが出来てくる。高校は中学以上にイベントが充実していて、その内容もより自由だった。遠足、合宿、体育大会に文化祭――同じ時に生きて、毎日同じ場所で昼も夜も関係なく会えている。一生の内に何度かしかないイベントを、こうして一緒に迎えていく。
一般的なカップルが楽しそうに手を繋いで下校して行くのを見て、私は溜息をついた。
(いいなあ、幸せそうで…)
例え下らない喧嘩をしていても、お昼ご飯を向かい合って食べている様子に、私は醜い羨望の気持ちを持ってしまう。私とサツキさんでは、到底なしえないことだ。
くだらない言いあいはちょくちょくする。それも、1年に1回程の話だけど。冬で、夜の間だけだけれど。
でも、真昼間に2人で仲よくお弁当を食べるなんて、夢のまた夢。私とサツキさんの空間は、あの狭い部屋の中だけ。気持ちが通じて、離れてみて初めて、今までとは違う距離の苦痛を味わった。
そして私はそれを自ら望んだのだ。
2人っきりで望んで閉じ込められた檻の中、それより外には出ていけないのだ。
***
「紫織。髪が湿ってるよ」
数日ぶりに逢ったサツキさんは、風呂上がりの私を見て眉を顰めた。椅子に掛けたままのタオルを手に取り、背の半ばまで伸びた髪の毛を拭う。
大人しく拭かれていると、ふっと苦笑が込み上げてきた。肩を震わせていると、タオルの影からサツキさんが顔を覗かせた。
「何?」
「ん?や、何年か前に全く逆のことしたなって」
雫を滴らせるサツキさんの髪を、あの時は私が拭っていた。
「…そんなことあったっけ」
「あったよ」
くすくす笑いが収められずにいると、少し拭う手が乱暴になった。というか、かき混ぜられる。もともとストレートではない私の髪がぐしゃぐしゃになると、満足したようにひとつ息をつく。そして、縺れる前髪の間から見え隠れする私のおでこに、そっとキスを落とした。
私のおでこに、柔らかい唇の感触。思わず目を見開いてサツキさんを見上げると、してやったりという、意地悪な顔。
「…いきなり、何するの」
「ん。紫織が可愛かったから」
照れ隠しで私が唇を突きだすと、サツキさんはストレートにそう言い返してくる。余裕そうに、大人っぽい笑みを浮かべて。サツキさんに触れられた私は、飛び上がらんばありに嬉しいはずなのに、今日はどこかサツキさんとの距離を感じてしまう。
年齢であったり、時であったり。多分、「普通」のカップルを街中で見てしまったから。
そんなものに惑わされたくないのに。そのリスクを分かっていて、私はサツキさんに想いを告げたはずなのに。
やっぱり、想いを遂げてしまうことは怖い。
どんどん私は欲張りになって我儘になる。
もっともっと、とサツキさんを求めてしまう。
幼い子供みたいだ。
「…私…可愛くなんてないよ」
「紫織?」
「不細工だもん…」
心が。顔もそんな特別綺麗とは言えないけれど。拗ねた顔を伏せていると、そっと顎にサツキさんの指先が掛けられた。力が働くままに、私は顔を上げさせられる。
「どうしたの」
穏やかなサツキさんの表情とぶつかった。甘く目を細めていて、愛おしくてしょうがないのだと言うように、私の両頬を包む。その指先から想いが次々に溢れだして、私を満たして行く。
サツキさんはどこか吹っ切れたように、私に鼻先を擦りつけた。去年の鬱々とした表情が嘘みたいだ。
全身で、私に想いを告げようとしている。
私は少し躊躇ってから、サツキさんの両手に身を委ね、すぐ近くにある彼の唇を啄ばんだ。1年ぶりに感じるサツキさんの感触。私が恥かしがっているのを分かっているのに、サツキさんは顔を上げさせて、言う。
「紫織。好きだよ」
何の躊躇いもなくそう言ってくれる。それは多分、私が大人になるに連れてこの恋の道行きを不安に思う瞬間が増えていることを、気づいているから。思いを通じ合わせたのに不安が増しているこの気持を、きっと彼も持っているから。
優しく細められた彼の目を見て、私はしゅるしゅると恐怖や不安がしぼんでいくのを感じた。なんて単純なのだろう。不安に駆られている暇があるなら、私にはもっとするべきことがあるのではないだろうか。
そう、サツキさんにまた会えて嬉しいのだと、幸せだと伝えること。ちょっとばかり卑屈になってしまう私でも、好きだと言ってくれて嬉しいのだということ。
そして、もう我慢をしない方がいいのだと気づく。我慢や遠慮はますます距離を開けてしまうのだ。限られた時間を、日々を、無駄に使ってはならなかった。
サツキさんと再会してから数日、時間を無駄にできないと観念した私は、サツキさんとの物理的距離を縮めることに専念した。夜にしか時間がないことは最初から分かりきっている。なのに、昼間のカップルを羨ましがる私は、ちょっとどうかしていたのだろう。
そう思い直したら、単純な私はすぐに気を取り直してしまった。
何をしたのかというと、会える日はとりあえずサツキさんにくっつく。今まではシャツや着物の袖口を掴んだりと、そんな程度だったけれど、座りながら指先を繋いだり、物凄く恥かしいけれど、肩に頭を預けてみたりと、かなりの努力をした。
サツキさんはそんな突飛な行動に動揺していたとしても、勿論そんなことはおくびにも出さない人で、苦笑して私の好きにさせていた。
「紫織。理性って言葉、知ってる?」
時折そんなことを言いながら。
「知ってるから、するのよ」
わざとなのだから存外私も質が悪い。けれど、サツキさんも結局は私を離そうとはしないのだから、お互い様。こうやって私は恋を覚えていって、大人になって行くのだろう。
膝の上に横向きに乗っていた私を、サツキさんは持ち上げて向かい合わせにさせた。またぐような形になってしまって少し恥かしいけれど、ここで引いたら女が廃る。気合で堪えて目の前にある首に「離すもんか」と抱きつくと、ゆっくりと背中を撫でられた。
「…今日は甘えん坊な上に、積極的だね。紫織」
10センチ程の距離でサツキさんが笑うと、吐息が唇に触れた。甘いそれに、私は必然的に眩暈がするのだ。
私は息をついてサツキさんの肩に両手を置いた。覗きこむようにサツキさんに目を向けると、彼はじっと見返してくる。
サツキさんは、よほどのことがない限り人から目線を背けない。私の瞳から私の心の叫びを聴き取ろうとする。去年あたりは色々な感情を抑え込んでいたからかよく逸らされてしまっていたけど、サツキさんも観念したのか私ときちんと向かい合ってくれるようになった。
髪の毛を切って、彼の瞳がよく見える。その瞳の奥に映り込んでいる私。
16歳の私と、22歳のサツキさんがいる。また私を置いて一つずつ大人になっていくサツキさんを繋ぎ止めるように、ふっと眼を伏せてサツキさんの頬に唇を寄せた。
男の人のくせに妙にすべすべしていて、唇に触れる柔らかさは、私をドキドキさせるのに十分だった。
「ほっぺた、だけ?」
唇を離すと、サツキさんはニヤリと口の端を上げる。“理性”どうこう言っていた割に、サツキさんの方も私に触れることを躊躇ったりはしなくなった。
今の私たちに、“後悔”という二文字は不要なものなのだ。だって、私とサツキさんが触れ合える時間は限られている。またもう少しすると、サツキさんと逢えるのはまた1年後。
後悔はしたくない。ああしていれば良かったなんて、"もしも"の未来が考えられる人たちの、体のいい言い訳にしかならない。だから私はいつだってあなたに触れていたい。
私がぼーっとそんなことを考えていると、サツキさんは焦れたのか、私の背中を引き寄せて少々強引に口づけてきた。かみつくようなそれに、私はぎゅっとサツキさんの肩口を握りしめる。背中にあった手はするすると上に上ってきて、私の項を這い、後頭部に添えられる。
くしゃ、と髪の毛に手を指しこまれ、もっと近くにと引き寄せられた。冷たい唇が私の唇を啄ばんで、吐息も意識も奪っていく。
短く息を吸うと、より深いキスが私を襲った。
「ん…」
「サツキさん」という私の呼びかけは、彼の唇によって飲み込まれてしまう。サツキさんにしがみつきながら、自分を見失わないようにすることは容易じゃない。
サツキさんに「もっと」と言ってしまう。少女らしからぬことまで、言ってしまいそうだった。
高校の友達に言わせれば、もうこの年なら経験していてもおかしくない、らしいけど。
私にとってはそこまで簡単なことじゃない。サツキさんの存在を思えば、余計にそう感じる。
ぴちゃりと艶めかしい水音を響かせて、私たちは唇を離した。
こんな時でもサツキさんは目線を外さない。さすがに私は恥かしくて、またしても温かな胸元に額をくっつけて顔を隠してしまう。そのままサツキさんの首に抱きつくと、優しく背中を叩かれた。
そして抱きしめ返してくれる。私はサツキさんに跨ったままで、時計の音を聞きながらじっとしていた。
そんな風に抱きつく私に、サツキさんはどこまでも優しい。私を抱きしめたまま、ごろりとベッドに横になった。抱き合って眠ることは、最早小さい頃からの習慣だ。
そのたびに私はサツキさんを蹴っ飛ばしていたらしいけれど、もう、そんなことはしないはず。私は用心して、ゆっくりとサツキさんに足を絡めさせて、目を閉じた。
「…眠いの?」
耳元でサツキさんが囁く。私は首を横に振った。
そしてふと頭の中に浮かんできた友達のことを――久しくいなかった存在のことを、サツキさんに報告しなくては、ということを思い出した。
「…友達が、できたの…」
「お、ユウちゃん、ショウくん以来だね」
“ユウちゃん、ショウくん”は私の小学生の時の数少ない友達だ。サツキさんは「何ていう子なの?」と聞いて、抱きしめたまま私に腕枕をした。
「志鶴と、茅雪っていう子。双子みたいにいつも一緒に居るの」
志鶴と茅雪には二親が居ない。2人とも同じ施設で育った、本当に姉妹のような2人だ。それでも2人はあっけらかんと明るくて、私はそんなところに惹かれたのかもしれない。入学以来、声をかけてもらって、ずっと一緒に居る。
中学の頃あれほど拒んでいた交友関係を、きちんと築けている。私の話を聞くと、サツキさんは幾分ほっとした表情になって私の額に口づけた。
「…紫織。友人は学生時代にきちんと作っておくものだよ。今までそんな話、全然しなかっただろ。大人になったら自尊心ばかり強くなって、本当の友人なんてそうそう出来ないぞ」
諭すような物言いはサツキさんらしい。でも、大人っぽくそう言いながらも私に触れる手は、どこまでも熱くて、甘い。髪の毛を優しく梳く指先も、時々素肌に触れてくる唇も、私を眠りに誘いながら甘やかしてくる。
「サツキさんがそうだから、そう言うの?」
耳の下あたりに口づけられる時苦し紛れにそういうと、ぴたりとサツキさんは止まった。ふと肩を押されて、ベッドのシーツに押しつけられた。上からサツキさんが覗きこんで、私の顔に影が出来る。
思わず驚くほど近い距離に彼の瞳が迫った。私の頬に触れながら、サツキさんはふと一回目を閉じた。
「…僕は、自尊心の塊だよ。言っておくけど」
自尊心――プライド。
サツキさんは自分でそう言って苦笑する。
「建前ばかりで生きてきた僕には、大人になっても付き合いのある友人は数えるほどしかいないな」
「なんだ私と一緒じゃない」
こんなところまで一緒だ。感心していると、「紫織はそんなところ似なくていいよ」と鼻を摘まれた。
「でも…情けないな。紫織の前では自尊心なんて、総崩れだな」
つまらない嫉妬、つい出てしまう弱音、愛おしい程の甘え。年上だからと、虚勢を張っていた時はとてもそんな様子は見せてくれなかった。
それが崩れたのは、いつだっただろうか。
「紫織が13歳の時かな。『告白された』って言ってただろ。僕はもう、自尊心もへったくれもなかったな」
何もかも取り去って、本気で焦っていたと。でも、ぎりぎりのところでそれは持ち直された。
何とか隠し通そうとしていた。自分は年上なんだから、小さな妹のような紫織の生活を制限する権利なんかどこにもないと、押し殺した。
「紫織の前では、格好良くしておきたかったんだよ」
そう、苦笑しながら言った。
「それでも…年々、紫織の前で大人ぶるのが難しくなった。普段の自分は、そんなことないのに。紫織はどこまでも入り込んでくるから」
だから、敵わないと。
サツキさんは私の腕を取って引き起こした。後ろから抱きしめてきて、2人を毛布で包みこむ。外はちらちらと、雪が舞っていた。ここは雪国ではないから、少しだけ珍しい。
「…私の前では、素のサツキさんなの?」
呟くように言うと、お腹に温かな腕が回されてきた。
「素って言うより…ただの情けない男だけどなぁ…」
「いいんじゃない?」
「うん?」
後ろから、サツキさんの切れ長の目が私の顔を覗きこんだ。首筋にかかる柔らかな髪に頬を埋めて、私はゆっくりとサツキさんに体重を掛けた。
「そんなサツキさん、私は好きよ」
昔よりもずっとずっと、あなたが好きだ。
「そんなこと言う年頃になったんだな、紫織は」
サツキさんは私の首筋に唇を落とした。