10の月―下―
キスは麻薬だ。交わせば交わすほどに、もっとそれが欲しくなってたまらなくなる。一度その味を覚えてしまうと我慢することがどれ程辛いのか、私は自分からサツキさんを求めてしまった代償をこんなところで払うはめになった。
私達が想いを交わした13月は飛ぶように過ぎていった。どちらも、この13月が終われば次に会えるのに1年待たなければならないことは重々承知していた。少なくとも私はそれを、我慢できると思っていた。
その決意がこれ程脆いものだとは、その時の私は思いもしなかったのだ。
13月が終わってしまうと、本格的に受験の準備に入る。
私が目指すのは、県内でも進学校といって差し支えのない公立高校の普通科で、塾にも行っていない私は人一倍努力しないと、落っこちてしまう。私立に行けるほどの余裕はないのだから、私は一日のほとんどを勉強に費やした。
逆に今は、そうできる環境にあって良かったと思う。
ふとした瞬間、思い出してしまうから。サツキさんの声、感触、匂い――唇の柔らかさ。
これは危ういということは、何となく分かっている。私はこの物思いに侵されると、あっという間に怠惰な人間に成り果てるだろう。それ以外のことが何も考えられなくなって、受験も失敗して、この世界での社会的な意義を見失って、サツキさんだけを想う人間になってしまう。
それは望んでいない。きっと、サツキさんも望んでいない。
暖房の生温かい風が部屋を満たしていく中で、私は一心に机に向かっていた。今、開いている問題集は数学で、私が一番苦手な教科だ。高校受験は科目を選ぶことが出来ない。当然の如く、何かに秀でていても、何かが落ちこぼれていれば、安心して受験を迎えることなど出来なかった。
国語や英語は何とか及第点、社会や理科といった暗記科目は得意な方だった。あとは、この小難しい数字の問題を何とかしてやっつけなければならないのだ。
応用が効かない私の頭は、正に文系人間なのだろう。ここまでほったらかしにしておいたツケが回っていたので、ここ暫くは数学にだけ集中して勉強を続けていた。
ふと目を上げると、もう窓の外は夕方の時間帯だった。ちらりと机の上のカレンダーに目をやる。
1月の最終週、最終日の日曜日。
今日で今年の13月が終わる。今日は何となくセンサーが働いて、サツキさんが来るだろうと予感していた。想いを通じあわせてから、何となく会える頻度が増しているような気がしたので、今日の予感は当たるだろう。
疲れた目をごしごし擦って、思い切り伸びをした。机の上に広げられている問題集とノート少しだけ霞んで見る。お昼ごはんを食べてからノンストップでここまで勉強していたから、今日はもういいかな、と自分を甘やかしそうになる。
ぼんやりと天井を見上げながら、私は「でも」と心の中で呟いた。今の私は、止まることが怖くなっていた。止まってしまったら、もう同じスピードで走り出すことが出来ないかもしれない。走り続けていないと、「疲れた」と自分を甘やかして、止まって、そこからもう二度と立ち上がることが出来なくなるかもしれない。
サツキさんは反対に、こういう時には私を甘やかしてしまうから、私は否が応でも自分に厳しくならざるを得なかったのだ。
広げたノートの上に突っ伏して、サツキさんが触れてくる柔らかさを思い出し、独りでに唇の端に笑みが浮かぶ。お行儀悪くそのまま顔だけ横に向けて、机に立てた参考書の数式を目で追う。関数やら平方根やら、未だに数式は意味不明なのだが、もうこれはパターンを覚えて解きまくるしかないと、最近は諦めの境地だった。
おそらく、大学受験はこういう方法は取れないだろうから、高校での勉強の仕方は考えておかねばならないだろう。
でも、私は塾やら家庭教師やらを頼りたくはなかった。
そんなことをすれば、サツキさんとの時間は確実に減るだろう。夜遅くまで外で勉強したら帰りが遅くなるし、そうなれば夕飯の時間も、お風呂の時間も遅くなって、この部屋で過ごす時間が減ってしまう。
サツキさんといる時間を、私は捨てる気が一切ない。
だから、ここで立ち止まってはいけないのだ。自分自身の努力で、サツキさんとの時間を勝ち取らなければならない。誰もいらない。私達二人の間に入ってきてほしくない。
そんな私を見たらサツキさんは何と言うだろう。
『そんなに無理しなくてもいい』だろうか。『紫織らしく頑張れればいい』だろうか。どちらでもない気がする。彼は――サツキさんは、きっと…
「紫織ー。晩ごはんできたわよー」
階下からのお母さんの声ではっと目を開ける。止まれないと思っていながら、少しだけうとうとしていたようだった。時計を見ると18時ちょっと過ぎ。ご飯を食べて、お風呂に入って、20時半にはここに戻ってこれるだろう。
そんな逆算をして、私は「食べるー」と返事をして、1階へ降りたのだった。
***
受験勉強をしている時は、サツキさんは決して私の邪魔をしない。受験勉強とは過酷な試練らしい、と心得ている彼は、難解な数式にうんうん唸っている私を助けることもまた、しない。けれど、見張りはするのだ。
「もう分かんない。もういい」と言って放り出そうとすると、ベッドに腰かけて本を読んでいるサツキさんは「あとちょっとで出来るんじゃないか。もうちょっとだけ頑張れ」と笑って励ましてくる。
そう言われてしまうと、私は唇をわなわな震わせて、机に逆戻り。こういう時、サツキさんには逆らえない。なんせ、そのまま放り出して彼の側に行っても塩対応になるのだ。サツキさんは結構、容赦がない。
多分、彼も彼で私が「溺れないように」気をつけているのかもしれなかった。
この夜、センサーが働いた通りにやって来たサツキさんは、私が数学の最後の問題を解いているのを見て、何も言わずにベッドに腰掛けた。暇つぶしに持ってきている文庫本を開いて、私の邪魔をしないように気配を潜ませる。
「ごめんね。あとちょっとで終わるから」
「気にしなくていいよ」
ちらりと振り向いても、サツキさんはこちらを見ていない。本当に目の前の問題に集中してほしいから、こうして素っ気ないふりをする。それが「ふり」だと私も分かっているから、なんとしてもあと10分で解き終わるのだと気合が入る。あまりに気合が入りすぎて途中3度もシャーペンの芯を折りながらも、何とか答えを出すことが出来た。今まで最速で解けたのではないだろうか。
興奮気味に「やった」とガッツポーズして振り向く。
「サツキさ――」
できたよ!と自慢げに言おうとして、でも、声が口先から出てこなかった。視線の先、ベッドに腰掛け、壁に背を預けたシャツ姿のサツキさん。読みかけの文庫本を手に持ったまま静かに寝息を紡いでいる。サツキさんが私より先に眠ることは、ほとんどない。どちらかと言えば、私の方が寝落ちしてサツキさんを枕にしてしまうことが多いのに。
「……」
ぎしりと椅子から立ち上がってベッドまで近寄る。お風呂上がりで髪の毛が湿っている、私と気持ちを通じ合わせた、私の想い人が無防備に寝息を紡いでいる。この暖房が彼を眠りの世界に誘ったのか、それとも、私の部屋が彼にとって落ち着く場所になったのか。
そんなことを考えながら、ベッドに上がってそっとサツキさんににじり寄った。ふわりと石鹸の匂いが鼻腔を掠めて、不意に胸の奥がざわめいた。愛おしい人が目の前にいて、安心したように眠っている。そのことがどれ程幸福なことなのか、今この時分かったような気がした。
手に持たれたままの文庫本を抜き取って大事に脇に置くと、私は無防備なままのサツキさんの胸元にゆっくりとおでこを寄せた。緩く上下する胸が、その奥で響く鼓動が、私の胸を一杯にしていく。無意識にサツキさんのシャツを握りしめると、不意に温かい腕が私を抱きしめる。私に触れることを躊躇わなくなった、腕。
「…寝てた?」
「うん。寝てたよ」
「なんだ。せっかく、紫織の勉強している後ろ姿、眺めていようと思ったのに」
「この部屋、あったかいから、眠くなっちゃうでしょう」
穏やかに小さな声で交わす声。内緒話のように響くその高さが、私とサツキさんの距離感だった。ひっそりと、そっと、誰にもばれないように。
大きな手が私の項にかかる髪の毛を梳って、そのまま後頭部を捉えた。ぎゅっとサツキさんの胸元に押さえつけられて、私は安心する。でも、この逢瀬もあと数時間で終わるだろう。
その後は、また、1年後。
思いが通じて、でもその分別れが苦しくなる。それを押し殺すように私はサツキさんの首元に顔を埋めて、サツキさんの匂いと温度を覚えようとする。それを分かっているのか、サツキさんも私の自由にさせていた。
年齢を重ねるにつれて、私とサツキさんの間には会話が減っていったように思う。小さな頃は私が一生懸命に喋って、それにサツキさんが相槌を打つことが多かったけれど、想いが高じて私が喋れなくなると、こうして会話もなくただお互いの温度を感じ取る時間が増えた。
どうしてだか、私はその時間が幸せだった。正直に、目の前にサツキさんがいて、抱きしめてくれて、時折キスをしてくれて、その時間を共にすることが今の私の幸せだった。
そっと顔を上げると、色素の薄い瞳が私を見下ろしている。月明かりに照らされた顔が不意に近づいて私の唇に触れた。サツキさんの唇は少し冷たい。身体は温かいのに、そこだけ温度を失ったように冷たい。私はそれを必死で温めようと、サツキさんの首に腕を回して強く抱きついた。
私の部屋にいる時は冷たくなってほしくない。身体も心もあったかくなってほしい。私といる時間がそうなってほしい。
いつの間にかサツキさんの膝の上に上がり込んで、全身でサツキさんを抱きしめていた。
「あったかいな…」
「いいでしょ。もこもこの上着。これでサツキさんも寒くないよ」
「うん。でも、紫織自身が温かくて、好きだ」
きゅっと胸が締め付けられて涙が滲む。サツキさんは私の首筋に鼻先を近づけて、匂いをかぐとそのまま
そこに口づける。もう冷たくはない、ぬるい温度が私を包んだ。
「サツキさん」
「ん?」
「次の13月になるまで、向こうで浮気しちゃ駄目だよ」
「はは、僕の日常に女の子が絡んでくることなど、早々ないよ」
「でも、駄目。私以外の女の子に、目移りしちゃ駄目」
「しないよ」
「絶対?」
「うん。こんなにぐいぐい目の前に写り込んでくる女の子、紫織以外にいない」
だからそもそも目移りする瞬間がない。そう当たり前に言い切ってくれて、私は安堵する。大人で素敵なサツキさんのことを好きになる女の子はきっと、多いだろう。私は彼のいる世界を覗き見ることも知ることも出来ない。だから、1年という長い時間がもどかしくて仕方ないのだ。
きっといつか、この時間が終わって、離れる瞬間が来たその後も、私はずっともどかしく思い続けるのだろう。サツキさんを想って、彼がもう冷たい思いをしないようにって、そう願い続ける気がする。
「紫織」
「なに」
「いいんだよ。紫織はそのままで。そのままの紫織がいてくれたら、僕はそれで幸せだ」
そんな私を、サツキさんはありののままの私を受け入れてくれる。止まったら駄目だと必死に努力する私を見ても、こうして不安に思う気持ちを止められない私でも、サツキさんに甘える私でも、全部。
サツキさんは受け入れて愛してくれる。そして全部分かった上で私を甘やかしてくれる。
その日、私を抱きしめたままサツキさんは眠った。私はどうしてだかいつまで経っても眠ることが出来ずに、ずっとサツキさんの温度を感じたまま目を閉じていた。
そうしたらいつの間にかうとうとしていたのか、明け方近くにサツキさんの気配は消えた。今まで抱きしめてくれていた腕も、温かな寝息も、次の瞬間にはなくなってしまう。
甘くて、でも途方もなく切ないその気持を抱えて、私は1年を過ごすのだ。